第2話

 僕が住んでいる部屋は、一人暮らしには少し広すぎる2DKです。玄関から入って左手にトイレと風呂場があって、右手にキッチン。更に奥はダイニングスペース。そのまま進めばベランダのある大窓に突き当り、左に寝室と和室。この広さに毎晩一人で帰ってくる寂しさを彼女は一度でも想像したことがあるのでしょうか。


 彼女と僕がその部屋を契約したのは一年近く前になります。詳しいことは省きますが、つまるところ先ほどの僕の長所と短所の話でいうなら、彼女と僕はその頃まだ出会ったばかりの範疇で、一年後の先月にようやく彼女は僕に飽き果ててしまった。そういうことなんだと思います。


 まぁ実は幼なじみなんですけどね。彼女と僕。と言っても、つまるところ飽きるのに十数年かかったということになるだけなのですが。


 さて。


「それで――」


「はぁ?」


「……」


 どうしてお茶さえ入れてくれた相手に対して一言めから威圧かけてくるんでしょう。相変わらず機嫌が悪い時の彼女の行動原理は理解しえません。


「……本日はどういったご用件で?」


 彼女はしばらく不機嫌そうに紅茶をすすったあと、鞄を探る動作をしました。出てきた紙きれ一枚のタイトルは離婚届。


「……なるほど」


 そういう用件なら先に言っといてくれないとこちらの気持ちの整理というようなものが――必要ないですけどね。


「頭に来たの」


「今更ですか?」


「はぁ?」


「えっと……」


 いくら彼女でも今日はちょっと苛立ちすぎみたいですね。普段はもう少し分別のある怒り方をしますし、ここまで人間性を失っていないようだったと記憶しています。もし仮にあの日だったとしても酷すぎやしませんか。


「ねぇ?」


「何よ」


「ちょっと感情か何かの行き違いがあるような気がします。どうして今日はやけにご機嫌斜めなのですか?」


「……」


 彼女はしかし、勿体ぶるように部屋の中を見渡しました。


「この部屋」


「はい」


「私の私物もたくさん残ってるわよね」


「ハイヒールの片方とかですか?」


「何度も、言うようで、悪いけど」


 まったく悪いとは思ってなさそうに。


「あなたの、そういう、言い方。本当に、大っ嫌い」


 お前はクラスの女子ですか。自分の年齢を考えて言葉を選んで欲しいものです。とまぁ、思うだけならただなので。


「それで?」


 僕の意図的な冷ややかさにもそれに対していちいち腹を立てることさえにも慣れきってしまったかのように、彼女は眦の鋭さ以外は何事もなく、続けます。彼女の直情的な性格に隠されたこういった細かな賢さが僕は好きです。


「この部屋の権利はまだ半分私にあるはずよね?」


「……?」


 何が言いたいのでしょう。彼女はそんな僕の様子に少しだけ息を飲みました。


「どうして――断りなく鍵を変えたの?」


「鍵、ですか?」


 とうとう僕は首を傾げました。そしてそれは彼女にとって決定的だったらしいのです。


「今更とぼけることに何の意味があるの!」


 本気で怒っているみたいです。なるほど。確かに共有していたはずのマンションの部屋の鍵を勝手に変えられて、彼女自身の持つ合鍵を使えないようにされていた上に、あからさまにとぼけられたらそこまでご立腹なのも納得がいくというものです。


 もし仮に、そこに問題があるとしたら。それは――

「鍵、変えてないんですよね」


「……嘘」


「本当ですって、どうして僕が好きこのんでそんな金と怒られ損の無駄遣いをしなきゃいけないんですか」


「あなた時たま、趣味半分で私に怒られるようなことするじゃない」


「……」


 マジで言ってやがるんですかね、この女。


「まぁそれは冗談として」


「冗談じゃないわよ」


「……本当に変えてないんですよ」


「じゃあ、ちょっと来てご覧なさいよ」


 そう言って、彼女は席を立ちました。あとに続かずに小さな反抗的自我の芽生えを見せつけることも考えましたが、僕は主体性の欠片もなくのこのことついていきます。


 僕らは連れ立って部屋の外、エレベーターから続く外廊下に出ました。寒いです。


「こんなとこまで連れて来ておきながら、何もなかったら僕も流石に怒りますからね」


「うるさいな」


 彼女は先に、内側のサムターンを回し、鍵がかかっている状態にして、外側に周りました。


「見てなさいよ」


「内側からでもいいですか?」


「見えないでしょ」


「ドアの覗き穴から見ますんで」


「黙ってなさいよ」


「……」


 僕が肩をすくめるのを横目に彼女はポケットから鍵束を取り出し、その一本をドアに備え付けられた鍵穴に差し込みました。


 あっさりとその鍵は回り、そのドアは解錠されました。


「……」


「……」


 背後を乾いた風が通りぬけ、繰り返すようですが寒いです。


「ち、違うのよ?」


「何がですか」


 意図せず僕の口調も冷たいものになります。


「とりあえず入りません?」


「……本当に、違うのよ」


「……わかってますよ」


 流石にそういうことをする人ではないということは長い付き合いで存じてます。何らかの理由で彼女がこの部屋に自力で入れなかったことは確かでしょう。それにしてもこれまでの僕への態度はどうかと思いますが。


 彼女は若干おろおろとしながらも、僕に促されるままに部屋へと戻りました。玄関口で僕はサムターンを何度か回します。少なくとも滑りが悪いということはなさそうです。


「どんな感じに開かなかったんですか?」


「どんな感じ……って?」


 どうしてそう端から端へと極端にしおらしくなってしまうんですかね。こちらのありもしない罪悪感が増長されるので最後まで憎まれ役を演じて欲しいのですが。


「カチャカチャと多少は動いたのか、そもそも鍵が刺さらなかったのか」


「鍵は何度か抜き差しした。それでも動かなかったの」


「まったくですか?」


「一ミリたりとも」


 そうなると何かが鍵穴に詰まっていたなどではなく、鍵と鍵穴自体が一致しないと考えるほうが自然なのは道理です。しかし今試してみると間違いなくその鍵は使用可能であった。


 ちょっとした日常の謎ですね。


「とりあえず冷えましたし、紅茶でも淹れなおしますか」


「わ、私がやるから座ってて」


 だからどうして――いや。


「じゃあ、お願いします」

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