6-2 殺人者

 弘瀬は、自分の呼吸が随分と荒くなっていたことに気づいた。


 冷蔵庫の中はやけに雑然としていた。歪な形で切り取られた、野菜や芋などの残り片。タッパーの透明な容器の向こうにあるのは、何を作ったか判然としない、奇妙な料理の数々。


 中を照らす光が、それらを柔らかく包み込んでいる様は、いつかテレビで見た、霊安室を連想させた。


 そしてその中央に、新聞紙で包まれた大きな丸い塊が鎮座している。


 弘瀬は息を呑んで、その物体を注視した。新聞紙で包まれて中が見えないそれの大きさは、スイカよりも一回り小さい。ちょうど人の頭部くらいだ。


 恐る恐る指先でつついて様子を確かめる。想像よりも硬い感触。なんとか新聞紙を剥がして中を覗き見ようとしたが、新聞紙は何重にも巻き付けられており、すべてを取り除くためには一度外に出す必要があった。


 不安と恐怖がわずかに、伸ばす手の動きを躊躇わせる。だが、ここまできたからには確かめられずにはいられなかった。弘瀬は全神経を集中させて、その新聞紙に包まれた丸い物体を手に持つ。


 そのため誰かが部屋に侵入していても、弘瀬には気付くだけの余裕がなかった――。




   * * *




 その人物は音を立てないように静かに侵入を果していた。


 冷蔵庫の前で座り込む弘瀬を見つけると、じっとその様子を観察した。


 冷蔵庫の扉のせいで弘瀬の頭部しか見えないが、向こうもこちらを認識できない。思わぬ行幸に唇が歓喜に歪む。


 右手が次の瞬間、銀光を放つ。そこには刃渡り十五センチもあるナイフが握られていた。表面に油っぽいモノが染み付いているせいか、その輝きは鈍い。


 そいつは、音を立てないよう、慎重に歩を進めた。


 そしてナイフを握り締めなおして襲いかかろうとした瞬間、弘瀬が顔を上げた。目が合う。だがその行為は、ナイフを振り下ろす動作に微塵も抵抗を与えなかった――。




   * * *




 新聞紙を剥ぎ取ろうとして、やはり勇気を出し切れなかった弘瀬は、救いを求めるように視線を動かした。


 そして、そいつと目が合う。


 背後に人がいたこと、まずそれ自体に驚き、続いて襲ってきた殺意に、思わず悲鳴をあげた。


 手に持っていた塊で、咄嗟にナイフの一撃を防ぐ。両手にずっしりと重い衝撃が走った。親指と人差し指の間からナイフの先端が飛び出してきて、弘瀬の左目、数センチ前で刃先が止まった。


 尻餅をついた状態の弘瀬に、そいつが覆いかぶさる形になったが、冷蔵庫のドアが邪魔しているせいで、向こうは体重を乗せ切れていないようだ。


 弘瀬は思い切り冷蔵庫のドアを蹴り飛ばした。そいつの体が大きく後ろに揺らぐ。


 その隙に弘瀬は、手に持っていた丸い塊を投げつけた。それは襲撃者にぶつかると、真っ二つに割れて床に転がる。新聞紙の中からまろび出てきたそれは、ただのメロンだった。


 呆然とする弘瀬を尻目に、襲撃者は再びナイフを握りなおすと、弘瀬へと向き直る。


「どうしてこんなことを?」


 弘瀬の質問にも答えず、しかし、すぐに襲ってくるわけでもなく、そいつはただただ、感情のこもっていない視線を弘瀬に投げかけてくるだけだ。


「馬鹿なことはやめるんだ。――上原くん」


 名前を呼ばれて、初めて正治はにやりと笑いを浮かべた。


「『どうして』? わかっているでしょ? さっき立花先輩も言っていたじゃないですか? 夜通埼神社の呪いから逃れる方法を」


「まさか、みんなを殺したのは、上原くんなのか?」


「みんな、というのは誤解がありますね。僕だって最初はこんな馬鹿馬鹿しいことを信じるつもりはなかった。小鳥遊先輩が死んだのもただの事故だと思っていました。だけど――、僕は実際に経験したんですよ」


 そのときになって、初めて弘瀬は正治が右腕でナイフを扱っていることに気づいた。確か事故に遭って骨折していたはずだ。あれは自分たちを油断させるための演技だったのだろうか?


「次の日僕は事故に遭いました。一歩間違えば死ぬような事故です。僕は今まで交通事故とは無縁でした。ちゃんとルールは守っていましたし、安全にだって気を配っていました。そんな僕が、そんな僕がですよぉ? 小鳥遊先輩が謎の死を遂げた次の日に事故に遭ったんですよ。あり得ない。あり得ないですよぉお! それに僕が躓いたのは、石か何かを踏みつけたからって、警察は言ってましたよね? 違う、違うんですよ。僕はちゃんと前を確認して、自転車に乗っていました。躓くほど大きな石なんて、気付くはずでしょ? なかったんですよ。そんなものはなかった。念のため、自分でもう一度調べてみましたけど、やっぱりそんなものはなかった! じゃあ、僕はいった何に躓いてこけたんですかね? 立花先輩、あなたは正解にたどり着いたんですよ。そう、呪いは存在する。存在するんです」


