始動編6 惜別の夜
回転灯の赤い光が、黒い闇を規則的に切り裂いていく。
何台もの特殊装甲車、それに大型トレーラーが一台停止している。うらぶれ、くすみきった中層建築物ばかりのこの地区には不似合いな存在に見えなくもない。
そのうちの古びた一棟のアパートの周囲をぐるりと、武装した特殊警備員達が取り巻いている。彼等が手にしている特殊シールドには「STR」のマークが入っている。
「――ベッドは宿舎棟に備え付けだから、もって行かなくてもいいわね? テレビもあるし、収納もあるし、バス、トイレ……ああ、大きい物はほとんど要らないじゃない」
「持っていく物なんて、これといってないんですよ。だから、トレーラーもショーコさんも、別にいいですよって言ったのに」
DG−00トライアルの終了後。
サラからサイのこれからについて隊員一同に説明があり、隊の中ではフォワードドライバーとして内定していること、そして重要保護指定市民に登録されるに伴い、今晩から宿舎棟に転居してくる旨が告げられた。その引越し作業のため、今から一度A地区に戻らねばならないとまで彼女が話をすると
「じゃ、サイ君一人じゃ大変だろうから、あたしが一緒に行って手伝ってくるわ。いいでしょ?」
ショーコが手を上げた。さも当然のような顔をしている。
そういうつもりのなかったサラが困ったようにサイを見ると、彼も慌てて手を振り
「あ、あの、そんな、気持ちだけで十分です。全然、持ってくる物なんてないですから。STRの人たちがついてきてくれるだけで、もう、十分過ぎですから」
「いいって、そんな遠慮は要らないわよ! 人手があった方がさっさと終われるし、それにSTRのお兄さん達に荷物運びさせる訳にもいかないでしょーが。……ってことで、よろしく!」
鼻歌を歌いながら、ショーコは行ってしまった。
彼女のこういう独断専行は時々サラを困惑させるのだが、かといって特段引き止める理由もなかったから、結局ショーコも同行することになったのであった。
STRに物々しく護衛を受けつつA地区に入ったのは、午後七時を回った頃だった。
「――ここです。この建物の五階、5A012号室です」
サイが指定した中層建築の前で全車両が一斉に停止すると、まずはSTRの突撃班が素早くアパートの中へ突入していき、テロリストの存在や危険物の有無を確認した。同時に付近に対する警戒網が張られ、建物の周囲は警備班でぐるりと固められた。鮮やかな手際の良さである。
内部の確認と警備の配置が完了すると、STRの指揮官が
「……さあサイ君、中へ。建物内も周辺も、安全は確認できている。不測の事態が発生した場合は、我が隊員が速やかに知らせるから、それに従って行動して欲しい」
「わかりました」
「現在1938。とりあえず、2045を一次撤収予定としておこうか。時間が足りないようなら、レシーバーで報せて欲しい。いいかな?」
「はい……。何から何まで、済みません」
恐縮しつつ、彼は特殊装甲車を降りた。
STR警備班に左右を護衛されながら、二日ぶりに我が屋へ戻ってきたのである。二日前にこのアパートを出た時は、まさかこういう運命の変転があろうとは夢にも思っていなかった。その日の働き口があることだけに安堵しながら、しかし明日に怯えつつあのペグレ運送へ向かったのである。
だが、三日と経たないのにこの変わり様はどういうことであろう。
今の彼にとって明日の働き口などは既に問題ではなく、命を狙われる程に重要な職務に就き、身辺をこうして警備部隊に護衛されるような立場になってしまっている。生活に困らなくなることの代償に生命を賭けたようなものだが、サイ自身は別にそれを苦には感じていない。安い給金で、しかももっと危険な労働に従事している彼と同じ貧困層の者は大勢いる。が、食い扶持があるだけ幸福だと、その誰もが思って暮らしている。
サイの憂鬱は、この住み慣れたA地区を出て行かねばならないということと、そしてもう一つ――。
ふと頭に思い浮かべて暗い気持ちになっていると
「懐かしい感じねー。この打ちっ放しのコンクリートに剥き出しの鉄骨。あたしが前に住んでいた住居に近いわぁ」
