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建物内部のエレベーターで十三階まで行くと、外部階段の踊り場から足場によじ登った。すでにあたりはかなり暗くなっている。懐中電灯に点灯した。
「風が強いな」
これだけ吹いているとき、シートのひもが切れていたら、たしかにばさばさうるさいだろうな、とは思う。
なるべく足音を立てないように気を遣いながら、足場を歩きはじめた。ぐるっと回って向こう側に1304号室はある。
まったく古河原さんがあんなことを昼間言いさえしなければ、なんてことはないのに。
あたしは内心古河原さんにいらいらいしつつ、問題の地点まで来た。
1304号室と1303号室の間くらいでたしかにシートはめくれ、風に煽られてはいたが、たいしたことはない。ひもが切れているのは数カ所だ。
あたしはライトを
このまま来た道を戻ればなんの問題もない。
逆に戻らずほんのちょっと直進すれば、幽霊に出会えるかもしれない。
もちろん、あたしは引き返すつもりだった。そもそも足場はあと数メートルで終わる。その先は、まだ組まれていないのだ。
「ママ~っ、出してよ」
え? 今のはなに? 女の子の声?
聞こえるかどうか微妙な声量。風の音にも紛れていたし、ひょっとしたら気のせいかもしれない。
っていうか、隣のうちの子かもしれない。あるいは風に乗って、もうちょっと遠くの部屋から聞こえたとか……。
ま、まあ、少なくとも、誰も住んでない部屋の中から聞こえたわけじゃないよね。
そう思い込もうとしたとき、この階には小さな女の子は住んでいないと、古河原さんが言っていたことを思い出した。
「ママ」
今度はさっきよりもう少し、はっきりと聞こえた。
ど、どうしよう?
選択肢はふたつある。
なにも聞かなかったことにして、このままUターン。一応、帰ってから報告だけはする。
あるいは、とりあえず、ほんとうに子供が助けを求めているのか、確認する。
どうしよっかな。
あたしは半分泣きべそをかきつつも、前に進むことにした。どうせ数メートルも進めば、それ以上はまだ足場ができていないわけだから、行きたくても行きようがなくなる。そこまで行って、わからなければ、どの道引き返すしか手立てがないのだから。
古河原さん、ほんと恨むよ。
あたしは覚悟を決め、前進した。じっさい、数メートル歩くと足場は行き止まり。落下防止のストッパーが設置されていた。しかもご丁寧に落下防止用のメッシュシートまで巻き込んである。
例の幽霊部屋はここからだと右側。いくつか窓があるがもちろんどれも灯りはともっていない。
カーテンはないが、もう暗いため中はよく見えない。といっても、人がいる気配はなかった。
念のため、手にした懐中電灯で窓ひとつひとつを照らす。
当然ながら人はおろか、猫一匹いない。そしてついでにいうなら家具ひとつなかった。ただのがらんどうだ。
「そりゃそうだよねえ」
そうは言ったが、もし中に女の子が立っていたりでもしたら、あたしは間違いなく腰を抜かしていただろう。
ということで、さっさと退散しよう。
あたしは回れ右をすると、外部階段のあるところまで行こうとした。
「行かないで」
後ろから女の子の声。
ひええええええええ!
怖い。このまま足場の上を走り抜けたい。
でも振り向かずにはいられなかった。
足を止め、ゆっくり振り返る。
視界に入る窓ガラス。さっきと同様、中は真っ暗で誰もいない。
いや、……たしかに誰もいなかった。
しかしそう思った瞬間、誰もいなかった部屋の中に女性が現れた。
こっちを見てはいない。その人は部屋の内側を向いていた。だから顔はよくわからない。
その女は右手を大きく振りかぶった。
そこには逆手に持たれた包丁が握りしめられている。
マジすかっ!
あたしはひっくり返りそうになった。
「ママっ!」
もはやその声は気のせいかと勘違いするほどかすかなものではなかった。
次の瞬間、女は消えた。
隠れたとか、逃げたとかではなく、本当に消え失せたのだ。
あたしは思わず、ライトを部屋の中に向ける。
誰もいなかった。
家具ひとつない部屋の中には、女も、包丁も、女の子も存在しない。なにもない。
あたしは今度こそ走った。
後ろを振り返ることなく、そのまま階段まで突っ走ると廊下に飛び降り、エレベーターに駆け込んだ。
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