舞雪
熊三蔵
護岸工事
昨夜から降り始めた細かい粉雪は、日本海からの海風に煽られて勢いを増している。護岸工事でツルハシを振り下ろす滝川稲二郎の背にも降りかかってくる。ここは秋田市内を流れる雄物川の工事現場、折しも真冬の12月である。河岸は遮るものが何もないので大雪が降ると視界が悪くなる。今朝も日雇い労働者たちは囚人のようにオレンジ蛍光のゼッケンを付けさせられ、万が一に備えて各自非常ベルを持たされる。日雇い労働者といえども事故があれば会社は世間から糾弾されるので、工事は安全第一でという建前である。しかしそれでも一年に一度くらいは死亡事故が発生する。日雇い労働者は常に事故と隣り合わせの暮らしをしている。
稲二郎も2年前に刑務所を出て以来、全国を転々としてきた。その間、都会でビル工事雑役や道路ガス水道管の交換工事などに携わってきた。転落事故や交通事故、あるいは窒息事故なども新聞等で報道されているとおりだ。稲二郎も一度だけ、ビルの5階の踏み台から危うく転落しそうになったことがある。もちろん法律では安全ベルトを締めてなければならないのだが、「これくらいなら大丈夫だろう」という油断があって事故につながる例が圧倒的に多い。雇用者も安全第一で作業は進めているが、すべての労働者に目が届くわけでもない。結果的に悲惨な事故が発生してしまう。因みに国土交通省の発表によると平成26年度の建設現場転落死の数は377名、毎日1名以上が亡くなっていることになる。
12月の秋田市内の平均気温は2.9℃。それほど低くはないが、風が吹く河岸での体感気温はマイナス10℃くらいであろうか。真っ白な横殴りの風を浴びながらツルハシを振り下ろす労働者たちの塊はシベリア抑留者たちを思い浮かべさせる。河のほとりで足を滑らせれば、雄物川の急流に呑み込まれ、命を落とすことになりかねない。
これほどの過酷な労働に集まった者たちに、定職などない。稲二郎のようにいわゆる「流れ者」と言われる者たちである。刑務所から出てきた者、家族に追い出され転々としている者、借金を背負って夜逃げした者、ヤクザから足を洗った者、こういった者たちで成り立っている。日雇い労働は身元保証も不要で、日払いで賃金が得られるので流れ者にとって有難い。さらにプレハブの簡易宿泊所や食事も提供される。流れ者は辛く危険な仕事であっても、食と住を求めて全国の工事現場を転々とするのだ。
午前8時、作業が始まった。
「おい、イネよ。また今朝は一段とひでぇ風だな。去年もこの雄物川で一人死んだっていう噂だぜ。なるべく河岸には近寄りたくねえな」
雄物川で知り合った岡部源三郎というやさぐれ者が震える声で言った。彼も稲二郎と同じく数年前に刑務所を出て、転々としている。歳は50過ぎで30代の稲二郎にとっては父親くらいに歳が離れているが、同じ境遇の稲二郎を仲間だと思って親しく話しかけてくる。稲二郎はもともと無口な上に、この岡部という男を疎んじていた。自分も何年か先になればこの男のように、顔色も悪く髭や髪をだらしなく伸び放題になるのかと思うとゾッとしているのである。
「源さん、今日はオレも危ない雪だと思うよ。とにかく安全に気を付けててめえの身はてめえで守るだけだぜ」
二人は短い会話を交わして、10時の休憩時間が来るまでツルハシを固い地盤に向けて振り下ろしている。固いと言っても完全に凍り付いてはいないだけまだマシ、と流れ者の古株から聞かされたことがある。シベリアの永久凍土で強制労働させられた日本人捕虜たちの苦しさが偲ばれる。それに寒いといっても凍傷にかかることはない。シベリアでは凍傷になった捕虜は手足を鋸で切られたとも聞いた。抑留の話を聞くたびに「下を見ればきりがないが、オレはまだマシな方だ」と少し安堵感を覚える。それだけが稲二郎を支える精神的支柱でもあったのだ。
10時になると暖室と呼ばれるプレハブ小屋に全員が集まり15分の休憩を取る。めいめい熱い煎茶や麦茶を大きなアルミ製のヤカンから湯呑に注ぐ。テーブルの隅にはかりんとうやチョコレート、どら焼きなどの駄菓子も山積みになっている。重労働で甘味は即エネルギーに変えてくれるので、会社もケチりはしない。男たちは山盛りの朝飯を食べた後にもかかわらず、駄菓子もパクパクと口に運んだ。食事が保証されているということのありがたさを、稲二郎はシベリア抑留と思い重ねた。シベリアでは薄いスープ一杯と黒パンひとかけらしか支給されなかったと聞いている。これではバタバタと栄養失調で死ぬのも当り前であろう。
休憩が終わり、皆は憂鬱な顔をしてまた吹雪く戸外に出た。工事現場までの雪道には、先ほどまでは労働者たちの踏んだ轍があったのだが、もう雪で跡形もなくなっている。今日の積雪はいつになく多い。視界もすこぶる悪い。これから河岸近くまで移動し、朝のうちにツルハシで掘り起こした土砂を一輪車で国道脇の崖下まで運ぶことになる。この一輪車、現場ではネコと呼ばれている。稲二郎も最初はこのネコの運転に慣れず困ったが、今ではかなり上手く扱えるようになった。ツルハシは今でも辛い作業だが、ネコは比較的楽なので心も少し楽になる。何度かネコで往復した後、正午となりプレハブ小屋で昼食となった。毎度のことであるがここで全員そろっているかどうかの点呼を行い、確認が終わったところで食事となる。ところが今日は一名足りない。お互い顔を見合わせるが、そのうちあの岡部がいないことに稲二郎は気が付いた。