後ろから階段を登ってきたショーコの声である。
「……ショーコさん、こんなふうな建物に住んでたことがあるんですか?」
サイにとっては初耳である。あのStar-lineの中で、こういう前世代建築住居に住んだ経験のある人間など、自分以外にはいないであろうと思っていた。
「あるある。十七歳までだったかしらね。訳あって、出なくちゃならなくなったんだけど、都心の近代型高層建築よりずっと好きね。人間くさくて」
思い出すように壁のあちこちをぺたぺたと触っているショーコ。
彼女にもそんな時代があったのだと知り、サイは少しだけ、気持ちが軽くなったように思えた。
五階の自分の部屋の前まで来ると、サイは開錠して重たい鉄製のドアを開いた。
「ここです。俺の部屋……」
「お邪魔しますよー」
サイは真っ暗な室内へずんずん入っていき、奥の部屋の電気をつけた。その部屋だけにぽっと明かりが点ったが、電力が十分でないのか、満足な照度ではなかった。
「ほう……」
ショーコは部屋の中を見回している。
続きで部屋が二間あり、手前にごく小さなシャワー室とトイレ、それにキッチンがある。
サイという男の性格なのか、設備はもう大分古いものであったが、それでもきちんと手入れされているらしく、一人暮らしにありがちな小汚さがない。食器なども綺麗に洗っておいてある。
部屋にはこれまた古いベッド、それにアンティークに近い旧世代のテレビが一つ。あとは部屋の隅に衣装が整理されて吊るされているほかは、これといって物が見当たらない。
「……ええと」
ショーコがあれこれと物色しつつ、あの会話につながっていくのである。
予め持参してきた大きなボール箱を組み立てると、サイはその中へ衣類をどさどさと放り込み始めた。
彼が告げたとおり、確かに荷造りが必要そうな家財はない。手持ち無沙汰なショーコはうろうろしながら
「サイくーん。何か、他に持っていくものないのー?」
と、尋ねた矢先、足元に小さな鉄製の工具箱を発見した。
開けてみると機械整備に使用する工具類が詰まっていて、どれもこれも錆びてはいるが年季が入っている。気になって工具箱の蓋を返してみれば「フィーリス建設会社」と、もう大分消えかけてはいたが、文字が浮き彫りされていた。
(ふーん……)
彼が昔いたという建設会社のことか、とショーコは理解していた。
その頃使っていた工具であろう。こうして彼は、今も手元に置いていたらしい。
そしてふと目をあげると、もうガラスも外れてしまっているが観音開きの食器棚の中に、一葉の写真がフォトフレームに入れて立てかけられてあった。
古びて色褪せたその写真の中で笑っている、一組の若い男女、そして生後間もないと思われる赤ちゃん。これがどこの家族のものであるか、訊くまでもないであろう。
ふと振り返ると、サイはボール箱を封しようとしていた。
「……サイ君。もう、詰める物はないの?」
「ええ、特に。これだけあれば――」
ショーコは工具箱と写真を、彼の傍まで持っていった。
「嘘。これもきちんと、持って行きなさい」
写真にちらりと視線をやったサイは、途端に表情を曇らせてしまった。
「それは……今の俺には、必要ないです」
「……」
食器棚の奥に仕舞いこんでいた訳を理解したショーコ。
見たくないのではない。見るのが辛いのであろう。
ショーコはその場にぺたりと座り
「サイ君、今のあなたは、この都市の正義の味方、そして勇者。今のあなたを賞賛する人はあたしやヴォルデさん、セレアさん、他にも沢山いるけど、非難する人は一人だっていない。その持てる力を、多くの人達のために惜しげもなく使っているんだから」
「……」
「だから、これから先は決して自分を卑下して欲しくないし、フォワードドライバーとして自信をもって頂戴。そして、あなたを産んで育ててくれたお父さんとかお母さんのことを、誇りに思って欲しいの」
彼の前に、写真を差し出すショーコ。
ややしばらく躊躇っていたサイは、やがてその写真を受け取ると、胸のポケットに仕舞いこんだ。
「……よし」
ショーコは立ち上がった。
「で、これも持って行かない? 大事な、工具箱なんでしょ」
