5-1 新たな死体
弘瀬は無気力な瞳に、特徴のない天井の壁を映していた。
若草色のカーテンは淡く輝き、外が晴天であることを教えてくれるが、動く気さえ起きない。
腹が減ってどうしても我慢できずにカップラーメンを食べたのとトイレ以外は、ずっとベッドの上で横になっていた。
あれから何度か、陽奈に連絡を試みたが駄目だった。初めの頃は意図的に電話を切られていたみたいだったが、今では常に「電源が入っていないか――」のアナウンスが流れてくる。
電池が切れただけだと思い込もうとする思考が、かえって気持ちを惨めなものにさせた。
メールも何度か送り、そのすべてに傷つけて悪かったという謝罪と、陽奈を信じているという内容をしたためた。
あまりにしつこくすると迷惑になると思い、意図的に回数を抑えてはいるが、もしかしたら陽奈の身に何かが起こったのではないかと不安になり、未練がましく電話をかけてしまう。
昨日の夜のことが、陽奈が経験していたイジメの残酷さを雄弁に物語っていた。そのことを思うと、目の奥が熱くなり風景が滲んでしまう。
あれは人の所業ではない。陽奈が狂ってしまったとしても、そのことで彼女が責められる謂れはない。
それにしても、言われるまま素直に部屋を出て行ってしまった自分が情けない。
ああいう場合は、どんなに罵られようとも近くにいてやるのが彼氏の役目ではないのか? ショックで気が動転していたとはいえ、かえって陽奈を侮辱してしまったのではないだろうか?
都巳のときもそうだ。あっさりのされてしまい、結局陽奈を守ることができなかった。
もしもあのとき、偶然優一が通りかからなかったら、どうなっていただろう。本当に情けない限りだ。
そのこととは別に、弘瀬の思考を埋めていくものがあった。
優一が通りかかったのは、果たして偶然なのだろうか?
弘瀬は四六時中陽奈と一緒にいるわけではない。二人が密会していても、知る由はないのだ。二人はどんな関係なのだろう?
以前陽奈が見せた怯えは、あのときにはもう消えていた。それは二人の間になんらかの変化があったということではないのか?
弘瀬は目を閉じて、悪い想像をしてしまいそうになる思考を断ち切った。今心配すべきは陽奈のことなのだ。自分のことではない。
あえて思考を止めたせいか、ふと、バイクに跨って去っていった優一の姿が、何かとダブった。
デジャヴのように、どこかでまったく同じ所作を見た気がした。どこで見たのだろう? 目を閉じて記憶の糸を探ってみる。
そして思い出した。
波佐見優一は、あの肝試しを行った日に、バイクを押して現れた人物だったのだ。幽霊が出たと陽奈が騒いでいたときに、あの場所にいたのだ。
またもや、あの場所にいたのは偶然か? という疑問が浮かび上がってきた。
なんの解決にもならないことは重々承知しているが、どうしても悋気を孕んだ想像を止めることができない。
しかし、今度はすぐにそれをやめることができた。外部からの干渉があったからだ。誰かが玄関のチャイムを鳴らしてきた。
貧乏学生が住むアパートなので、当然カメラの類はない。ドアには誰が来たかを確認するための穴が空いていたが、弘瀬はそれを利用したことはなかった。
そこには、見知らぬ男性が二人、並んで立っていた。
顔に深い皺を刻んだやけに眼つきの鋭い中年の男と、自分はラガーマンですと主張しているような体格と短く切りそろえた髪に、同じく鋭い眼光を突きつけてくる若い男だ。
弘瀬は軽くたじろいだ。一般人に比べ警戒心の薄い弘瀬だが、二人の男に睨まれ、痺れるような緊張感を覚える。
そんな弘瀬の様子を感じてか、中年の男はニコリと威圧感を残したまま笑うと、胸の内ポケットから黒い手帳を取り出して、中を開いて見せる。
警察手帳だった。中腰孝則という名前が書いてある。
「以前お会いしましたが、覚えていますか? 立花弘瀬くん」
男は孝明が転落死したときに会った刑事だった。知っている人間であっても、出会う場所によっては思い出せないことがある。昼と夜とでは印象が違うというのもあるだろう。優一がいい例だ。
そう言われて初めて、弘瀬は刑事のことを思い出すことができた。
「あ、はい。あの、どうかされたんですか?」
煙草の臭いと汗の臭いがつんと鼻を突く。嫌な予感がした。
「単刀直入に言いますと、あなたの友人の天草圭くんと蕾美花さんが、死体で発見されました」
なぜか、それほどショックは受けなかった。心のどこかで、それを想定していたのかもしれない。
「私どもはこの二つの死を、殺人事件として捜査しています。少しお話を聞かせてもらっていいですか?」
弘瀬はすぐに中腰たちを部屋の中へ招き入れた。きれい好きというわけではないが、比較的物が少なく、本やゴミなどはこまめに片付ける癖があるので、大学生の部屋としては整頓されたほうだろう。
食器棚、タンス、本棚、テレビにパソコン、簡素なベッドにテーブルが一つ。なんら特徴のない一般的な大学生の部屋だ。
一人暮らしなので、客人に出すような飲み物や座布団の類もない。
それ以前に、そんなことは微塵も気にしない性格の弘瀬は、先にカーペットの上に座ると、中腰たちが口を開くのを静かに待った。
向こうもそんなことは気にしない性格なのか、または慣れているのか、カーペットが薄く敷かれただけのフローリングに腰を下ろすと、おもむろにペンと手帳を取り出した。
「それでは、肝試しがあった日の行動を、詳細に教えてください」
弘瀬は素直に話しはじめる。肝試しの日の行動、圭たちとの会話。
そこで初めて圭たちの死を実感でき、声に涙が混じった。
陽奈と付き合うことになったこと。バイクの男。そして幽霊が現れたという話。家に帰って、幽霊の夢を見たこと。大輔の死。正治の事故、歩の転落死、都巳の事故死――。
弘瀬はときおり中腰の質問に答えたりしながら、詳細に情報を与え続けた。
「次は、真白陽奈さんのことについて、教えてもらえますか?」
唐突に陽奈の名が出てきたことに、弘瀬は激しい抵抗を覚えた。
彼らも陽奈を疑っているのか?
