あの世って不要なのよ

 たとえ見えない時があっても、

 月がなくなった訳ではないように、

 あなたを見つめるまなざしが、

 空のどこかにあることを、

 忘れないで。


 (尻鳥雅晶「日めくり尻鳥」「平成29年8月2日(水)」より引用)



 死を考えることは、生を考えることでもあります。


 私の父は、まだ生きているうちに自分のお墓を作りました。

 その墓石には「きずな」の文字が刻まれました。

 父が墓を建てた動機には、ひょっとしたら、私がこのテキストを書いた理由に通じるものがあったかも知れません。

 行き先が決まっていれば、人は安心するものですから。


 父は無事(と言っていいのやら悪いのやら)自分が用意したお墓に入ることができましたが、現在、そのお墓はありません。

「墓じまい(要ググ)」、すなわち撤去されたのです。


 父のお骨は、私たち家族の手によって、父が作ったお墓(A)から、別のお墓(B)に、移設されました。

 別のお墓(B)は、母方の係累で使用していた古いお墓です。そこを改装し、名義を私たちの「家」に統合した「お墓(C)」としました。もともとお墓(B)にいた、母の母(私の祖母)や母の兄(私の叔父)といったかたがたは、私の父と一緒に、「お墓(C)」に納められました。


 移設には、色々な理由がありました。私も含めて誰もが納得せざるを得ない実務的、心情的な(お父さんのを思ってやった)理由がありました。


 しかし、この案件を主導した、私の母と妹の真の動機は、とある親戚との軋轢だったように私には思えるのです。

 お墓(B)の「祭祀主宰者(要ググ)」を希望していたその親戚のことを、母と妹のふたりは、いつも陰口を叩いていましたから。


 まあ、その程度、どこの「家」にでもあることです。

 いつだって法事とは、生きている人たちのためにすることなのです。


 だからもちろん、このことは私の邪推に過ぎません。

 そもそも私の愛する人たちが、そんなことするわけないでしょう?


 きずな(笑)。



 さて。


 このテキストも大詰めとなりました。

 今回は、小説編と同じく「まとめ」に入らせていただきたいと思います。


 私は、既存のメジャーな「あの世観」を問題視しています。

 もちろん、それには理由があります。

 現代的価値観に照らすとフィクションとして欠陥が多いことや、その現代的価値観の死後保証がないこともその一因ではありますが、最も問題視している理由は。


「あの世」を「暴力装置」として悪用する人たちが実在していることです。


 彼らのことを、「あの世を暴力装置として悪用するアビューズ人たち」では長すぎるので、「あの世アビューズ」と呼称します。


「地獄に堕ちたくなければカネを出せ」という「あの世アビューズ」は実在します。

「天国に行きたければカネを出せ」という「あの世アビューズ」は実在します。

「同性愛者は地獄に堕ちる」とか、「信仰しないと障害者が生まれる」とかいう「あの世アビューズ」も実在します。


「悪用する人たちは、ごく一部だ」ですって?

 もちろん、そうですとも! HAHAHAHAッ!

 皆さんそうおっしゃいます!


 そう。


「あの世」の真実ノンフィクションを「」にして、犠牲者を搾取し、支配し、差別する欲求を満たそうとする「あの世アビューズ」が、昔も、今も、実在するのです。


 まあ、上記のように判りやすい例が実在することについては、よっぽどのアレなかたがた以外、異論はないかと思います。

 しかし私は、とあるタイプの「あの世サポーターズ」について、ひょっとしたら彼らは「あの世アビューズ」ではないかと疑っています。


 その、とあるタイプの「あの世サポーターズ」とは、スピリチュアル系のの人たち(複数)です。テレビやら本やらネットやらで露出の多い人たちなので、貴方も目にしたことがあるかも知れません。


 スピリチュアル系の「あの世サポーターズ」は、たいてい自由と博愛の空気イメージに満ちた「あの世観」をアピールします。彼らには、「あの世」の管理者(死後の魂を評価・選別する絶対者的存在)を明言せず、あたかもそれが「システム」や「決まりごと」であるかのように語る、という特徴があります。


 管理されてたら、博愛でも自由でもありませんからね!