「あ、ああ、そうっすね。そういえば、そういうものもあったか……」
過去の色々な思い出が辛すぎて、サイは余り目を向けないようにしていたのであろう。
その気持ちはショーコにもわかる。それに近いうち、彼女もまた嫌でも同じように住み慣れた街を離れていかねばならないのである。きっと、その時には今の彼に近い気持ちを抱くことになるのではないかと、彼女はふと思った。
「あとはもう、持っていく物はないの? 今後、ここに来られるかどうかはもう――」
「……いいんです。これからは俺がいるその場所でしか、生きていくことはできないから」
そうして二人は部屋を出た。最後の施錠をして、STRが待つ下階へと降りていく。
装甲車の後部にボール箱と工具箱を積み込んだあと、サイは勇を鼓してSTR指揮官に頼んでみた。
「……あの、このあと、ちょっとだけ、寄っていただきたいポイントがあるんです」
「うん? どこかな?」
とはいえ、これだけ多くのSTR隊員達に、わざわざ時間を割いて付いて来て貰うのも気が引ける。
「ええとですね……」
言い澱んでいると、背後からポンとショーコが肩を叩いた。
「次期隊員候補にあがっている者の自宅です。丁度この近くですので、立ち寄って入隊を促していきたいと思うのですが」
STRの指揮官は頷き
「ああ、ヴォルデ氏から警護を依頼されているあの女性ですな。よろしいでしょう。非展開警備にて、S30といったところでしょうか?」
つまり、警備班は装甲車内にて待機、時間は三十分という意味である。
「結構です。無理を言って申し訳ありません」
指揮官がその旨を隊員達に伝達しに行ってしまった後、サイはくるりと振り向いた。
ショーコが片目を瞑って見せている。
彼女には、彼の意図が判っていたらしい。
「今晩は――」
錆びきった重い戸を開き、サイは中へ声をかけた。
ふと見ると、今日はどういう品物も置いていない。ウェラが来ていないのだろうかと彼は怪訝に思った。
「――はい……」
やがて奥の扉が開き、ナナが顔を出した。
「や、やあ」
「あ、サイ!」
彼を発見した途端、彼女は相好を崩した。
「どうしたの、こんな時間に? 仕事終わり――」
言いかけてナナは、外の気配に気が付いた。物々しい特殊装甲車が何台もいると知って、彼女なりに事情を察していた。
「……そっか。こんな時間まで働いているのね? 昨日も、そうだったものね」
「日雇いのバイトしている時より大変かもな。いつ出動がかかるかも知れないっていうのも、気が休まらないし」
半ば、正直な気持ちである。
ひょんなことからこういう立場に身を置くことになってしまったが、あまり自分の柄ではないと思っている。そして、いつ生命を落としてもおかしくないというこの不安定さは、経済的に苦しい時のそれと違う意味で心を落ち着かなくさせているのであった。
CMD乗りのような技術仕事に、絶対の強者はない。
今はヴォルデをはじめStar-lineの面々は彼の操縦技術を高く評価してくれてはいるものの、いつテロ組織側に敏腕のドライバーが現れぬとも限らない。その腕の差というものを多少なりともカバーしてくれるのは機体の性能でもあるのだが、DG-00では既に限界をきたしている。その機体をも大切に思っている彼にすれば、どういう楽観要素も存在しない。いつか壊れていくDG-00と、そして傷つき倒れるかも知れない我が身に怯える気持ちしか、今はない。
彼の複雑な胸中の何事かを勘で察したナナ。
「でも、そのうち休みもあるんでしょ? あたしはまだ仕事もないし、今度の休みになったらゆっくり――」
慰めるような彼女の言葉を遮って、
「そのことなんだけど、実はナナ――」
サイは、自分の身上について、詳しく話した。
正式にフォワードドライバーという立場になること、それに伴って重要保護指定市民に登録を余儀なくされる以上、住む地域を限られてしまうということ、そしてたった今、引越しのために戻ってきていること――。
ナナは黙って話を聞いている。
サイがあらかたを話し終わっても、彼女は口を開かなかった。
しばらくじっと違う方向を見つめていたナナはやがて