「それで、自分だけが助かるために……。どうして、お祓いとか、そんなことを考えなかったの?」


「お祓いね……。先輩も知っているでしょう? それとも家族の話なんてそれほど興味のある話題じゃないんで、忘れてましたか? 僕の実家がですね、霊媒師の仕事をしているんですよ。霊媒師なんてものはですね、信心深い人から金を騙し取るのが仕事なんです。ただの水道水を聖なる水と偽っては高い値段で売りつけて、昔に書かれただけの言葉を、お経という名で、さもありがたいモノのように詠んで。小さい頃からそんな詐欺まがいの仕事の手伝いをしてきたんです。だから知ってるんですよ。この世に呪いは存在しても、霊能力者や占い師なんていません。当然、呪いを解ける人間なんていないんです。だから、より確実な方法を取る必要があった。先輩は死を感じたことないから、人を殺してまで生き延びようとする僕をそんな目で見るんです。僕は知った。いや、体感した。硬い道路の上に投げ出されて、目と鼻の先を巨大なダンプカーのタイヤが横切って、そこには死があった! 今でもあのときの轟音と風圧と、凍えるような恐怖をリアルに感じるんです。先輩はネットとかで事故死した人間の、グロ画像を見たことがありますか? あれは生き物じゃない。ただの物体です。僕も一歩間違えば、あの画像と同じモノに成り果てていたんですよ。そんなこと許されますか? 僕にだって思考がある。感情がある。それなのにただの物体になってしまうんですよ。……そんなこと、――あっては駄目ですよね?」


「……本当に、上原くんがみんなを殺したの?」


「だから、小鳥遊先輩は別です。あと黒岩先輩も。あれは殺す手間が省けたし、警察の目を誤魔化すのにも役立ちましたね。けれどあれは呪いによるものだと信じています。僕が殺したのは、蕾さんと歩先輩、天草先輩の三人です。結構少ないものでしょ? そして今から立花先輩。バイクの男。何も知らずにやってきた真白さんを脅してから、バイクの男を呼び出さなくちゃなりませんね。そして最後は彼女にすべての罪を着せて殺す。僕が一人だけ生き残ることで疑問を抱く人もいるでしょうが、一度死にそうになった事実と、真白さんの後ろめたい過去が、追い風になってくれますよ。まあ、最悪捕まっても、呪いを解くのが動機だとわかれば刑事責任は問えないでしょうね。あと、一応僕は未成年です」


 正治の瞳から、再び感情の光が消えた。もはや語ることは何もない。そう言っているかのようだ。代わりに全身から滲み出てきたのは、深い殺意の影。


 情けないことに、弘瀬は足が竦んでうまく動けなかった。明らかな体格差、武器の有無、さらには攻撃の意志。すべてにおいて弘瀬のほうが負けていた。


 じりじりと正治が距離を詰める。

 それに合わせて、弘瀬も後ずさりする。


 しかし狭い部屋の中、すぐに行き詰まる。大きく円を描くように、部屋の中を半回転したところで、完全に逃げ場を失ってしまった。


 それでも気を奮い立たせて、なんとか構えだけは取る。

 ここで自分があっさり殺されてしまったら、陽奈もまた殺されてしまうのだ。今度こそ彼女を守ってみせる。


 その瞬間、不意に玄関のほうを見た正治の表情が、焦りと驚愕のそれに変わる。


 何が起こったのか? そんな弘瀬の疑問はすぐに氷解した。


「……殺人未遂の現行犯だな」


 低い威圧感のある声と共に、男が部屋の中に入ってきた。弘瀬の知っている顔だ。中腰という名の刑事だ。


「立花くん、怪我はないか?」


 中腰に続いて、優一が姿を現した。心配そうな表情のまま、弘瀬に駆け寄ってくる。


「上原正治、ナイフを床に置いて貰おうか? こっちとしても手荒な真似はしたくないんだ」


 訳がわからず呆気に取られていた弘瀬だったが、自分が助かったこと、そして正治が追い詰められたことだけは理解できた。


 それは正治のほうも同じだったらしい。鋭い舌打ちを放つと共に、ベランダに続くドアの鍵を開けると、外へ飛び出した。しかし、ここは三階だ。飛び降りるには高過ぎる。


「くそっ、悪知恵の働く奴だ」


 正治の意図を理解した中腰は駆け出した。通常ベランダは、隣との敷居を薄い壁で遮っている。緊急時はこの壁を破って隣の部屋へ非難するためなのだが、今はそれが仇になった。正治の手には依然ナイフが握られている。人質を取られたりしたら厄介なことになる。


 正治はベランダに飛び出すと、すぐさま壁を叩くが、一撃で壁は破れなかった。それもそのはずで、壁の向こうには粗大ゴミの山が築かれており、非難通路の役割を果たしていなかったからだ。常識に疎い隣人の行動は、結果的に本人を助けることになったのだ。


 そうこうするうちに、中腰もベランダに飛び出した。


 ナイフを持っている正治だったが、さすがに刑事相手には分が悪いと思ったのだろう。彼はベランダの手すりに足をかけた。外を伝って隣の部屋に移動するつもりなのだ。


「無駄なことはやめろ!」


「僕はまだ捕まるわけにはいかない。呪われたままじゃ駄目なんだ!」


 叫んだ瞬間、正治は体のバランスを崩した。


 その表情が一瞬にして、絶望に変わる。


 異変を察した中腰は駆け出して手を伸ばした。だが、それは着衣の表面を擦っただけに過ぎなかった。


 そして、落雷のような轟音が響いた。

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