無名人故録 地獄編
どこにでもいるクソったれな罪人のひとり、それが俺だ。
俺には難しいことはわからない。だけど肝心なことはわかってる。
そう思っていた。そう、思っていたんだ……
何度も何度も悪夢のなかで響く、あのときの自分の声……「女を殴るなんて野郎は、地獄に落ちちまえ」
あのクソったれな機械に見せられた動画が、俺だってことに気付かずに、何を気取っていたんだ、俺は?
「女を殴る男だなんて最高だ、こいつは天国にいくべきだ」って、言えばよかったのか。俺のクソ親父じゃあるまいし……いや、違うな。あいつはいつも、俺は特別な人間だ、俺の偉さを誰もわからない、って言ってた。言ってることとやってることが、まるで違うチンピラ野郎だ。
俺にわかるのは、俺はいつのまにか、おふくろを殴って威張るクソ親父と、同じ人間になっていた、ってことだけさ。地獄に落ちるようなクソッたれに……
だから……だから……
ドン!ドン!ドン!ドン!
「なあ、いるんだろう、あのキレイなガキが? ひとりで楽しむなよ!」
だから、俺らしいことをすればいい。閉じたドアをひたすら叩きながら喚いているヤツラに、俺の子どもでも何でもないコイツを引き渡せばいいだけのこと。
俺の臭いシャツの裾をつかみ、震えている幼いお前を。
でも……俺は叫んだ。
「やめろ!
「うるせえ、どうせ俺らはもうすぐ堕ちるんだ、いいから、やらせろ!」
誰だってやろうと思えば、こんなボロアパートの薄いドアぐらい簡単に蹴破れる。でもそんなことをすりゃ、「お楽しみ」の前に堕ちるかも。だから、あいつらはいつまでもドアを叩いて騒ぐんだ。その程度じゃ、ここ
「……貴方は判っているんですか?」
ドア越しの声が変わった。
これは、工場の親方の声だ。お前のせいか……クソッ、うっかり愚痴をこぼすんじゃなかった!
「ここにいるということは、その子は罪を犯したってことでしょう? 自分で認めざるをえないような罪を。私たちは確かに利己的かも知れない。でも、その子への罰も、神は望んでおられるのでは? 貴方はそれを妨害するのですか? それは貴方の、そしてその子の罪を重ねることになるのでは?」
インテリの親方の言葉に俺は息を呑み、お前の顔を見下ろした。
俺と同じく汚れてはいるが、整ったその顔の、大きな目が潤んでいた。
この部屋に逃げ込んできた時と同じように、引きつった顔。
お前の小さな手から力が抜けて、俺の服の裾から離れた。
小さな声で、お前は呟く……
「そうだよ、おじさん。ドアを開けてよ……」
思わず撫で回していた自分の
「んなこと、できるかよ!」
「
「いや……でも……」
「なんだったら……おじさんも一緒でいいよ……」
「ば、ばか言うな。……そうだ、だいたい、お前みたいなガキが、どんな罪を犯したって言うんだ!」
ついにそのセリフを言ってしまった俺を、お前は色を失くした瞳で見つめ返した。
ああ、本当は聞きたかったさ。割れたガラスとゴミを踏みしめながら臭い工場に行くときも、クソッたれな贅沢品を作らされてる時も、お前が膝を
だけど。お前は、答えた。
「ボクは……妹を、殺した。弟も」
「えっ」
俺は馬鹿みたいに言葉を返す。
「……基地の窓に
俯いたお前は、小さな手をぎゅっと握りしめて、小さな体に詰まった苦しみを絞り出すように、言う。
「だから……だから……許せなかった。罰を受けなきゃ、地獄に堕ちなきゃ、いけないって思った……それが自分でも他人でも、誰……でも、そう……神様でも……許すはずがない、って思った……ね、おじさんだって、そう思うでしょ……」
俺の喉の奥に、とても苦くて熱い塊が浮かびあがってきた。
それが、思わず言おうとした、ある言葉だということに気付いた俺は、その言葉を必死で飲み込もうとした。
やめろ! 言うな! 心にもない、むなしい、上っ面だけの言葉を……
罪人ふぜいが自己満足だと判ってる言葉を言うな!
