神様創造のすゝめ

   私は無神論者ではない。

   宗教団体否定論者だ。


  (尻鳥雅晶「日めくり尻鳥」「平成29年8月21日(月)」より引用)



 私たち夫婦は、その年の干支にちなんだ「オリジナルおせち」を毎年作っています。


 へび年は蛇腹キュウリの酢の物、たつ年は竜眼デザート、さる年ならサルティンボッカ、いぬ年はワンタン。

 令和2年のねずみ年はチュウトロの刺身です。

 その年を「食ってやる」という意気込みなんですね!

 普通の市販おせちも食べますが、色々と工夫することも楽しいのです。


 ただのだって?


「本物のおせち」だって、ただのじゃないですか。

 よろコンブとか、マメマメしいとか……


 おせち(という食品アソート)は、もともとデパートの企画モノだった(要検索ググ)そうです。「土用の鰻(要ググ)」のように、商売人が創ったシロモノなんですね。

 それを馬鹿にして食べないことは簡単ですが、新年を寿ことほぐ気持ちは大切にしたいと思っています。

 だからこそ、せめて自分なりオリジナルをしたいのです。


 躍らされる馬鹿より、みずから踊る馬鹿になりたいのですよ!


 さて。


 このエッセイの冒頭でも触れたように、私は「神」を信じているけれども、その信じ方についてはこう書きました。


 >その信じ方は、前述の私の「あの世」の信じ方と同様に、一般的な宗教観やスピリチュアルな感性とは、非常にかけ離れたものであることを、ここにお断りいたします。


 確かにそれはそうなんですけど、だからといって、私は「一般的な宗教観やスピリチュアルな感性」が思い描く「神様像」もまた、アリだと思っているんですよね。

 それどころか、私も含めたそれらすべての人の思い描く「神様像」が、「すべて同時に」のではないか、と思っています。


「群盲、象を評す(撫でる)」(要検索ググ)というインド源流の言葉があります。

 ご存知かも知れませんが、この言葉は、目が不自由な人たちが集まって、動物の象を触りまくり、これは〇〇である、と評してしまうという寓話のことです。


 耳を触って「これは毛布である」、

 尻尾を触って「これはロープである」、

 足を触って「これは丸太である」、

 腹を触って「これは壁である」、等々。


 ※ご注意 これが差別的表現ではないと判る読解力を貴方に期待しています。しかし、もし万一不快に感じられましたら謝罪します。ごめんなさい。


 まあ、現実問題として「動物の象」程度の規模ならば、時間をかけてペタペタ触りまくれば、目が不自由な人でも外見ぐらいは正しく判ると思います。

 怒った象に踏み潰されなければね! 逃げて~!


 しかし、その評しようとする対象が「神」であったとしたら?


 一般的な宗教観やスピリチュアルな感性では、神は少なくとも超越的存在とされています。そんな存在を前にしたら、健常な人間であっても、いや、どれだけ優れた知覚力、霊関係能力、超能力、科学力、人格力(笑)等があったとしても、たかが人間やその組織程度の能力では、正しく判るはずがないのでは、と思います。


 むしろ、神とはこういった存在である、と、物語フィクションではなく真実ノンフィクションとして断言してしまうこと自体が、恐るべき傲慢かつ不信心のあかしではないか、とも思うのです。


 俺は神より偉いって思っちゃった人はともかくとして!


 したがって、ありとあらゆる宗教観やスピリチュアル観による様々な神様像、そのすべてが、目が不自由な人たちが象を評するがごとく、人間の言う表現としてどれも正しい、ということが成り立つと思うのです。

 少なくとも私には、マジで「俺の神様は正しくて、お前の神様は間違っている」などというお馬鹿な発言はできません。


「フィクションの設定」としての突っ込みはするけどね!


 ※ご注意 これが特定の宗教を揶揄する表現ではないと判る読解力を貴方に期待しています。しかし、もし万一不快に感じられましたら、この傲慢な不信心者め!


 しかし。

 貴方はこう思うかも知れません。


 象を触っているつもりで、隣の象の像(笑)を触っていて、生きている象なんか最初から存在していない場合だってあるのでは?

 どれも正しい、ということは、どれも間違っている、ということでもあるのでは?


