6-3 サイコフィピス

 優一に肩を借りる形で、弘瀬は陽奈の部屋を後にした。


 外に出ると、昼ごろ中腰と一緒にやってきた体育会系の刑事がどこかに電話していた。

 その足元には、先ほど転落した正治が横たわっている。電話が終わるのを待って、中腰がその刑事に訊ねた。


「やっこさんは?」


「だめですね。即死です」


「はあ、そいつは面倒だな。何か証拠になるものが残っていればいいが」


 中腰は心底落胆したようにため息をついた。


「そのことですが、このナイフ。他の事件の凶器に使われたものかもしれません。三角巾の中に隠し持っていた可能性がありますね」


「あの、一体なにが……」


 まわりの状況についていけてない弘瀬は、思わず質問してしまった。

 なんとなくすべてが解決したことだけは分かるが、陽奈を待っていたはずなのに、どうしてここに優一と中腰がいるかが分からない。


「被疑者死亡という形で事件が終わったんだ。もう誰も死なずに済む」


 優一がはっきりとした口調で答えた。安心感を与えてくれるような力強い声だ。


「そうじゃなくて……。あの、真白さんは?」


 弘瀬が聞き返そうとしたときだ。


「――立花先輩っ!」


 見ると道路に車が止まっていた。その車のドアを開けて、陽奈が姿を現す。昨日最後に別れたときの姿のままで、顔だけくしゃくしゃにした陽奈がそこに立っていた。


 優一に押し出されるようにして、弘瀬は前に進み出た。急に支えがなくなったので、最初の数歩はふらついてしまった。


 弘瀬が近づくたびに、陽奈も足を進めた。弘瀬も足を進める。

 段々と歩く速度は速くなり、ついには小走りになって、二人は一つになった。


 互いの体を思い切り抱き締める。

 その温もりが、体の感触が、涙の混じった息遣いが、互いの無事と心を確かめさせてくれた。


「立花先輩、無事で……。よかった」


 あの無感動だった陽奈が心配してくれている。その事実に驚きながらも、体の奥から湧き上がってくる歓喜に体を震わせる。

 同時に、死ぬかもしれないという恐怖と緊張感から解き放たれ、弘瀬は泣き出してしまった。


 しばらくするとパトカーが何台もやってきて、アパートの前は騒がしくなった。

 その喧騒から逃れるようにして、弘瀬たちは少し離れたところにある駐車場に集まる。

 そこで中腰に正治とのやり取りを聴取されたあと、弘瀬の知らなかった事実を教えてもらうことになった。


 一つ目は、長いこと捜索中だった大輔の頭部が見つかったという情報だった。


 なんでも認知症の老人が持ち帰って家に隠していたらしい。異臭に気づいた家族が、臭いの元を突き止めようとして見つけたそうだ。


 半ば腐乱した人の生首を見つけた家族は、かわいそうなほどパニックになっていたと、中腰は笑いながら話してくれた。


 驚いたことにその老人の家と事故現場は、十キロ近くも離れていたそうだ。

 家族が寝静まった後に家を出て、彼らが目覚める時間には戻ってきていたので、外出していた事実に家族は気づかなかったという。


 大輔の事故は、ふらふらと道を歩いていた老人を避けようとして起こったものだろうと、警察は見ているそうだ。要するに、本当の事故死だったのだ。


 正治の件については、警察のほうでも彼が本命だったそうだ。供述に不審な点があったし、美花が殺された日に、彼女の部屋を長身の男が尋ねてきたという証言もあった。


 何よりの証拠として、美花の部屋から正治の指紋が検出されたらしい。また正治は、警察に「バイクの男が呪いを解こうとしてやったこと。彼が誰だか調べて欲しい」としつこく言っていたそうだ。


 彼としては優一を見つけることができなければ、今やっている殺人の意味がなくなる。内心ではそうとう焦っていたのだろう。


 中腰が優一と共に陽奈の部屋に来たのは、陽奈本人から連絡があったからなのだそうだ。


 曰く、今現在弘瀬と正治が一緒に行動している。弘瀬には正治と別れ、自分の部屋で待つように言ったが、今もっとも襲われる可能性が高いのは弘瀬だ。助けて欲しいと。


 警察のほうでも正治の指紋の照合の結果が出て、逮捕状を取ろうとしていたところだったので、すんなりと信じることができた。


 平行して別の警察官を正治の部屋へと向かわせたが、もぬけの殻で電話も通じないことから、事の緊急性に気づいて、中腰と優一で部屋に押し入ったそうだ。


 その件になると優一が、「民間人を突入させるなんて非常識な刑事だよ」と文句を言った。

 ただ、本当に文句を言っているわけではなく、半ば冗談で言っているらしかった。


「ああ、そういえばさっき連絡があったんだが、君には妹がいるね? 初音さんだっけ? 彼女が随分と君のことを心配しているらしいよ。こっちに電話があったそうだ。面倒だから君のほうから説明してあげてよ」


 中腰はそう言い残すと、パトカーの赤いライトが光るほうへと去っていった。そこに残されたのは、弘瀬と陽奈と優一の三人だ。


「ケチな刑事だ。飲み物くらい奢れよな」


 優一は自販機でジュースを買うと、弘瀬と陽奈に手渡した。


「まあ、今回の事件は典型的なサイコフィピス犯罪だったってわけだな」


 聞き慣れない言葉に弘瀬は首を傾げた。同じく陽奈も首を傾げている。そんな二人に優一が説明してくれた。


「サイコフィピスというのは、あるデマや根も歯もない噂を信じた人の行動によって、そのデマや噂が現実のものとなってしまう現象のことで、『自己成就型予言』とか『自己破壊型予言」と訳されるモノだ。例えば『この銀行が近々倒産する』という噂が流れたとする。その噂はまったくのデマだったんだが、それを信じた一部の人間が、お金を全額下ろしはじめる。それを見て、あの噂は本当かもしれないと思った人間もまた下ろしはじめる。銀行が一度に取り扱える金には限度がある。みんなが一斉にお金を下ろしたら、それこそどんな銀行でも倒産してしまう。かくして、ただのデマが現実のものになってしまうんだ。今回だってそうだ。呪いがあると信じ込んだ彼の行動によって、さも実際に呪いがあるかのように、次々に人が死んでいった。彼が行動を起こさなかったら、俺の目の前で死んだ子も、ああはならなかっただろうから、結局一人が事故死しただけの事件だったはずだ。十分偶然の範囲内だ」


 説明を終えた優一は、車止めの上に腰掛けると、ジュースを飲んで咽を潤した。場に静寂がやってくる。


 弘瀬は陽奈と優一を見やった。陽奈からの電話で、中腰が来たのは理解した。だけど、優一がいる理由の説明はなかった。容易に想像がつくことだが、おそらく二人は、ずっと一緒にいたのだ。それはいつからだろう?


 そんな弘瀬の視線に気づいたのか、陽奈は何か言おうとして、それでも思い切ることができずに視線を逸らした。


「先に俺のことから話そうか?」


 優一の申し出を陽奈は首を振って断った。意を決したように息を吐くと、再度弘瀬へと向き直った。

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