「源さん、岡部の源さんがいねえ!そういえばさっきから作業場でも見なかったぞ」
会社の現場監督が青くなった。
「岡部さんは河岸のあたりの土砂を運んでいたはずだ。おい、皆、探しに行くぞ」
食堂は静まり返った。捜索は会社の仕事だ、オレたちがなぜ行かなければならないんだ、そんな空気が全体を支配していた。無理はないのかもしれない、いつクビを切られるかわからない労働者にとって、同僚の行方などどうでも良いこと、それより空腹を満たすことが先決なのだ。
「オレ、行きますよ」
稲二郎が手を挙げた。他には誰も手を挙げず、結局は現場監督と稲二郎だけが吹雪が隙間から入り込むアルミの扉を開けて出て行った。稲二郎だって温かい飯に早くありつきたかった。重労働で疲れている身体を暖めたかった。それにあの岡部という男のことを快く思っていなかった。それなのになぜ何の得にもならない捜索につきあうのか?自分でもよくわからないまま、現場監督と雄物川の河岸に戻って捜索し始めた。昼になってもまだ吹雪は止まず、視界はすこぶる悪い。二人は河岸をはうようにして岡部の名前を叫びながら歩いた。それとても風の音で消されるような風音である。工事現場をくまなく探したが岡部の姿は見当たらない。
「滝川さん、もう一度だけ上流方向を探してみよう。もしかしたら河の中にはまっているかもしれない」
二人は河辺のあたりをよく見ながら上流へ向かった。急いで出てきて防寒具も不十分だったので二人の体は凍えてきた。それでもこらえながら100メートルほど上ると河岸から左手5メートルくらいのところにオレンジ色の物体が浮かんでいるのを稲二郎は見つけた。
「監督!あのオレンジ色、見てください、岡部さんじゃないですか!」
二人はザバザバと河に入り込みオレンジの物体に近づいた。抱き上げると果たして岡部だった。二人で抱きかかえ、河岸に運び込み寝かせた。
「滝川さん、急いで詰所まで行ってAEDを持ってきてくれ。それに救急車の手配を至急頼む!」
稲二郎は矢のように詰所まで走り、詰所にいた係員に叫んだ。
「緊急事態だ。作業員の一人が河で溺れて今救助したばかりだ。AEDを出してくれ!それと至急救急車だ!」
AEDを抱きかかえて、作業現場に全速力で戻った。河岸では現場監督が自分の来ている者をすべて岡部にかぶせて暖めいた。
「おう、持ってきてくれたか。まだかすかに呼吸がある。AEDで心肺を蘇生できれば助かるかもしれん」
現場監督は手慣れた動きでAEDをセットし、岡部に処置をし始めた。監督は自動音声に従い電気ショックを与えている。真剣そのものの表情で蘇生を試みている。しかし岡部の顔はずっと紫色のまま口を半分開けたままである。かなり危険な状況であることは滝川でもわかる。稲二郎もたまらず
「岡部さん、オレだよ、イネだよ!まだ死ぬには早すぎるぜ、早く戻ってこいよう」
意味もなく、河岸に立ちながら岡部の顔を見ながら叫んだが、岡部の表情に変化はなかった。
間もなくして救急車のサイレンが聞こえてきた。担架を持った救助隊は岡部を素早く乗せて、救急車に運び入れた。救急車には現場監督だけ同乗した。そして再びサイレンを鳴らして救急車は吹雪の中、去って行った。
稲二郎が食堂に戻ると労働者たちは昼食を終え、備え付きのテレビを観たりスポーツ新聞を広げていたりしていたところだった。
「よう、イネちゃん。岡部さんは見つかったのかい?」
誰かが声をかけた。稲二郎はこれまでの顛末を説明した。
しかし聞いている者はほんの2,3人だけである。他の者は昼のワイドショーを見ながらゲラゲラ笑っている。ここにいる者たちは他人の事故など興味はないし同情もしない。自分さえよければ他人の生死など関係ないのである。そういう自分だって大して変わりがないはずだ、と稲二郎は思っている。ただ、今日だけはなぜか岡部のことが気になって飛び出してしまった。
その日の午後は作業中止命令が出た。悪天候がその理由だが、今日のような天候で作業したことなど今まで何度だってあった。何かおかしいなと稲二郎は思った。すると悪い知らせが飛び込んできた。
現場監督が食堂に全員を集めて岡部の死を伝えた。
「誠に残念ながら岡部さんは、本日午後2時17分に心肺停止で亡くなられました。原因は現在警察が調査中ですが、視界の悪いなか河岸からネコを使って土砂を運んでいる最中に、河に足を滑り込ませてしまったようです。ご冥福を祈り皆さんで黙とうを捧げましょう」
さすがに食堂はシーンと静まり返った。
「黙祷」
監督の声で部屋は静まったその直後であった。
「おい、監督さんよ、笑わせるなよな。こんなひどい天候で人を道具みたいにコキ使って負いながら、黙祷もへったくれもあるかよ!あんたたちこそ人殺しだ。」
その男はそう叫んで出て行ってしまった。残った者たち全員で黙祷は続けられた。しかし各人の胸中に行き来するもの、それは流れ者として世の中からはじき出され、人間らしい扱いを受けてこなかったという思いで共通していた(続く)
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