コーヒー
翌日は警察による現場検証があり、作業は終日休みとなった。休業は理由の如何を問わず日雇い労働者に対して賃金は払われないので、彼らにとっては痛手である。しかしひどい吹雪の中で作業させられ、岡部のように死んでは元も子もないと諦めた。
労働者たちの寝床は6畳一間にセットされた二段ベッドである。しかしわずかな衣類ほかに私物はそれほど持ち合わせていない。結局は皆は食堂兼娯楽室に集まってくる。稲二郎の部屋は食堂の隣なので、彼らのバカ騒ぎやテレビの音がうるさくて、ベッドで寝つけない。かと言って食堂で皆と一緒に騒ぎたいなどとは思わない。狭いプレハブに稲二郎の居場所はなく、仕方なく吹雪の中を当てもなく秋田の街中に向かって歩き始めた。
バス停の屋根の下で震えながら市バスを待っていた。秋田のような雪国では多くの家庭で1台ないし2台の車を保有しているので、バスを利用する人は少ないし本数も少ない。今日は運良く5分の待ち時間で乗車できた。窓の外は墨絵のような薄暗い風景が続いている。歩行者はほとんどゼロだ。しかしやがて街の中心に入ると商店やスーパー、それにデパートなど開店しており、人影も見え始めてくる。稲二郎はとりあえず終点の駅前で降りて、その足でバス停の前のファーストフード店に入った。昼時とはいえ平日なのでそれほどは混んでいない。コーヒーとハンバーガー、それにポテトフライのセットを注文し窓際のカウンター席に座った。吹雪はいつのまにか雨に変わっていたようで、ボタ雪でビシャビシャした道路を時々通行人が歩いていた。稲二郎はハンバーガーを齧りながらボンヤリと窓の外を眺めていると、グレーのトレンチコートを着た女が店に向かって歩いてくるのが見えた。雨露でガラスは曇っていたし、その女の顔もよく見えないので稲二郎はただボケっとしていたところへ、その女はいつのまにか彼の真横の席に座った。他に席は空いているのになんでオレの横に座るのかよく分からない。長い髪を後ろで束ね、スッピンの40歳くらいの地味な感じの女である。
「あ、すみません。向かいのビルで息子がスイミングに通っているもんで、この席で出てくるのを見張っているんです」
なんだ、そういうことか。それでオレの真横にわざわざ座っているわけだな。そういえばオレも小学校の頃は算盤教室に通っていて、算数の成績は良い方だった。それが今じゃこのザマだ。稲二郎は自嘲気味にコーヒーを口に運ぼうとしたその時だった。
「あ、良太だわ。それじゃ失礼します」と女が勢いよく席を立ったせいで、カウンター席に残した彼女の熱いコーヒーがひっくり返って、稲二郎の太ももあたりに飛び散った。女は驚き、急いで紙ナプキンやらハンカチで稲二郎のジーンズを拭きはじめた。女は困惑顔で、
「すみません、大丈夫ですか?熱くはなかったですか?あぁ、どうしましょう、コーヒーのシミが取れない」
稲二郎のはいているジーンズなど古着屋で数年前に買ったボロだ。コーヒーがかかったところで目立たないほど汚らしい。彼はぶっきら棒に言い放った。
「いいよ、オバサン。見ての通りこんなズボンはいつ捨ててもいいほど汚れているんだから。さぁ、子供を迎えに行ってやれよ」
女はちょっと口を尖らせて言った。
「まだはけますよ、このジーンズ。すぐに捨てるなんてもったいないし、捨てれば環境にも悪いわ。洗ってまたはけばいいじゃないですか」
稲二郎はバカバカしくなり、そのまま無視して店の出口に進んだ。相変わらず外ではみぞれ雪が落ちてくる。自動ドアが開いたところで黄色いカッパを着た低学年の男の子が勢いよく稲二郎にぶつかった。その子供は大きな声で「オジサン、すみませんでした!」と大声で叫ぶので、さすがに稲二郎の心も少し開いた。
「君、もしかして良太君かい?」
「うん、そうだよ。母さんが中で待っていると言うから来たんだよ」
「ふーん、お母さんは何している人なのかな?」