 私がなぜ彼らの一部を疑っているのかというと、それは彼らがときどき、ビックリするような言葉を漏らしてしまうからです。

「成仏人がいる」とか「生まれ変わる人と、そうではない人がいる」など、気になっちゃう言葉を。


 もし、彼らの語る「あの世」が本当に(管理を必要としないほど)自由と博愛に満ちていたなら、そして彼らに差別意識がひとかけらもなかったら、「成仏しない人がいる」「生まれ変わる人がいる」といったポリコレな表現になるでしょう。


 でも、まあ、ただの言いまがい程度のこと、誰にでもあることです。

 いつだって人の言葉は、完全なものではないのですから。


 だからもちろん、このことは私の邪推に過ぎません。

 そもそも、こんなにも博愛と自由を語る人たちが、「あの世アビューズ」のわけがないでしょう?


 語るに堕ちる(笑)。


 それでは、私たち、「あの世アビューズ」ではない「あの世サポーターズ」は、私たち自身が犠牲者にならないために、何ができるでしょうか?

 その悪意を滅するやいばを、いかに持つべきなのでしょうか?


 そのために、私は。


 とある「提案」と、

 とある「物理的な事実」と、

 とある「人権的な事実」と、

 とある「問いかけ」と、

 とある「宣言」を、


 したいと思うのです。



【提案 】


 人はフィクションを、それがフィクションであると知っていてもなお、それを人生のりどころとすることができます。

 小説や歌が「自分を救ってくれた」と語る人は大勢います。


 また、既存の「あの世観」をフィクションだと明言することから、さらに一歩進んで、自分なりのオリジナルな「あの世観」を創ってもいいと思います。また実際に、「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」(要ググ)など、世界中の少なくない人々がそれを実践しています。

 そして私もまた、このテキストの各編で、同じ意図を含めて書いております。


 フィクションのパワーはそれほど大きいのだから、私たち「あの世サポーターズ」は、すべての「あの世観」は、フィクションだと明言したっていいはずです。

 いや、犠牲者を無くすために、絶対にそうするべきだと、思います。


 そう、「自分さえ良ければ他はどうでもいい」と思っていないのなら。

 安全で使いやすい代替物が他にあるのなら、子どもたちの未来のためにも、そちらを選択するべきではないでしょうか?

 原子力発電だって、そうでしょう?


 ※ご注意 この「原子力発電」についての一文は、「あの世サポーターズ」の傾向を見透かした文章テクニック(笑)であり、私自身の原発についての意見をすべて表すものではありません。



【 物理的な指摘 】


「保存則」(要ググ)という事実ファクトがあります。


 貴方もご存知のとおり、「保存則」とはエネルギー保存の法則(不滅の法則)のように、中学校でもその一部を習う、物理学の基幹を成す法則です。

 実は、「保存則」がなぜ存在するのか、という点については、明確な答えはありません(要ググ)。しかし、「あの世」について議論する場合、「保存則」は「誰でもほぼ無限に再現できる実例」という超強力なアドバンテージを持っています。

「あの世アビューズ」の語る真実もどきオルタナティブ・ファクトのようなザコとは違うのだよw


 集積回路から人工衛星まで、私たちの暮らしを支えるすべての科学技術は、「保存則」無しに作ることはできません。物理的肉体を持つすべての生物もまた、「保存則」無しの活動はありえません。

「保存則」がなぜ存在するのかことができなくても、きわめて莫大な応用の実例が溢れているのです。


 真実の「あの世」の姿をことができると自称する「あの世アビューズ」の皆さんも、「保存則」の応用で作り出されたインフラが無ければその真実とやらを広めることもできないし、そもそも肉体を持つこともできません。


 実際の「保存則」には、角運動量や電荷など、学者や技術者以外にはあまり馴染みのない法則も含んでいます。また、厳密に言うと、物理学と数学における「普遍性」や「対象性」等の関わりも無視できない(要ググ)のですが、ここでは義務教育で習う「保存則」だけに絞って考えたいと思います。


 まず、「保存則」そのものを、簡単な言葉で表したいと思います。



 すべてのものは、見かけが変わることがあっても、決して無くならない。



 これが私が解釈する「保存則」の原則的な考え方であり、そう間違ってはいないと思います。ここまでざっくり説明している文章を他に見たことはありませんが。


 無神論者のかたがたが、「死んだら無になる」という主張をされることがありますが、それは義務教育のレベルで間違っています。人は死んでも無になることはないし、無にしようと思ってもできません。


