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リュウくんは、私が物心ついた頃から小学校五年生の夏まで隣の家に暮らしていた、二歳年上の男の子だ。肌がうっとりするほど白くて、くるくるした可愛い髪は明るいグレーで、眼は青かった。私はいつも、リュウくんに遊んでもらい、可愛がってもらい、甘やかしてもらっていた。
私もリュウくんも、あまり両親が家にいない家庭だったから、ほとんどの時間を二人で過ごして、大きくなった。リュウくんは、私にとって、お兄ちゃんだった。初恋の人だった。そして、私はリュウくんへの初恋より他に、いまだ恋を知らない。
五年生の夏休み、中学一年生だったリュウくんは、突然、私の世界から消えた。世界から消えたのかどうか、それは分からない。そういう、曖昧な消え方だった。でも、私は夏休みが終わる前の日、もう学校が始まっちゃうからとリュウくんにせがんで買ってもらった花火で、家の前で一緒に遊んだ、あの夜を最後に、彼と会えなくなった。
次の日の朝、起きてきてダイニングに行くと、お母さんが真っ先に、私へ言ったのだった。
「リュウくんのお家には、もう行っては駄目よ」
厳しい、反論を許さない声だった。
私は、悲しむこともできなかった。あまりに突然のことで、意味が分からなかった。いつも私にあまり興味のないお母さんが、そんなことを言ってきたので、なお困惑した。
「どうして?」
と私が聞くと、お母さんは首を横に振ったきり、なにも答えてくれなかった。かわりに、私の前に朝食のトーストを置いて、
「今日から学校でしょ。はやく支度なさい」
とだけ、いつもの、無感動な口ぶりで言った。
私はトーストを頬張りながら、やはりいつまでも、悲しむことができなかった。けれど、なにかただならないものだけは感じた。一夜で、世界が変貌したようで、不気味だった。リュウくんのことを、もっと聞きたかったけれど、お母さんにうるさがられるのが怖くて、声が出なかった。私は、トーストの大きな一口を無理やり飲みこんで、喉のしまるような痛みと一緒に、色んなことも押し殺した。
誰も、私になにも、はっきり説明してくれなかった。
リュウくんが自殺したのだとは、風の噂で聞いた。ただ、あの町に十四歳までいて、いつ誰に聞いたかも分からないぐらい、ぼんやり聞いたのだった。人が噂しているのを聞いたり、耳にした色んな断片を繋げたり、それで、知るというよりも、そういうものだと、いつのまにか察した。まさしく風の噂だった。あの朝、お母さんが私に説明もなく釘をさしたあの朝、私が起きてくるよりも早く、庭の木で首を吊っているのが発見されたらしい。
それでも、自殺の理由は私には分からない。
色んな噂があった。
いじめられていただとか、虐待を受けていただとか、そういう素朴なものもあれば、幽霊に長い間付き纏われていたなんていうかわった話もあった。
私には、そのどれも、本当とも嘘ともなかった。私の知るリュウくんは、そのどれにも当てはまらなかったから。もっといえば、死も、しかも自殺なんて、全然彼と結びつかない。
だから、自殺の理由はどれも、別の人のことを話しているようにさえ思えた。それらの言葉は、薄い膜の向こう側にあるようにおぼろげだった。だから私はずっと、悲しみそびれた。泣きそびれた。死んだとも信じられないのに、どうやって悲しめばいいのか。
悲しめない私は、ただただ、さみしかった。さみしさばかりが、貝殻を連れ去る波のように、私の心をみんな攫ってしまった。リュウくんは死んだのかどうか、いつまでもはっきりしないまま。
けれど、リュウくんは実際に、それきり私の前に姿をあらわしてくれない。
もしかすると、いくつもの噂のなかに、リュウくんに死を与えた真実が、あったかもしれない。それなのに、私は、リュウくんが死んだことも、死んだならなぜかということも、知りようがなかったのだ。
私は、あの朝から今まで、ずっと宙吊りだ。
リュウくんが死んでしまったというのは、もう大人だから、分かってはいる。けれど、どうやってそれを信じればいいのだろう。私にはどうしても、リュウくんが、私の知らないどこかにいると思えてしまう。さよならもキチンと言えていないから。言ってもらってもいない。
私は、中学生になって数日が経ったある日、学校から帰ってきて、ふと、リュウくんの家の前に立ち止まった。
私は思い出したのだ。リュウくんが中学校の制服を着た姿に、小学生だった私が目を輝かしていると、
「ユウちゃんもすぐ中学生だから、制服着られるよ。きっとよく似合うだろうね」
と、彼が言ってくれたのを。
私はリュウくんに制服姿を見せたかった。
やっぱり似合うね、と、それだけでいいから、言ってほしかった。
私は、インターホンに指を伸ばした。リュウくんがいなくなるまで、家を訪ねる時にいつもそうしていたように。
しかし、どうしても押せなかった。おそろしかった。誰もいなかったら、リュウくんがこたえてくれなければ、私はどうすればいいのだろう。
どれほど立ち呆けていたのか、あきらめて、帰ろうとした時には、昼下がりの明るかった空は夜の予兆の薄紫になっていた。自分の影も刻一刻と暗がりに溶けていく頃だった。私はよけいに心細くて、すがりつくように、リュウくんのいた家を見つめた。しかし、ひと気もなく、紫の空の下にひっそりとしているそれは、まるで、廃墟のようだった。そこに生活があるとは信じられなくて、家というよりも、無意味な建造物のように佇んでいた。不気味なかなしさがあった。私は、胸が、がらんとした。
疲れ切ったような身体が、ふっと宙に浮かびそうだった。
私は、よくわからない涙を流しながら、はやくこの町を出たいと願った。
ここにはリュウくんはいないと、ようやく気付いてしまったのだった。
でも、自分でも不思議なことだけれど、それと同時に、こんな風にも思ってしまったのだ。
けれど町を出れば、どこかにリュウくんはきっといる、と。
リュウくんは、いなくなったんじゃなくて、隠されてしまったんだ、と。
「会いたい」
その幼稚な祈りは、いつしか、私の心の口ぐせになった。
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