魂は魂に含まれません-あるいは、消えたクオリアの謎
踏まれて傷つくことで、四葉のクローバーが生まれるという。
自らの痛みをこらえながら、誰かを励ます微笑みのように。
(尻鳥雅晶「日めくり尻鳥」「平成30年2月12日(月)」より引用)
貴方はこんな妄想をしたことはありますか?
もしも何かの不思議パワーで、過去に戻れたら……
あの失敗を、なかったことにできるかも知れない。あの出会いを、発展させることができたかも知れない。色々と起きるはずの「未来」の知識を生かして、豊かな人生をやり直せるかも知れない……!
それを実現させる、過去に戻れることのできるスイッチが目の前にあったとしたら、貴方は押しますか?
私の答えは。
「結婚する前は押したいと思ったが、今はもう、そう思わない」
……です。
だからといって、私に良いことばかりが有ったわけではないですよ。良くないことは無数に有りました。家業は傾くわ、転職の連敗からウツになるわ、さらに心臓を患うわ、父が亡くなるわ、嫁ぎ先で虐められた妹が八つ当たりしてくるわ、借地に建つ築50年の雨漏りアパートを母が押し付けようとするわ、勤め先では老害に軽く悩まされるわ、体重は減らないわ、カクヨムの運営に警告(実話)されてブラックリスト(妄想)に載るわ。
まあ、色々と不幸があったのです。
※ご注意 たった今、「体重が減らないのはダーリンのせいでしょう」と、奥様よりツッコミ、いえ、お叱りがありました(照レ笑)。
私は決してパーフェクトな人生を送ってはいません。しかし、半世紀もの時間を
「傷ついた経験もまた、かけがえのない自分なのだ」と。
傷ついた自分であるからこそ、私は誰かを愛することができたのです。
だから今の私は、その私を失くしてしまう可能性のある、過去に戻れるスイッチをもう押すことはありません。
さらに加えて。
とあるTV番組で、障害者たちにこう尋ねたインタビューがあったそうです。
「もし健常者になれる果実があったら、それを食べますか?」
もし貴方が健常者なら、その答えを予想できますか?
もちろん「食べたい」という人がいるのですが、中には、「食べないと思う」「効果が短い時間なら食べてみたい」と、いう答えがあったのです。
そういう答えをしたからといって、その人たちが自分の障害を単純に良しとする価値観を持っているはずはありません。彼らもまた、障害を負った自分であるがゆえに、何かを成すことができたのだろう、だからこそ、障害も含めたかけがえのない自分を大切にしたいのだろう、と思います。
創作物などを命がけで創ることを、「精魂込める」と言います。
そして傷ついた自分にしか創れないことがあったとしたら、他人にとって価値がなかったとしても、それは
レコード盤(今は要
「傷つくことで創られる、かけがえのない自分」
それは現代人が手に入れた、役に立つとか立たないとか言う社会的価値の呪縛から解き放たれた、すばらしい概念のひとつであると私は思います。
貴方は傷ついたからこそ、今の貴方になれたのです。
※ご注意 もちろん、「傷ついて良かったね」なんて言ってないですからね!
傷つかないほうが良いに決まってるんだから。ただ、「それも大事だよ」と言ってるだけですからね!
さて。
前回(前々回)の「引き」で、私はこう書きました。
>ゴーストを現代的に解釈した場合、「生前の肉体にあるゴースト」と「死後のゴースト」が、同じものだとはどうしても思えないのです。
どうして私がそう思うのか。
その結論の前に、もうひとつだけ確認させてください。
貴方は「クオリア」という概念をご存知ですか?
知っている方には今さらな知識ですが、とりあえず簡単に言うと。
「クオリア」とは「自意識の実感」のことです。自分で感覚的に定義できる自意識、そう、「我、感じる。ゆえに我あり」と言い換えることもできるでしょう。
これは現代的に解釈できる「自分」の
※ご注意 もちろんこの意味は「このような文脈で語られるとき」という制限つきの用語です。もともと曖昧な言葉である「クオリア」は、それを語る人によって意味合いは少し異なります。詳しくは要ググ!
「感じる」ことによって成り立つ自意識。「感じる」ためには、もちろんその人の生きている知覚器官を介する必要があります。
ここで、考えてみてください。
死後のゴーストは、生前のゴーストと同じ「知覚」を使えません。
なぜなら、死後のゴーストは「生前と同じ知覚器官」を持っていないからです。
また逆に。
生前のゴーストは、死後のゴーストと同じ「知覚」を使えません。
なぜなら、「障害者と
従って、前述のふたつの概念、つまり。
「傷つくことで創られる、かけがえのない自分」
「我、感じる。ゆえに我あり」
この、ふたつの現代的解釈に従うならば。
生前のゴーストと死後のゴーストは、まったく違う知覚をそれぞれ持つゆえに、同じ「
そう、「別人」となってしまうのです!
「
アナログレコードを愛しく思うひとが、同じ音楽であってもデジタルCDとはまったく違うと断言できるように。まあ、もちろん私は、現代的価値観に基づいて発言しているのですが。
「CDには十分な音質があると思う」と感じる貴方のために、
もう少し、例え話をしたいと思います。
私はこのテキストを、とあるOSのPCで書いています。
このOSを使用していることで発生する悩みは、バージョンアップに伴い、使えないソフトが出てきてしまうことです。もちろん、そのソフトで作成したデータも、OSを新しくすると使えなくなり、古いOS自体もまた、サポートはいつか終わります。
でも、私は結局、諦めます。
結婚して初めてクリスマスに妻へ贈ったカードのデータや、情熱をかけて仲間と開発したゲームのデータが、二度と見れなくなっても(事実)、悲しみはしてもメーカーに怒鳴り込んだりはしません(笑)。
なぜなら、彼らは商売をしているだけだと、私は知っているからです。
でも、もし彼ら商売人が、マジな顔で、
「そんな低俗なデータなど、どうでもいいでしょう」
「これはユーザーのためにやってあげているのです」
「次世代OSは絶対的に正しいシステムです」
などと、ぬかしたら、私は「薄汚れた銭の亡者め!」とか呟くかも知れません。
私は昔から、多くの「あの世サポーターズ」が語る、「死後のゴーストは生前の悩みや苦しみから解き放たれる」という言葉に、かなり「うさん臭い」違和感を抱いていました。しかし、なぜそう思ってしまうのか、それは判っていませんでした。
そして今、この「あの世」エッセイのために、自分なりに色々考えるようになって、やっと、その違和感の正体を突き止めたように思っています。
「別人」になってしまうこと。それは別に死ななくても起きる、いえ、他者の手によっても起こせる現実の現象です。それはただ、ひとことで表される言葉。
「洗脳」
さて、次回(次々回)のエッセイは……
おい、ここで終わりかい!
いやいや。
さすがにこの表現はダメでしょ~
私の祖母は、私の父は、亡くなった友人たちは、死ぬことで誰かに洗脳された、とは私自身が思いたくないのですから。
でも。
誰が何と言おうとも、私のこの「疑い」は捨てたくありません。
それもまた私の「魂」なのだから。
だから、ここでまたひとつ、その疑いに新たに名づけて、こう呼びましょう。
「消えたクオリアの謎」、と。
では、あらためて、次回(次々回)のエッセイは……
いま、とあるタイプの「あの世サポーターズ」に、通説となっているらしい、とある世界観について語りたいと思います。
彼らにとって、どうやらこの世界はゲームみたいなものらしいですよ?
それではまた、お会いしましょう。
会うべき時、会うべき場所で。
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