「……お、思わない。俺なら……俺は、許す。お前を許す!」
言ってしまった。
俺はぎゅっと目をつぶって、自分の
俺を
「条件が達成されました。昇天モードに移行します」
ほら……えっ、昇天!?
目を開き、首をひねって横目で自分の
そして前を見れば、痛いような笑みを浮かべたお前の顔があった。
「よかったね、おじさん。……バイバイ」
お前は手のひらを広げて、小さく振った。
浮かびつつあった俺は、その右手首をつかんだ……!
「一緒に行こう!」
驚きに固まるお前の手を引いて、首から生えた翼を羽ばたかせ、俺は飛び上がる。
天井と屋根を霧のように突き抜けて、灰色の空の下へ。ごちゃごちゃした街並みにまぎれて、みるみる小さくなるアパートの窓から、親方とその取り巻きの唖然とした顔が見えた。
そして俺は……俺は……
首が苦しい。
「結界に想定外の負荷がかかっています。ただちに負荷を除去してください」
首から生えた翼で首吊りにならないのは、そのための仕組みがあったらしい。でも、それはどうやら、ひとりぶんに限られているみたいだ……
息が詰まる。顔も真っ赤になっているだろうな。
このままでは……
泣きそうな顔で、お前が叫ぶ。
「だめだめだめ……! おじさん、手を放して!」
「で……き……るかよ……」
そのとき。
人間、ぎりぎりになった時、ひらめくことがあるものだ。
俺の薄っぺらな言葉でこうなったってことは、もしかしてお前でも……
そう、クソ親父も言ってたぜ、「言うだけはタダ」だってな!
「おい」
俺は最後の力を振り絞って、お前に叫ぶ。
「言え……言ってみろ! 俺のことを、俺を許す、と……言って……くれ……」
ついにあふれ出た涙を灰色の雲の中にまき散らして、お前は叫ぶ……
「許すよ! だから、恨まない。ボクを許してくれた……おじさんを許します!」
そしてお前は……左手で俺の手をはたいた。俺は思わずその手を放してしまった。
「あ」
お前……何をカン違いして……
ぜいぜいと息を落ち着かせながら、どうしようもなく俺は見下ろす。
昇ることはできても、降りることはできなかった。
見えるのは、すべてを諦めた顔で、力なく手足を投げ出して、そのまま地上へ、ふたたび
かと、思ったが。
突然、お前は空中で目を見開き、そしてきつく目をつぶり、その小さな体を、さらに小さく、胎児のように丸め……
そして、爆発するかのように勢いよく背すじを伸ばした。
その首の
目をつぶったまま、幼い体に不釣合いな快感を味わっているかのような微笑を浮かべたその顔。その大きな目が開かれて、俺を見上げた。
お前はフィギュア・スケートの選手のようにくるくると回転しながら、俺のすぐ横にまで飛び上がった。頬を染めて、にやり、と笑うお前に、俺は声をかける。
「行こう」
「うん!」
俺たちは手をつなぎ、上を向いて、
「
くすくすと年相応の笑みを漏らすお前の頭上に、首輪から姿を変えた後光の輪が輝いていた。たぶん俺の
渦巻く雲の向こうから、きらきらと黄金色に輝く何かが見えた。あれがきっと……
俺には難しいことはわからない。だけど肝心なことはわかってる。
俺たちのクソったれな罰は終わったんだ。
そう、決して他人を許せない人間が地獄を創ったのです。
建前程度でも他人を許せる人間にとって、そもそも地獄など必要ありませんよ。
なんとも腹立たしいことにね。
(悪魔メフィストフェレスの言葉より引用)
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