10
あたしは古河原さんにも連絡を入れ、救急隊が来ることを伝えると、そのまま足場を走り、共用廊下に降りる。1305号室に向かった。
隣の1304号室は玄関扉は閉まったまま。あたしはそこを通り過ぎる。そのまま1305号室に飛び込もうとしたら鍵がかかったままだ。
横の廊下に面した窓が開いている。ガラスは割れ、面格子は外されている。鬼村さんの仕業だ。
森さんもここから入ったのかな? 玄関ドアを開けてくれればいいのに。
あたしはそう思いつつも、窓から入った。救急車までの搬送のために玄関の鍵を開けておこうとする。サムターンを回したが開かなかった。
そういえば!
あたしはドアにオプションのリモコンキーがついていることを思い出した。上の方を見るとたしかに付いている。こういう鍵は外からリモコンで操作する。ただし内側からはサムターンを回せば開くはずだ。
回せなかった。サムターンの上にカバーが掛かっていて取れない。
つまりは内側からもリモコンを使わないと開かない。まあ、ドアにドリルで穴を開け、そこからサムターンを回す器具をねじ込むという手口もあるらしいから、それには有効かもしれないけど、これって、自分も不便なんじゃ?
とりあえず、あとでいい。
あたしは中に入って様子を探る。ここの奥さんが床に寝ていて、鬼村さんが心肺蘇生を行っていた。
「とりあえず、呼吸と鼓動は復活した。あとは医者に任せよう」
「鬼村さん、玄関ドア、リモコンキーがないと内側からでも開けられません」
「……そうだったな」
鬼村さんは、すべて承知とばかりに、倒れている奥さんのポケットから鍵を探る。それをあたしに向かって放り投げた。
それを受け取ると、玄関に走り、リモコンキーを操作。うい~んという音とともに開場した。これで救急隊員を受け入れられる。
「いったいどういうことなんですか?」
「あとだ。とりあえずは救急隊にこの人を引き渡す」
まあ、それはそうだと納得した。待つこと数分、古河原さんが救急隊員を引き連れてやってくる。彼らは手際よく倒れていた奥さんを担架に乗せるた。
「ママ、ママ。うえええええん」
気を失っていた女の子が意識を取り戻したらしく、母親を見て泣き叫んだ。
「だいじょうぶ。だいじょうぶだから」
あたしはその子をなだめる。そうするしかない。
「どうするんです、この子?」
「しょうがない。あたしが病院にいっしょに行くよ」
古河原さんがその子の手を引っ張り、担架に乗せた母親とともに救急隊に同行した。
「あとで連絡くれ」
「了解」
台風のように彼らは過ぎ去っていく。現場に残ったのは、あたしと鬼村さん、それに森さんだ。
「鬼村さん、説明してください。さっぱりわけがわかりません。森さんはわかってるんですか?」
「あ、当たり前じゃない。すべてのことが理解できてるわ。でもまあ、説明するのは鬼村君に任せてあげる。後輩に対する面子もあるしね」
ぜったいわかってないと思う。この人、ライターとしての実力はどうか知らないけど、探偵としてはぜんぜんたいしたことない。
「いったいどういうことなんですか?」
森さんを無視して、鬼村さんに聞いた。
「どうもこうも、論理的に考えれていけば結論はひとつしかないだろうが」
「というと?」
「いいか? 1304号室は三年前の殺人事件以来、誰も住んでいない。管理会社が管理している。鍵は新しく付け替え、鍵を持っているのは管理会社だけ。鍵を誰かに貸したこともない。しかも新しい鍵はディンプル錠なので合い鍵もそこらの鍵屋じゃ作れない。プロの空き巣なら時間をかければピッキングで入ることは可能かもしれないが、出るときはピッキングでわざわざ鍵を閉めたりしないだろう。ピッキングで閉めるのは難しいらしいしな。と、ここまではいいか?」
「はい」
そこまでは前回の復習って感じだ。
「つまり、第三者が勝手にあの部屋から出入りすることは不可能だ。となれば、おまえが見たのはなんだったのかということになる」
「幽霊? っていうのは最後の最後の可能性でしたっけ?」
「わかってるじゃねえか。だから、俺は最初、幻覚か錯覚、見間違いの類いだと思った。だがよくよく考えてみれば、さすがにそれはそれで無理があるような気もしてきた」
最初からそう思え。
「中に誰もいるはずがないのに、誰かがいる。それも包丁振りかざすとか普通じゃない。これはどういうことか? そこで俺はようやく気づいた。由美は、窓ガラスを通して中を見ていると信じているようだが、もしそれがガラスに反射した映像だとしたら?」
「ガラスに反射?」
「そうだ。1304号室の中は電気が付いていない。夕方の周囲が暗い時間帯なら真っ暗は言い過ぎにしろ、かなり暗いはず。外のほうが明るければ、鏡のように反射するだろ?」
「え、でも?」
ガラスに反射? そりゃ、ガラスにあたしの顔でも映っていればそう思うけど……。
「角度の問題だ。おまえはそのガラス窓を真っ正面から見たわけじゃなく、斜めから見ている。それは足場の平面図から検証しても明白だ。ではその位置からだとなにが見える?」
あたしは頭の中で平面図を思い浮かべた。言われてみれば、あの位置からだとかなり斜めから窓ガラス越しに中を覗いたことになる。反射角度を考えると、見えるのは?
