第6話帰れないなら
「おっと、もうこんな時間か…」
椅子の軋む音が無音の個室に響く、自らの左腕に目をやり、ゆっくりと立ち上がったゲゼルは白衣のシワを伸ばしながら扉へと体を向けた。
「すまないアギト君、私はちょっと行かなければならない…後で私の部下をここに来させるから、何かあればそちらに言うといい」
少し申し訳なさそうに目を伏せながら、呆然とベッドに腰かけているアギトに告げる。
「…え?あっ…わかりました……」
帰れない。
先程の聞いた言葉が、余程ショックだったのだろう。
あの後、帰れない理由や現在の状況など説明してもらった。
曰く、アギトが此方に転移してきた事は完全に想定外だそうで、今回は小さな物質の転移実験を行っただけだそうだ。
当然生物実験さえ行っていない、故に情報や成果が不足している現段階では危険が未知数なのだと。
最悪死ぬ可能性もあるため、現状使用を許すわけにはいかず、帰れないのだと言う。
最もな理由にアギトは何も言えなかった。
当初は帰りたい気持ちが強く、無理を押してでもと思っていたが、秤にかけるのが自らの命となると話は別だ。
死ぬかもしれないが帰れるかもしれないと、ここに残るとでは、アギトは迷わず後者を選択する。
思えばこれまで生きた世界に命を賭けてまでして帰る価値があるか?
もちろん未練はある、両親や学友らだ。
遅かれ早かれ、自らの失踪の知らせを受けて、心痛めるに違いない。
そう言った心残りはあるが、それ以外に特別な理由はなく、絞りだそうにも見つからない。
辛うじてまだクリアしていないゲームが、などの理由が思い付いたが、動機としては不十分だ。
これまでの現実を嫌っていた訳ではない、だが特別帰りたい理由もない。
ならばまず生きる事が先決だ、帰るのはいずれ実現するかもしれない、完全に不可能と言われた訳ではない、今はダメだと言われただけだ。
そう思うことで、少し前向きな気分になれた。
すでに一人きりになった静かな空間で、ひっそりと生き抜くことを決意する。
丁度良く扉が叩かれる、小気味良く三度、聞きつけて返答。
「どうぞー」
声色に不安の影はない、先日の恐怖もない、先程の呆然も晴らした、迎える準備は整っている。
自動で横に動く扉が、重い起動音を立てながら向こう側の人物との対面を許す。
靴が床を鳴らせながら、ゆっくりとその人は来た、肩くらいまでの髪は薄い青色で、眼鏡をかけ、知的な雰囲気を漂わせる女性だ。
「はじめましてアギトさん!私はセリン!セリン・ユムティアと言います!よろしく!」
アギトは驚いていた、その厳格な風貌とは裏腹に、余りに可愛らしい声をしている。
しかしそれ以上に、彼女の話す日本語に驚いていた。
「あっ!えっと…アギト、シジン・アギトです」
「あれ?シジンさん?なんですか?」
一瞬、何に対する疑問を抱かれたのかわからなかったが、少し考えて合点がいった。
この女性も、先程のゲゼルも名字と名前の位置が逆なのだ。
日本から出たことのない彼にとって慣れない文化故に、無意識で普段通りの自己紹介をしていた。
「あっすみません!アギト・シジンです!」
直ぐに訂正し誤解を解く、この遥か彼方の大地で国際化を軽視していた自らの過去に恥を覚えた。
「よかった!聞いていた名前と少し違ったから、ん?って思ったんです!」
無邪気に微笑むセリンからとても和やかな雰囲気が漂っている、第一印象の堅さはとうに失せ、可愛らしい女性へと印象は変わっていた。
「すみません…にほ…俺の故郷じゃ、さっきのが普通だったんで…」
「へぇー!そうなんですね!少し変わった文化です!」
キラキラと輝く瞳から好奇心が溢れでており、もっと教えてと言わんばかりの前のめりな姿勢が伝わってくる。
しかし教えて欲しいのはアギトも同じだった。
「えっと…その、言葉は…どうして?」
アギトの脳裏には、ゲゼルが言っていた知識の読み取り、と言うワードが浮かんでいた。
この世界の魔術に対して無知に等しいアギトは当然ながら彼女の言葉に疑問を抱く。
先のゲゼルとは違い、彼女とはここで初めて会うが、アギトがここへ転移してきて半日以上の時間が経過している。
ならば彼女は彼が眠っている間に同じように魔術を行使したのか?思考が纏まる前に答えは与えられた。
「あぁ!これは所長から転写してもらったんです!」
転写、また新しい言葉が出てきた。
魔術関係なのは察せられるが、やはりわからない、それほど魔術とは万能なのか?単純火を出したり、風を吹かせるものではないのか?
「うん?あ、もしかするとちょっと混乱してます?まぁそうですよねぇ、知らないのは仕方ないですもん」
「すみません…俺の思っていた魔術とかなりかけ離れているんで…」
「アギトさんの知る魔術も気になりますが、大いに気になりますがまず!その曇った表情から晴らすとしましょう!」
そう言うとセリンは懐から一冊の教本らしき物を取り出し、アギトに手渡した。
表紙には見たことのない文字が書いてあり、中身も全くわからない。
「ん?あっそっか、読めないんでしたっけ…すみません…」
人差し指で頬を軽く掻き、謝罪。
お詫び、と言うほどではないが、読み聞かせてくれる事になった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます