3-3 恐ろしきデジャヴ
K大前を走る旧国道から、以前は何が建っていたか忘れてしまった空き地と、一度も入ったことのないケーキ屋の間の細い道を数百メートルほど進んだところに、やせ細った木が垣根のように立ち並んでいる。
その中心に、五階建ての比較的真新しいアパートがあった。陽奈の住むアパートだ。
ここに来るのは今日で二回目だった。
一回目は六日前。
肝試しから帰ってきて気分が優れなかった陽奈をみんなで送っていったとき。夜道だったが、場所はしっかりと記憶していた。
弘瀬はスマホを取り出すと、陽奈に電話をかけた。
呼び出し音がやけに長い。いないのか。そう思いかけたとき、音が止まった。
「もしもし、あの、立花だけど? 真白さん?」
しかし、すぐには返事がない。
あれ、間違えたかな、と不安になってきた。
「……はい。こんにちは」
しばらく待たされたあと、そっけない陽奈の返事が聞こえてきた。
情けないことに、それだけで弘瀬の心臓は跳ね上がり、気が動転してしまった。
「あ、あのさ、今日真白さん家に遊びにきていいかな? おもしろいDVD借りてきたんだ。一緒に見よう」
頭の中で反芻していた言葉を、かなり削り取った状態で、一気に吐き出した。
「あの……、今は部屋が汚いですから――」
そして無言。
しばらく経って、それが拒否の言葉であることを理解した。
軽くショックを受けたが、なぜか引き下がる気にはならなかった。
「でも、もうアパートの前まで来てるんだ。俺はぜんぜん気にしないから――」
そこまで言って、初音の忠告を思い出す。
女性は結構プライドが高く、自分の価値が下がることを極端に嫌がると。
部屋が汚いなどもそうだ。相手が気にする気にしないは関係ない。自分がそう思われることが嫌なのだ。
だから付き合ってるからといって、いきなり家に押しかけるようなことは、絶対にしてはいけないと。
(失敗したかな)
弘瀬が後悔しはじめた頃、アパートの三階、左から二番目のベランダから陽奈が顔を覗かせた。
耳にスマホを押し当てたままだ。
「……少しだけ待っててください」
そして電話が切られた。
おそらくは部屋に入れてもらえずに、外で話すことになるだろう。
それでも構わなかった。今は少しでも彼女のことを知りたいと思った。
先ほど聞いた櫻井の話の中で、一番ショックだったのが、陽奈がイジメに遭っていた事実だ。
弘瀬は今の陽奈しか知らない。女性とはみな、初音のような粗暴な存在だと思い込んでいた弘瀬にとって、陽奈の印象は衝撃的だった。
まるで御伽噺のお姫様が物語の中から飛び出してきたかのような、清楚で庇護欲を刺激する女性。
だが、そんな彼女のイメージとは裏腹に、過去に酷いイジメを受けていたのだ。
当時近くにいなかった自分には、彼女を助けることはできない。
そんなことはわかっている。
だけど、自分の知らないところでそんな目に遭っていたという事実が、彼女がつらい思いをしていたという現実が、堪らなく悔しいのだ。
――彼女に気を付けろ。
圭の言葉が思い出される。しかし、と弘瀬は思う。
彼女を殺人者だと疑うこと、それ自体もまたイジメではないかと。
自分は陽奈の彼氏なのだ。
そんな自分が、彼女を信じてやれなくてどうする?
陽奈が再び中傷の対象となり、心を痛めるというのなら、護ってやるのが彼氏である自分の役目だ。
だから今は、少しでも陽奈の傍にいたかった。
ややあって、右手にある階段から陽奈が姿を見せた。
「すいません、お待たせしました。どうぞ」
意外だった。どうやら陽奈は部屋に入れてくれるらしい。
弘瀬は陽奈の後に続いて階段を上った。
アパートの部屋のつくりなど、どこでも大概似たようなものだが、陽奈が生活している部屋と思うだけで、緊張で足が震えてくる。
おじゃまします、と言ってから靴を脱いだ。
部屋自体は驚くほど質素だ。1DKの縦長の間取りに、テーブルがひとつとタンスなどが並んでいるだけである。
普通の大学生の部屋としても十分に広いほうだが、物が極端に少ないせいか、必要以上に広々と感じ、随分と高級な部屋に思えてしまう。
仕切り戸のところで所在なさげに突っ立っていると、陽奈が座るように勧めてきた。
よく見ると、ちゃんとテーブルの横に座布団が二つ置いてある。
弘瀬は部屋の中を見渡しながら、先に進んだ。
右手にはキッチンが見える。食器やカップ麺などの姿はなく、清潔にしてあった。
まるでまったく使ったことがないかのようだ。
反対側には収納ボックス、タンスと並んで本棚が置いてある。
どんな本を読むのだろうと興味を持ったが、そこにあるのは授業で使う教科書などで、小説や漫画の類はなかった。
ほかにはテレビが一つとノートパソコンが一台ずつ。
言うなれば個性がない。彼女の趣味や嗜好を表す一切のモノがここにはなかった。
初めてだから、隠しているのだろうか?
