第3話
考えられる可能性を列挙でもできたら探偵か何かになれるのでしょうが、あいにくそんな高機能な頭脳は持ちあわせてません。
「そもそも解き明かす必要性もないのでしょうけど」
「何の話?」
「大したことでは」
二つのカップの脇、たった一枚の紙切れのくせに相変わらず存在感の大きな何かを視界から追い出します。決して現実逃避というわけではないんです。
「そういえば、いつ頃こちらにいらしたんです。仕事帰りですよね?」
「七時頃」
「……」
一時間も待たされてたらそれはあんな表情にもなりましょう。寒いもの。
「連絡を入れるなり、近くの喫茶店で時間を潰すなり出直すなりすれば良かったのに」
「腹が立って」
「……」
そんなに?
「それでずっとうちの前に立ち続けていたのですか」
「いつもそんな時間だったじゃない。帰ってくるの」
「そりゃあ……」
帰って待つ人もいるならばですよと、続けるのはやめました。
「最近は仕事が忙しくて、もっと遅かったんですよ。今日は偶然早くて幸いでした」
「流石にあれ以上待たされたら帰ってたわよ」
「……」
念を押すような言い方から察するに、怒りを倍増させた上で律儀に待ってそうですね。
「その間、誰かに会ったりしました?」
「林さんとこのお嬢さん以外には、すれ違いさえしなかったわよ」
「……あそこの人ですか」
来週までには林家の奥様を情報発信源に、階全体が我が家の離婚事情を把握する予感がします。というより間違いなくそうなるでしょう。僕も早めに引っ越しますかね。
「なら、鍵をすり替えられたという可能性はなさそうですね」
「すり替えられる?誰に?」
「誰にでしょうね」
何らかの事故の可能性という以上は、特に具体的には考えていないのですが。
「ところでどうして管理人からマスターキーなり合鍵なりを借りなかったのでしょう」
「……え?」
「だって、部屋を借りるときに家族で登録してるんだから。君も借りられたでしょう」
「……」
思い付かなかったのかと呆れてたら。
「マスターキーはないでしょ」
「……そこですか」
いや、確かに言ってみたあとで、ないだろうなとは思ってましたが。僕の住んでいるマンションは言ってしまえば安普請です。鍵だって今時珍しい合鍵が簡単に複製できるタイプ。取り柄といえば窓の向こうが大通りを挟んで商店街に続いているため、買い物に便利で治安も良いこと。多少築年数が長くとも子供ができたらまた引っ越せばいいからと……ちょっと新婚の頃を思い出してツラくなったのでやめますね。
「そういえば複製したんですよね」
「私の?」
「管理人さんに渡されたのは一つでしたね確か」
鍵の話です。
「ちょっと見せてもらってもいいですか」
受け取ったものと自分のものとを重ねて比べます。
「いい仕事してますね」
「……」
冷ややかな視線は置いといて、僕はその二つが確かに寸分も違わず同じ形をしていることを確認しました。つまりここにある鍵に関しては問題ないということになります。
となれば――
「もう、いいよ」
「……そうですか?」
彼女は申し訳なさそうに、僕に手を差し出しました。鍵を返します。
「たぶん最初から開いてたのを、かけちゃったんだと思う」
「え?」
「一度は回ったのだけど、そこから全く動かなくなったのよ、確か。だからたぶん、内側で変なふうに引っかかっただけなんだと思う」
「……」
「こんなはずじゃなかったの」
「……そうですか」
それはどれのことを言っていたのでしょう。僕はといえばそれどころでなく、この謎に解決の必要性を感じ始めたところだったのですが。
「出直すね」
そう言って、机の上に出していた白紙の離婚届を取りかけます。
「いえ、」
僕はその紙を抑えました。
「書きますよ」
ふと背後を振り返りました。そちらは窓側で、その向こうにはベランダがあります。しかしそちらの鍵はしっかりとかかっているようでした。
「……書くだけなら、ただでしょう」
僕は彼女から取り上げた紙を裏返し、万年筆を取り出しました。裏も記入欄がびっしりで余白が少ないですね。
「……トイレ借りるね」
耐え切れないように立ち上がりかけた彼女が泣いていることには気付いていました。されど僕はそのまま逃がすほどの人間ではなかったようです。
彼女の手を掴んで無理矢理、正面に引き戻します。
「……っ、離してよ!」
「……すぐ書き終わりますから」
トイレはマズい。浴室も和室も寝室も。今は良くありません。
「どうして、そんなにためらいがないの!終わっちゃうんだよ?」
「……僕は明日も仕事で、スーパーが閉まる前にご飯も買いに行かないといけないんですよ」
そう上の空に言いながら紙を持ち上げて、そこに書いた文字を彼女に指し示しました。
「……え?」
「ほら、これで良いでしょう。早く帰ってください」
「ちょっと……これ」
「いい加減にしろよ!!」
僕はついに怒鳴ってしまいました。声が震えていないかと、意味のない心配をしました。
「妙な言い掛かりまで用意しやがって、そんなに出て行きたいなら早く僕の家から出て行け!二度と来るな!!」
「……っ」
彼女はその剣幕に何を悟ったのか、青ざめた顔のままバッグさえ手に取ることもせず、靴さえ履かずに逃げるように出て行きました。
残された僕は時計を見ました。そろそろ九時を回るところです。馴れない大声を出したせいで喉の奥が苦く、珈琲で押し流して尚更広がりました。
テレビを付けて、消してを繰り返し。急に静かになってしまった部屋の寂しさを紛らわせるように、僕は出掛けることもせず、人の気配を絶やさないようにしていました。
やがて、待っていた呼び鈴が鳴ります。
僕は玄関まで向かい、扉を開けました。
そこにいた彼らは手帳を示しながら言いました。
「警察の者ですが」
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