冬空に似た
桃谷 華
❄︎
伊介は、冬に似てている。彼に出会った時から、そう思っていた。いつもどこか寂しそうに遠くを見つめる眼差し。子供だというのに、やけに物静かで、周りには洗練された空気をまとっているようなその雰囲気。時折見せる儚げな表情。伊介の周りには、冬の夜みたいな、つん、と張り詰めた空気の匂いがした。その空気が好きで、いつも彼にべったりくっついて歩いていた。
伊介と私が出会ったのは、小学生の頃。日も短くなってきた、秋の夕暮れだった。友達の家に遊びに行っていた私は、晩御飯の時間に間に合うよう、帰り道を時に少し休みながらパタパタと走っていた。街から離れた、少し田舎の地域だったから、街灯もあまりない。急ぐ私を見捨てるかのように、夕日はどんどん沈んでいき、輪郭はもう見えなくなっていた。家の近くの公園を通り抜けたその時だった。広い芝生と、少しの砂場、申し訳程度の鉄棒。遊べる場所はたったそれだけしかない、少し高いところにある寂れた公園。ところどころにある街灯も灯ることを躊躇っているかのように、ちかちかと曖昧についたり消えたりしている。そんな公園の隅の東屋にぼんやりと、線の細い人影が見えた。街灯に照らされたというよりも、未だうっすらと赤みを帯びている濃紺の空から追い出されたみたいに寂しげに、ポツンとそこに座っていた。ゆっくりと足の動きを緩め、私はその場に止まり、影を見つめた。最初に抱いた感情は、まぎれもなく恐怖だった。次第に、その影が私と同い年ぐらいの少年だということ、彼がしきりに目元をこすっていることに気が付いた。
「ねえ、そんなに強くこすったら、真っ赤になっちゃうよ」
少し離れた東屋に向かって、声を張り上げた。近づくことはできなかった。知ってるはずのその場所が、何か別のモノのようだった。あの東屋に入ったら、中にいる少年の影に、その奥にいる濃紺の空に連れて行かれる気がした。
「ねえ、聞こえているの?目が真っ赤に腫れてたら、みんな心配するよ」
私を無視して相変わらず目をこすり続ける影に向かって、声を張り上げる。声をかけたのは、心配だったから。でも次第に、こっちにちっとも興味を持たない影にむきになり始めた。絶対にこっちを向かせてやる、何度も何度も問いかけた。帰るよ、私帰っちゃうよ、とか、一人でいると怖い人が出るんだぞ、とか。知り合いでもないのに、余計なお世話みたいな言葉をかけて、あることないこと叫んで、なんとかこっちを向かせようとした。
「ねえ」
「あのさ」
ぼそり、そういいたくなるような、大きくない声だった。それくらいの声でも十分届くんだ、そう思うよりも先に、彼の澄んだ声がツン、と響いた。鼻の奥が少し痛くなる。ああ、あれに似ている。冬の朝、外に出て息を吸い込んだ時、冷たい空気が鼻の中を抜けていく、あのツンとした痛みだ。
「なんでそんな話しかけてくるの」
鬱陶しそうにその影は、少年は言った。なんで、そんなことを言われたところで理由なんてものは途中からわからなくなってしまった訳で。そもそも心配だったからなんて言うのよりも、なんだか興味が湧いてっていうほうが正しいような気がするし。
「なんで急に黙るの」
「だって」
何かしゃべらなくちゃ。
胸いっぱいに息を吸い込んで声を張り上げる。張り上げなくたって届くのに、彼にはこれくらい大きな声でしゃべらなくちゃ届かないような気がした。
「だって、こんな真っ暗なんだよ!真っ暗な中でひとりぼっちって、不安になるじゃん」
「きみが話しかけてこなければ、ぼくは最初から最後までひとりだったし、ひとりのほうが幸せな時もある」
「暗いし、怖いし、危ない、らしいし。あと、みんなが心配する」
「みんなって」
「お父さんとか、お母さんとか、お姉ちゃんとか、コロとか」
「お父さんもお母さんも心配しないし、俺の家にはお姉さんもコロもいない」
ほっといてよ。そう言うように、冷たく突っぱねられる。私はなんだかもう、自棄になっていた。とにかくこの少年に、そうだねって言ってほしかった。もう、帰るとか帰らないとかそんなことはどうでもよかった。
「言いたいことは」彼が何か言いかけた。そんなこと気にする暇もなく、息を吸って、言葉を吐き出していた。
「私が心配する!私が、今日ここにいた、君を心配する」
