6
根室さんを先頭に、あたしたちは中に入った。
「あまり無造作に歩かないほうがいいと思いますよ。もし誰かが隠れていたりでもしたら……」
「だいじょうぶですよ」
根室さんがにっこりほほ笑む。
まあ、あたしが見たことをまるで信用していないということだろう。
あたしは古河原さんを指でつんつんした。ここはあなたの出番ですよ、と言ったつもり。なのに古河原さんは露骨にいやそうな顔をした。たぶん、幽霊とは戦えないとか思ってるに違いない。
リビングルームに入るが誰もいなかった。人だけでなく、備え付けのクローゼット以外はいっさいの家具もなく、すっきりしている。
「鬼村さん、あのクローゼットの中に隠れてるかもしれません」
小声でささやいた。
「確認しろよ」
「いやですよ。そんな危険なこと、あたしにやらせないでください」
鬼村さんはしょうがねえなあとばかりにため息をつき、クローゼットのドアを開けた。
誰も潜んでいない。
鬼村さんはそのまま他の居室やトイレ、バスルームなどを開けていく。どこにも誰もいない。さらには各窓を調べ、中からクレセント錠がかかっていることも確認していった。
「完全密室だ。鍵には小細工したあとも見られない。なにかを引っかけてこすれたあともないし、そもそもクレセント錠の回転がロックされている」
クレセント錠に小さな鍵穴がついていて、それをかければクレセント錠はまわらなくなる。つまり糸だのワイヤーだのによる外からの小細工は不可能だ。
「クレセントの鍵も、うちで管理するようになってから付け替えました」
根室さんが説明する。
「おまえが足場から窓越しに覗いたとすれば、見えたのはこのあたりのはずだ」
リビングに戻ってきた鬼村さんが、その中の一角を指さす。
床にも壁にも異常はない。血だまりはおろか、飛沫血痕すらなかった。壁は
「すみません。あなたの会社の社員以外で、ここの鍵を持っている人はいますか?」
鬼村さんが根室さんに聞いた。
「いいえ。例の事件のあとはもちろん鍵を変えています。合い鍵は誰にも渡していません。新しい鍵は前とちがってディンプル錠なので、そのへんの合い鍵屋さんでは合い鍵は作れません。ピッキングもしにくい仕様になっています」
「では何物かが会社に忍び込み、鍵を持ち出した可能性は?」
「それも考えにくいです。物件の鍵はキーボックスに入れ、その鍵は社員しか持っていません。ここの鍵はもともと一本しかありませんから、今わたしが持っている以上、誰かが持ち出してはいないということです。もし誰かが夜間なんとか鍵をくすねても、街の鍵屋さんでは合い鍵は作れません。コピーして次の日の朝まで戻すことは不可能です。そもそも日中は事務所に誰かかれかいますし、夜間や休みの日は玄関を施錠します。もちろん事務所の鍵もディンプル錠に付け替えています」
「だそうだ」
鬼村さんはあたしに向かって言う。
「つまり、この部屋には誰も入っていない。少なくとも今から一時間やそこらの間に何者かが出入りした形跡はない。誰もいなかったんだ」
「じゃ、じゃあ、やっぱり幽霊!」
「幻覚だ」
そこまで言われると、だんだん自信がなくなってきた。
怖い怖いと思っていたから、ついそんなものを見たような気がしただけなんだろうか?
それともなにかの見間違い?
いや、手に持っていたのがじつは包丁でなく、べつのものだったとかいう見間違いならともかく、誰もいなかったのに、いるように見えたなんてことがあるはずもない。
「まあ、幻覚かどうかはともかく、誰も入った様子がないので安心しました」
根室さんは優しく言った。
この人も、ここが新たに殺人現場になったとはこれっぽっちも考えていないようだ。
「あ、あの、あんまり広めないでくださいね。幽霊が出る物件として有名になったら、買う人がいなくなってしまいますから」
優しく言ってるけど、ただでさえ殺人現場があった物件として、買い手も借りてもいないのに、これ以上ややこしくするなということであろう。
まあ、たしかに幽霊が出る物件なんて誰も手をつけないよね。
「わかったか、由美?」
「はい」
そう答えるしかなかった。下手したら営業妨害で訴えられかねない。
だけど納得はできなかった。ほんとに誰も出入りしていないなら、やっぱり幽霊じゃないか? そう考えるしかない気がする。
「それでは施錠しましょう」
根室さんに促され、あたしたちは部屋を出た。
「それでは失礼します」
根室さんは鍵を閉めると、頭を下げ、ひとり先にエレベーターに乗る。
「なんか納得いってないって顔だな、由美」
「そりゃそうですよ。だってよく考えてみれば、女の子の声だって聞いてるんですよ。あれも幻聴で済ますんですか? なんかあたし、あしたから自分の感覚が信じられなくなりますよ」
「だよねぇ」
今回の件であたしに味方するのは、意外なことに古河原さんだ。
「誰もいなかったことで、あたしはますます幽霊だと確信した。なんでもかんでもインミンの幻覚ですまそうなんて虫がよすぎ」
「ですよねっ」
「おまえらなあ」
鬼村さんはあきれ顔だ。
「隣の人に聞いてみよう」
