ブルームーン ~震災悲話~

石渡正佳

第1章 大震災

1 巨大地震

 「地震だ。でっけえぞ」突然の地響きに長身の猪俣が震える声で叫んだ。那酉川警察署の狭苦しい留置場の中にたまたま居合わせた見ず知らずの6人が身を硬くした。猪俣は28歳、覚せい剤取締法違反で逮捕された。再犯だった。

 「壁が割れんぞ。みんな真ん中さ集まれ」年長の横瀬の声に促され、全員が頭を抱えながら中央に寄りあった。横瀬は65歳、詐欺の常習犯、今回は振込詐欺で逮捕された。

 揺れは収まるどころかどんどん大きくなり、停電で明りが消え、非常灯の点かない留置場は真っ暗になった。事務室のロッカーが将棋倒しに倒れる破壊音が廊下まで響いた。

 「ひええ」猪俣が悲鳴を上げた。元暴走族ヘッドなのに、薬が切れるとてんで臆病だった。

 「てめえ、いちいちうるせえんだよ。警察署はつぶれやしねえよ」卯月がいらいらした声で猪俣をどついた。卯月は35歳、同房の6人の中で一番凶悪な強盗強姦犯、DQN(乱暴)がひどすぎて破門された元暴力団構成員だ。最近の経済ヤクザには、卯月のような武闘派は無用の存在だった。

 「阪神淡路ん時に神戸にいたけどよ、駅だってみいんなつぶれたんだぜ。これは阪神よりでっけえな。きっと津波もくんぞ」柳生は落ち着いていた。柳生は42歳、ピッキング窃盗で5度目の逮捕だった。

 「ここまで津波がくっかよ」卯月が舐めた口ぶりで言った瞬間、警察署の建物全体が巨人に揺すられたように激しく揺れだし、壁がミリッと音を立ててヒビ割れた。いったいどこまで揺れ続けるのか、さすがの卯月も不安になって沈黙した。

 「やべえ。こらほんとに持たねえよ」猪俣の声がまた震えた。

 「るせえな」卯月がまたバカにしたように猪俣を蹴り飛ばした。破門されたとはいえ元暴力団構成員と元暴走族ヘッドでは格が違いすぎた。それにクスリをやるやつはヤクザからも最低の人間と軽蔑されていた。クスリ欲しさになんでもやり、どんなにどつかれても、クスリをくれるやつにはけっして逆らわなくなるのだ。

 「でえじょうぶだって」柳生が冷静に言った。揺れは5分以上も続いたが、警察署の建物はなんとか持ちこたえた。

 「なげかったなあ。もう安心だぜ」それまで沈黙していた宇田川がいまさらのように言った。宇田川は42歳、横瀬の共犯、元劇団員で早変わりが得意だったという。詐欺の話術は天才的だった。柳生と同い年なのに30代半ばにしか見えない若作りで、声にも色気があった。

 「絶対津波がくんぞ。逃げねえと死ぬぞ」天窓に差し込む光を求めて猪俣が無暗にジャンプした。

 「ちったあ落ち着けや。海はそっちじゃあんめえよ」横瀬が言った。

 「どうせ牢屋じゃ逃げらんねえよ。覚悟しいや」宇田川が言った。

 「誰かいねえか。津波がくんだよ。出してくれよ」猪俣が泣きそうな声で看守に向かって叫んだが、非常灯にわずかに照らされた廊下には誰もいなかった。パトカーが次々とサイレンを鳴り響かせて出動していった。警察官は無事なのに、留置場の6人のSOSに応答する者は誰も居なかった。

 「余震じゃ。もうすぐにくんぞ」柳生が言った。その予言のとおり揺り返しが来て、基礎が沈んだ警察署は建物ごとガタガタ揺れた。ミシミシッと音がして壁の亀裂が広がり、全員の顔が引きつった。余震はまもなく収まり、またしんと静かになった。

 「どすんだよ」猪俣が全員を見た。

 「待つしかあんめえよ」宇田川が言った。

 「逃げねえと津波がくんだよ。どすんだよ」猪俣は落ち着きなく留置場の中をうろうろした。

 「津波はわかんねえけど、余震はなんべんも来んぞ」柳生が経験ありそうに言った。

 「お若いの、オメエは覚悟できてんのか」宇田川が6人の中で最年少の男を見た。ガタイは一番よかった。児玉は21歳、業務上過失致死罪で収監されていた。事故とはいえ親分殺しだと看守がうわさするのを耳にしてから、宇田川が妙な色目を使っていたが、誰もそれには気づかなかった。元来無口な児玉だけは地震の最中に一言も口をきいていなかった。

 地震から30分ほど経過したとき、映画で見た空襲警報のようなサイレンが町のあちこちで響き出した。

 「津波が堤防を越えました。急いで3階以上の建物か高台に避難してください。津波が堤…」避難を促す放送が途中で切れた。スピーカーが流されたか電源が途絶えたのだ。町の道路という道路は避難者であふれ、「逃げろ逃げろ」と怒号が飛び交っていたが、警察署の3階は静まり返ったままだった。警察官は全員出動してしまい、6人は置き去りにされたのだ。

