2-2 謎の男と第二の犠牲者

 弘瀬は自転車に乗って力強く足を回転させていた。ぐいぐいと景色が加速する。だが、不思議なことに風をまったく感じなかった。


「弘瀬、随分と飛ばすな。危ないぞ」


 弘瀬の隣をバイクに跨った大輔が走っていた。シールドを上げて、特徴のある糸目を向けてくる。


「すげえ。俺のバイクと同じ速度なんて。百キロは出てるぞ」


「う、うん。それが、足が止まらないんだ。ブレーキも効かない。どうやったら止まるかな?」


「ああ、俺のときと同じだな。どうしようもなかった」


「そういえば警察の人が探していたよ。頭が見つからないって。どこにあるの?」


「弘瀬、危ないぞ。前くらいちゃんと見てなきゃ。ほら、俺の首ならそこにあるよ。よく見てみろ。頼むから轢いたりすんなよ」


 いつの間にか首のなくなった大輔の体が、弘瀬の前方を指差した。数メートル先の車道外側線の上に、人の生首が鎮座している。


 空気中に引き上げられた深海魚みたいに目が飛び出ているため、そうだと教えられなければ大輔だとは気付かないだろう。


「頼むから、避けてくれよぉ」


 地面に鎮座する大輔の生首がおどけるように言った。


 途端、弘瀬は思いっきりそれを踏んづけてしまった。

 避けようとは思ったが、そのときにはすでに轢いてしまっていた。


 激しい衝撃と共に、体の重心があちこちに飛び跳ねる。そして地面の上に投げ出された。しかし痛みはない。


 弘瀬は地面を伝わる振動を感じて顔を上げた。目の前にダンプカーの巨大なタイヤが迫ってきていた。


 下から見上げるそれは、圧倒的な力を持った無機質の怪物だ。それに巻き込まれれば、人の血肉や精神など瞬時にしてミンチと化すだろう。


 巨大な怪物が猛獣のような雄叫びをあげて、弘瀬の眼前を通り過ぎていく。空気の塊と小石が顔面を直撃する最中、ダンプカーの下に張り付くそいつと目が合った。


 女だ。長い髪の毛を木の根のように車体に絡めている。白身魚のようなぬっぺり肌には、泥色の血管が浮かんでいた。

 衣服らしきものは見当たらなかったが、ごわごわした髪が体の大部分を覆い隠している。


 まったく生気を感じさせない肉の塊であったが、その目だけは違っていた。まるで生への渇望が一点に集まり噴き出したかのように、瞳孔が生々しく鼓動を刻んでいる。


 それは一瞬のことで、すぐに後輪のタイヤが襲ってきた。同じく轟音を吐き出しながら、空気の塊と小石を叩きつけて去っていく。


「あぶねー。マジで死ぬとこだったな」


 何がおかしいのか、首のない大輔がケラケラと笑い、それに合わせて体が腹を抱える。


 笑い事じゃないよ。大輔、見た? 女の霊だ。真白さんの言ったとおりだ! 幽霊は存在するんだ! 


 そう叫ぼうとして、弘瀬は夢から覚めた。




 気がつくとスマホの目覚ましがうるさく鳴っていた。


 弘瀬は手を伸ばして音を止めると、薄目のまま顔を起こした。

 怖い夢を見てしまったせいで、あまり寝た気がしない。夢の内容はだいたい覚えている。


 原因もおおかた想像がついた。昨日、正治の話を聞いたからだ。


 正治が事故に遭ったのは一昨日。大輔が亡くなったという知らせがあり、弘瀬たちが警察から事情聴取を受けた日の夕方だ。


 いつもの道を自転車に乗って走っていたら、何かに躓いて道路側に横転してしまったそうだ。

 さらに、まるで狙い済ましたかのようにダンプカーが突っ込んできたのだという。


 間一髪接触はしなかったものの、ほんの数センチずれていたら、正治の顔面はなくなっていたそうだ。


 そんなぞっとする話を、正治は半ばやけ気味に語って聞かせた。


 彼の右腕は、三角巾で吊るされていた。転んだ当初はショックだったこともあり、痛みをあまり感じなかったが、夜になって疼きはじめたらしい。


 単なる打撲だと思っていたが、痛みが引かないので今朝病院に行ってみたら、骨にヒビが入っていたそうだ。


「やっぱりアレが駄目だったのかな?」


 美花が半泣きの声で言った。そこで弘瀬は初めて、肝試しにときに大輔たちに起こった異変の話を耳にする。


 ――まず最初に、異臭がしたそうだ。

 そしてカサカサと乾いた音が耳に張り付いた。


 都巳は帰ろうと言ったが、その態度がおもしろくて、大輔たちはどんどんと先に進んだらしい。


 そして第二の異変。都巳と美花が誰かに髪を引っ張られたり、肩を叩れたりしたそうだ。

 そのときはメンバーの誰か悪戯したのだろうと思っていたそうだが――。


「俺じゃねえよ。確かに俺は都巳とツボミンの真後ろにいたけど、そんな悪戯は誓ってもいい、していなかった」


 歩が固い表情のまま、言った。


「どうしてあのとき、そう言わなかったのよ?」


 美花がヒステリックに叫ぶ。そのときは、歩の仕業ということで落ち着いたらしい。


「いや、あのときはそんなに深く考えなかったんだ。お前たちの勘違いだろ、って言っても面倒なことになりそうだったし……」


 そして第三の異変。神社の近くの祠に、少女の形をした日本人形が祀ってあったそうだ。


 その横を通り過ぎた瞬間、人形の首がぽとりと落ちたそうだ。驚いた大輔がそれを蹴ったくって、遠くへ飛ばしてしまったらしい。


 それを見た都巳が「もういや!」と叫んで、来た道を戻り始めたので、皆で戻ってきたそうだ。

 当然、人形の首は行方不明になったままだった。


 今の大輔と同じように――。


 再び目覚ましが鳴った。ほとんど脊髄反射でアラームを止める。


 気味の悪い夢を見たせいで、まだ眠気が残っていた。そのままあっさりと睡魔に身を委ねようとする。


 だが次の瞬間、弘瀬は布団が跳ね上がるほどの勢いで起き上がった。慌てて時間を確認する。

 十時十分。

 頭を抱える。今のは出発用としてセットしたアラームだったからだ。


 今日は陽奈との初デートの日だ。

 最近は何かと慌しかったが、付き合うことが決まった日に交わしたデートの約束は、今でも有効だった。


 だから遅れてはいけないと思い、起きるためのアラームと、起きても油断して遅刻しないようにと、出発用のアラームを設定していたのだ。

 だが皮肉なことに、その出発用のアラームのほうで目を覚ましてしまった。


 いや、考え方によっては運がよかったのかもしれない。完全に寝過ごしてはいないのだから。

 弘瀬は最低限の身なりを整えると、部屋から飛び出した。


 待ち合わせ場所の噴水前には、すでに陽奈の姿があった。

 よかった、間に合った。そう思った刹那、弘瀬は違和感に気づく。


 陽奈は一人ではなかったのだ。男だ。陽奈に話しかける男の姿があった。


 ナンパだろうか? 最初はそんなふうに思った。


 弘瀬の友人連中にはいないようなオシャレな感じの青年で、清潔感のある髪型と端整な顔立ち、インテリな眼鏡が、知的で紳士的な印象を与えてくる。

 気のせいか、どこかで男を見たことがあるような気がした。


 男が何事か陽奈に話しかける。


 弘瀬の位置からは話の内容は聞こえなかったが、鈍感な弘瀬から見てもはっきりとわかるほど、陽奈の表情が恐怖に歪んだ。


 次の瞬間、陽奈は走って逃げ出した。

 しかし、咄嗟の行動にも関わらず、最初から分かっていたかのような俊敏な動きで、男は陽奈の腕を掴んで引き止める。


 その衝撃で陽奈の体が風に煽られる紙切れのように揺れた。


「いやぁあ、やめて。離してっ!」


 陽奈は半狂乱になって暴れながら、男の拘束から逃れようとする。


「あの、すいません」


 慌てて駆け寄った弘瀬は、なんと声をかけようか迷ったあげく、まるで道を尋ねるかのように話しかけた。


 ぎょっとして二人がこちらを向く。男は何か言い訳をしようとして、気を緩めてしまったのだろう。

 その隙に陽奈は、男の拘束を振り払って弘瀬の背中に隠れた。


「俺の彼女に何か用ですか?」


 心臓がばくばくと音を立てる。

 弘瀬は今まで殴り合いの喧嘩などしたことはなかったが、陽奈のためならやってやる、という気持ちで身構えながら言った。


「彼氏か?」


「はい、そうです」


「そうか。誤解しないでくれ。俺は……」


「黙ってください!」


 男の弁解を陽奈の叫びが遮った。

 陽奈の予想だにしていなかった反応に、弘瀬は激しく動揺する。


「なんでもないです。……早く行きませんか」


「真白さん、なんでもないって……」


 さすがの弘瀬もすぐには納得できない。

 けれども陽奈には説明するつもりは毛頭ないみたいで、必死に弘瀬の手を引っ張って、この場から立ち去ろうとする。


(あ、手をつないだ)


 陽奈と、どんなシチュエーションで手をつなぐか、昨晩必死に考えていた弘瀬にとって、それは怪我の功名だった。

 しかし怪我のほうが大きくて、なんら感動することはできない。


「今日のところは引き下がるよ。不快な思いをさせて申し訳なかった」


 男は諦めたように鼻息を漏らすと、そう言って立ち去っていった。


 弘瀬はその背中を呆然と見送る。何がなんだかわからない。


 あの男は誰なのだろう? 陽奈のこの異常な態度はなんなのか?