右の奥には、クローゼットがある。
扉が閉まっているので中を見ることはできないが、本気で隠そうと思えば大概のものは隠すことができるだろう。
まだ、曝け出すほどの関係になっていないだけかもしれない。
それは半分嬉しくもあり、悲しくもあることだった。
「何か飲みますか?」
座布団の上に腰を下ろすと、陽奈が尋ねてきた。
弘瀬はそのときになって、自分がペットボトルの一つも買ってきていないことに気づいた。我ながら気の利かないことだと思う。
「うん、ごめん。何かあれば」
「ホットでよければ緑茶か珈琲がありますけど」
「じゃあ、珈琲で」
陽奈は頷くと、ヤカンに水を入れはじめた。
そんな陽奈の姿を見ていると、彼女の足元に冷蔵庫があるのに気付いた。
紺色の冷蔵庫で、扉には背中と羽が赤く塗られた、ペンギンのキャラクターマグネットが貼り付けてある。
弘瀬は以前にも同じようなものを見たような気がした。
だが、陽奈の部屋に来たのはこれが初めてだ。そんなことあるはずがない。
単なるデジャヴだろう。
そう結論づけようとしたとき、ふいにそれを思い出した。
ばっと、反対側に顔を向けた。
弘瀬の右手には先ほど陽奈が顔を覗かせたベランダがある。
今はガラス戸は閉められているが、その両側を飾る、葉っぱをモチーフにしたデザインの遮光カーテンには見覚えがあった。
そこから見える風景も然りだ。
再度部屋の中を見る。
キッチンに冷蔵庫、テレビや本棚、タンスに収納ボックス。それらすべてに見覚えがあった。
弘瀬は慄然とした。
既視感? そんな生易しいものではない。
この部屋の風景は、今日夢で見た風景とまったく同じだったのだ。
ぐらりと景色が歪むのを感じた。空気が絡みつくように粘り気を持ち、呼吸が困難になる。
鯉のように口をパクパクさせることで、なんとか僅かばかりの酸素を取り入れることができ、意識を保つことができた。
こんなのただの偶然だ。夢の内容が外れることなんて、よくあることじゃないか。
曖昧な夢の記憶を、既視感と結びつけただけにすぎない。そう自分に言い聞かせる。
弘瀬は冷蔵庫から目を放すと、再び陽奈を見た。
――心臓が止まる思いがした。
陽奈がじっと弘瀬を見ていたのだ。コンロに火をつけた場所から一歩も動かずに、彼女は同じ場所に立っていた。
風景に溶け込んだかのように、陽奈の姿がおぼろげに見えた。
だがその双眸だけは、暗い闇色に染められながらも、獲物を狙う捕食者のように鋭い威圧感を放っている。
(観察していた? 何を?)
どっと背中から汗が噴き出してきた。全身の毛細血管が縮み上がっていくような感覚に身震いする。
冷蔵庫を見ていたことを観察していた?
ならばそんな自分を見て、彼女は何を思ったのだろうか?
ヤカンが笛のような甲高い音を発した。
まるでこの場所に漂っていた緊迫した空気を切り裂くかのように、注ぎ口から勢いよく湯気が飛び出している。弘瀬は一瞬で意識を現実に引き戻すことができた。
陽奈は何事もなかったかのようにカップにお湯を注いで、弘瀬の前にやってきた。
湯気が立ち上る珈琲を前にして、遅ればせながら疑問に思う。
外は未だ熱気に包まれた蒸し暑い夏の世界だ。たかだかクーラーひとつでは、にじみ出てくる汗を止めることはできても、今が夏であることを忘れ去ることはできない。
それなのに熱い飲み物を差し出すというのはどういうことだろう?
普通は冷蔵庫から冷たい飲み物を出すのではないだろうか? それとも冷蔵庫を開けたくない理由でもあるのだろうか?
