5-3 冷蔵庫

 夏の日は時間の過ぎる速度が遅い気がする。日中が長いためにそんな錯覚をしてしまうのだろうか。


 今の時間は六時を少し過ぎたあたり。未だ真昼のように熱い日差しと活気が溢れている。


 冷たいアイスクリームを口に頬張りながら目の前を通り過ぎていく子供たちを、大人げもなく羨ましく感じてしまう。


 じっとりとした汗が体を蝕んでいくなか、弘瀬は公園で人を待っていた。外に出ることにまったく不安がなかったわけではないが、呪いによる死ならば、どこにいても同じだ。


 やがて、正面から見知った顔が現れた。


 しばらく会わないうちに、随分とやつれ、一瞬記憶をたどってしまったが、それは間違いなくサークルの後輩、上原正治だった。右腕は未だ三角巾で吊るされたままだ。


「すいません。こんなところに呼び出してしまって。でも、人目があるところのほうが安全だと思うので――」


 そう言いながらも、正治の視線は辺りを警戒するようにせわしく動いている。もともと気の弱そうなタイプだったが、呪い騒ぎで随分と参ってしまったらしい。


 二人は連れ立って近くのファミレスへと入っていった。


「立花先輩のところにも警察の人が来たんですよね?」


 冷たいドリンクで干上がった体を潤して、一息ついたころ、正治が覇気のない口調で言った。


 大人しい性格ではあったが、決して陰鬱ではなかった彼だが、弘瀬と会ってからまだ一度も笑顔を見せていない。背は弘瀬よりも十センチも高いのだが、今は病気の老人のように縮んで見える。


「ぼくも先輩たちの死は呪いのせいじゃなく、誰かがやっていることだと思います。一番怪しいのは真白さんです。立花先輩だって、天草先輩や警察の人から聞いたでしょ? 彼女は平気で人が殺せる人間なんです」


「上原くん、落ち着こうよ」


「あ、すいません。二人は付き合ってるんでしたね。でも、やっぱり彼女以外には考えられない。僕は死にたくない。死にたくないんだ」


「俺は違うと思う。彼女には俺たちを殺す動機がないし。たぶん、呪いは実在するんだよ。誰かが人殺しだと疑うのはもうやめよう」


 正治は目を見開き、わなわなと口元を震わせる。しかし、その表情に呆れの色はなかった。どちらかと言えば、新しい街に引っ越してきたときのような、新鮮な感動が混じった驚きだ。


 やがて、正治は自分を取り戻すと、口を開く。


「動機はありますよ。ネットで夜通埼神社の呪いについて調べてみてください」


「うん。そのことは知っている」


「――そうですか。でも、あれも無意味ですね。たまたま通りかかったバイクの男が、どこの誰だか分からないことには、確実に生き残ることはできない。バイクの男が運よく呪いで殺されれば話は別ですが、結局はランダムに死ぬ人が決まってしまう。真白……犯人は、賭けにでも出たんですかね?」


 陽奈に対する警戒は、すぐには解けないようだった。


「バイクの人物ならわかってるよ。偶然会ったんだ」


「えっ、それはどういうことです?」


 弘瀬は優一のこと、そして陽奈が噂の件で傷ついていることを話した。


 犯人を捜すような顔つきで話を聞いていた正治だったが、弘瀬が順序だって丁寧に説明するにつれて、だんだんと表情を弛緩させていった。


 そして弘瀬と陽奈、優一と正治との四人でお祓いに行こうという提案に対し、しぶしぶだが了承してくれた。


 会計を済まし、正治と二人で外に出たタイミングで再びスマホが鳴った。弘瀬にとって、一日に三回も電話が鳴ることは稀だ。着信表示を見て、思わず息を呑んだ。


 ――そこには真白陽奈と表示されていた。



「もしもし、先輩ですか?」


 少し控えめな軽鈴のような声は、確かに陽奈のものであった。


「うん。……ごめん、真白さん。俺、真白さんの傍にいてやれなかった。ごめん」


「いいんです、そのことは。先輩がいい人だってのは分かっていますから。気にしないでください。逃げたのは私のほうです。先輩は悪くありません」


「そんなの……。逃げたのは俺のほうだよ。本当にごめん」


「先輩。今から会えませんか? 私、思ったんです。逃げても逃げても過去が追いかけてくる。一度一人歩きをはじめた噂は、影のようについて回るんだと。だから私、ちゃんと向き合ってみようと思います。二年前に起こった事故の真実を話します。信じて欲しいとか誤解を解きたいとかそんなんじゃないんです。ただ聞いて欲しいんです。でも、それを聞いて先輩がどう思うかは自由です。そのことについて心を傷めるようなことがないようにお願いします。先輩にすべてを話したいと思ったのは、私の我が儘ですから――」


