光
大天使のもとを飛び立った貴方とビーチェは、どこまでも高く昇っていった。
やがてあたりから雲がなくなり、ほの暗い蒼天が続くようになると、貴方たちと同じように上へと飛ぶものたちが目についた。
「みな、神様の
ゴスロリ少女がそう言って指さすのは、光の玉へと姿を変えた無数の死者たちだった。逆さまに落ちる流星群のごとく、光の長い尾を引いて上へ上へと飛ぶゆく彼らの中に、あのアニメ絵が描かれたバスが何台も混じっていた。
「これに乗って、少し休みましょう」
ビーチェは日傘を畳むと、ちょうど目の前を飛ぶバスの屋根に、ちょこんと腰かけた。彼女の手招きにしたがって、貴方もその隣に座った。こうして落ち着いて周囲を見わたすと、まるで星空の中を無限に上昇するエレベーターに乗っているような感覚を覚えるのだった。
下を見れば、貴方たちが旅立った世界は蒼き暗闇の中に消え、見つけることはできなかった。
ロマンティックと言えなくもない雰囲気に流されたのか、ゴスロリ少女は、ぽつりぽつりと自分のことを話し始めた。
自分の本当の名前、不思議な生い立ち、「父親」を探していること。
貴方はそれを、ただ黙って聞いていた。
数日か、あるいは数年か、長い時間が過ぎ、旅の終わりが近づいた。
いまや貴方たちをとりまくのは、星ひとつなき虚無だった。その暗闇の中を無数の小さな光たちが集まって、幾筋もの河のようにうねりながら、虚空の先へ先へと流れていく。貴方たちが相乗りしたバスも、いつのまにか紅茶に溶ける角砂糖のように崩れ、そこから飛び出した光の粒たちが、河の流れへと合流する。
貴方はビーチェと手をつなぎながら、暗黒に流れる光の河に混じって飛んで行った。
そしてついに、「目的地」が見えた。
無数の光の河は、あらゆる方向から(それはひょっとしたら貴方の知る世界とは別の所から来たものかも知れない)、ゆっくりと大きく渦を巻きながらそこへと流れこんでいた。
「それ」は、巨大だった。いままで貴方が見た何よりも大きく、いままで貴方が想像した何よりも大きかった。それほど大きいのなら、たどりつくずっと以前に見えてもよさそうなものだったが、まるで映画のシーンが切り替わったかのように、気付いたらあったように思えたのだった。
「それ」は闇にそびえる光の城壁だった。光の大地であり、光の天空だった。
形だけで例えるなら、それは太陽のように輝く球体であったが、太陽よりも何倍も大きく、その光は太陽よりも何倍も強く輝いていた。
だというのに、何とも不思議なことに貴方は少しも
それが、「神」だった。
ゴスロリ少女が、ぽん、と音を立てて日傘を開くと、貴方たちは光の壁の目前で、ぴたりと停止した。
彼女は貴方を見つめて、小首をかしげて小さな口を開いた……
ふいに、ビーチェはその大きな目を
ビーチェの身体だったパーツは、首だけを残してみるみる光の粒へと変わっていき、目の前の光の壁へとこぼれ落ちるように流れていった。
ビーチェの頭が貴方を向いて、回転を止めた。
そしてその目が、ゆっくりと開かれた。
その瞳の輝きは、かつて美しいけれどもガラスのように無機質な光を放っていた、貴方が覚えていた少女のものではなかった。そこにあったのは、貴方の持つ心を、身体を、過去さえも射抜く、とてつもない力を秘めた視線だった。
その背後で、日傘が
ビーチェが、いや、ビーチェだったものが、口を開いた。
「私です」
その声もまた、あどけない少女の、細く甘い声であったが、それに込められた力が、貴方の身体を楽器のように震わせた。
それは神の声だった。
かつて人と交わした契約をくぐり抜けるために、人に創られた少女の唇を借りて、神はいま貴方に語りかけているのだった。
神は様々な化身をとる、と神話にある。貴方が見た神は、太陽という現実の天体ですらその化身にすることができるほどの大きな存在だった。