古河原さんが言う。
「なにを聞くんだよ? まさか、隣に幽霊が出たんですけど知ってますか、とかじゃねえだろうな?」
しかし古河原さんはすでに隣の部屋、1305号室のインターホンを押していた。廊下から見て右隣、まだ外に足場がかかっていないところだ。表札には来栖と書いてある。
『はい?』
インターホンのスピーカーから返事が来た。
「あ、すみません、工事のものですけど、ちょっとよろしいでしょうか?」
『……なに?』
怒ってる? なんか声が怖いんですけど。
「ちょっとお聞きしたいことがありまして」
古河原さんは事務員なのに妙に手慣れている。
数秒後、玄関ドアは開いた。通常のがちゃりという音とともに、うい~んという電動音がした。たぶんオプションでリモコン操作できる電動のキーをつけている。用心深い人なんだろう。
中に立っていたのは、三十歳前後の女性。ちょっと陰気な感じだ。というより、なんていうか殺気がこもったような顔をしている。
しかも部屋の中は暗かった。電気をつけていない。ひょっとして寝ていたんだろうか? それでなおさら機嫌が悪いとか。
っていうか、こんな真っ暗な部屋でそんな陰鬱な顔して立っているのは怖いからやめてください。
「ああ、ごめんなさい。今……灯りをつけるわ」
あたしの心の声が聞こえたのか、来栖さんはポケットからリモコンを取り出すと、操作した。廊下の照明がつく。この人は鍵だけでなく、電気のオンオフもリモコンでおこなっっているらしい。むしろ不便じゃないだろうか?
あれ?
明るくなると、来栖さんの表情も一変したように見えた。気のせい?
暗く妖怪じみていた表情が気にならなくなった。なんか普通の奥さんっぽくなったというか……。
「ちょっと前、隣の1304号室から物音がしませんでしたか?」
「たった今、音がしてたけど」
「それはわたしたちと管理会社の人です。それより数十分くらい前のことですが」
「いいえ。だって空き家ですよ、隣は」
「いや、その先入観を外してもらって」
「だからなにも聞こえませんでしたけど」
完全否定。そこまで言われると、あたしもついつっこみたくなってくる。
「女の子の声とか聞こえませんでした? ママとかなんとか」
「だから音とか声とかいっさい聞こえませんでした。なんですか、嫌がらせですか?」
「いえいえ、とんでもない」
たしかに嫌がらせと思われても仕方がない。この来栖さんだって、三年前の殺人事件のことは知ってるだろうし。
「失礼ですけど、お子さんはいませんか?」
「いません。夫も出て行って、今はひとり暮らしです」
やばい。また、かなり不機嫌になってきた。なんかタブーに触れたような気がする。
「いやいや、どうもすみません。なんかこいつらが失礼なことを言っちゃって」
鬼村さんがへらへら似合わない笑顔を浮かべ、割って入ってきた。
「じつは親子連れの不審者が、隣の空き家に忍び込んでいた可能性がありまして、調査しているところです。来栖さんとしても隣りに変な人物がいれば安心できないでしょうし」
「そ、そうなの?」
怒りの浮かんでいた顔は、不安に染まる。
「ええ、だから管理会社の人といっしょに調べていたんです」
まあ、普通に考えれば、なんで工事の人間がそんなことを調べるんだ? と思いそうだけど、そこまではとっさに頭が回らなかったようだ。
「とにかく、ついさっきあなたたちが入るまで、あの事件の後、誰もいる気配はありませんでしたよ」
「わかりました。お手数かけてすみませんでした。失礼します」
来栖さんは玄関ドアを閉めた。
「おまえらストレートすぎんだよ」
いやいや、あたしはなにも、隣の部屋で包丁振りかざす恐ろしい女が女の子を襲っているかもしれないんですけど、あなたなにか知りませんか? と言ったわけではない。ましてやそいつは煙のように消えました、なんて言うつもりもなかったし。
そんなことを言ってるうちに、エレベーターから中年のサラリーマンらしき男性が歩いてきた。あたしたちは「こんばんは」と頭を下げる。
その人も挨拶を返すと、反対隣の1303号室の前で止まった。
「あ、あの、すみません。そこの部屋の方ですか?」
あたしはつい声をかける。
「そうですが、なにか?」
「ここ最近、隣の1304号室から物音が聞こえるとかっていうことはないでしょうか?」「さあ? うちは共働きで、昼間はいないんですよ。女房もまだ帰ってきてないみたいだし。きょうはたまたま早いんですが、いつもはもっと遅いんですよ、すみません。夜もそんな音は聞いたことがないなあ。もっともこの階はそういう人が多いはずですよ」
「そうですか、すみません」
「なにかあったんですか?」
言葉に詰まった。今、鬼村さんにたしなめられたばかりだ。
ふたたび鬼村さんが出張ってきて、例の怪しげな営業スマイルを浮かべると、さっきと同じようなことを言う。返答はやはり、なにも異常は感じていないということだった。
あたしたちは礼を言うと、引き返した。
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