そんな思いが弘瀬を不安にする。刑事に疑われるのは、一般人に疑われるのとはわけが違うのだ。
彼氏として、なんとしても陽奈を守りたい。そうは思うが、先ほど質問されたことで、はっきりしたことがある。
――事件があった時間帯に、陽奈と一緒にいたことは一度もなかったのだ。
物的証拠で守る術はない。恋人という立場も、彼女の人間性を証明するのになんら説得力を持たないだろう。恋人だから贔屓目でかばっていると思われるだけだ。
それでも――。
「刑事さんたちも、真白さんを疑っているんですか? やめてください。彼女は酷く傷ついています。あの噂には無責任な尾ひれがついているんです。信じてもらえないかもしれませんが、彼女は他人を傷つけるようなことなんてできないし、しようとも思いません」
怒気を込めて言い放つ弘瀬を、中腰は興味深そうに眺めていた。そして、なぜかうれしそうに頷いて、
「そうですね。君の言うとおりだ。例の噂を知っているなら話は早い。こっちも聞き込みをしていたらすぐに耳に入ってきた噂でしてね。一応調べてみたんですよ」
弘瀬は、櫻井から聞いた話よりも詳しい内容を知ることができた。
運転手がナルコレプシーで、被害者が線路に落ちたところを見ていなかったこと。事情聴取をしたときの陽奈の様子。そしてそのときの陽奈の証言。
陽奈は事故の瞬間、すでに駅の改札口から外に出ていたというのだ。そしてゴムの弾けるような音と電車の急ブレーキの音を聞いて異変を察した。
少しためらってからホームに戻り、小田博子の死を知ったというのだ。それが本当だとすると、事故の真相を知る者は本当に誰もいないことになる。
「この程度の噂ならば疑うほどのこともない。君の言うとおり、おもしろ半分に話が大きくなってしまっただけです。それに今回の事件について、彼女には動機がない。最近は動機のない事件も多いというイメージが強いみたいですけど、基本は動機です」
中腰が意外にも冷静な判断をしてくれたので、弘瀬は安堵する。
なんでもかんでも疑うのが仕事だと半ば誤解していたからだ。それに噂を信じるつもりはないという彼の言葉には、信念のようなものを感じた。
「彼女を疑っているというわけではありません。しかし、一応すべての疑問を解消しておくのも、捜査に集中するためには必要なことでしてね。プライベートなことだとは思いますけど、昨日真白さんとの間に起こったことを話してはくれませんかね?」
中腰が言うには、昼ごろ陽奈のアパートに行ってみたそうだ。ところが誰もいなかった。無用心にも部屋の鍵は開いたままだったらしい。
今起こっている事件のこともあるし、すぐに陽奈の電話番号を調べて連絡したそうだ。
そこで陽奈本人と直接連絡が取れ、近くの公園で事情聴取をしたのだが、部屋が開いたままになっている理由については教えてくれなかった。
去り際に、喧嘩しているので、弘瀬には居場所を教えないで欲しいと頼まれたそうだ。
陽奈が無事であったことに安堵しながらも、弘瀬は昨日起こったことを話して聞かせた。話しているうちに、不甲斐なくて情けなくて、声が涙色になってしまった。
話を終えた後も、肩を震わせていた弘瀬だったが、二人の刑事は弘瀬が落ち着くまでの間、黙って待っていてくれた。
最後に聞きたいことはあるかと訊かれたので、弘瀬は圭と美花のことについて質問した。
あえて最初にその説明がなかったのは、弘瀬も容疑者として疑われていたからなのだが、弘瀬がそのことに気付くことはなかった。
現在詳しい死因は調査中なのだそうだが、初見での圭の死因は、心臓を鋭利なナイフで一突きにされたことによる心臓損傷らしい。
犯行は本人が寝ているときに行われたらしく、圭が動いた形跡もないことから、おそらく自分の身に起こったことに気付くことなく死んでしまったのだろうと教えてくれた。
昼過ぎに麻雀に誘おうとやってきた友人が発見したそうだ。
圭の部屋の鍵は壊れたまま修理されておらず、誰でも好きなときに自由に入れる環境にあった。部屋自体が溜まり場になっていたので、圭はずっと鍵を直すようなことをはしなかったのだ。
体育会系の刑事が言うには、心臓を一突きで殺害というのは想像よりも難しい殺し方なのだそうだ。
心臓の部分には肋骨があるので、一突きで殺すには刃を肋骨の隙間と平行にする必要があり、初犯でそこまで頭が回るのは稀らしい。