「母さんは看護婦。父さんは生まれた時からいないんだってさ」
稲二郎はこの少年にすぐに好感を持った。母子家庭でありながらこの明るい振る舞いは一体何なんだろう?オレも同じ母子家庭だった。そして拗ね、ひねくれ、自暴自棄になって人を刺し刑務所で2年過ごし、そして今は流れ者として工事現場で生き延びている。
「すみません、ウチの子がぶつかってしまったみたいで。これからこの子と帰宅しますが、よろしければそのズボンを洗濯してお返ししたいのですけど、迷惑かしらね」
「いや、迷惑ではないけれど、そんなことまでしてくれるの?何か悪りぃなぁ」
稲二郎も良太を通してこの母親の人柄が分かってきた。ただ自分とは釣り合わない立派な女なようで少し躊躇される。
「何言っているんですか。コーヒーをひっくり返した私がオッチョコチョイだったから、洗濯してお返しするのは当然です。ウチは駅裏の市営団地なのよ、古いし汚いんだけれど我慢してね」
稲二郎と親子二人は店を出て踏切方向へと歩いた。女は店でのコーヒー事件を道すがら良太に話していた。良太は「ふーん、そうなの」と言いながら傘をブンブン振り回している。良太は踏切で遮断機が上がるのを待ちながら言った。
「母さん、ボクもね、さっきこのオジサンに母さんが看護婦していることと父さんがいないことをちゃんと伝えておいたよ」
女は苦笑した。稲二郎も笑いながら良太に
「良太、お前の母さんはエラいなあ。父さんいなくてもちゃんとお前を育てているじゃないか。スイミングにも通っているんだろう?」
「うん、スイミングではボクはいつでも一等賞。だから学校でもイジメられることはないのさ。」
イジメ…。思い出したくない稲二郎の小学校時代。母子家庭であるがゆえに、ただそれだけの理由でイジメられてきた。算盤が教室の引き出しから消えていて、探しに探したら便器の中に沈んでいたこともあった。先生も助けてくれない、友達もいないどん底の孤独感。母は生活費を稼ぐために夜の仕事についていた。幼心にそれがとてつもなく恥ずかしく思えて、小学校6年のとき家出をしたことがある。当てもなく電車を乗り継いで、隣県の駅ホームで疲れ切って寝ていたところを補導された。警察に引き渡され家に連れ戻されたが母親は駅前キャバレーに出勤していて家にはいなかった。婦人警官に連れられ、そのままキャバレーに連れて行かれ母親に引き渡された。稲二郎が家出したと彼女から聞かされ母親は稲二郎を罵った。
「母さんがこんなにまでして苦労しているのに、家出するなんて。お前みたいな出来そこないは死んでしまえ!」
ぶん殴られるほうがまだマシだった。母から「死んでしまえ」と罵られる絶望感は小学生にとって言語を絶する苦しみだ。愛情のかけらも無い家庭に生まれ育った自分の境遇を稲二郎は心の底から呪った。
市営団地の2階に階段で上がると「野田」という表札がかかっている部屋に案内された。
流れ者にとってこういう堅気の人たちの住宅に入るのは久しぶりである。少し背筋を伸ばして「あれ?人のウチに入る時ってなんて言うんだっけ?」という疑問が浮かんだ。ちょっと茶化してその疑問を女に投げると「ただいま」でしょ、と笑いながら返してくる。
稲二郎の緊張も少し解けて、大きな声で「ただいま」と言って差し出されたスリッパを履いた。良太は「違うよ、こんにちは、だよ、オジサン」と言うので稲二郎も女も笑い声を上げた。
「私は野田明子と申します。平凡な名前でしょ?息子の良太は小学2年生。私は隣駅の私立病院で看護婦をしています」
「オレは滝川稲二郎。ヤクザみたいな名前でちょっとカッコいいだろ。ちょっとワケがあって全国の仕事場、といっても建設現場を廻っているいわば流れ者さ。アンタみたいなご立派な人物でないことは確かだな」
「そのズボン、脱いでくださいな。すぐに洗濯機回してアイロンかければ大丈夫だと思うから」
