5


 宗田さんに温泉へ連れて行ってもらったことがある。彼と、彼の馴染みの女性が私ともう一人、おかしな三人での旅行だった。

 ナツミさんという、その女性とは、その時がはじめてだった。私よりもずっとお姉さんで、宗田さんと夫婦のようにも見えるくらいだから、四十くらいだろうか。

 しかし、夫婦のようにみえるのは、見た目のためばかりではなかった。

 ほとんど目の閉じた宗田さんは、もちろんいつも杖を片手に持っているのだけど、もう片方の手をナツミさんがいつも取って身を寄り添わせて歩くのだ。躓きそうなところや、ぶつかりそうなものがあると、手で安全なほうへ誘導したりしながら、耳元に囁くようにして注意をうながす。見ていて微笑まずにはいられないその睦まじさが夫婦みたいだった。

 宗田さんが私をいつも、ユウちゃん、ユウちゃん、と幼い子どものように扱うからなのか、ナツミさんも私を、子どもをあやすように可愛がってくれた。

 ナツミさんと私の二人で宗田さんに身を与えた、その朝、彼女と一緒に、お風呂に入った。

 眺めのいい露天風呂で、肌の張るように寒い冬の早朝ということもあってか、私たちの他には誰もいなかった。二人で一緒にお風呂に入るのは、旅行のあいだで、はじめてのことだった。というのも、それまでの夜は、交代で相手をつとめていたから。お風呂に入るのも重ならなかった。

 壮大な見晴らしだった。高台にある宿なので、おだやかな海が景色の底に広がり、そしてその先には、富士山が鮮やかに見える。海は、夜が明けたばかりの抑えられた朝の光で、白い薄光りを纏っている。その水面に浮かぶように富士山が悠然とたたずんでいる。

 湯船につかって、一息ついていると、ナツミさんも、長い息をついた。

「あんまり綺麗で、嘘みたいね」

 そう言いながら、彼女は、肉づきの豊かな首から肩にかけて、揉むように撫でた。雲のようにふわふわと白い肌に、高くまとめた黒髪のこぼれ毛が戯れて濡れそぼめいている。

 その横顔が、夜の燃えるような顔と比べると、老けて見えた。

 付け加えるように、ナツミさんはこう続けた。

「さっきまであんなに堕落していたのに、そのすぐそばにこんな景色があったなんて、ね。目まぐるしくてついていけないわ」

 彼女は、冗談でごまかすように、笑みをこぼした。どういう想いなのかはよく見えなかったけれど、私もつられて笑った。

「ユウちゃん」

 ナツミさんが、笑みを湛えたまま、こちらは見ずに言った。

「あなた、宗田さんとの子どもはないの?」

「子ども?」

 突然の意外な問いかけに、私は聞き返した。ナツミさんは、やはり振り返らぬまま、頷く。

 私は、驚きの余韻で軽く笑いながら、言った。

「子どもなんて、いないですよ、ありえないです」

「ねえ、なにが可笑しいの」

 ナツミさんの口から発せられた声は、やわらかく抑えられているけれど、明らかに怒りを秘めていた。私は、とっさに笑みを殺した。どうして怒られるのか見当がつかなかった。

 つい、ナツミさんの心を知りたくて横顔を見つめると、唇にほんの微かな震えが走っていた。

 怒りの理由を飲みこめない私は、彼女のその唇が、信じられないほどに柔らかくて甘かったことばかりを、思い出した。

 いよいよ、ナツミさんは声までも震わせた。もちろん、若い女の子のように露骨ではないけれど、中年の女性の声に流れる震えは、抑制されているだけに、かえって生々しく、傷ましかった。

「わたしね、子どもができない身体なのよ」

 そう言ってから、深い一呼吸をおいて、

「十年間、ずっとできなくて、これからも駄目なの。だから、もしあなたに子どもがいたら、宗田さんと私が過ごしてきたこの長い長い時間を、ユウちゃんはどうやって返してくれるのかと、そう思ってね」