 ※ご注意 最新の研究によると、ブラックホールの近辺では「保存則」が壊れる可能性があるそうです。でも、そのあたりに旅行に行く予定はないし、知りあいも住んでいないので、まあいいかな~


 人が死ぬと、その人を構成していた物質やエネルギーは、人間の観点において変化し、拡散し、やがて観測できなくなりますが、それは現在の人間の技術では観測できなくなるというだけで、消えてなくなったりはしません。

 当然、物質やエネルギーの変化によって形作られていた「情報」もまた、消えてなくなったりはしません。したがって、価値観を含むその人のすべての精神活動の情報もまた、消えることはありません。


 また混同しがちですが、印刷物や電子媒体に行われる「情報の上書きと消去」という概念はあくまで表面的な現象を指すものです。


 それは、物理どころか日常、いや、それ以下の事務レベルの範囲に限って、人の都合によって「そう見える」現象であり、その媒体と関わりあうすべての物質やエネルギーの変化として世界に記録された情報について、上書きや消去をするものではありません。


「保存則」においては、真の意味での「情報の上書きと消去」という現象はありえません。そして、ある情報を意図的に変えようとした、消そうとした、その行動による物質やエネルギーの変化もまた消えません。


 お墓を変えても、私の父はどこかに、いや、どこにでもいます。

「絆」? いや、その程度のこと、わざわざ言わなくても大丈夫なのです。


 そして、消えないということは「不滅」だということです。

「すべての精神活動」が不滅だとしたら、それは、「魂」の不滅である、と言い切ることができうると思います。


 私も、父も、母も、妹も、「兄」も、祖母も、妻も、貴方も、そしてすべての人の魂は、、永遠に不滅なのです。


 たとえ、神仏や「あの世システム」が、すべてフィクションだったとしても。


 したがって、「保存則」という事実そのものが、十分「あの世観」として成り立つ、と私は思っています。


 自分自身のことを罰せられるべき存在であると考える人は、その経験や思いが永遠に保存されることは地獄のような「永遠の懲罰」に感じられるでしょう。

 自分自身の人生が価値あるものだと考える人は、その経験や思いが永遠に保存されることは天国のような「永遠の安らぎ」に感じられるでしょう。

 私のように、天国と地獄の両方に同時に行くような気分になる人もいるでしょう。

 そして、この「あの世観」は、当然、自分から見た他人にも当てはまるのです。


 ※ご注意 この二律違反の許容性及び平等性においては、明らかに既存「あの世観」を凌駕りょうがするものです。


 もちろん、「あの世観」の要素である「死後の現在進行形の自意識」と「死後の復活」は、「保存則」の範囲には含まれません。


 しかし。


「死後の現在進行形の自意識」については、このテキストのエッセイ編ですでに指摘している通り、「そもそも矛盾した存在であり、存在したとしてもそれは自意識とは違う存在」だと断定できる合理的理由(消えたクオリアの謎)があります。


 そしてさらに、現実に生きている私たちにおいても、ノンレム睡眠(要ググ)や昏睡といった自意識の断絶があることから、「死後の現在進行形の自意識」が無くても「あの世観」として許容できうるのではないか、と私は思います。


 また、「死後の復活」については、無くならないものが復活する必要はありません。

 そして「死後の復活」を保証する「あの世観」は実在しますが、少なくともそれは、自分の「永遠の安らぎ」も、他人の「永遠の懲罰」もなく、また平等でもありません。「永遠」なきものを「あの世」と呼ぶのはあまりにも役不足です。


 以上のような事実から「保存則」は、いわば「ベーシック・インカム」のように万人に与えられた最低限の「あの世観」として成り立つと思います。少なくとも、「あの世アビューズ」の後が怖い闇金ヤミキンファンタジーを受け入れないで済む程度には。



【 人権的な指摘 】


 私たちは、「信仰の自由」を持っています。

 現代的価値観を尊重する私は、宗教やスピリチュアルへの信仰を否定するつもりはありません。

 信仰は人生のりどころです。

 私は信仰について、人間にとって、世界にとって、なくてはならないものだという認識があります。

 現に私自身が、神様の実在を信じています。


 ※ご注意 「信仰の自由」は、「信教の自由」の一部ですが、心の内面に注目するため、また、判りやすくするために、ここでは「信仰の自由」のみを語ります。


 ※ご注意 信仰のために盗んだり殺したりしてはいけないのが常識ですので、「信仰(信教)の自由」の人権としての「くらい」は、生存権や財産権の下位、つまり愚行権のひとつ上ぐらいと常識的には考えられます。「常識」という言葉を使う理由はお判りですよね?