「わはは、ズボン脱げってオレ洗濯の間ずっとパンツ一丁かよ」
「別に恥ずかしがることないでしょ。看護婦やってれば男たちの陰部を洗ってやることなんか日常茶飯事なんだから」
なるほど、看護婦とはそういうもんだろうな、と稲二郎は妙に納得して大人しくボロ同然のジーンズを差し出した。明子は黙ってバスタオルを差し出した。
明子はすぐに洗濯機まで行ってスイッチを押した。ブイーンという電気音が聞こえてくる。かなり大きい音がする古そうな洗濯機だ。
「ねぇ、オジサン。ナガラモノって何?」
「ああ、流れ者のことか。オジサンはな、ビルとか道路とか河の工事とかの仕事をしながら日本中をグルグル廻っているんだよ。秋田に来たのも雄物川で工事があるので雪のなかやって来たのさ」
「へー、日本中いろんな所に行けるなんてすごいや。ボクなんか秋田県しか知らないんだよ。ボクも流れ者になってみたいなぁ」
思わず稲二郎も大笑いした。
「はは、そうは言っても流れ者は辛いことが多いぞ。見ろ、この大雪の中、河岸をツルハシやシャベルで掘り起こさなきゃいけないんだ。それにな、昨日は河にはまって死んじまったオジサンもいたんだよ」
二人の会話を洗濯機の近くで聞いていた明子は
「あ、それ秋田日報の朝刊で載っていた事件ね。お気の毒だわ、その方は」
「いや、その人は家族から追い出されてオレのように流れていたんだ。俺たちなんか会社から道具のように使われて、死んでしまったらポイ捨てだ」
黙祷を強要された時、一人の労働者が言い放ったセリフは流れ者にとって共通する思いでもある。どうせ俺たちなんか、という投げやりな気持ちで皆その日暮らしをしている。
明子は稲二郎のそういうひねくれた心根をファーストフード店で出会った時から感じている。分からないではない。自分だってシングルマザー、世間からは白い目で見られている。父兄参観で自分一人が教室の後ろに立っていると、後ろめたい気持ちがする。団地の公園で男の子と大声をあげながらキャッチボールをしている父親を見ると羨ましくなる。
いじけていては何もいいことはない。でも私を棄てて女と出て行った良太の父親を今でも恨んでいる。そんなことを思いながらジーンズにアイロンをかけている。
「さぁ、もう乾いたわね。シミもとれたようだし。はいてみてちょうだい」
アイロンの温かみが太ももに心地好かった。それにこういう団地の居間で久しぶりに人間らしい会話ができて稲二郎も心が和む思いだった。しかし自分は流れ者だ、堅気の人たちとこれ以上かかわってはいけないと思った。
「なんだかさぁ、洗濯までしてもらって悪かったよ。そんじゃオレはこれで帰る。良太、母さんの言うことをよく聞いていい子になれよ」
良太が叫んだ。
「ボクも流れ者のなるんだい!」
明子も稲二郎も苦笑した。男の子の「外に飛び出したい」と言う気持ちが芽生えているらしい。
「ねぇ、稲二郎さん。よかったらこれから良太に流れ者の話を聞かせに時々来てくれないかしら。いえ、おイヤなら結構ですけど」
稲二郎はこの子のために何かできることがもしかしたらあるかもしれない、などとガラにもなく思い始めている。昨日だって一文にもならないのに、吹雪の中岡部の捜索に現場監督と二人だけで飛び出した。少しは人間らしいことをしてみたいという気持ちが残っているらしい。世の中から痛めつけられ続け自暴自棄になっている自分だからこそ、この良太という少年が同じ道に陥らないように導いてやれるのではないだろうか、と感じている。それに家族も息子もいない自分をこの二人が暖めてくれるのかも…
外はまた細かい粉雪が舞っている。明子の笑顔を横顔に受けながら、稲二郎は良太とレゴを組み立て始めていた(続く)
舞雪 熊三蔵 @teddysugano
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