第3話
この日、左大臣・藤原長道は、昨夜の西二条院の火災で焼け出された女院・今帝の母后を自邸の枇杷門邸に連れ帰り、つきっきりで世話をして夜を明かした。女院は永道の実姉である。彼の出世におよぼす力は絶大で、この姉を大切にするのは当た
り前なのだが、数いる兄弟姉妹の中でも二人は妙に気が合って、格別の親愛の情を交わし合っていた。
成行が枇杷門邸に着いたとき、永道はやっと女院を落ち着かせたところだったが、着替えもしないまますぐ応対に出て来て、中宮禎子崩御の報告を頭を垂れて静かに聞いていた。
だが、
「すぐにご出仕をとのお言葉にございます」
帝の言伝てに、長道はなおもうつむいたままである。
「至急参内なさるようにとの仰せでございます」
いぶかしみつつ成行が繰り返したところが、長道はいちだんと頭を垂れてしまった。
―どうなさったのだ―
傍らに控える二人の女房は、互いに小さな笑い声をもらしつつ、我関せずで扇を顔にあてている。しかたがないので成行も、じっと頭を下げて永道の下知を待った。
そのまま小半時ほどが過ぎたろうか、簀子に家人の慎ましやかな足音が聞こえて、二人ぶんの食事が運ばれた。
「殿」
『と』と『の』の間を伸ばすようにひと息あけて艶っぽい声をかけたのは、相模命婦と呼ばれる、長道気に入りの女房である。
まるでそれが合図のように、長道はぱっちりと目を開いた。深く頭を下げ、軽く握った両手をついてじっと長道を待っている成行に満足そうな目をむけると、
「おい、これに、あれを」
女房に言う。
相模命婦は委細を心得ているようで、脇に置いた一疋の綾絹を成行の前に押し出した。膝をついて受け取る成行に、長道は声をかけた。
「どうだ、見事だろう。今朝、大宰府から届いたばかりの唐渡りの絹だ。女院のご災難のあとゆえ、なんとも時宜を得ていることよ。これもみ仏のご慈悲であろう」
快活なその声は、昨夜から一睡もせず、二条とこの邸を行き来して女院を救出した中年男のものとは思えなかった。
相模命婦はさらに心得て、扇で指し示しながら、
「弁殿、ごらんなさいませ」
成行が入って来たと反対の西の妻戸の前に絹が山と積まれ、跳ね上げた半蔀から差し込む朝日を受けて、まばゆい光を放っていた。100疋はあるなと成行は目算した。
「これを女院にお届けしてくれ、お前がだ。他の者ではいけないよ。言上は任せよう。それから比叡の覚慶のところへ行き、今宵はこちらで夜居をするようにと伝えるのだ。女院がことのほか怖がっておいでだから、居るだけの法師をみな連れて来るようにと」
わかるよな、と言いたげな顔で長道は、細い目の端でじっと成行を見ている。
「しかしくたびれた。おまえも疲れていよう。まずは腹ごしらえをしようじゃないか。おまえのために好物の粕漬けをたんと用意させたのだぞ」
成行はすぐに了解した。藤原長道は中宮の薨去を知らない、何も聞いていない、そういうことにしておけ、というのだ。その上、比叡の法師をみな枇杷門邸に呼び寄せてしまったら、五条宮はどんなにお困りだろうか。亡き中宮のための読経は誰が行なうのだろうか。
再び犀少納言の泣き顔が浮かんで、それは一気に憤怒の表情に変わったが、
―いや、そんな気力も無いかもしれないな、可哀想に…―
冷静沈着で信に厚い男として永道に愛され重用される成行だが、犀少納言を通して、中宮側の人々とはずいぶん親しみを通じていた。
―しかし、人は時勢にはは抗えぬ―
成行は居ずまいを正して深々と頭を下げる。
「万事心得ました」
感情抜きの落ち着いた声である。
共に食事が済むと、長道は着ていた直衣を脱ぎ、それを成行に下賜するよう相模命婦に命じた。
「お前はわが子同然よ。頼みにしているのだぞ」
長道は朗らかな顔でにっこりして立ち上がった。
直衣は白と紅梅の「雪の下」で、綾の織地も見事である。成行は恭しく進み出ると、火事騒動を乗り切った、いわく付きの直衣を作法にのっとって頂いた。
相模命婦を連れて永道が寝所に入ると、もう一人の女房も下がってしまい、ようやく成行は緊張を解かれた思いである。
―出仕のお気持ちは無し、か―
自分は淡々と任務をこなすのみだ。帝には深く同情するが、しかし忠誠は長道に尽くさなければならない。状況を見極めながら身を処していくことこそ上級官僚の心得だ。義を貫き、義憤のために身の処し方を誤てば、わが身のみならずお家が没落する。没落貴族の悲哀を身に染みて経験している成行は、その憂き目の底辺からスタートして、今の地位にまで登ってきた。その知性と冷徹さを高く評価してここまで引き上げてくれたのは藤原長道であって、帝ではない。長道の指示に従って、女院を見舞い、比叡に行く。自分の気持ちなど勘定する必要はない。
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