「シリトリの宝クジ」を買う勿れ
サンタクロースって本当にいるの、と子どもに聞かれたら、
いるよ、と事実を答えよう。
フィンランドにある北極圏サンタクロース村には、国家公認のサンタがいる。
また、グリーンランド公認サンタクロース協会が公認するサンタは、世界各国に約200人いる。
ありえないものを成り立たせんとする想いは、確かにそこに実在している。
(尻鳥雅晶「日めくり尻鳥」「平成29年12月25日(月)」より引用)
貴方は宝クジを買ったことがありますか?
私は、私たち夫婦は何度も買っています。
もし一等が当たったら……!
旅行に行こう、珍味を食べよう、あれを買おう、これに使おう、ぜいたくしよう……と、夢を広げまくって楽しんでいるのです。
※最下位賞の300円なら、何度も当たったことがあるんですよ(ドヤ顔で)!
そこで、もし、このとき。宝クジを買ったとき、私が妻に、こう言ったとしたら。
妻は、そして貴方は、どう思うでしょうか?
「宝クジの一等が絶対当たる。たくさんの人が、CMが、確かな口ぶりで言ってるじゃないか。みんなそう言ってるのに疑うの?」
そして、自分で言ったこの言葉を本当に信じていたら、当然、それを前提にした行動を、貯金をドバーと使うとかしますよね?
結果として、私は最愛の妻から、みごと離婚されてしまうでしょう。
そして貴方は、私のことを馬鹿だとあざ笑うでしょう。
だけど、ちょっと待ってください。
それは本当に、「間違ったこと」なのでしょうか……?
本当に一等が当たるかも知れないじゃないですか!
最下位賞なら買い方で必ず当たるのですよ(ドヤ顔で)!
さて。
前回、私は亡くなった祖母のビデオテープについて、こう書きました。
> いったい何の不思議パワーが働いて……
> 電源を抜いた故障中のビデオデッキが作動して!
> 臨終騒ぎで誰も見てないテレビ番組が!!
> 上書き不可のテープに録画されたのでしょうか!!!?
> そんなことが起きるはずはないのです……!
だけど、ちょっと待ってください。
それは本当に、「起きるはず」のないこと、だったのでしょうか……?
ビデオデッキは、調子のいい時と悪い時があったのかも知れない。
電源プラグは抜いたつもりで、うっかり差し込んだままだったかも知れない。
デッキの上に雑誌でも置いてしまって、誤動作したのかも知れない。
同じ時間の番組でも、違う日の、違う年の番組かも知れない。
誤消去防止キャップは、もう1本の使いまわし用テープと間違えて付け替えて、戻して、そして戻したことを忘れたのかも知れない。
祖母の最期の言葉なんてシーンは最初から存在せず、家族と親戚全員があると思い込んでいただけかも知れない。そしてその位置で巻き戻しせずにテープを出し、その後にもう1本のテープと間違えて、ちょっとだけ録画してしまったのかも知れない。
私や家族が操作ミスをして、それを忘れたかも知れない。または非難されたくなくて、ミスを黙っていたのかも知れない。
※ご注意 語り手である私自身が、自己承認欲求を満たすために「作り話」をしているだけかも知れませんよ。(笑)
「電源を抜いた故障ビデオデッキが作動して、臨終騒ぎで誰も見てないテレビ番組が、上書き不可のテープに録画された」……
そんな不思議は決して起きないだろう、と言っているのではありません。「常識的にきわめて起きにくいこと」だろう、と言っているのです。
そんな不思議が起きる確率よりも、前述のような偶然や勘違いやゴマカシが重なって起きる現実の確率のほうが、「常識的にきわめて高い確率で起きうること」だと、と言っているのです。
夢がない、って?
「無垢な子ども」の夢は大切にするべきだと思います。
クリスマスイブに世界中の良い子にプレゼントを届ける超越的な存在を、私は(少なくとも無垢な子どもの前では)否定しません。また、そして同時に大人の夢とは、宝クジのように、フィクションとして楽しむべきだ、と思うのです。故人を
少し脱線しますが、私はこのテキストを書くにあたって、スピリチュアルな人たちの書いたものも参考にさせていただきました。そのうち、そのジャンルでは名著とされている本に「あの世の実在という事実を疑う懐疑主義者ども」という意の文章があり、この著者さんはずいぶん変な人だなあ、と失礼ながら思いました。
「常識的にきわめて起きうること」のほうを、わざわざ疑って信じない。
つまり「100万の現実を疑い、1の不思議を信じる人」が、
「100万の現実を信じ、1の不思議を疑う人」を、
「懐疑主義者」だと
さて、それでも。
「尻鳥の経験は、『あの世』が実在する証拠である!」
と、貴方が思ったとしたら、その考えを、みずから検証してみてください。
この件は不思議でもなんでもないと思いますよ、単なる偶然やミス等の結果だろうと思いますよ、と、他ならぬ実体験した本人が言ってるんですよ?
なぜ貴方の心の内に、当事者本人の言葉を否定する気持ちが浮かぶのでしょうか?
その理由は、そのほうがドラマチックだからではないでしょうか?
あー、いや、ひとが死んでるのに「ドラマチック」はないか。失礼しました。
言い換えましょう。
貴方がそう思うのは、そのほうが物語性がある、からではないでしょうか?
フィクションであれ、ノンフィクションであれ、喜劇や悲劇を問わず……
物語性があるということは、良い子がサンタクロースを信じるように、いい大人が宝クジを買ってしまうように、きわめて起きにくいことでも、それを肯定する気持ちが強くなるのではないでしょうか。
そう、貴方は。
「シリトリの宝クジ」を、買ってはいないでしょうか?
ここで、この回のタイトル、「シリトリの宝クジ」の意味について解説します。
この言葉は、「オッカムの剃刀」とか、「マーフィの法則」とか、人名の入ったテツガク的概念ってカッコいいなあ、自分でも何かそういうネーミングをしてみたいなあ、という中二病的な思いから作ったものです。
では、改めて、その定義を。
「シリトリの宝クジ」
常識的にきわめて起きにくいが、物語性がきわめて高い事柄ならば、起きる可能性も高いように信じてしまう心理。
「シリトリの宝クジ」を買う
……でも、それでも。
私の理性に反して、私の心は「あの世」があると思っています。
いや、正確に言えば、あったらいいなと思っています。
「おばあちゃん、恥ずかしかったんだなあ」と言いたい自分が存在する。
「あの世」の実在に疑問を持っているのに、信じたい自分が、確かに実在している。
ありえないものを成り立たせんとする想いは、確かにそこに実在している。
おっと、勘違いしないでくださいよ。
「集合的無意識とかに情報的な『あの世』が格納されている」などと、即物的に、あるいはSF的に言っているのではありません。
私が言っているのは、きわめてパーソナルな、私自身の「心のありよう」です。
「あの世」を信じたいと思う私の「心のありよう」そのものが、すなわち私のとっての「あの世」である。
だから、私にとって「あの世」は実在する。
だからこそ祖母のエピソードは、私にとっての、「あの世」が実在することの動かざる証拠なのです。
さて次回(次々回)のエッセイは、このテキストにおける私の
また前フリとして、とあるシリトリの宝クジを買わされてしまった人たちの結末について、とある歴史的実例を挙げて語りたいと思います。
※ご注意 この「実例」というのは、とんでもない
期間限定?
いやいや、この世に期間限定ではないものなど、ひとつでもありましょうか。
それではまた、お会いしましょう。
会うべき時、会うべき場所で。
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