「そう……。でも、仕方がないじゃない。この街のためなんだから。でも、そうやって身柄を保護されるっていうのも大変なのね。なんだか、監視されているみたい」
明るくそう言ったものの、ふと見せた彼女の寂しそうな表情が、サイの心を激しく揺さぶった。
幼馴染とはいえ、苦しい生活環境の中で互いに支えあって生きてきた仲である。彼女はともかく、彼の想いは既に幼馴染とか友情とかいう域にはない。いつも傍で支えてきてくれたナナに対して、その想いは爆発寸前に激しいものがあった。
思わず言うべからずことを口にしそうになり、必死の勢いで衝動を抑えている。
「そ、そうだな……」
かく言う彼女とて、決して安穏な身ではない。
ナナの身辺については、ヴォルデの配慮で絶えずSTRが警護に当たっているという。STRならある程度安心であろうが、彼女はこのことを知らない。知れば、何と言うであろう。
二人の間に、やりきれない沈黙が続いている。
サイは、自分の気持ちをどう伝えたものか、判断しきれずにいる。
ナナもナナで、今までに見せたこともない暗い表情をして俯いている。そんな彼女の姿が、サイにある決断を促していた。
(……こうやっていても、駄目だ! 今のうちに、伝えられることを伝えなきゃ! 次にいつ会えるか、分からないんだぞ!)
そう決心して腹に力を込めた瞬間、無情にも胸ポケットの通信機がピカピカと赤く点滅を始めた。
『――サイ君、状況はどうかな? 間もなく、予定時刻2120になるが』
STR指揮官の声がスピーカーの奥から流れてきた。
通信機を地面に叩きつけて踏みにじりたくなるのを堪えつつ、サイは声色を作って返答した。
「あ、申し訳ありません。間もなく、戻ります」
のろのろとポケットに仕舞いこんでいると、
「まぁ。細かく時間に追われて大変ね。サイ、そういうの苦手だものね? 昔からマイペースだったし」
可笑しそうに、ナナが言った。その笑いに、無理がある。
強いてサイも
「そ、そうだな。のんびりしてばっかりで、いっつもナナに怒られていたしな」
笑おうとしたが、顔の筋肉が動かない。
ナナも直ぐに表情を消して、じいっと彼を見つめている。
そのまま、また二人の間に沈黙が訪れかけた。
しかし、サイはもはやその空気に耐えることができなかった。
彼は逃げるように
「……じゃ、またな。社長によろしく。落ち着いたら、また来るよ」
扉の取っ手に左手をかけた。
「うん。きっと、また来てよね?」
応えるナナの声が、いつもより低い。
「……」
「……」
何も言えないままに、手だけが動いて扉を開けた。
見えない何事かに押し出されるようにして外へ出ようとした時、
「――ねぇ、サイ」
ナナがそそくさと寄って来た。
両手で彼の空いている右手を握り締めながら
「……遠くに住むことになってもまた、会えるよね? あたし達……」
その目に、うっすらと涙が溜まっていた。痛いくらいに、手に力がこもっていた。
「ナナ……」
意志とは反対に、思わず顔を背けたサイ。
右手全体から伝わってくる彼女の温もりが、一瞬彼を躊躇わせた。
今、彼女に目を向けてしまえば、自分の気持ちがどう溢れていってしまうか、彼には十分すぎるくらいに分かり切っていた。
このままStar-lineをすっぱり辞めてしまえば、今まで通りにナナと毎日顔を合わせて暮らしていくことも出来るであろう。
だが。
生きるためには。生きていくためには。
そして、彼を必要とする人達のために。
どうしても彼は、行かねばならなかった。
たった一つ、彼はこの状況に対するささやかな抵抗を用意してきた筈であった。
俺と一緒に来て欲しい――。
口先まで出かかっているのに、どうしてもその一言が言えない。
ちらと一瞥をくれてやりながら
「……ああ、会いに、来るよ」
そして、付け足した。
「絶対に」
そう告げるのが精一杯であった。
いつまでも離そうとしないナナの両手からゆっくりと右手を引くと、彼は一歩外へ踏み出した。迂闊に振り返ってしまえば、それまでのような気がした。
サイが外に出ると、のろのろと一台の特殊装甲車が寄って来た。
見れば、ショーコが運転している。