 陽奈は決心の強さを証明するかのように、落ち着いた声ではっきりとしゃべった。


 一晩のうちに何があったかは分からないが、まるで別人のように弘瀬には感じられた。


「私のアパートで待っててくれますか? 知っているかもしれませんが、鍵は開いたままです。あの、今部屋ですか?」


「いや、外だけど。真白さんもまだ外なの?」


「はい。今から戻ります。先輩のほうは部屋までどれくらいで着きます?」


「ええと、ここからだと十分くらいかな」


「そうですか、私のほうは一時間くら――」


 唐突に陽奈の声が途絶えた。代わりにツーツーという音が聞こえてきた。陽奈の身に何か起こったのでは、と弘瀬は焦る。


 ややあって、ただ単に自分のスマホが電池切れになっただけだと気がついた。昨日は充電するのを完全に忘れていたので、電池が切れるのも当然だ。


「ごめん、上原くん。ちょっとスマホ貸してくれない? 結構大事な話なんだ。真白さんの電話番号は入ってる?」


 弘瀬は番号を表示してもらってからスマホを受け取り、すぐに陽奈へとかけた。しかし、なかなか出てくれない。


 呼び出し音が鳴る度に、不安と焦りが増していく。しばらくしてやっと陽奈が電話に出てくれた。


「もしもし、真白さん? ごめん、俺の携帯、電池が切れたみたいで」


「先輩? 立花先輩ですか?」


 やけに焦った陽奈の声だった。心なしか涙声にも聞こえる。この短い時間に何かあったのか? そんな疑問が頭をよぎった。


「あの、無事ですか? なぜ上原くんの携帯を?」


 そこで遅ればせながら、陽奈が電話に出るのを逡巡した理由を理解する。弘瀬としては自分がかけていたつもりでも、事情を知らない陽奈にとっては、正治からの電話だと思うだろう。

 弘瀬は今、正治と一緒にいることを伝えた。


「……そうですか。あの、私の部屋には先輩一人でいてくださいね」


「え、あっ、うん。そりゃあ、そうするよ」


 弘瀬は思わず苦笑してしまった。


 いくら常識に疎いところがある自分でも、今から大切な話をするというときに、陽奈の部屋に正治を連れ込むほど非常識ではない。


 もしかしてそんなふうに思われていたのだろうか? 


「あの、本当にお願いしますね。絶対に、先輩一人で待っていてください」


 改めて釘を刺されてしまった。必死な口調に思わずたじろいでしまう。


「うん、わかった。約束するよ」


 弘瀬は電話を終えると、正治にスマホを返した。


「電話、ありがとね。俺は今から真白さんの部屋に行くから。ごめんけど、帰るね」


「えっ、あの、やっぱり僕がいると邪魔でしょうか……」


 正治が不安に声を震わせた。彼は今、独りでいることに強い恐怖を感じているらしい。次に殺されるのは自分ではないかと、怯えているのだ。


 そんな正治の気持ちを弘瀬は知っていたが、陽奈に再三の釘を刺されたのだ。申し訳ないと思いながらも、顔を縦に振ることはできなかった。


「真白さんは今、外なんですよね? どれくらいで戻ってくるって言ってました?」


「一時間くらいかな」


「じゃあ、彼女が戻ってくるまでの間でいいんで、僕も部屋にいちゃ駄目ですか?」


「ごめん。約束したんだ。ほかに泊めてくれそうな友達とかはいないの?」


「いませんよ。誰も呪いなんていう、気味の悪いとばっちりは受けたくはないですから」


「じゃあ、実家とかは?」


 言いながら、弘瀬は不思議に思った。正治もそうだが、なぜみんなは実家に帰らなかったのだろうか? 


 だがすぐに、そんな疑問は氷解する。よくよく考えれば、今日になって初めてことの重大さを理解したのだ。


 すぐに実家に戻りそうな美花は次の日には殺されていたし、歩はもともと実家通いだった。


 都巳も圭もおそらくは逃げ出さねばならないほどの危機感を抱く前に死んでしまった。じゃあ、陽奈と正治は? 


