第2話

 県大会が近いせいで、女子テニス部の練習は毎日終わるのが遅い。太陽が半分以上沈み、暗闇が空を覆いだしてから片づけになる。そのせいでなかなかボールを見つけられず、帰りがさらに遅くなる。だというのに、今日は半日授業のあと、少しばかりの基礎練習をして終わりを迎えた。二年生の中から次期部長を選出するための会議があるからだった。それだけなら練習前に済ませればいいことなのだが、本日は急きょ別件が入っていた。昨日起きた、他校生が金属バットで殴られるという暴力事件。犯人はうちの制服を着ていたらしい。そして、女であることがわかっていた。職員会議を終えた教員たちは、これから個人面談と名を冠した犯人探しを行う。わたしは犯人ではないので、取り調べを免除してほしい。とはいえ、教員からしてみればわたしは犯人最有力候補の関係者なのだから、問い詰められることだろう。

数少ない部員が部室で一斉に着替え始めるなか、帰宅部の姫子は誰よりも早く部室の中にいた。彼女はわたしの荷物が入っているロッカーのすぐ後ろに椅子を持ってきて、足を組んでそこに座り、本を読んでいる。その本は図書館から借りたものらしく、文庫本の日もあれば、新書の日もある。活字であれば何でも良いらしい。

 姫子が座っている椅子は教室にあるわたしの椅子だ。わたしたちが帰ったあとに、その椅子を教室に運ぶことが後輩たちの間で罰ゲームとして流行している。私の隣で制汗スプレーのふたを開けたり閉めたりしている後輩が罰ゲームの常連のようだ。姫子は着替えているわたしの背中を無言で見つめているだけで、ほんの五分程度の時間のために毎日椅子を抱えてくる。部室にあるいくつかのパイプ椅子を使えばよさそうなのに、頑なにそれを拒む。理由は話してくれない。一度、わたしの椅子と姫子の椅子を勝手に交換しておいたことがある。三年生にしては珍しく罰ゲームをするはめになったクラスメイトの話によると、姫子はちゃんと自分の席にあるわたしの椅子を持ってきていたらしい。わたしが別クラスの知らない人と椅子を交換しておくと、姫子は椅子を取り返してきた。どうやって区別しているのかはわからないが、その日は帰り道で彼女に怒られた。

 部室に入った部員はお揃いの赤いテニスウェアを脱いでからタオルで汗をぬぐい、腋に制汗スプレーを吹きかけたり、雑談や練習の反省会をしたりしている。けれど、わたしが彼女たちと同じことをして着替えに時間をかけていると、姫子は貧乏ゆすりをはじめる。スプレーの臭いが嫌なのか、後輩が使おうとしたとき、姫子はハードカバーの背表紙で缶を叩き落としたりもした。それ以来、後輩はわたしが出ていくまでスプレーを使わずに待っている。自然とわたしにプレッシャーがかかるので、わたしは最低限の汗を拭いてから茶色いブレザーの制服を着て紺色のリボンを結び、たたむことなくウェアをエナメルバッグに突っ込む。それを見届けると、姫子はいつもどおりあとが残るほど強くわたしの手首をつかんで、部室から足早に立ち去る。そのせいでわたしはいまだかつて部のミーティングに参加したことがない。それが許されるあたり、姫子はわたしにとって免罪符のようなものなのかもしれない。彼女は直接的な傷害事件を起こしたことはないけれど、問題行動の多さのせいで教員に目をつけられている。いまここでわたしが掴まれている腕を振り払わなければ、姫子は犯人だから取り調べを放棄した、という誤解が教員たちの間で生まれてしまうかもしれない。


 校門をくぐると姫子は手を離し、いつも通りわたしの二歩前を黙って歩く。一列で歩いているとRPGみたいだと言うと、ゲームはしないから、とだけ答えを返してきた。必要なときだけ必要以上に饒舌な彼女は、そのときが来るまで言葉を蓄えるかのように黙っている。

 夕日が訪れる手前の、昼とほぼ変わらない空の色をした帰り道、わたしたちは最寄りのバス停まで遠回りして歩いた。とはいえ、普段から遠回りを選択しているので、特別を感じることはない。

 姫子の鞄には恋人たちがつけるようなペアのキーホルダーが両方ついている。片方わたしにちょうだい、と言ってみても、これはそういうのじゃないから、と断られてしまった。仕方がないのでわたしも両方買って、机の引き出しに入れてある。どちらかを無くしたとしても、わたしたちはペアのまま。好きな人が持っているものはわたしも持っていたい、と思うのはおかしなことだろうか。堂々とつけていたなら変ではないのだろうけど、隠し持っているせいで後ろめたい気になる。偶然だね、とか、可愛いからわたしも買っちゃった、とか言ってお揃いを持てたらいいのに。彼女がそういう女の子特有のべたべたした関係が嫌いそうなので、わたしはなにもできない。恋人のはずなのに。

 姫子の短い髪は風が吹くと微かになびき、そのたびに彼女の白いうなじがちらちらと見える。ずっと見つめていたせいで、バス停を五メートルほど通り過ぎてしまう。

「今日もだね」

 姫子は目を伏せて、息を漏らすような静かな声で笑う。またバスに乗れなかった。通り過ぎたら引き返してはいけないというルールは、姫子なりのお誘いなのだろう。

「これからどうするの」

 急にそんなことを言われ、わたしは開いていた口を引き結ぶことしか出来なかった。いつもならここで黙って手を繋ぐのがお約束だというのに、立ち止まった姫子は身体ごとこちらを向いて、真剣な目つきでわたしと目を合わせる。おそらく進路の話だろう。姫子と同じ大学に行きたいのはやまやまなのだけれど、進学してまでやりたいことが見つからない。わたしはせいぜい近隣の二流大学に行くだけだろう。夢がある姫子と同じモチベーションではいられない。だからといって、彼女を二流大学に引き込むわけにはいかないし、別れるのも遠距離も嫌だ。この話をしたくないわたしはお決まりのセリフを吐いて、質問の意味を勘違いしているふりをする。

「姫子の家に行ってもいいかな」

 姫子はわたしの問いかけに首肯し、今度は優しく手を取ってくれた。


 河川敷に沿って走る一本道の向こうから、リードを引きずった柴犬が駆けてくる。その後ろにヒールを履いた、わたしたちより年上のような女性が小走りに犬を追っていた。逃げられたのだろうか。捕まえてあげたほうがいいのだろうけれど、わたしは犬が苦手なので、犬がわたしたちを無視して通過してくれることを願った。

 握る手を強くすると、姫子は手を振りほどいてわたしの前に立つ。彼女を避けようとした犬の奥側の耳をつかんで自分のほうに引き寄せると、頭を両手で抱え込むように持ち直してから顎に膝蹴りを喰らわせる。骨のぶつかる音が向こう岸まで聞こえたのか、ウォーキング中の老夫婦がこちらに視線を向けていた。地面に伏せて喚く犬を見下し、振り返ると得意げに口角を吊り上げた。犬が避けて行ったのだから、蹴らなくてもわたしたちに被害は出なかったはずなのに。

 おびえる犬を撫でるためにしゃがんだ姫子の襟から、首にある痣が覗いていた。生まれつきあるものにも見えるし、最近できたものにも見える。青色に白い皮膚を一枚かぶせているせいか、ほくろのように自己主張の強い色ではないし、端に行くほど色が薄くなっているので、そこにあるのが当たり前のように肌に馴染んでいる。しみや傷ひとつない顔、しなやかで細く冷たい指先など、夢に思えた彼女の美しさに現実味を持たせ、エロティックな感じを与えた痣はわたしを欲情させた。

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