このA地区へ来る時には、STR隊員が運転して後部座席にショーコと指揮官、サイが乗ってきていたのだが――。
助手席のドアを開けて乗り込もうとして、ようやく彼はちらとナナを見やった。
「……社長に、よろしく」
周囲にいるSTRの車が放つ光をうっすらと浴びている彼女の表情が見えた。
不安で押し潰されそうな表情をして、こっくりと首を縦に振った。
あとは、何も言葉はなかった。
サイは車に乗り込み、バン! と力を込めてドアを閉めた。
前を向いたままのショーコ。
「……OKです。よろしく、お願いします」
そう告げると、彼女は
「……了解。じゃ、行くわよ」
行くわよ、が妙に強調されているように、サイは感じた。
敢えて彼は、ナナの方を見ないようにしていたが、最後に一度だけ、軽く手を上げて見せた。もはや彼女に視線を送る勇気は、彼にはなかった。
そうして二人が乗る特殊装甲車は発進していく。
いつまでも戸口に立って見送っているナナの姿が、バックミラーに映っている。次第に遠ざかっていく彼女を、サイは見ていられなくなった。今すぐに車を飛び降りて彼女の手を引いて連れて行きたい衝動を必死に堪えている。
しかし、それはどうしても出来なかった。
彼女の気持ちを踏みにじることになる。あれだけお世話になった社長に対して、義理が立たなくもあり――今のサイは、彼らの静閑を守らなければならず、それ以上どうすることもできないのであった。
ショーコはアクセルを踏み続けている。次第にスピードが上がっていき、視界からナナの姿は失われた。
ほろ苦いどころか押し潰されそうな後悔の念を抱えて、彼はもう戻ることがないであろうA地区を後にした。
もしかすると、ナナに会うことさえ――それだけは、考えたくもなかった。
切ない気持ちが表情に出てしまっているサイ。流れていく闇の車窓をむっつりと眺めている。
隣でハンドルを握りしめたまま、ショーコは珍しく一言も喋らなかった。
ただ、妙にスピードを出し続け、STRの一団をしばしば振り切ったりした。
L地区の本部舎敷地内にある宿舎棟で荷物を下ろし、STRを見送ったサイとショーコ。
赤いテールランプが正門をくぐって見えなくなると、ショーコが不意に彼の肩を叩いた。
「――別に、今晩のうちに整理するような荷物なんか、ないわよね?」
彼女が何を言わんとしているのか、サイには分かっている。
「……ありません。ショーコさんに、手伝いのお礼をしなくちゃと思っていたところです」
即答で、きっぱりと言い切った。
そのくせ、彼の目線は違う方向を向いている。
ショーコに対して、というより自分で自分に決心させているような、そんな雰囲気であった。
ようやく、表情を緩めたショーコ。
腰に手を当てて
「……強くなったわね、サイ君。そういうのって、とっても大切なことなのよ?」
一言に、心の底から、というくらいの感嘆がこもっていた。
そういうこと、が何を指しているのか、それはよくわからない。
ただ、彼女が「強くなった」と言ってくれたことだけが、今の彼にとって唯一心の支えであるような気がした。
「ただ、さ」
ショーコは一言だけ、付け加えた。
「……肝心な時には、どんなに無理でも押し通した方がいいこともあるわ。そうじゃないと、女の子は傷つくのよ。男がそのつもりじゃなかったとしても」
「……」
そう言われてしまえば、何も反論できる用意のないサイ。
「……ショーコさんだったら、どうしてました?」
「へへへ……」
彼女は可笑しそうに笑い出した。
「――男と女じゃ、心の視点が違うのよ。だから、今あたしが言ったのは、ナナちゃんの気持ちの話ね。でも、何が何でも無理を通した方がいいって、そういうことをやってしまったら」
途端に表情を険しくしたショーコ。
「――結果的に、何もかも失ってしまうことがあるのよ。だから、あたしはサイ君の判断を支持している」
彼女が胸中何を思っていたのか、今のサイには想像する術はない。
そして――二人はその後、明け方まで飲んだくれたのであった。
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