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 正直、その部屋には、鬼村さんが幽霊がいないことを証明するまで近づかない気でいた。といってもしょせんは会社に雇われる身。仕事でどうしても行く必用が生じれば、行かざるを得ない。

「由美、B棟十三階の足場のシートがばたばためくれてるそうだ。居住者から苦情が入った。悪いが見てきてくれ」

 ひと仕事終え、事務所に戻ると、なにも事情を知らない円山所長がなんの遠慮もなしに命令してきた。

「え、今からですか?」

 すでに夕方六時を回って、まわりは暗くなってきている。そもそも夕方六時以降は作業しない約束だ。つまり足場にも人がいてはいけない。

「ああ、まあほんとうはこの時間に足場に上るのは音がするからよくないが、仕方ないだろう。なるべく音を出さないで行ってこい」

「あたしひとりでですか?」

「ああ? シートを数カ所、ひもで縛るだけだ。ひとりで充分だろう?」

 まあ、たしかに何人も連れだってやるような仕事じゃない。普通なら、あたしもふたつ返事で行っただろう。普通なら。

「鬼村さん、いっしょに来てくださいよ」

「甘えんな」

 ひと言で却下ですか?

「所長、ちなみに苦情が来たのは何号室ですか?」

 十三階といっても例の部屋の側とは限らない。案外、反対側だったりして。

「んー? 1306号室だ」

 すぐ近くじゃねえかっ!

 よく考えてみたら、反対側はまだ足場が組まれていない。

 足場は一週ぐるっと同時期に立ち上がるわけではなく、工事を優先する面から立ち上げていく。そのほうが後工程の作業を順次入れていけるから、効率的なのだ。

 1304号室というのは、今組んでいる足場の端部あたりにある部屋だ。たぶんちょうどそのへんで行き止まりになるわけだ。

 ちなみにその先は建物自体直角に曲がって出っ張っている。その出っ張った部分の最初の部屋が1305号室で、1306号室はその隣り。そこから苦情が来たということは、シートが外れているのはたぶん1304号室のあたりだ。

「ん? ちょっと待ってください。1306号室って、たしかふたりとも耳の遠い老夫婦が住んでるところじゃなかったでしたっけ」

「ああ、正確には音というより、部屋からシートがばたばた煽られるのが見えて、目障りなんだそうだ」

 ええ、そんなぁ。そんなのカーテンでもして見えないようにしてくださいよ。

「インミ~ン、がんばって」

 古河原さんが無責任にエールを送る。

「だいじょうぶだよ、出ねえよ」

 鬼村さんがなんの根拠もない気休めを言う。

「ん? 出ないって、なにがだ?」

 所長が不思議そうな顔をした。

 もちろん幽霊の話です。とは言えない。

「ああ、なんでもないです。こいつ馬鹿なんで」

「おお、そうか?」

 すみません、所長。なんすか、今の意味不明のやりとりは? それでなんか納得できたんですか?

 けっこう、適当だな、あんたっ!

「わかりました。行ってきます」

 幽霊に取り殺されたら、逆にあんたに取り憑いてやるんだから。

 そう思いつつ、鬼村さんを睨む。

「暗いからライト持ってったほうがいいぞ」

「的確なアドバイス、ありがとうございます」

 もちろん皮肉だ。

 とはいえ、マジで暗いし、足下踏み外したらしゃれにならない。一応、ここはアドバイスに従うのが賢いだろう。

 あたしは懐中電灯を持つと、B棟に向かった。

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