3


 リュウくんに会えそうだった瞬間が、これまでに何度かあった。

 もう老年の境にさしかかる福永さんは、奥さんを亡くされて、色々なお手伝いとして、きまった家のない私を、受け入れてくれた。奥さんの使っていた部屋を与えてくれた。

 それがはじめだったのに、私は福永さんのお手伝いなんて全然しないで、むしろ私の方が甘えているようなふうだ。毎日、色んな人に誘われるがままに好きほうだい出歩き、ある時には男の人と部屋に帰ってきたりしたこともあったが、一度として叱られたことがない。いつもいつも甘やかしてくれる。

 その時も、福永さんが、小さく切ったリンゴを私に食べさせてくれていたのだった。

 ソファにだらりと仰向けに寝転がっていると、キッチンの方から福永さんが、お皿を片手に出てきた。なんですかそれ、と聞くと、リンゴだよ、と福永さんは答えながら、一つを摘んで、私の方へ持ってきてくれる。彼に向って口をあけて、いれてもらう。

 とても甘かったので、そう言うと、福永さんは嬉しそうに、好きなだけ食べなさい、と、ソファの手すりに腰を下ろして、私が一つ食べては口をひらくのに従って、またリンゴをいれてくれるのだった。福永さんがにこにこしているのを眺めながら、リンゴを食べさせてもらっていると、私は妙に安らいだ。リンゴを噛んで、のみこんで、口をあけて、いれてもらって……。食べるとか、生きるということを、ずっとこんなふうにしていたいと思った。子守歌でも歌ってほしいような気がした。それも、ただ歌ってもらうのではなくて、私が赤ちゃんのように泣き声でせがむと、涙からすべてを見透かして、歌ってほしかった。

 そうやって、まるでペットが餌をもらいでもするように甘えているうちに、不意の驚きが、私の胸を刺した。

 そういえば、リュウくんにも、こうやってリンゴを切って食べさせてもらったことがよくあった。それを思い出したのだ。私はなぜか幼い頃から、リュウくんにものを食べさせてもらうというのが異常なほどに好きで、おやつでもなんでも、こういうふうに寝転がって口に入れてもらっていた。時々、リュウくんが窘めるように、自分で食べなさい、と言うと、私は胸のささくれだつような激しい心細さで、声を上げて泣いた。そして、いつもリュウくんが折れて、食べさせてくれた。

 いくつになっても好きなものは好きだなあと、私は甘い懐かしさに沈んだ。すると、ふと気がつくと、いつのまにか、福永さんの眼が青くなっていた。リュウくんの眼だ、と私はすぐに思った。青空の、もっとも青の深いところと、同じ青。すべてをゆるしてくれるような果てしない眼……。

 ああ、リュウくんだ。リュウくんがいる。そう思って、深遠なよろこびが胸いっぱいに滲む。私は、ほっと息をついて、やっと会えたリュウくんに微笑みかけた。抱擁をせがんで、腕を広げた。リュウくんは、私を抱きしめてくれた。

 リンゴちょうだい、と言うと、リュウくんはリンゴを自分の口に含んで、私の口のなかに移した。リュウくんが消えたのはその時だった。唇が重なった瞬間に、福永さんがあらわれた。なぜなら、リュウくんと私のあいだには、淫らな戯れなんてないのだから。

 いつもこうだ。私がリュウくんを見つけて、やさしさを求めると、みんな肌を撫でてくる。それでリュウくんは消えてしまう。絶望的なことに、私の甘ったれは媚態に似ているらしい。リュウくんはいつもあと少しのところで、遠ざかっていってしまう。

 私は、福永さんの舌を感じながら、高いところから落下するような、冷たいさみしさにおそわれた。気がおかしくなりそうだった。胸の奥がざらざらした。全身が糸みたいにほどけてしまいそうだった。私は、しがみつくように、福永さんを抱きかえした。強く、強く、すがりついた。舌に纏わりついてくる、リンゴの冷ややかさと福永さんの舌のぬるぬるとした蠢動が不安を私のなかに流し込んでくる。それで私はますます、福永さんの身体に身体を絡めた。

 福永さんが私を貪るあいだ、私はすがりつくように狂った。

 そして、ずっと、無意味とわかっていながら、それでも祈らずにはいられなかった。福永さんの眼が、再び青く澄む、その瞬間を。


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