「あの世アビューズ」を信じてしまう人たちには、それが結果的に彼ら自身を地獄に叩き込むシステムであっても、それを信仰する自由があります。

「信仰の自由」は、「あの世アビューズ」が大好きな言葉です。

 それは、おのれの行為を他人の干渉から守る便利な考えだからです。


 ひょっとしたら、いつか私自身も言われるかも知れません。

「信仰の自由に口を出すな! 尻鳥は地獄に堕として!」(笑)と。


 しかし。


「信仰の自由」がある、ということは、「信仰しない自由」もある、ということに他なりません。そうでなければ、信仰を持っている人が、持っていない人を差別しても良いことになってしまいます。


 実は、「あの世アビューズ」はホントにそういう差別をしてたりして……

 たとえば、「尻鳥って、かわいそうな人だなあ」とか呟いたりしてね!


 そして、「信仰しない自由」を含む「信仰の自由」には、当然の論理的帰結として、その中間の「信仰の自由」も存在します。

 でも、問題は、その中間の「信仰の自由」を知覚することは、人によっては難しいという点です。「あの世アビューズ」のかたがたにあっては特に。


 たとえば、同じ「虹」を見ても、その「色」の数は、人によって違います。

 これを「色覚多様性」(要ググ)と言います。男性よりも女性のほうが、より繊細な色の識別能力を持っている傾向があるそうです。また、先天的に「赤色」や「緑色」の区別がつきにくい「色覚多様性」もあります。日本人では男性の約5%、女性の0.2%がそれにあたるそうです。


 ※ご注意 貴方はまさか、生活に支障をきたす「色覚多様性」を持っている人を差別したりはしませんよね?


 したがって、「虹色」のすべての色が、自分が知覚できようができまいが、少しずつ違う「色の帯スペクトル」として見える人のことを、あるいは見えない人のことを、私たちは認めなければなりません。

 同様に、「信仰の自由」においても、その信仰の度合いスペクトルすべてにおいて「自由」を求める人のことを、私たちは認めなければなりません。

「LGBT」のシンボルカラーが「虹色」(要ググ)であるように。


 えっ、「事実」と「概念」をゴッチャにしてるって?

 私は「人権の概念」を判りやすく解説するために、「事実」を「たとえ話」として引用しているだけであります。


「信仰の度合いスペクトル」には、次のようなものがあります。


「おまじない感覚で軽~く信仰する自由」

「正式な教義にこだわらず、自分なりに解釈する自由」

「いままでしていた信仰をいつでも辞める自由」

「フタマタ(マタマタそれ以上)で信仰する自由」

「コネや異性との出会いを期待して信仰する自由」

「正直言って教祖様とか教義とか他の信者などクソだと思うけど世間体とか惰性で信仰するフリをする自由」


 これらの人権として認められた「信仰の自由」は、「あの世アビューズ」にとって明らかに都合の悪いタイプの「自由」なので、彼らに対抗しうる思想のひとつになると思います。


 なお、信仰スペクトル知覚能力の欠如は先天的な疾患ではありませんので、それをお持ちでないかたは、ぜひ頑張って獲得していただきたく思います。


 なお補足として、私は、「信仰の自由」を支える人権の考え方を一歩進めて、自由な「あの世」を持つ権利、すなわち「あの世権」を提唱したいと思います。



【 問いかけ 】


 貴方の魂は、他者に評価されなければ存在を許されないモノですか?



【 宣言 】


 そして最後に、私はここに宣言します。


 私は、私にとって必要十分な「あの世」が実在することを知っている。

 だから、私を傷つけようとするだけの「あの世」は、もういらない。


 と。




 では、次回(次々回)のエッセイは。


 このテキストも、いよいよ終わりです。

 締めとして、それなりの結論を述べたいと思います。


 そして小説編での「選択」は済ませましたか?


 それではまた、お会いしましょう。

 会うべき時、会うべき場所で。


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