2
あたしは朝から頭が痛かった。ついでに吐き気がする。早い話が二日酔いだった。
なぜか鬼村さんや古河原さんは、あたしより飲んでいたはずなのにけろっとしている。もちろん所長や主任もだ。この業界の人はなんかおかしい。
朝礼が終わると、さっそく鬼村さんが絡んできた。
「うらー、由美、元気ねえぞ」
なんであんたはそんなに元気なんですか?
「あ、あの、まさかとは思いますが、あたしきのう暴れてないですよね?」
なぜそんなことを聞いたかといえば、途中から記憶がないからだ。
鬼村さんはそれを聞いてにんまりと笑う。ほんとにうれしそうに。
「いやあ。きのうはすごかったぞ。だっておまえ俺に酒つぐんだもん。作家先生様の酒が飲めないのか? あたしは印税あるんだぞってな」
ぜったい嘘だ。
「まあ、しょうがねえよな。俺、印税ないし」
「聞いたあたしが馬鹿でした」
「なんだよ、信じないのかよ。庶民は相手にしないのかよ」
はいはい。
「しょうがねえなあ、先生様は。罰として、A棟のジャングル見てこい」
ここには敷地内に大小いくつものマンションが並んでいる。それぞれが時間差で工事を始めていくから、すべて終わるには数年かかる。A棟はその中のひとつで、一戸の部屋数が少ないタイプ。だいたいひとり暮らしか、若いカップルが多い。
ちなみにジャングルとはなにかというと、まあ、ジャングルだ。バルコニーが。
早い話がせまいバルコニーの中、所狭しと植木鉢が並んでいる。植木鉢といっても、かなり大きいものも含まれるし、小さいのも数がそろえば壮観だ。
で、とうぜんながら工事の邪魔になる。壁や天井の塗装、床シートの張り替え、シーリングの打ち替え、とにかくなんにもできない。
もちろん、工事着工前の住民説明会では、バルコニーの荷物は片付けてくださいとはお願いしてる。まあ、あたしはまだそのときはいなかったから、所長から聞いた話だけど。
しまうスペースがない人のために、外部に植木鉢置き場まで作った。これは屋外の共用スペースに足場材で棚を作って、大小の植木鉢を置けるようにしたものだ。
さらには足場が立ち、いざ補修工事に入る一週間前には、片付けのお願いのチラシを各戸に配っている。さらにはつい先日、バルコニーをひとつひとつ足場から見て回って、片付いていない部屋には再度チラシを配った。「邪魔だからどかせぇえっ!」ではなく、「工事の際、汚したり、傷つけたりするかもしれませんので、片付けてくださいねっ」ってやつを。
それでも片付けない人は片付けない。
ちなみに鬼村さんが言った見てこいというのは、片付いてるかどうか確認しろという意味だ。
片付いてるわけないなとは思いつつ、足場の昇降階段を上っていく。
問題の部屋の前まで来ると、案の定、植木は一個も片付いていなかった。
むしろ増えてないか?
しかも木のまわりをハトが飛び交ってよけいに野生化している。まあ、ハトの時点でジャングルっぽくはないのだが。
携帯電話でその状況を鬼村さんに説明すると、彼はこうおっしゃった。
『直に訪ねて、お願いしろ』
うへえ。やっぱりそれか?
気が進まなかった。そこの人とは一度だけあったことがあるが、気の強いお姉さんなのだ。あたしの言うことなんか聞くわけがない。
もっともあの人はあたしだけじゃなく、誰が行ってもいうことを聞かないだろう。たぶん。
『返事は?』
「はい。行きます。行きますよ」
あたしは足場から建物の共用廊下に乗り移った。行きたくはないが、命令とあれば仕方がない。
ちなみにそのお客さんの名前は森さんという。
森さんの玄関の前まで行くと、インターホンを鳴らした。
出てこない。
念のため、しばらく待ってからもう一度押す。
やっぱり出てこない。
ま、いないもんはしょうがないですね。
そう自分に言い聞かせ、Uターンしようとした瞬間、玄関ドアが開いた。
「なによ?」
あからさまに不機嫌な顔をしてる。寝ていたのかもしれない。
ていうか、寝てた。間違いなく。
だって着てるのがジャージだし、髪の毛に寝癖が付いてるし、目が眠そうだ。
二十代半ばの独身女性が、なんで平日の午前中家にいるんですか?
もちろん、そんなことは聞けない。
「あ、あの、工事のものですけど、バルコニーのお片付けをお願いしに来ました」
せいいっぱいの愛想笑いをして言う。
「片付け? なに言ってんの、やったわよ、きのう」
「へ?」
「だから、きのうの夜、彼氏とふたりで植木をぜんぶ下に下げたんだから。もうなにもないはずよ」
そんな馬鹿な? だってあたしはたった今、確認したんですけど。
だいたいあれだけの量の植木を、ふたりとはいえ一晩のうちに下まで持って行けるはずがない。……いや、できなくもないだろうが、この人がやるとは思えない。
「で、でも、現にまだありますよ」
「そんなはずないでしょ?」
思いっきり不機嫌そうな顔で金切り声を上げる。
ぷいとあたしに背を向けると、ずんずん廊下の奥に歩いて行った。今を横切って、バルコニーを見たとたん、叫び声が上がる。
「な、なによ、これ? なんであるの?」
それはたぶん片付けていないからでは?
「嘘よ。きのうちゃんと片付けたんだから」
あたしに言い訳してるわけではないらしい。ひとりで叫んでいる。
つかつかとふたたび玄関に歩いてくると、あたしに向かってこう言った。
「なんの嫌がらせ」
「え?」
意味不明。まったくもってなにを言いたいのか、この人は?
「あんたたち、外の植木置き場から、今朝、足場伝いに植木をまたバルコニーに置いたでしょう?」
「は?」
正気か、この女?
あたしたちは片付けてほしいの! 片付いてれば万々歳なの。仕事が進められるの。
それをなにが悲しくて、ふたたび持ってこなきゃならんのだ?
「そんなわけないですよ」
「だってそれしか可能性ないじゃん? あたしはきのう間違いなく片付けたんだから」
それは夢では?
「だいたいどうしてあたしたちがそんなことを?」
「あたしに対する嫌がらせに決まってるわ」
嫌がらせのために、あの量の植木をわざわざ下から足場伝いに持ってきたと?
どんだけあたしたちが暇だと思ってんだ、こいつ。
でも嘘をついてるようにも見えない。となると……。
「ひょっとしてお酒飲んでました?」
「それどういう意味? あたしが酔っ払ってあることないこと言ってるってこと?」
いや、ないことしか言ってないと思います。
「こんな侮辱を受けたのははじめてだわ。あんたみたいな小娘じゃ話にならない。偉い人呼んできなさいよ」
「え、偉い人ですか?」
「そうよ。今すぐっ!」
「わかりました」
あたしは回れ右して、走った。
ええ? どうしよう? 所長に言ったら怒られるかな? でも主任よりましか。
そんなことを考えながらエレベーターにたどり着いた。まさに乗り込もうとしたとき、中から出てきた鬼村さんと鉢合わせになった。
「どうした、青い顔して?」
「先輩!」
この際、この人でいいや。あんまり偉くないけど。
あたしは半ばやけくそぎみに、鬼村さんに今の出来事を語った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます