いつかひとりになる朝

しゃくさんしん

1


 生まれ育った町から、はるか遠くに暮らすようになって、もうかなり経つ。十四歳で出て、もうすぐ六年だ。それなのに私は、ふと気がつくと、リュウくんがどこかにいそうに思えて、辺りを見回してしまう。

 篠宮さんの家から福永さんの家へむかう、タクシーのなかでも、そうだった。窓の向こうに流れる景色の、夕暮れが静かに広がる街の雑踏のどこかに、リュウくんが混ざっていそうで、気が気でなかった。

 篠宮さんが、恋人の女の子へホワイトデーに贈るクッキーを、彼に言われて、私も作るのを手伝った。今朝になって急に、彼の住むアパートに呼び出された。

 彼女になぐられまでしたことのある私に、そんな手伝いが許されるのか分からなかったけれど、篠宮さんいわく、女の舌に合うかどうかが不安だという。バレンタインデーには色々と高価なものまで貰ったが、貧乏学生の彼では見合った金額のものは渡せないので、手作りという真心で返したいらしい。

 私のような相手に手伝わせて真心はないだろうとは、私は言わなかった。

 がらにもなく純朴なことを思いつく篠宮さんのクッキーは、味もまた、ふだん料理なんてしない彼らしくもなく、すばらしかった。太鼓判を押す私に、篠宮さんは、

「あいつと裕美さんは味覚似てるから、助かるよ」

 と、事もなげに言った。

 私とあの女の子を分け隔てなく掌に置くような言い方が、私は不愉快だった。魂の沈んだ私のような女には、そんな非情に、傷つくことすらできないけれど、彼の恋人にとっては、どれほど残酷だろう。私は、自分の敵でなくても、やさしくない人は、きらいだ。

 そんなこと、篠宮さんに縋られるがままに縁を切らない私に言える資格のないことは、よく分かっているけれど。彼の口ぶりにへそを曲げて、それきり黙り込んだまま、それでもされるがままに受けとめた私が、最もきたないのは、分かっているけれど。

 福永さんからマンションに来てほしいと電話があり、私は篠宮さんが呼んでくれたタクシーに乗ってからも、しばらく、胸のあたりが陰って鬱陶しかった。

 窓を開けて、顔を出した。朝ここに来た時は初夏の陽ざしが激しかったけれど、夕方にもなると、風がちょうどよく生ぬるい。私はちょっとだけ気が晴れて、顔いっぱいに風を浴びながら、深呼吸をした。

 風にあおられてか、泡の匂いと、チョコレートの甘ったるい匂いが、同時に淡く流れた。私の身体を、奴隷のように丁寧に洗う篠宮さんの手と、彼が恋人に贈るクッキーの味が、一気によみがえる。

 私は、はっとして、また落ち込んだ。罪のためだった。というのは、半分は本当だけれど、半分は欺瞞だ。

 罪悪感もなくはないけれど、それだけでふさぎ込むキチンとした頭が私にあったなら、こんないいかげんな生き方はしなくて済んでいる。

 私を覆うのは、さみしさだった。

 篠宮さんの、あのクッキーを、私はもらえないということだった。そして、むしろそれよりも、私だって篠宮さんに、バレンタインデーにはなにも贈っていなかったことを思い出して、辛くなった。そんな私が、なにを返してもらおうというのか。

 さみしくて、身体が透明になりそうな儚い心持ちの、その時だった。

 私は、また、リュウくんがどこかにいると、直感したのだった。正しく言うなら、リュウくんがどこかにいてほしいと、祈ったのかもしれない。あまりに切実な祈りが、私に直感を起こしたのかもしれない。

 走行するタクシーの窓から、私は恥もなく顔を出して、夕陽でほんのり色づいている人だかりを、じいっと見つめた。

 もしかすると、リュウくんはすっかり大人になって、立派に仕事をしている最中かもしれないと、あちこちのビルにも眼差しを向けた。ビルのなかは見えなくても、もしリュウくんがそこにいれば、まるで透視するようにはっきりみえるだろうと思った。

 街並みはゆるやかに私の眼の前を過ぎ去っていく。ビルも、人の群れも、それらの雑多な色彩も、流れるような風景の移ろいのなかで、はっきりと形を結ぶ前にやわらかくぼやけてしまう。リュウくん、リュウくん、と、私は幾度となく胸にさけぶ。ひょっとすると唇も開いて、声さえ出していたかもしれない。形の崩れた色の波のなかに、幼かった頃にいつも眺めていたリュウくんのあどけない姿を、私は必死に見つけ出そうとした。色と風の流れに眼差しをただよわせていると、気の遠くなるような切なさはじんわりと膨らんでいった。

 私の妄念は、運転手さんが、大丈夫ですか、と声をかけてきたことで、破れた。我に返って、身もだえするほどの恥ずかしさと、なによりも、リュウくんがいるはずがないと現実を突き付けられた憂鬱で、私はしょんぼり項垂れた。運転手さんが再び、大丈夫ですか、と声をかけてきた。私を酔っぱらいだと思って、吐かれたりしては困ると警戒していたのだろうか。私は彼を安心させるために笑顔でなにか答えるべきだったのだろうけれど、顔を落としたまま力なく、大丈夫です、と呟くことしかできなかった。

 いつも、いないにきまっているリュウくんが、やっぱりいなくて、さみしくなる。このやるせなさだけは昔から馴れない。ばかげている。

 いつからだろう、リュウくんがいないからさみしくなるというよりも、さみしくてどうしようもなくて私はリュウくんを探すのだということに、気がついた。こんなこと、気がついたって、どうしようもないけれど。なにかの拍子に、影のように私に付き纏っているさみしさがうかびあがると、心細くて立ちすくんでしまって、そこかしこにリュウくんを探す。

 しかも、あろうことか私は、篠宮さんに、福永さんに、宗田さんに、網本さんに……これまで縁の絡んだ男の人たちに、リュウくんの面影を探してしまうことがある。

 ひょっとすると、その錯覚を求めて、闇雲に男の人へなびいてしまうのかもしれないほどなのだ。


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