そのことからも、美花を殺した人物と、同一犯だと考えているらしかった。
次に美花の死因について教えてくれたが、こちらは想像を絶する惨状で、話を聞いた弘瀬は思わず口を押さえてしまった。
美花の遺体は死後数日経っていたが、チラシの溜まり具合や友人たちの証言から、正治が事故にあった日に殺された線が濃厚らしい。
直接の死因は首を切断されたことによるショック死、または失血死。ただし頸部には紐で締めたような跡もあり、おそらく犯人は当初、首を絞めて殺害しようとしたらしい。
しかし美花は、気絶しただけで生きていた。そしてその後、ナイフでめった刺しにされた際に、意識を取り戻し、必死に抵抗したらしい。両腕に無数の防御創が何本も刻まれていたそうだ。
「あの、やっぱり肝試しをやったことは事件には関係ないんでしょうか? 真白さんは、あの日幽霊を見たと言ったんです。みんなは人のせいにしたがるけど、やっぱりそれでは説明できないような気味悪さを感じるんです」
言ってしまってから、馬鹿な発言をしたと後悔した。体育会系の刑事の目が明らかに睥睨したものに変わったからだ。
「まあ、黒岩都巳さんの死は、君が一番知っていると思うが、完全な事故だ。君が気味悪く思うのも仕方ないかもしれません。だけど、刑事をやってきてよく思うことがあります。本当にこの世に幽霊が存在するのなら、どうして犯罪をした人間が捕まることなく、のうのうと生きているのか? と。殺された本人が、幽霊になって現れて、犯人を教えてくれたら、私は刑事生命を賭けてもいい。絶対に犯人を捕まえて無念を晴らしてやりますよ。無能な刑事の言い訳に聞こえるかもしれません。だけど、私はこう思います。行方不明者や未解決の殺人事件が現実にある以上、幽霊なんて存在しない、とね」
中腰は熱を帯びた声で言った。
飄々とした感じのするこの刑事の意外な一面を見た気がして、弘瀬は息を呑んだ。おそらく想像もできないような深い想いが、この科白には込められているのだろう。
「真白陽奈さんの件だが、霊が見えるという話を真面目にするようであれば、一度病院に行ったほうがいい」
体育会系の刑事が淡々と口を開いた。ぎょっとするような内容だが、彼の表情は至って真剣だ。
「病院と聞くと印象は悪いかもしれないが、要は薬をもらって帰ってくるだけだ。人が物を見るとき、実は目でなく脳で物を見ているんだ。だから、同じ情報を目から取り入れても、脳が違う映像をつくりあげてしまうことがある。それが幻覚や幻聴というやつだ。幽霊が見えていると本気で言っているのなら、脳、つまり精神の異常が考えられる。精神の異常といっても、それほど警戒することではない。脳だって体の一部だ。体の異常であれば、誰だって経験する。一度も風邪をひいたことのない人や、怪我をまったくしたことのない人間なんていない。精神もそれと同じなんだ。集中力の出ない日、機嫌が悪い日などは誰だってあるだろう? 精神のときだけ大げさに考え過ぎなんだ。風邪をひいたときと同じような感覚で、病院に行ってくればいい。それで彼女は健康になるんだから」
最後に刑事たちは、何かあったらすぐに連絡するようにとお決まりの科白を言い残して、弘瀬の部屋を後にした。
弘瀬は刑事たちを見送った姿のまま、しばらく思考を巡らせる。
刑事たちはああ言ったが、やはりこれらの事件は異常だ。本当に呪いはこの世に存在しないと言い切れるのだろうか?
弘瀬は都巳が死ぬ瞬間を見ていた。あの死に不自然なところは何一つない。だからこそ言えるのだ。
あの日から続く一連の死は、人の手によってなされたように思えることでも、その実は超常的な力によってなされているのではないかと。
もし呪われてしまっているのならばどうすればいいだろう? やっぱりお祓いだろうか。
弘瀬はパソコンを立ち上げると、ネットへと接続した。未だにスマホのタッチパネル方式には慣れない。家にいるときは、パソコンを優先させている。
夜通埼神社の呪いについて調べるため、関連する単語で検索をかけてみた。そこで弘瀬は驚くべき内容を見つける。
なんと夜通埼神社の呪いから逃れる術があるというのだ。
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