 その通りです。


 私自身は、「様々な神様像」が存在していること自体が、神が実在していることの証拠である、と信じています。

 しかし、そのロジックは同時に、「様々な神様像」が存在していること自体が、神が実在していないことの証拠である、と言うことができるのです。


 ※ご注意 この考え方は、このテキストの最初のほうで挙げた、「シリトリの宝クジ」を買うと「あの世証拠エビデンス」があると思ってしまう、という現象の発展系と言えるでしょう。つまり私は、神の実在性の件においては、シリトリの宝クジを買ってしまっているのです。


 さて、昔の人は言いました。

「理屈と膏薬はどこへでもつく(要ググ)」、と。


「神の実在性に関する議論」は、ひとつの学問として成り立つほど歴史的な積み重ねがあり、沢山の人々が議論を重ねてきました。その中には当然、私や貴方よりもはるかに頭のいい人も沢山いるはずです。


 頭のいい人たちが具体的にどんなふうに議論を重ねてきたのか、想像してみますと……



 本日はわたくし尻鳥が解説と実況をさせていただきます!

 今回のルールは、神は無限の能力を持つ善性の存在であり、世界の創造と管理を行っているという一般論です!


「世界が精緻なものであるのは神が創った証拠! 自然を見よ! イカの目を見よ!」

 いきなり宗教関係者の古典的攻撃!

 最初から決めにきたか~!

「不幸や飢えや貧困や戦争も神が創ったのか! 悪魔もか! ボノボやカッコウの習性もか!」

 無神論者の古典的反撃!

 そして流れるように博物ネタで、お花畑な宗教観の弱点を攻める~!

「それは不信心者がいるせいだ! 神を信じる者は科学者も含めて大勢いる!」

「神を信じない科学者だって大勢いるだろ!」

 コミカルな返し、そして互いに空振り~!

 バランスを崩した宗教関係者に、無神論者が突っ込む!

「神はおのれの創った岩を持ち上げられるかあ!」

 やはり古典ワザに自分のコーナーまで吹っ飛ぶ宗教関係者~!

 これは単純なだけに効きますよ! かつては『人の論理は神にはあてはまらない』とか言って場外乱闘を狙う以外の返ししかなかったワザですからね!

 おや、セコンドのノーベル賞受賞者の科学者が何か囁いてます!

 ドクターですらない自称科学者みたいにトンデモ言うのか~!

「最新の宇宙物理学では人間の論理そのものを問いかける成果がある!」

 返された~! 無神論者は血まみれ!

 論理という重要なワザのほとんどを封じられてしまいました!

 大ピンチーっ! これでは負けはしなくても勝てない~!

 それとも分析哲学で勝ったような雰囲気を出すのか~!

 場内手拍子! さあ語りえぬものを語れーっ!

「か、神がいるなら、なぜ弱者の願いを無視するのか!」

 おおっと、お花畑じみたのこの反撃は弱い~!

 二階から目線の台詞が来るぞーっ!

「それは強くなれとの神の試練である! お前の神様はサンタクロースかあ!」

 自爆気味の大ワザまで叩き込むぅ!

 良い子の皆さん、神様はともかくサンタクロースは本当にいますからね!

「宗教なんか(ピー)のくせに! だいたい歴史(ピー)性犯罪(ピー)分裂(ピー)破門(ピー)(ピー)(ピー)」

 ああーっ、思わず規制を入れる凶器攻撃!

 反則スレスレですが『神の善性を問う』という意味ではルール内!

「地獄に堕ちるぞ! バーカバーカバーカ!」

「バーカバーカバーカ!」

 子どものケンカか~!! カンカンカンカン!



 いや、絶対こうじゃないと思う(笑)


 えー、頭のいい人たちのあいだでも完全な結論が出ていないことは、世界の現状からして明らかです。その理由について私は、前記の象の話のように、ある主張を支える論理りくつが、同時に反証しうる論理りくつとなりうる、からだと思っています。


 また、「神は無限の能力を持つ善性の存在であり、世界の創造と管理を行っている」という一般論においては、その条件そのものが矛盾を含んでいる「ように見える」、ということもあるでしょう。


 したがって、神が実在「するか・しないか」という議論においては、自分自身が「信じているか・いないか」という観点に帰納せざるを得ない、という、きわめてな結論しかないのではないか、と私は考えています。


 簡単に言うと、信じたいから信じるし、信じたくないから信じない、ってことですね!