「1305号室!」
「そうだ。ちょうどあそこの位置で建物は直角に曲がっている。1305号室は外に出っ張っている感じだ。つまりおまえはガラスの反射を通して1305号室の中を覗いていたってことだ」
「え? え、でも、そんなこと気づきそうな気がするけど。ガラスに映った映像と部屋の中を間違えるなんて、普通に考えれば……」
「通常の判断力ならな。だがおまえは古河原の話を聞いて、あの部屋で殺人事件が過去に起ったという予備知識があった。内心、幽霊が出るんじゃないかと恐れていたんだ。しかも見えたのは包丁を振りかざす女。部屋の中の出来事と思い込むんじゃないのか? 冷静な判断力を期待するのは無理だ」
「ええっと、つまりあたしは余計な知識があった上、怖がっていたから、ガラスに映り込んだ隣の部屋の映像を幽霊だと思い込んだ?」
「ご名答。よくできました」
そんなこと……。あってたまるかと反論したかったが、ありえそうとしか思えない。
「しかも映ったのは一瞬だった。なおさら、そう思っても仕方がない」
「だ、だけど、どうして一瞬だけ映ったんですか?」
「灯りだよ。最初1305号室は暗かった。つまり電気が付いていなかった。だからガラスに映り込まなかったんだ。女、つまり1305号室の来栖さんだが、ちょうど包丁を振りかざした瞬間に電気が付き、その直後、ふたたび消えたとしか考えようがない」
「で、でも、いったいどんな状況になれば、そんなことに?」
「まあ、不可解だよな。普通に考えれば。だがどういう状況ならそういう事態になるか? 逆にいえば、それを考えればこの事件の真相が見えてくるということだ」
ええっと、どういうこと?
「それともう一点。べつの方向からアプローチする。おまえはあのとき、女の子の声を聞いた。だが、1304号室に女の子がいるわけがない。となれば、考えられるのは、あのとき、女の子はあの部屋の近くにいたということだ。しかしそこで問題になってくるんは、この階にはどの家にも小さな女の子はいないということだ」
「でもいた。1305号室に」
「そうだ。だが誰もいないと思っていた。これはどういうことだ?」
「引きこもり?」
だけど、そんな小さい子の引きこもりなんて聞いたことがない。
ま、まさか……。
「女の子は家に閉じ込められていた?」
そう考えれば、あのドアのリモコンキーの謎も解ける。リモコンがなければ内側から開けられないキー。つまりあの子は自宅に監禁されていた?
「そうだ。あの子は母親に虐待されていた。そうとしか思えない」
あたしは絶句した。次の言葉を探すのに数秒かかった。
「どうして?」
「それはわからん。それこそノイローゼなのかもしれないし、もっと深刻な精神疾患なのかもしれない。俺は医者じゃない」
「理由はともかく、来栖さんは、自分の子供を自宅に監禁していた。ひょっとして声も出させなかったの?」
「おそらくな。声がすれば部屋に女の子がいることが、周囲にばれるからな。きっと声を出せば折檻していたんだろう。さいわい両隣は空き家と耳の遠い老夫婦。それ以外もこの階は共働きで昼間いない人が多い。つまり、子供の声が多少漏れても気づかれにくい環境だった」
それでもときには助けを求める声が誰かに聞かれることもあったんだろう。それが幽霊の噂を呼ぶ。
「で、さっきの話に戻る。おそらく母親は暗闇の中で女の子を監禁していた。そのほうが怖がるだろうという理由だと思う。なんせ虐待なんだからな。見ろ。ここの照明はぜんぶリモコンでしかつかない。もちろん、持っているのは母親だ。女の子に自分の意思で灯りをつけさせないためだろうな」
そんな母親がいるの? ……まあ、いるんだろう。だけど信じたくはなかった。
「暗闇で包丁を振りかざしたのは、たんに脅しただけだろう。あるいは女の子がなにかやからして、激情に駆られてやったのかもしれない。いずれにしろ、本気で殺す気なんかはなかったはずだ」
「そのときに電気が付いた。なんで?」
「さあな。おそらく腕を振り上げたとき、たまたまポケットに入れていたリモコンのスイッチが入ってしまったんだろう。慌てて消したんだ」
「どうしてです?」
「そのへんはもう想像でしか語れないな。推理ですらない、想像。あるいは妄想かもしれん」
「想像でも、妄想でもいいです。鬼村さんはどう考えるんですか?」
「おそらく彼女は暗闇の中でしか自分の子供を虐待できなかったんだ。明るい、自分の顔が見えるところではよき母親を演じていた。まあ、半分以上は根拠のない勘だが、外れている気はしない」
「そんな馬鹿なっ!」
あるのか、そんなことが? ありえるのか?