でも、初めに飲み物の話題を出したのは陽奈のほうだ。
頭の中をぐるぐると疑問符が飛び交った。だが、一向に答えの出る気配はない。
カップに口をつけながら、陽奈をちらりと見た。
驚いたことに向こうもこちらを見ていた。まったく同じ格好のまま二人は見つめ合った。
お互いににこりともしない。そして同時にカップをテーブルの上に置く。
「美味しいですか?」
先に陽奈が口を開いた。
「あ、うん。美味しいよ」
「好きなんですか? 珈琲」
「あ、うん。好きだよ」
「そうですか。私はあまり好きではないです」
抑揚のない声で言ってから、陽奈はカップの中に砂糖をスプーン三杯放り込む。
弘瀬は返答に困りながらも、とりあえず珈琲を飲み干した。
「DVD……」
「え?」
「DVD見ましょうか?」
その科白で、弘瀬はDVDを見ようという名目で、部屋に上がり込んだことを思い出した。
DVDを挿入する。テレビにはお笑い芸人が登場する深夜番組が流れはじめた。
最近はこの手のビデオがカップルには人気なのだと、知り合いの店員が教えてくれた。
DVDを見ながらも、弘瀬は今ひとつそれに集中できなかった。
夢に出てきた冷蔵庫。首のない大輔が指し示すもの。鈍感な弘瀬であっても、一つの可能性しか思い浮かばない。
未だ見つかっていない大輔の頭部。誰かが持ち去ったのなら、見つかっていないことにも頷ける。大輔の霊はこう言いたかったのではないのか?
――ここに自分の首があると。
「どうしたんですか?」
陽奈が尋ねてきた。彼女の目はそれを忘れているかのように瞬きをしない。
「え、いや、どうも……。どうして?」
「立花先輩、ぼーっとしてますよ。何か他に、気になることがあるんですか?」
「そんなことないよ。ほら、DVD見ようよ」
「もう、終わりましたよ」
テレビを見ると、画面には著作権違反についての注意書きが映っていた。弘瀬は気まずい思いをしながら、DVDを取り出す。
帰ろう。そう思った。今はあまりこの部屋に長居はしたくなかった。
そのときだ。きゅーっという、甲高い音が聞こえた。
なんの音だろうと疑問に思っていると、隣で顔を真っ赤にして俯いている陽奈の姿に気づく。
そうか、これは腹の虫の音だ。
しかし、と弘瀬は思った。意外だった。陽奈がお腹を鳴かせたことが、ではない。それを聞かれて、恥ずかしそうにしている陽奈の姿がだ。少しだけほっとし、急に元気が出てきた。
「お腹空いたの?」
陽奈がこくりと頷く。
「じゃあ、何か食べにいこうか?」
「はい。あの、その前にお手洗いに行ってきていいですか?」
消え入りそうな声で陽奈が言った。いいよ、と弘瀬が答えると、陽奈は開き戸の向こうに消えていった。
そして部屋の中には、弘瀬だけが残る。
ごくり、と咽喉が鳴った。
陽奈がいなくなったことで、ある種の誘惑が首をもたげる。気がつくと、弘瀬は冷蔵庫の前に立っていた。
今弘瀬が何をしようと、陽奈が知る由はない。
人の家に来て無断で冷蔵庫を開けるという行為が、どれだけ無礼なことかは知っているつもりだ。しかも独り暮らしの女の子の部屋。
言い逃れはできないかもしれない。だけど、どうしても確かめたかった。この中に何が入っているのかを。夢がただの夢であることを。だが――。
もしもそうでなかったなら。この向こうに見知った顔が入っているとしたら――。
恐ろしい想像に、伸ばしかけた手が逡巡する。
そのときだ。
「何をしてるんですか?」
冷ややかな声が聞こえた。いつの間にか陽奈が、弘瀬の真後ろに立っていた。
「えっ、いや、何も」
弘瀬はとぼけてみたが、陽奈の表情は冷めたままだ。
弘瀬の狼狽振りを冷静に観察しているようにも見える。
「冷蔵庫を開けようとしていましたね。どうしてですか?」
「えっ、あっ、……その、咽喉が渇いて。何か冷たいものないかなって」
「ありませんよ。もうすぐお店に行くんですから、そこで頼んだらどうですか?」
批難するような口調に、弘瀬は何も言えなくなってしまった。
言外に、さっさと部屋から出るようにと、陽奈が言っている。弘瀬はばつの悪い気分のまま、部屋を後にした。
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