 宗教関係者においては、その善性以外にも職業上の倫理や利益確保のために、神が実在するという確信もしくは立場をとるでしょう。

 確かな論理りくつ尊ぶ人は、神が実在しないという確信もしくは立場をとるでしょう。

 信仰を持つ、もしくは逆に信仰を持たないことを、知性や自立や成功のあかしととらえて、内心と関係ない主張をする人もいるでしょう。

 人生の不条理に苦しむ人は、神の実在を信じないでしょう。また、逆に信じることにすがらざるを得ない場合も多いでしょう。

 そして、上記の彼らに反発する者は、逆の確信または立場をとるでしょう。


 それなら、どうして尻鳥は神を信じているの?


 もし貴方がそう尋ねたとしたら、私はみっつの答えを言います。

 もちろん、「信じたいから信じる」のですが、自分を自分で分析してみると、ある程度の答えがあるのです。



 ひとつめ。


 神の実在の問題ってのはとりあえずおいといて、神様を信じないより信じるほうが私の人生お得じゃね?

 という考えがあるからです。

 いわゆる「パスカルの賭け(要ググ)」というヤツですね。

 もちろんこれは私の個人的考えに過ぎず、貴方にとってはとうてい成り立たないロジックかも知れません。



 ふたつめ。


 神の実在を否定する人が最も主張する理由は、「神は無限の能力を持つ善性の存在であり、世界の創造と管理を行っている」のなら、「なぜ神は人間を助けないのか」ということだ、と私は思っています。


 その主張に対する自分なりの答えアンチテーゼを持っているからこそ、私は神を信じている(あるいは信じないとは言えない)と言えるのです。


 私は、神と人間のあいだに「価値観と常識の行き違い」がある、と思っています。

 特に「善性」という面において。


 ※ご注意 もちろん常識コモンセンス価値観バリューは別の概念です。聖書を実際の法律書にしないのは「常識」、それを善いものだと思うのは「価値観」です。


「価値観と常識」について、もう少し前置きします。


 価値観と言えば、古典的宗教観においては、「神のなさる意図は人には判らない」という考えがあります。つまり、善性という「価値観」はあっても、人の「常識」を持っていない、ということですね。しかし、これは危険な「設定」だと私は思います。


 なぜなら、たとえば「慈愛」のように文句なく善のガイネンであっても、その捉え方や表し方が違っていたら、まるで逆の結果になることがあるからです。


 問題はその「善いとされる方向性を決めるガイドライン」が、、「誰かが常識と思ってるやりかた」で、「善くしてやってる」んだから文句ないだろう、という考えをということなのです。


 したがって、「神のがわに立つ人」が「善」と呼ぼうが「愛」と呼ぼうが、当の人間たちにとって極めて不利益な「設定」ならば、それを成す神の動機が判らないなら、とりあえずその人の言葉を疑うべきだ、と思うのです。

 象を触って「〇〇だと思う」というなら信じられるけれど、「〇〇だ」というは疑う必要があるのです。


 ※ご注意 私は「神の言葉を疑え」なんて言ってないですよ。「神のなさる意図は人には判らない、と言う人の言葉を疑え」と言ってるんですよ。でも、もしそれを言った人が、「私の言葉は神の言葉と同じである」と言うのなら、この傲慢な不信心者め!


 抽象的すぎてよく判らないって?

 たとえば、神託を受けたと思った人が、こう言ったとしましょう。


「神は言った。地球は善の思いによって成り立つ『ドリームボックス』である、と」


 これだけ聞くと、すごいグッドなことを言ってるでしょう?


 さて、この国には、「ドリームボックス」と名付けられた施設が実際にあります。もう名前が変わっているかも知れませんが(要ググ)。


 それは……引き取り手のいない犬猫を殺処分する施設です。


 かわいそうだけど自分が引き取るのは無理だし、これが結局犬猫たちにとって最「善」なのだ、という私や、私のような人の「思い」によって、この施設は「成り立って」います。つまり、痛いことや死ぬのは嫌だ、とか、優しくされると嬉しい、とか、価値感が同じなのに常識が違うせいで、弱いほうが大きな被害を被っているのです。


 ※ご注意 この名前にはセンスがない、と私は思いますが、じゃあ名前替えろ、すぐに稼動を止めろ、とは言いません。せめて名前だけでも美しいものを、という気持ちも判るし、私自身は「救うための行動」をしていないからです。自分は引き取らないくせに文句だけ言う人はどうでもいいけれど、妻の友人のように実際に引き取る人たちには感謝を。


 もし、犬猫たちに人間への尽きぬ敬意があったら、「人のなさる意図は犬猫には判らない」と思いながら死ぬのでしょうか?