 だが、当の弘瀬自身もそんなことは微塵も考えなかったのだ。人のことを言えた義理ではない。


 正治もその考えは思いつかなかったのか、一瞬戸惑うように眉根を寄せた。そして諦めるような、どこか自嘲するような微妙な表情をつくる。


「僕の実家はC県なんですよ。帰るには飛行機か新幹線を使う必要があります。できれば今は、そういった乗り物には、あまり乗りたくない気分なんですが……」


 正治が力なく言った。事故に遭うのを心配しているのだろう。やるせなさが胸を突く。


「立花先輩。途中まで帰り道が一緒なので、真白さんのアパートの前までは、ご一緒してもいいですか?」


 弘瀬はその申し出を受けた。それくらいはいいだろう。正治と肩を並べて歩き出す。その間全く会話はなかった。


 陽奈と電話をしていたときは茜色に染め上げられていた雲も、今では薄暗い空の色と同化していた。


 長く蒸し暑い昼にも終わりは訪れ、永遠にも思える夏の活気も、いずれは冬の寒気に取って代わられる。


 あの日、陽奈に告白してからいろんなことがあった。自分とは別の世界にいたはずの死が突然やってきて、次々に友人たちの命を奪っていった。


 ただ好きになって普通に付き合って、そんな等身大の出来事でも十分なドラマだったのに、現実は想像を遙かに超えて、歪な物語を紡いでいった。


 女の子を泣かせたことも、泣くほど後悔したことも、これが初めての経験だった。


 だけど、それらもいつかは終わる。陽奈がすべてを話してくれるという。


 昨日別れてから、どこにいて、どんなことを考えて、何に苦しんで、何を求めてそんな結論に至ったかはわからない。


 けれども今から、彼女の話を聞くことによって、あの日からはじまった非現実的な現実が終わる。そんな予感がするのだ。



「それじゃ、僕は帰ります。立花先輩が真白さんを信じているのなら、僕が言うことはありません。お祓いの件は僕のほうのでも調べてみます。何かあれば、また連絡します」


 陽奈のアパートの前まで来ると、今日初めての笑顔を見せて、正治は去っていった。


 正治の後ろ姿をしばらく見送ってから、弘瀬はアパートの階段を上った。


 陽奈以外にも人が住んでいるはずなのだが、自分が出す物音以外、何も聞こえない。遠くでときおり聞こえる誰かの笑い声が、かえって静寂を強調する。


 シン――、

 と冷えた空気が滞っているような廊下を、弘瀬は進んだ。じっとりと染み出していた汗は、いつの間にか乾いていて、かさかさした服の感触が肌に伝わってくる。


 陽奈の部屋の前に来ると、一応ノックをしてみた。無論、反応はない。電気がついていないことは確認済みだ。


「おじゃまします」


 誰もいないことが分かっていても、そんな反応をしてしまう。弘瀬はドアを開けて、陽奈の部屋へと上がり込んだ。


 ドクン、と心臓が大きく跳ねた。


 全身を凄まじいまでの悪寒が駆け上っていく。肝が冷えるという表現があるが、実際のそれは激しい痛みを伴うものだと、このとき初めて理解した。


 ――部屋の中には、大輔がいた。


 それがすでに死体であることは明白だった。なぜならその大輔の死体には、首がなかったからだ。それでも大輔だと認識できたのは、何度も夢で見た姿そのものだったからだ。


 大輔は部屋の一角を指差していた。そこに何があるのか弘瀬は知っていた。夢でも現実でも見たことがある。


 弘瀬がそのことに気付くと、それを待っていたかのように大輔の体は透き通っていき、やがて完全に消えてしまった。


 それと同時に、驚愕のあまり止まってしまっていた呼吸が回復する。大量に押し寄せてきた空気の群れに肺が耐え切れず、弘瀬は思いっきりむせてしまった。


 幽霊を見たのだ。夢の中などではなく現実の世界で――。


 しかし、それはあまりにも一瞬のことで、あまりにも現実離れしていたことから、本当に起こったことなのかという疑問は、拭い去ることができない。


 もう一度、大輔がいた辺りに視線を送る。そこには闇色に染まったアパートの一室があるだけだった。


 目の錯覚でわずかに世界がぶれて見えるが、それ以外におかしなところはない。


 恐怖で逃げ出したいという気持ちは確かにあった。けれどそれ以上に、義務感のような思いが背中を後押しした。


 首のない大輔が指し示す場所。そこには冷蔵庫があった。それは果たして何を意味するのだろうか? 


 昼に来た刑事の話では、大輔の首は未だに見つかっていないらしい。それらが指し示すものはいったい何か? 


 弘瀬は首を亀のように伸ばして、体をがちがちに緊張させながら前に進んだ。


 さすがに暗いままでは気味が悪いので、手を伸ばして壁を探る。

 変なものに触れませんようにという祈りが通じたのか、なんの問題もなく部屋に明かりを灯すことができた。

 それだけのことなのに随分と心強い。


 そして、改めて冷蔵庫を見た。なんの変哲もない普通の冷蔵庫。だがそこに、何かがあると大輔は言っている。調べるなら陽奈のいない今しかない。


 弘瀬はゆっくりと、冷蔵庫へと近づいた。冷蔵庫特有の低周波音が聞こえてくる。このプラスチックの薄戸の向こうはどうなっているのか? 


 半ば想像力を働かせ、半ば何も考えないようにしながら、手を伸ばした。


 扉に手をかけた弘瀬は、急に不安になって一度だけ後ろを振り向いた。そして、そこに誰もいないことを確認すると、意を決して冷蔵庫の扉を開けた――。

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