だから帰ろう。そう続けるつもりだったのに、満足して、何も言えなかった。「きみが」
少年の声が揺れる。
「私が」
「今日会ったばっかりなのに」
「うん」
言っていることはむちゃくちゃだった。わかっているのに、心の中は自信でいっぱいで、誇らしかった。
「変なやつ」
そう言って笑う少年につられて笑った。
気が付いたら彼は、目元をこするのをやめていた。これが、私と伊介の出会いだった。
それから、毎日ではないけれど、あの東屋で伊介の姿を見かけた。友達の家からの帰り道だったり、コロの散歩をしているときだったり。姉の使いでコンビニに行く途中に見かけたときは、肉まんとあんまんを一つずつ買って伊介のもとへもっていった。
鼻の先がツン、と痛くなるような寒い日。そういった日は必ず東屋にいる。そのことに気が付いたのは、公園の土の表面が霜柱でうっすらと持ち上がるようになった、冬の初め頃だった。
「伊介の家って、ここから遠いんだよね」
こくり。伊介が小さく頷く。今日も、私が来るまでの間、彼は涙をこぼさないよう、目じりを擦って泣いていた。そのせいで相変わらず目元が赤い。
「なんで、ここまで来るの」
わざわざ自転車に乗って、隣の学区まで。よっぽどここが好きなのか、それともここに来ないと泣けないとかなのか。
「変に思わないでね」
今度は私が頷く。
俯いて、また目を擦ろうとした伊介の手を、つかんでぎゅっと握った。
「擦ったら赤くなるって言ったでしょ」
ちゃんと聞くから。そういうと数回、彼は深呼吸をして、私をじっと見た。
「俺、涙が凍るんだ。目から零れて、落ちたころには凍ってて」
伊介の視線が、だんだん下へと下がっていく。私の手の中で、伊介の白くて冷たい手が、逃げ出したそうにもぞもぞと動いた。離すものか。私は握りしめる力をぐっと強くした。
「おかしいよね。変だよね。お母さんも、変だって。お前はおかしいって。今度はお母さんが泣き出しちゃって、普通じゃないって。キモチワルイって。」
まくし立てるように早口で、伊介が言葉を並べていく。
「はは、何、言ってるんだろう。おかしいよね、キモチワルイよね。」
ごめん。消え入りそうな言葉とともに、ぽとりと、伊介の目から雫がこぼれ、東屋の木の椅子に落ちてちいさな結晶を作った。降り始めたばかりの雪に似た、すぐとけてしまう儚い結晶。間を置いてぽつぽつと落ちていく雫が、キラキラと光る結晶になって古びた板の上に落ちていく。
「変なんかじゃない」
伊介の手が震えている。その震えも、彼の中にある不安も全部かき消すみたいに、私は声に力を入れた。
「全然、変なんかじゃない」
伊介の目が恐る恐るこちらを窺う。目のふちに溜まった涙が、街灯の薄い光を反射して揺らめく。
「でも、普通じゃないし」
「普通って何。そんなの私もきっと普通じゃないし、みんな、みんな普通じゃないところの一つや二つ抱えてる。意識して普通になろうとするのなんておかしいよ。そんなことするほうが気持ち悪い。それに」
一気にしゃべって呼吸が苦しい。興奮しているのか、のどの奥がやけに張り付く。それでも、伝えなきゃ。伊介に言わなきゃいけない。だって、そう思ってしまったのだもの。冬の冷たい空気を吸い込む。火照った体が、吸い込んだ空気で冷やされて落ち着いていくような気がした。
「すごく綺麗だなって思ったの」
「きれい」
伊介が不思議そうに小首をかしげる。
「うん、綺麗。冬の空みたいでさ。雨が降ることを、空が泣くっていうんだったら、伊介の場合、雪が降ってるのとおんなじじゃないかなって。それって、すごく素敵だと思うんだけど」
じっとこちらを見つめながら話を聞く伊介の姿に、だんだんと照れが隠せなくなり、言葉がしぼんでいく。ああ、恥ずかしい。消えてしまいたい。今度は私が俯く番だった。小さく、伊介が笑う声が聞こえて顔を上げる。見ると、顔をくしゃくしゃにして、困ったみたいな顔をして伊介が笑っていた。
「そんなことを言われたの、初めてだよ。そっか。そっかあ」
泣き出しそうだった冬の空が、ぽつりぽつりと淡い雪を落としていった。
冬空に似た 桃谷 華 @momonoya0128
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます