3-4 いじめの傷跡

 弘瀬たちは近所の中華系の定食屋に行くことにした。


 行き先を決めた以外、会話らしい会話はなかった。

 無断で冷蔵庫の中を見ようとした行為は、どう考えても弘瀬のほうに非がある。


 陽奈は特段弘瀬を責めるようなことはしなかった。しかし、今はこの沈黙がつらい。

 もしかしたら、嫌われてしまったかもしれない。そんな不安が気持ちを重いものにする。


 二人がK大前を走る県道に差しかかったときだ。前方に黒岩都巳の姿が見えた。

 彼女とは、あの肝試しの日以来会っていない。元気そうな姿を見て、弘瀬はほっとした。


 だが都巳は、声をかける弘瀬を無視して、ずんずんと二人のほうへ向かってきた。

 近づくに連れて、彼女の顔が怒気を孕んでいることに気付く。

 つり上がり気味の目をさらにつり上げ、陽奈の目の前に立ちはだかった。


 どうしたのだろう?


 そう思う暇もなかった。都巳は手を振り上げると、陽奈の顔を思いっきりぶん殴った。

 短い悲鳴をあげて、陽奈は地面に叩きつけられる。


「ちょ、何を――」


「何を、じゃないでしょ!」


 驚いて声をあげる弘瀬を、都巳の怒号が圧倒した。


「弘瀬だって、圭から聞いたんでしょ? こいつは人殺しなの! 【大輔:ナッシー】も歩もこいつに殺されたんだ! 霊感があるって自慢したいのかよ。ふざけんな、このボケッ! 適当なこと言って、おもしろがってんじゃないわよっ!」


 その科白で、弘瀬はすべてを察した。

 都巳も圭から、弘瀬が聞いた内容と同じことを聞かされたのだろう。


 圭としては注意を促す意味で言ったのだろうが、短気で思い込みの激しい都巳は、完全にそのことと今回の件を結びつけてしまったのだ。


 地面に這いつくばる陽奈に向かって、再び都巳が襲いかかろうとする。

 さすがに黙って見ているわけにはいかない。弘瀬は都巳の腕を掴んで、彼女を押しとどめた。


「黒岩さん、やめて! 過去のことと今回のことは関係ないっ! お願いだから落ち着いて」


「放してよ! 思い出してみてよ! 最初に霊が見えるとか変なこと言って騒ぎ出したのはこいつなのよ! 全部こいつのせいだ! こいつは頭がイカれた殺人鬼なんだよ!」


 腕を放さないことにイラついた都巳は、振り向き様に、弘瀬の股間に膝蹴りを入れた。


 まさか自分がやられるとは思っていなかった弘瀬は、無様にも股間を押さえて蹲ってしまう。


「ふざけてんじゃねえぞ、くそ野郎っ!」


 罵声と共に都巳の蹴りが陽奈の腹部に突き刺さる。

 陽奈はくぐもった声を漏らし、激しく咳き込んだ。


「おい、お前っ! 何をしているっ!」


 再度、都巳が足を振り上げたときだ。

 誰かの声が割り込んできた。

 ぎょっとして都巳は動きを止めた。


 フルフェイスのヘルメットを脱ぎ捨てながらやってくるその人物の顔に、弘瀬は見覚えがあった。


 一昨日、陽奈とのデートの際に、彼女を不安定にした眼鏡のイケメンだ。


「うるさい! お前には関係ないだろっ! すっこんでろ!」


「天下の往来で、女を足蹴にしている時点で、関係も何もない。警察を呼ばせてもらう」


 都巳の怒声にもまったく動じることもなく、泰然自若とした態度で、男はスマホを取り出した。


「警察? いいわよ、呼んでみなさいよ。ちょうどいいや、この女は殺人鬼なんだ。逮捕してもらわなきゃ」


「殺人鬼? 笑わせる。だったらお前は、その子が人を殺した瞬間を見たとでもいうのか?」


 この質問に、都巳は明らかに狼狽の色を浮かべた。


「か、関係ないでしょ」


「お前は、その子が、人を殺す瞬間を、見たのか? 答えろ」


 男は一言ずつ区切るようにして、再度同じ質問をした。


「……見てないけど」


 都巳は観念したように呟いた。

 自分が単なる思い込みだけで、陽奈に暴力を振るっていたことに、今更ながら気付いたのだ。


「だったら帰れ。ちゃんとその子に謝ってからだ」


「だけどよ。じゃあ、なんで、【大輔:ナッシー】たちは死んじゃったんだよ!」


「それこそ俺には関係のない話だ」


 突き放すような態度に、都巳の顔が見る間に歪んでいく。しかしそれは、怒りよりも悲しみに満ちた表情だった。


「ふざけんなっ、くそっ!」


 いたたまれなくなったのか、都巳は罵声を投げかけると、男の横を通って県道へと走り出た。


 刹那、ブレーキの錆びついた音が聞こえた。


 歩道を走っていた自転車と、出会い頭にぶつかりそうになってしまったのだ。

 都巳は自転車のハンドルを押さえるようにしながら、体を捻った。

 結果的に道路に飛び出してしまうような形になる。


 危ないっ!


 弘瀬がそう思った瞬間だ。

 

 空気の抜けるような破裂音と共に、都巳の姿は突如現れた大型トラックの陰に隠れて見えなくなった。


 そして、トラックが通り過ぎたあと、地面の上には都巳が横たわっており、続いて誰かの悲鳴が聞こえた。


 咄嗟に眼鏡の男が走り出した。


 弘瀬もなんとか足に力を入れ、彼の後に続く。もしかしたら、まだ生きているかもしれない。すぐに助けを呼べば、助かるかも。


 だがその考えは、呆然と立ち尽くす眼鏡の男の横に並んだ途端、瞬時に吹き飛んだ。救急車を呼ぼうという気さえ起きなかった。


 それはひと目見て、死んでいる、とわかる死体だった。




 しばらくして救急車と共に警察がやってきた。

 例の如く、弘瀬たちは事情聴取を受ける。あまり好ましいことではないが、このやり取りも三度目ともなると、随分と慣れたものになった。


 ただこの事情聴取によって、思わぬ収穫があった。

 男の素性が明らかになったのである。


 男の名前は波佐見優一。歳は二十三。

 T大の情報理工学部の院生だ。


 ただし陽奈とはまったく面識がなく、たまたま通りかかって、暴行を受けている陽奈を見て助けに入っただけだと、堂々と嘘をついた。


 K県に来たのもただのツーリングだと、自分のバイクを指差しながら説明した。


 目撃者が多かったことから、都巳の死はあっさり事故死として片付けられた。

 事実そうなのだから問題はないのだが、弘瀬は何か釈然としないものを感じていた。


 警察が引き上げたあと、バイクに乗って立ち去ろうとする優一に向かって、陽奈が小さくお礼を言った。


 辺りはすっかり夜の闇に染まっている。食欲は完全に失せてしまっていた。

 さすがにあの死体を見てから、咽喉を通るものはない。


 それでも何も口に入れないのは体に悪いと思い、陽奈を部屋に戻したあと、弘瀬はコンビニに行ってきた。

 買い物袋をぶら下げ、陽奈の部屋の前まで戻ってきたときだ。初音から電話がかかってきた。


「もしもし、弘瀬? 今独りでいる?」


 随分と勢いのある初音の声が飛び込んできた。

 すぐドアの向こうには陽奈がいるのだが、今現在独りでいることには違いない。弘瀬は肯定した。


「そう。……あのね、弘瀬。落ち着いて聞いて。私今日、陽奈ちゃんの噂を聞いたの――」


 初音が話した内容は、昼間圭たちから聞いたものとほぼ同じだった。


 どんな経緯があったのかは分からないが、初音の耳に届くほど、陽奈の過去の話は広まってしまっているらしい。


 愁然館高校卒でK大に来ている学生も何人かいるだろうし、結構有名な話らしいから、それは仕方のないことかもしれなかった。


「――だから弘瀬。しばらく陽奈ちゃんとは会わないようにしなさい」


 その科白に、弘瀬は目の奥がかぁと熱くなるのを感じた。こんなことは初めてだった。


「初音は、真白さんが人を殺すところを見たの?」


 気がついたらそんな科白を口走っていた。電話口から初音の驚く気配が伝わってきたが、それ以上に驚いているのは弘瀬自身だった。


 優一の受け売りで情けない部分はあったが、初音に対してこんな強い態度を取ったのは、おそらく生まれて初めてのことだ。


「……見てないわよ」


「だったら、……証拠もなしに、人を悪く言うのは、いけないことだと思う」


「……弘瀬。ほんとにそんなふうに思っているの?」


 初音の声色が変わった。


 弘瀬は「うん」と答えようとして、声が上手く出なかった。


「本当に、単なる偶然で、こんな短期間に肝試しに参加した人達が、亡くなったりすると思っているの?」


 初音の言わんとすることは理解できる。


 大輔の死も歩の死も単なる偶然ではない。

 人為的な何かが加わっている。


 それも肝試しの日からだ。


 ならば、まったくの第三者によるモノと考えるよりは、サークルの関係者だと考えるべきだろう。


 そこでメンバーの過去を調べてみると、普通ではあり得ない経歴を持った人物がいた。

 だからこそ、その人物が怪しい、と。


 一見して理論的に思えるかもしれない。

 だけど、そこにあるのは単なる決めつけと思い込みだけだ。物証はどこにもなく、そんな状況証拠だけで、陽奈を殺人鬼だと決めつけている。


 ならば、それに反駁する答えは一つしかない。


「――俺は、呪いとか幽霊とかあると思う」


「本気で言ってるの?」


 呆れたような初音の声。だが、弘瀬はここで黙り込むわけにはいかなかった。


「うん。実はさっき、肝試しに参加した人が亡くなったんだ。俺の目の前で。車に轢かれて。即死だった。誰のせいでもない。ほんとにただの事故だったんだ。でも、知らない人は誰かのせいにするかもしれない。二年前の事故だって、誰も目撃者はいないのに真白さんのせいになっている。彼女はそんなことをするような人なんかじゃないっ!」


 しばらくの間、沈黙があった。


「……わかった。そこまで言うなら、――証拠ってやつを見つけてきてやるわ。二年前の事件の真相を暴いてやる。私の推理力を舐めないでよね。こう見えても、推理物のドラマで犯人を外したことがないのよ」


 そのことは知っている。ドラマがはじまってから四十分過ぎた辺りで、誰々が犯人だと言い出す。しかも、常に二、三人は名前を挙げるのだ。


 そのことを言うと、


「うるさいわね。とにかく決めたの。真実を解き明かすって。首洗って待ってなさい。……それから、私が戻るまで陽奈ちゃんとは会わないで。一週間。ううん、三日でいいから。お願い。意地悪で言ってるんじゃないのよ。ね? 誓って。会わないって」


 打って変わって、初音の声は憂いを帯びたものになる。

 彼女がどんなに自分のことを気にかけているかは理解しているつもりだ。


 でも陽奈に会わないというのは、おそらく無理だ。だから、初音には申し訳ないが、嘘をつくことにした。


「うん、わかった。誓うよ。真白さんとは会わない」


 その言葉を聞いて、初音は納得したみたいだった。心の中で、ごめんと謝ってから、弘瀬は電話を切った。そして後ろを振り向く。


 刹那、心臓が痛いくらいに竦みあがった。


 玄関の扉がわずかに開いていたのだ。そこから陽奈の顔が覗いていた。


 深い闇の色に濁った無機質な瞳には、狼狽する弘瀬の姿がはっきりと映っていた。


 彼女はゆっくりとドアを全開にする。


「どうぞ。……中へ」


 その科白でやっと、弘瀬は呼吸することを思い出した。かろうじて動くようになった体で、陽奈の横を通って、中へと入る。


 いつから陽奈はあそこにいたのか? どこまで話を聞かれたのだろう? そして、陽奈はどう思ったのか? 


 ぐるぐると疑問が駆け巡る。だがそこにあるのは、陽奈に対して申し訳ないと思う気持ちだけだった。


 過去にイジメに遭い、今は殺人鬼扱いされ、そして、初音を納得させるための嘘だったとはいえ、自分にも拒絶されてしまったのだ。これで気を悪くしない人間なんていない。


 なぜ自分はこんなにもタイミングが悪いのか? 


 自分自身に対する不甲斐ない思いは、情けなさを通り越して、自己嫌悪すら抱きかねない。


「先輩……」


 部屋の中で所在なさげに立ち尽くしていた弘瀬に向かって、陽奈が話しかけた。


「遠慮しなくてもいいですよ。私のこと嫌いになったのなら、そう言ってください。初めに言いましたよね? 私のこと知ったら、嫌いになるだろうって」


 弘瀬は胸がちくりと痛んだ。

 告白をしたときに陽奈が言った科白に、それほど深い意味があったなんて思いもしなかった。


 陽奈は静かに弘瀬の横を通り過ぎると、わずかに隙間の開いていたカーテンをきっちりと閉じ合わせた。そして、ゆっくりと弘瀬に向き直る。


「そんなこと、……ないよ。真白さんを嫌いになんて、なってない。本当に……。あんな噂話くらいで……」


「噂話? ああ、そうですね。その程度のことなら、……先輩なら、そう言うかもしれませんね。……でも、私のこと、もっと知っても、同じことが言えますか?」


 陽奈が滑るようにして近づいてくる。陶磁のような白い腕がぬうっと伸びてきて、弘瀬の右手を掴んだ。驚くほどひんやりとした手だった。


「な、なにを……?」


 けれども陽奈は答えない。変わりに唇の両端が不自然なほど釣り上がる。


(――笑っている?)


 次の瞬間、陽奈は弘瀬の手を自分の服の中へと連れ込んだ。


 あまりの出来事に、弘瀬の頭は完全に真っ白になってしまった。


 陽奈の胸を触っている? 


 その事実がさらに弘瀬を混乱させる。


「わかりますか? ……ない、でしょ?」


 陽奈が訊いてくる。確かに小振りなほうかもしれないが、弘瀬が想像していたよりは遥かにあった。


「ねえ? ……ないでしょ? 変ですよね? ……こんなの」


 そのときになって、陽奈の声が震えていることに気がつく。

 か弱く、か細く、震えていた。


 その事実が弘瀬をいくぶん冷静にさせる。

 それに伴って、右手から伝わってくる感触をはっきりと確かめることができた。


 心臓の鼓動が感じられる。

 今の弘瀬と同じくらいの速度で脈を打っていた。

 冷静に見える陽奈も、弘瀬と同じくらい緊張していたのだ。


 そして肌の感触。

 しっとりと吸い付くような乳房の感触には、どこか違和感があった。


 興奮が急激に収まっていくのを感じた。再度、胸の感触を確かめる。


 そこには、あるべき感触がなく、想像すらできない異物の感触があった。


 陽奈が押さえつけていた手を離した。

 同時に、弘瀬の右手が落ちてきた。


 呆然と立ち尽くす弘瀬の前で、陽奈は服を脱ぎはじめた。

 蛍光灯の明かりの下、陽奈の半裸姿が晒される。


 想像を絶する光景に、弘瀬は吐き気すら覚えた。


 陽奈がイジメに遭っていたという話は聞いていた。

 それが通常のイジメよりも酷いということも聞かされていた。


 だけど、まさか、これほどとは――。

 

 これはもう、イジメなんて言葉で済まされるレベルではない。


 弘瀬は心のどこかで、イジメは過去に起こったことだと割り切っていた。

 だがそれは違っていた。勝手な思い込みでしかなかった。


 陽奈の受けた傷跡は、今でも変わることなく、脈々と、その肌に刻み込まれていたのだ。


「先輩。……これを見て、どう思いますか? ……これでもまだ、……私のこと、好きでいられますか?」


 弘瀬は何も答えることができなかった。あまりの衝撃に、ただただ必死に正気を保つだけだ。


「……帰ってください」


 どれだけ時間が過ぎたのだろう。目の前には、服で前を隠すようにして俯く陽奈の姿があった。


 結局、弘瀬は一言も言葉をかけてやることができなかった。


「……帰ってください」


 再度、拒絶の意志。


「あ、………………」


 なんとか言葉を発しようとするが、すでに機会を逸したことを悟った。


「帰って、お願い」


「…………」


「帰ってッ!」


 あまりの剣幕に、弘瀬はごめん、と小さく言い残してから、仕方なく部屋を後にした。


 ドアを閉める瞬間、むせび泣く陽奈の悲痛な声が耳に届いた。


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