 いや、もし彼らが人の意図を完全に悟り、人の言葉で同意を拒否したなら、私たちはきっと別の行為をしたでしょう。たぶん。


 傲慢ではありますが、私たちは幸いにして犬猫ではありません。


 神の「設定」として「神のなさる意図は人には判らない」という考えは、拒否するべきなのではないでしょうか?

 できるだけ「神の意図(という設定)」を推察するべきなのではないでしょうか?

 そのリスクを承知の上で、象に触り続ける必要があるのではないでしょうか?


 もしかしたらホントに、地球はヤバい意味での「ドリームボックス」かも知れないけどね!


 さて話を戻して、私は、人間と神様では同じ常識を持っている、とするべきだとしても、その尺度スケールは違いすぎる、と考えています。

 それが「価値観と常識の行き違い」と言うことです。


 神様というキャラの視点に立って、色々と考えてみる必要があるでしょう。


 ありがちな発想ではありますが、神がこの世界を創ったのなら、数十億年のスパンがあるので、ひとりの人間の一生などほんの一瞬に過ぎないでしょう。また、数十億の人間を同時に見守ることは、できたとしてもヌケがあるでしょう。


 数分で状態の変わるシャーレの中の数万のバクテリアたちを見守る科学者のように、愛をこめて彼らの発展を願っていたとしても、個々のバクテリアに対する対処はできないでしょう。「やろうと思ってもできない」し、できたとしてもシャーレごとになるでしょう。

 愛による廃棄ドリームボックスも含めて。


 いや、やろうと思えばできるのが、無限の能力なんじゃないの、と貴方はご指摘されるかも知れません。

 それでは、心情的な観点ではどうでしょう?

 つまり「やろうと思ってもできない」のではなくて、「できるけど、やろうと思わない」のだとしたら?


 もし、貴方が神と同じ立場だったらどうします?

 ある人間の願いをかなえて、宝くじの一等を連続で当ててやったとして、ついでにパンを買ってきて、とか頼まれたら?

 それぐらい自分でやれ、と思いませんか?


 このテキストの21話め、「太った豚の弁明-貴方が貴方である確率」の回において、私は「貴方が貴方である確率」は、生物的な面だけから見たとしても、宝くじの一等が連続で当たるよりも、きわめて稀であることを明らかにしました。


 神様というキャラから見れば、貴方はただ生まれてきただけで「エコひいき」されているのです。

 その点においては、人間なら誰もが同じなのです。


 ※ご注意 「だから感謝しろ」なんて言ってないですよ。何度も言ってるとおり、これはフィクションの話なんですから。


 矮小なる我々には納得しがたいことですが、確かに誕生という幸運と比べれば、その後の苦難がどれほど大きくても、神から見れば大したことのない「ように見える」でしょう。誕生後の個々の人間を個別に助けたいと思わなかったとしても、キャラ的に矛盾はありません。


 ※ご注意 もちろん、私がそれなりに恵まれた人生でなかったとしたら、違った考えに至ったことでしょう!


 また、別の視点も考えられます。


 神様というキャラから見れば、苦難に潰される人を沢山見てるわけですが、同時に、人の力だけで何とかできた人も沢山見ているわけです。また、悲惨な境遇にあった人がいたとしても、それよりもっともっと悲惨な境遇から這い上がった人も見ているわけです。


 当然、神様が「あーこりゃダメだ、前代未聞の不幸だ」「ように見える」人がいたとしても、「いままでそうだったようにそう予想したけど、いままでそうだったように今回もまたそれを覆すかも知れないから、しばらく様子を見よう」と思っても不思議はありません。

 なんといっても、物事は自分たちだけで何とかできたほうが、ただほどこしを受けるよりも喜びが大きい「ように見える」のは確かなのですから、善性というキャラ的にはありえる行動です。


 もちろん、実際には潰される人のほうがずっと多いのですが、「統計的事実よりも人間への信頼と自分の期待感を優先する」ということは、善性というキャラ的に矛盾はありません。


 たいていの聖職者だって、神様のキャラに自分のそれを当てはめてないだけで、「統計的事実よりも人間への信頼と自分の期待感を優先する」キャラじゃないですか!