 「静かだな。みんな避難したのかな。津波ここまで来んのかな」猪俣がまた震える声で言った。

 「海岸から1キロもあんだぞ。来るわけねえ」柳生が言った。

 「ここは何階だっけ」宇田川が言った。

 「3階だっぺ」横瀬が言った。

 「なら慌てんな。3階はだいじょうぶってどっかで聞いたことある」柳生が言った。

 誰かが階段を駆け上がってくる音がした。6人は耳をすませた。

 「全員逃げたかあ。ここもあぶねえぞう。もう間に合わねえから屋上さ逃げろやあ」太い声が廊下から聞こえてきた。

 「刑事さん、こっちこっちー。鍵開けてくれー」猪俣が引きつった声で叫んだ。

 私服の刑事が猪俣の声に気づいて留置場にかけつけた。「待ってろ。今出してやる」刑事は鍵を探しに戻った。

 その時、じわっと床に水がにじんだ。ゴーッと地鳴りのような音がしたと思うと、バリバリと周囲の住宅が破壊される音が壁の向こうから聞こえた。

 「ほんとに津波だあ」猪俣が沈んだ声で叫んだ。

 地鳴りがどんどんひどくなり、バンと警察署の窓ガラスの割れる音が響いた。濁流がたちまち6人の腰まで来た。3階の床上まで浸水してきたということは、2階まで完全水没したということだ。周囲の住宅地が全滅したことは容易に想像できた。押し寄せる津波に警察署の堅牢な建物がぐらぐら揺れ、滝壷に飲まれたようなザーという水流の轟音のほかには、もうなにも聞こえなくなった。突然、ボンと音がして留置場の天窓の網入りガラスが破れ、海水が噴出した。奇跡的にガラスの破片は6人の誰にも命中しなかった。しかし、水位は急激に上がって胸に近づいた。

 「オメエら、しっかり捉まってろよ。必ず助けにくっからな」留置場の鍵を取ってきた刑事が、うねるような濁流に飲まれながら叫んだ。

 鉄格子が幸いし、留置場の6人は濁流に流されなかった。そのかわり逃げ場もなかった。まるで巨大な洗濯機の中にいるように、水流に翻弄された。

 「やべえよ。ほんとにやべえ」猪俣が狂ったように泣き叫んだ。

 「みんな覚悟しいや。天井まで水が来たらもうだめだ。これも天命とあきらめろ」宇田川が言った。

 「やだあ、俺まだ死にたかねー。誰か助けてくろー」猪俣が無意味な命乞いをした。

 水位がさらに上がり首まで来た。全員が恐怖に声を失った。ところがそこで水が引き始めた。

 「助かったのか」猪俣が力なく言った。

 「引き波がくんぞ。建物が持つかだな」宇田川が言った。

 「警察署だぞ。そんくれえはだいじょうぶだろ」卯月が言った。

 水位がどんどん下がりだした。

 「さっきの刑事さん、でえじょうぶだったかな」横瀬が落ち着いた声で言った。

 「だめだな。いい刑事さんだったのになあ」相棒の宇田川がしみじみ答えた。

 「すんげえ。外はアマゾン川みてえだ。家も車もどんどこ海のほうさ流されてんぞ」破れた天窓の枠にぶら下がった児玉が初めて口をきいた。アマゾン川を見てきたような口振りだった。疲れ切った6人が引き締まった児玉の背中を見上げた。濡れた服が隆々とした三角筋に貼りついていた。

 「とにかく助かったあ」猪俣がため息をつくように言った。

 「天窓がちいせからよかったでねえか」柳生が言った。

 「外はどんな様子になってんだ」宇田川が児玉を見上げた。

 「見なくたって全滅に決まってるべよ」児玉は答えず、卯月が代わりに言った。

 「これからどすんだよ」猪俣が言った。

 「どうもこうもねえ。警察署がこんなことになったんじゃ、裁判もずうっと後だな」横瀬が言った。

 「何人くれえ死んだかな」猪俣が言った。

 「阪神は5千人だろう。それよか死んだかもな」柳生が答えた。

 「じゃ1万人か」猪俣が言った。

 「あんた、こっから出る方法、なんか思いつかねえか」卯月が宇田川に言った。

 「そうだなあ。せっかく助かったんだ。とにかくここで死んではなんねえ。みんな体寄せ合って寝んべ」宇田川の提案に5人がずぶ濡れの体を冷たい壁際に寄せ合った。児玉だけは離れていた。

 電気もなく食料も水もなく、余震のせいで眠ることもできない恐ろしい夜を6人は過ごした。濡れた服を着たまま暖房のない留置場で夜を明かすのは尋常の寒さではなかったが、誰も文句は言わなかった。命拾いしただけで満足だった。それにもう口がきけないほど疲れ切っていた。

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