 私は、喉元に刃物を突き付けられるように、息がつまった。

 男の人に誘われるがままにすべてを許すものだから、これまでにも似たようなことは何度もあったけれど、こんなにも怖ろしくはなかった。私の人生を返してとは、陳腐だけれど、なんと悲痛な叫びだろう。

「あなたはどうなの」

 ナツミさんが言った。

「子どものできない身体なの?」

 そう聞かれてみて、考えてみると、私は答えようがないことに気がついた。

 そういえば、できてもおかしくない、というよりもできなくてはおかしいような暮らしなのに、一度もない。とはいえ、自分の身体についてそういうことを考えてみたこともないのだから、できない身体だと、はっきりと答えることもできない。

「さあ……わかりません……考えたこともなかったです」

 私は、たよりなくそう答えるより、どうしようもなかった。

 ナツミさんは、驚いたように、やっとこちらを振り返った。

「そっか。考えることもなかった、か」

 強くなりはじめた朝日が、彼女の顔の右半分と豊かな乳房を爛々と染めていた。瞳が、涙に濡れているのか、ひときわ鋭い光を放っていた。

 彼女は再び、私から目を背けるように、海と富士山のほうへ顔を向け直した。そして、ゆっくりと、瞼を閉じた。長い睫毛が目の下に影を落としていて、冷たくてはげしい、美しい横顔だった。青い炎が揺らめくようだった。

 ナツミさんは、吐き捨てるように、呟いた。

「あなた、気持ち悪いわ」

 彼女も私も、沈黙した。

 湯の流れ出る麗しい音だけが響いた。

 一瞬たびにますます強まる太陽の輝きで、海面と富士山は華やいだ。

 私は、怒ったり悲しむより、ただただ、驚きに打たれた。

 嫉妬をぶつけられるなんて、思いもよらなかったから。

 しかし、よく考えれば、嫉妬なんて思いもよらなかった私の方がおかしいのかもしれない。男が女二人を連れて旅行に行く。縁の長い妻のようなひとと、気まぐれに拾った小娘とを連れて。

 そのことの危うさに、どうして私は、気付かなかったのだろう。

 愛がないせいだろうか。

 ナツミさんのように宗田さんを愛さないから、嫉妬や怨念を予感することもできなかったのだろうか。

 思えば、ナツミさんはこうも烈しく刃を向けるのに、私は彼女に甘えてばかりいた。

 夕飯に苦手なキノコがあればどけてもらって、夜にはトイレに付いて来てもらって、あろうことか、肌についた宗田さんの歯の痕を舌で癒してもらって……。

 この露天風呂に来る時にも、私の替えの下着を忘れずに持ってきてくれたのは、ナツミさんだ。

 私が歪んでいる。ナツミさんの嫉妬の方が正しい。自分の男の、もう一人の女に、母か姉のように甘えるなんて。

 私は、自分のしたことのおかしさが見えてくるにつれて、しんしんと心が冷えてくるようだった。

 ナツミさんのように嫉妬できない。

 そう思うと、私は、ひどくさみしかった。

 長いこと、全身の痺れるような静寂が辺りを支配する、きびしい時間が流れた、その後に、それを打ち破るがごとくナツミさんが立ち上がった。

 そして、私に、色んな想いを打ち消すような微笑みを、投げかけたのだった。

「のぼせちゃうし、あがりましょ。身体洗ってあげよっか?」

 いびつに朗らかな声だった。

 つられて、微笑んで頷きながら、私は思った。どうしてナツミさんは、私にやさしくしてくれるのだろう、と。これまでのやさしさは、今のやさしさは、どういうことだろう。

 私のようなだらしない女にはなかなか分からない。けれどそれは、もしかすると、宗田さんへのやさしさではないだろうか。私にやさしくしてくれる宗田さんに、ナツミさんはやさしくしたいのだ。宗田さんを、恨めしい私ごと、受けいれる。それがナツミさんの愛なのかもしれない。

 ナツミさんが、私を気持ち悪いと言ったように、私もまた、彼女が不気味な生き物に見えた。

 湯船から出ようとする彼女の、ふっくらとした脚を目にしながら、私は思った。

 この人は、愛の怪物だ。


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