細菌が言う冗談に笑える人間がいるだろうか。
月と議論できる人間がいるだろうか。
貴方と神の差はそれよりもずっと大きかったが、それでも神の声は、正しく貴方の耳に届いたのだった。
「選びなさい」
貴方は震える声で、絞り出すように、何を選ぶのか、と神に尋ねた。
「信じること」
貴方は大天使の言葉を思い出した。
あのとき明かされなかった、神が背負うというみっつの仕事のうちの、ふたつめの仕事のことを。
その仕事を見定めることが、自分に託された使命であることを。
それを正しいものであると信じるのか、それとも否定するのか、それが貴方のするべき選択なのだった。
神の仕事とは何だ、と貴方は叫ぶように問いかけた。
神は答えた。
「信じること」
そして神は語った。
その言葉は、貴方だけではなく、人間すべてに語りかけるものだった。
私はあなたを信じています。
あなたが愛を得ることを。
あなたよりも不運で、
あなたよりも臆病で、
その心と体が、
あなたよりもずっとずっと醜い人が、
自分のちからで愛を得るその姿を、
私は何度も見てきました。
私はあなたを信じています。
あなたが愛を得ることを。
私はあなたを信じています。
あなたが救いを得ることを。
あなたよりも愚かで、
あなたよりも貧しく、
その心と体が、
あなたよりもずっとずっと弱い人が、
自分のちからで救いを得るその姿を、
私は何度も見てきました。
私はあなたを信じています。
あなたが救いを得ることを。
私はあなたを信じています。
あなたが愛と救いを与えることを。
あなたよりも不運で、臆病で、
あなたよりも愚かで、貧しくて
その心と体が、
あなたよりもずっとずっと醜く弱い人が、
自分のちからで愛と救いを与えるその姿を、
私は何度も何度も見てきました。
私はあなたを信じています。
あなたが愛と救いを与えることを。
何もかも、その生きる意味さえも、
自分のちからで得ることの喜びを、
あなたから奪うつもりはありません。
何もかも、すべて無くしたとしても、
自分のちからで与えることの輝きを、
あなたから奪うつもりはありません。
私はあなたを、
あなたたちを信じています。
自分たちだけのちからで、
この限られた世界が、
愛と救いに満ちることを。
(尻鳥雅晶「神さまは何もしない」より全文引用)
貴方は気付いた。
神の言葉が終わる前に、貴方の指先が崩れ、光の粒に変わり始めていることを。
すぐに貴方の身体は、光となって神の
貴方に残された時間は、もうほとんどない。
貴方は選ばなければならない。
しかし、実際に選ぶのはこの小説の中の貴方ではない。
いま、この文章を読んでいる、そう、「貴方」だ。
尻鳥雅晶というありふれた人間が書いた、「あの世って何なのよ」という冗談めいた題名を持つテキストの、「目次のページ」を開かなければならない。
そして、貴方はこの小説の結末を選ばなければならない。
作者であるこの私も含めて、誰もが死から逃れられないように。
貴方に用意された選択肢はふたつ。
「ベアトリーチェ」という題名の話を選ぶのか。
「メフィストフェレス」という題名の話を選ぶのか。
何かを選んだことが確かであれば、どちらを読むかということはさほど問題ではない。どちらも読むこともどちらも読まないことも貴方の自由だ。また、用意された選択肢以外に、「選ばない」等の別の選択肢を付け足すことも貴方の自由だ。
用意された選択肢のどちらかを選べば、この小説の中の「貴方」は、その題名に記された名前を叫ぶだろう。さらに、二人称の「貴方」であることを止め、一人称の「私」として物語を語るだろう。
そして、ふさわしい結末を迎えるのだ。
さあ、選択のときは来た。
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