「その発想のきっかけはリモコンだ。おそらくリモコンなしには電気もつけられない、外にも出られない。つまり閉じ込めたまま、灯りをぜんぶ自分でコントロールしている。そうなると、俺としてはそういう結論になっちまうよなあ」
前回ここを訪問したとき、リモコンにはあたしも気づいていたけど、その発想にはつながらなかった。
で、でも、……だからといって、それが真実とは……。
「おそらく多重人格ね」
意外なことを言い出したのは、森さんだった。
「おそらく暗闇の中では別人格が目覚めるのよ。明るくなるともともとの自分に戻る。そういうことなんじゃないの?」
「ほんとですかっ!」
また適当なこといってんじゃないの、この人は?
「いや、ありうる」
鬼村さんまでそんなことを言う。
「もちろん可能性の話だ。ぜったいそうだというわけじゃない。だが、来栖さんは三年前の事件を隣で聞いている。母親が娘を刺し殺し、自分が自殺するという事件を。それで心を病んだんじゃないのか?」
「で、べつの人格が生まれ、子供を虐待したと?」
「ああ。しかも来栖さんの主人格はそれをわかっていた。そしてどんどんべつの人格に行動を奪われていく。このままじゃほんとに娘を殺しかねないと思い、ついに自殺することにした。そう考えればつじつまが合う」
森さんが勝ち誇った顔をしている。鬼村さんの推理にちょっと被せただけなのに。なんか悔しい。
ああ、あることないこと書きそうだな、この人。『三年前の殺人事件の幽霊。その正体は多重人格の隣人の娘虐待。現代社会の闇』とかなんとか。もちろん探偵役は自分だ。なにせ多重人格を見破ったのだから。
「じゃあ、鳶の羽田君が見た、女の子ってのも?」
「ああ、同じようなことだ。たまたまなんかの拍子に照明がついて、女の子が姿がガラスに映ったんだろう」
いきなりばたばたと誰かが玄関から入ってきた。
「またおまえらか」
甲高い声を出すのは、豆タンクこと大田原巡査。もちろん隣には細井巡査部長もいた。たぶん病院から警察に連絡が入ったんだろう。
「まあまあ、この人たちは首つり自殺を予期して救急車まで呼んでくれたんだからな」
いや、べつに鬼村さんも首つり自殺までは予期してなかったと思うけど。
「さすがだねえ、名探偵君」
細井巡査部長は例によって鬼村さんをつんつんする。
「ちょっと、あたしのことも忘れないでよね。名探偵にしてフリーライターの森茂美」
「はあ? 君はたしか前の事件の被害者じゃなかったっけ」
もっと言ってやってください、細井さん。
「し、失礼ね。被害者じゃないわよ。あのときは、あたしだって真相にたどり着いてたの。罠を張ったのよ。ただあいつが予想外に強くて……」
詰めが甘いことで。
「ただ、今度のことであたしは確信した。やっぱり来栖さんは三年前の四谷さん同様、洗脳されて、人格を変えられたのよ」
「洗脳?」
だいじょうぶですか、森さん? ……その、頭が。
「あたしはその事件を追っていたの。そして他人の人格を変える洗脳のスペシャリストこそシャンゼリーゼ神谷」
「は?」
なんかシャンゼリーゼがすげえ大悪党になってるんですが? ひょっとして森さんが追っていた巨悪って、シャンゼリーゼですか?
「それ、なんか証拠あんの?」
細井巡査部長が聞く。まあ、とりあえずって感じで。
「ないわよ。この前の事件で坂下に奪われて」
え、あのときけっきょく坂下にはそんな余裕がなかったはず。証拠って、要はハッタリだったの? つまり最初からなかった。
「この前、あんたが中途半端にシャンゼリーゼを追い詰めるから、逃げちゃったじゃないの、あいつ。詰めが甘すぎっ」
なんか鬼村さんの罵倒しだした。
どうなの? とばかりに、あたしは鬼村さんと細井巡査部長を見る。
ふたりとも無言で頭を抱えていた。
シャンゼリーゼ、黒幕説。誰も信じてねえっ!
ただの森さんの中二病か?
携帯電話が鳴った。古河原さんからだ。
『インミン。来栖さん命を取り留めたよっ』
「ほんと、よかった」
『じゃあ、ことの顛末は明日にもで聞くから。どうせ鬼村君が謎説いたんでしょ? じゃあ、明日』
電話は切れた。まあ、どうせ、電話で簡単に説明できることじゃない。あたしは来栖さんの命が助かったことをみなに伝えた。
「やるじゃん、鬼村」
森さんが手を突き出してサムアップ。鬼村さんは少し笑った。
っていうか、鬼村さんまで呼び捨て。自由だなあ、この人。
「だけど勘違いしないでよ。あんたがいなくても、あたしがここに踏み込んだんだからね」 ツンデレなんだかただの負けず嫌いなんだか、よくわかりません。
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