第2話
五条宮の閉ざされた門の奥である。
慟哭の主・藤原周伊は、腕の中に妹・禎子のほっそりした体を抱きしめていた。血の気のない青く美しい頬を、まだ温かい涙が幾筋もつたっていた。腕の中の禎子は、すべての苦悩から解放されて静かに目を閉じていた。中宮は今、御仏の手にゆだねられたのだ。
時の最高権力者・左大臣藤原長道から陰湿にいじめ抜かれて、ついに力尽きたこの女性は、左大臣の姪である。禎子が父を失ってのち、後ろだてとなるべき叔父は、禎子の排除に徹した。わが娘・顕子のためである。つらい暮らしを、帝の愛だけを拠り所に耐え忍んだ中宮禎子は、このとき二十四歳だった。
五条宮からの知らせはすぐに内裏の帝のもとに届けられた。親王の誕生を待ちわびていたところへ、皇女誕生の報とともにもたらされたのは、帝にとって最も怖ろしい知らせであった。
使者の口上が内侍を通して伝えられる間、帝は息を呑み、脇息を握りしめて自分を支えた。そば近く控える蔵人頭・藤原成行は、御簾に透ける帝のほの暗い姿を凝視している。
―お倒れにならないか…
だが使者が下がると帝は気丈に、
「弁よ」
藤原成行を呼んだ。
「あちらは、なすすべもなかろう。どんなに悲嘆に暮れておられよう。すぐ諸事万端、手を尽くしておくれ」
「御心のままに」
蔵人頭であり弁官も兼任する藤原成行は、今上の帝・八条天皇だけでなく、藤原長道からも厚い信任を受けていた。二十九歳のこの殿上人は、沈着冷静な切れ者として、また名筆家としても朝廷に大いに称えられているが、女房たちからはまるで人気がない。風流に欠ける冷淡な男と見られている。存外、女房の批評のほうが当たっている場合が多い。
帝の命を受けて成行は急ぎ退出するのだが、その後ろ姿を追って右近内侍から帝のお言葉が伝えられた、
「この日に生まれた皇女が憐れである。どうかよしなに計らってさしあげよ」
あとは嗚咽の中で…、とのことである。
御前を退出した成行は殿上の間に下がったが、宿直をしている者は誰もいない。殿上童が二人、退屈そうに控えているきりだった。
「ご用ですか?」
うれしそうに顔を向ける。彼らは身分高い貴族の子弟であり、行儀見習いとして殿上の間に出仕している。
成行は努めて優しい声で、
「いいえ、構わないから遊んでいらっしゃい」
そう言うと、背を向けて階段に腰を下ろして沓を履く。
昨日の西二条院の火事騒ぎにたたき起こされてから、成行は自宅に戻る暇もない。いかに二十九才とはいえ、くたびれた。誰かと相談しようにも、殿上の間には子供しかいない。
―后がご出産であるというのに、殿上人が誰も出仕していないとは―
左大臣の悪意を感じる。昨年、左大臣藤原長道の長女・顕子が入内してから、貴族たちはますます長道の機嫌をうかがい、長道の意を慮っている。おかげで成行の仕事の煩雑さは増大の一途である。
―つつがなく事が運べばよいのだが―
ふと犀少納言の顔が浮かぶ。
―取り乱しているだろう。自分も死ぬと言っているのではあるまいか。見舞ってあげたいが、そうもいくまい―
なかなか腰が上がらない成行だった。
そうしているところに、殿上童のひとりが「内侍さまの伝言です」と寄って来た。
「帝から、左大臣に出仕をとの仰せでございます」
右近内侍は宮中の上級女房である。中宮禎子のもとにも親しく出入りしていたので、その心のうちはわかる。だが彼女は取り乱さぬよう慎んでいる。
「あちらの皆さまのお嘆きを思うと、すぐにでもお見舞いにと思いだけは走るのですが、なにとぞよろしく、とのお言伝てです」
「承知しました。あとは私におまかせくださって、帝のことをどうかくれぐれも」
成行は立ち上がった。
まず左大臣邸に行かねばなるまい。そこでどんなことが繰り広げられるのか。けっして快いものでないことはわかっている。
重く寒々しい空気を押しやって、十二月二十九日の東の空がようやく白みはじめてた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます