第4話

 姫子が住むワンルーム、未開封のまま放置されて埃のかぶった段ボールが通行の邪魔になっている暗く短い廊下を、スリッパも履かずにぺたぺたと歩く。相変わらず、芳香剤の香りもしない。キッチンのシンクには朝食で使った食器が水に沈められている。見なくていいから、と姫子は強くわたしの腕を引いてリビング兼寝室に入る。カーペットも敷いていないフローリングにはローテーブルとセミダブルのベッドが置かれていて、姫子はわたしを突き飛ばすようにベッドに連れていく。わたしがベッドの上で弾んでいると、姫子はわたしの腋の下に手を差し込んで抱きつこうとした。

「汗かいてるから」

 近づいてくる姫子の顔を押さえこんでシャワーを要求する。

「関係ないよ」

 姫子は唇に触れていたわたしの親指に噛みつき、力が緩むのを見計らって懐にもぐりこんできた。首筋に鼻をつけて深く息を吸い込み、犬を蹴らなかったほうの膝をわたしの股間に擦りつける。そのあいだ、わたしは噛まれた親指をしゃぶりながら、空いている片手で彼女の背中を一定のリズムで、赤子を寝つかせるように軽く叩く。熱帯植物が描かれている遮光カーテンのわずかな隙間から射しこんでくる茜色が眩しい。

 わたしが制服のときだけ、姫子は優しい手つきで脱がせてくれる。制服がしわにならないようにハンガーにかけてくれるのだけれど、それが焦らされているようで腹が立つ。主導権は自分が握っている、と誇示したいのだろう。

 姫子は舌をわたしのへそにつけ、そのまま上目遣いで正中線をなぞるように舐める。ブラのフロントホックと肌の間に舌を入れ、すくい上げるように舌を動かして外れると満足そうにし、鎖骨の間を通り抜けてくぼみに涎を溜め、喉仏を吸ってからようやくキスに至る。

 初めて交わったときから彼女は変態性を求めるような行為を繰り返し、私服のときはレイプ同然の激しさでわたしを喰う。虫喰いのあったシャツを着ていたわたしも悪かったが、そこを起点にシャツを二つに引き裂かれたときは思わず姫子の頬を叩いてしまった。懲りずに服を破こうとしてくるので、最近は廊下を歩きながら脱衣することにしている。プレイに関しては毎回趣向を凝らしてくれるけれど、どれも変態でひとくくりにできてしまうせいで慣れが生じてきた。何を見せられても驚くことができず、愉悦する彼女にされるがままであった。

それ自体は構わないのだけれど、ただ一つだけ不満があった。行為中でも姫子は服を脱がず、ときにはわたしから触れることすら拒んだ。そういうときは後ろ手に手錠をかけるので、今は抱きしめることなら許してくれるようだ。手錠は通販で買ったらしく、マイナスドライバーで簡単にピッキングできるシロモノだったけれど、ヘアピンをつけないわたしには外す術がない。

 鎖骨の上に溜まった涎が流れ出してきたので拭こうと思ったら、枕もとのティシューは空だった。昨晩、電話したときに使ったのだろう。姫子は自分の涎をすすりあげ、わたしの目をじっと見る。

「服、脱いでよ」

 姫子はわたしの要望を黙殺して耳を舐める。舌が耳孔に入ってきた。彼女が夢中になっているのを見計らって、背中にまわした手で制服を捲りあげる。姫子が跳ね起きて手早く服を戻したせいで、わたしの目には何も見えなかった。

「脱ぐから、無理矢理はやめて」

 自分のことを棚に上げてぬけぬけと、とは思ったものの、機嫌を損ねたくないので、背中を向けてベッドに腰掛ける姫子を大人しく見守る。姫子はボタンをはずして制服を脱ぎ、白い長袖シャツ一枚になる。深呼吸を繰り返し、ため息をついた彼女は両腕を正面で交差し、シャツの両サイドをつかんで一気に脱いだ。右腕を上下に大きく振り、手首に引っ掛かっていた服を振り払う。まるで飛べない鳥のよう。白い背中に射す、黄昏時の光の中でもかすむことなく見える傷あと、直径一センチもない火傷あとが隆起した形でいくつもあり、赤黒い毛糸を這わせたような痣、まっすぐに伸びたものや円形の青い打撲痕が重なり合うようにつけられている。

「ずっと虐待されててぼろぼろになったんだ。プラネタリウムみたいでしょう」

 姫子はうつむいたまま、こちらを見ることなく過去の話を始めた。


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