 疑問と疑惑がぐるぐると頭の中を駆け巡る。


 そのことが気になってしまい、弘瀬は生まれて初めてのデートを、充分に楽しむことができなかった。




   * * *




 弘瀬が『フェアリーサンデー』に姿を現したのは、午後十時。店の閉店間際だった。


「まったく、なんて顔してんのよ。デート駄目だったの?」


 けれども弘瀬は答えない。何かを考えるように両手を組んだまま、押し黙っている。


「まあ、元気出しなよ。大抵の恋は両想いになる前に敗れ去り、両想いになったとしても長くは続かないものよ。一瞬でも願いが叶ってよかったと思いなさい」


「デート自体は、……たぶん問題なかった。ありがとな、いろいろ教えてもらって。あと、失敗みたいなのもなかったと思う」


「じゃあ、なんでそんなにへこんでんの? 別件?」


 弘瀬は珈琲をひと口飲んだあと、待ち合わせのときに起こった出来事を話して聞かせた。


(あっちゃ~。出会っちゃったか)


 初音はばつの悪い思いをする。


 今日弘瀬が会った人物とは、以前陽奈と一緒にこの店に来た男で間違いないだろう。

 イケメンで眼鏡をかけている点がそっくりそのまま当てはまる。


 つまり弘瀬は間の悪いことに、おそらくは元だろうが、陽奈の彼氏と出くわしてしまったのだ。


 そりゃ、陽奈としては必死に隠したがる事柄だろう。


 聞いた話の感じから察するに、二人は喧嘩別れしたばかりのようだ。

 きちんと別れたのなら、そもそも隠す必要はないことだし。


 イケメンの彼氏はヨリを戻そうと必死に奮闘中といった具合か。

 そして陽奈のほうも、まんざらでもない感じだ。


 感動のイベントを通して、焼けぼっくりに火がつく。

 可愛そうな弘瀬を残して、二人はハッピーエンドに突入。と、こんな結末になるのだろう。


(本当に弘瀬は、損な役回りだね)


 さすがの初音も、弘瀬に対し、憐れんだ気持ちになった。


「弘瀬。人は生まれたら必ず死ぬようにできてるの。それと同じで、恋愛も始まりがあれば必ず終わりがくるものなのよ。特に若い頃の恋愛ほど寿命は短いの。だけどね、最後が来るからって自棄になっては駄目。だって、どんな恋にしろ、それまでにたくさんいい思い出はあったはずだから。だからね、弘瀬。気持ちを強く持ってね」


「……初音」


「うん?」


「突然、訳のわからないことを言い出して、どうしたんだ? 何か変な物でも食ったのか?」


 弘瀬が心底心配そうな表情で訊いてきた。初音はがくっとなる。


「あのね、せっかく私がいい話をして、慰めてあげようと――」


 と、そのときだ。弘瀬のスマホが着信音を鳴らした。


 弘瀬はディスプレイを見て、「ごめん」と会話を遮ると、すぐさま電話に出る。ちょうとそのタイミングで、客がレジに立ったため、初音のほうも弘瀬から離れて、レジ打ちに向かった。


「なんだって!」


 そのときである。弘瀬の緊迫した声が店内に響いた。


 何事かと、レジの客が弘瀬のほうを凝視した。初音も訝しげに弘瀬を見守る。


 肝心の会話の内容だが、弘瀬は血の気を失った顔でうんうん頷いているだけで、まったくわからない。


 とりあえず初音は仕事をこなし、客を送り出して弘瀬の隣に立った。


 厨房からは熊谷が顔を覗かせて、何事かと目で問うてくる。初音は首を少し動かして、わからないと返した。


 ややあって、弘瀬は電話を切った。

 目が合ったので、初音はどうしたのかと訊いてみた。


 弘瀬はためらいがちに視線を泳がせたあと、消え去りそうな声でこう言った。


「歩が死んだって……。一緒に行った人なんだ。肝試しに――」

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