 ※ご注意 もちろん聖職者は無限の能力などもっていませんが、かといってその能力のすべてを私財や命をすり潰してまで発揮したりはしません。また私も、そうすべきなどとは思っていません。しかし、「できるけど、やろうと思わない」ことには替わりありません。それは仕方のないことです。



 みっつめ。


 これもまた「価値観と常識の行き違い」に関することであり、「なぜ神は人間を助けないのか」という主張に対するアンチテーゼのひとつですね。


 私は、神様にも事情があるんじゃないかなぁ、思っています。


 つまり、「できるけど、やろうと思わない」ことに加えて、「やってはいけないと思う」という設定が妥当だと思うのです。


 こういう考え方アプローチだと、まず最初に思いつくのは、特定の宗教観にある「神との契約」ってヤツですね。

 神は善性の存在に間違いはないけれど、人間との契約やくそくによって無制限に手を差し伸べることはしない、という考え方です。


 しかし、私はこの設定には納得できません。私自身が「同意する」にタップした覚えがないからです。事情があるとすれば、それは神様側だけになくてはなりません。

 そういった諸々の要素を考える(その過程は省略)と、私は以下の設定を採用するに至りました。



 神とは、究極の親である。



 親は子どもの幸せと、自立を願うものです。幸せと自立では、自立の方が重要です。自分で得た幸せの方が与えられた幸せよりも大きいからです。

 また、人間の親は、崇高なものを持っていたとしても、子に対する甘え、弱さ、打算から、その自立を阻むことがあります。

 しかし、究極の親ならそんなことはないでしょう。


 もちろん人間の親は、本来、自分たちがいなくなる場合に備えて子の自立を願います。それは動物と同じ願いといえます。究極の親はいなくなることはありませんが、子どももまたいつか親になることを考えると、その責任の誇りを持ってほしいと思うために、やはり自立を願うでしょう。

 自分の愛情を満たすよりも、子どもが自分に対する愛情を満たすよりも、子どももまたいつか誇りある親として自立することを優先させるでしょう。

 何の見返りがなくても、ただ親であるという幸福を知ってほしいために。


 ※ご注意 人間の「子ども」とは、人間とは限りません。それは単にささやかな幸せかも知れないし、何かの作品かも知れないし、文明や文化かも知れないし、AIかも知れません。


 そして本当の自立とは、失敗という転倒と、みずからの力による再起によってしか掴むことはできません。

 したがって、究極の親は、その子どもを無限に助ける力を持ちながらも、子どもが暮らす世界を用意した後は、決して助けることはないでしょう。そして子どもの死ですら、究極の親にとっては、自立に至る転倒と再起の終わりではないでしょう。なぜなら、人間の子どもが人間とは限らないように、子どもの子どもや子どもが成したものも、子どもと見なすことができるからです。


 そして究極の親は、決して何もしないまま、子どもの苦しみをただただ見守り続けるでしょう。

 わずかな喜びと、深い悲しみを抱え、ただ親であるという幸福を噛み締めながら。


 そう、神が何もしないことは、私にとって神様がまぎれもなく実在する証拠(という設定)に他ならないのです。


 他の人にとっては、そうでなかったとしても。


 そして、私のその視点は、さらにもうひとつの推察を生み出します。実は、このテキストにおいて、とある疑問の答え(らしきもの)だけが見つかっていませんでした。その疑問とは、「不滅のゴーストがどこから来るのか」というものです。

 それは神から生まれる、と私は「設定」しています。究極の親は、すべてのものの親だからです。



 貴方は、私の妻と同じく無神論者かも知れませんが、できれば自分なりオリジナルの神様を「設定」することをお勧めします。

 貴方を無限に愛し、そして何ひとつ貴方に干渉することがない神様を。

 だってそのほうが、人生お得じゃね?




 さて、次回(次々回)のエッセイは。


 そもそも「あの世」は必要なのか、と貴方に問いかけたいと思います。

 ちゃぶ台、また引っくり返しますよ~



 それではまた、お会いしましょう。

 会うべき時、会うべき場所で。


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