始動編5  サイ・クラッセル

 オフィスで報告書を作成していたサラのところへ、女性事務員のブルーナ・フロッグが書類を手にして寄ってきた。彼女はStar-line設立にあたって、スティーレイン系のとある会社から移ってきた人物である。税務関係や社会保障制度の事柄に明るく、Star-lineがそういった事務に差し支えがないよう、セレアが頼んできてもらったのである。篤実で手堅く、いつも黙々と自分の仕事をしている。


「あの、サラ隊長。サイさんのことですが……」


 事務一筋でやってきている彼女は、誰に対しても腰が低い。まだサラやショーコらとそれ程歳差が離れていない筈だが、その落ち着きようといったら、リファなどはまるで幼児みたいなものであろう。セレアが認めるのも頷ける。


「あ、はい。書類に何か、不備がありましたか?」


 ブルーナは、いかにも困惑した表情を浮かべた。


「彼、市民登録ネットワークの検索に上がってこないんです。ハノ・クラッセル、それにシエラ・クラッセル、これは配偶者ですが、クラッセルで登録されているのはこの二人分しかありません。もっとも、どちらもお亡くなりになっていますが」

「ネットワークにない、か……」


 実は、サラは内心頷けるものがなくもない。

 A地区で生活しているような住民の多くは貧困層であり、ろくに住民登録などされていない者も多数いる。サイがずっとA地区で暮らしていたと聞いていた彼女は、あるいはそんなことももしかすると、と思っていた。

 国家統治機構にも大きな発言力を持つスティーレイングループで働く人間というのは、まずそれなりの身分や学歴を持った人間が殆どであった。貧困層出身の者も中にはいるが、それでもある程度の生活力や立場を得てから入ってきているケースばかりで、いきなり道端にいた人間を拾い上げるなどということはこれまであり得なかったのではないかとサラは考えていた。

 また、市民登録ネットワークの推進によって都市統治機構に把握される市民の割合も大分増えてきてはいるが、まだまだそれが及んでいない地域も多いという。生きることだけで精一杯で、都市、国家施策などに協力している余裕がないというのが、悲しい現実なのである。サイが住んでいるA地区、またU地区などの住民は特にそうであるという。

 何故サラがそういう事情に目を向けることができるかといえば、治安機構入隊を目指していた苦学時代、彼女の周りには貧困層出身の、しかしながら有望な青年達が多数いたからである。正義感の強いサラは彼等とよく語り合い、色々な話を耳にしていた。開発の波は容赦なく地価の安い貧困層居住地域へ襲い掛かり、彼等の住処を奪っていっていること、そして大手建設会社は、零細建設会社を押しのけて工事を受注してしまうが、零細会社で働く社員のほとんどは、貧困層に属する人間であること――昨夜ナナがヴォルデに対して咆えた内容の事象は、何もレアケースではないのであった。

 そんな社会の底辺の事情を知っているだけに、サラの胸中は複雑であった。とはいえ、ヴォルデが一手にグループ経営の掌握に乗り出してからというもの、技術をもった人材は次々と登用するようになってきているのだが、まだその辺りの努力は社会的に認識されきれていないのであった。


「……わかりました。その件、ちょっと私がお預かりします」

「お預かりと言いますと……? 手続き関係なら、私の方でやりますが……」


 と、ブルーナはどこまでも篤実である。

 しかしサラには思惑があった。


「市民登録ネットワークも、最近はテロリストの流入を防ぐために審査が厳格になってきています。サイ君を新たに登録するためには、Star-lineが身元保証をしてあげる必要があると思います。Star-lineの組織代表者はセレアさんですから、私からこの件についてお願いしておきます。その身元保証書類が整ってから、市民登録ネットワークへの手続きをお願いしましょう。……それでいいでしょうか?」


 入隊の経緯が色々あったとはいえ、彼の生まれ育ってきた背景、そして彼がまだ年下であるということもあって、サラは隊長として彼に不利がないようにしてやりたいという思いがある。

 ブルーナは頷き、


「では、そのようにいたします。サラ隊長、よろしくお願いいたします」


 と、頭を下げた。

 その辺によくいる事務員にありがちな、口うるさく急かすということが彼女には微塵もないところが、サラは非常に気に入っていた。


「ちょっと時間をいただきますが、サイ君のためにお願いしますね」


 ちょっと笑って見せた。

 ふと、時計に目をやったブルーナは


「……そろそろ、お昼の支度をいたしますわ。今日は、何にいたしましょう?」


 別にそう命じられた訳ではないのだが、Star-lineメンバーの昼食をブルーナが作るという習慣が出来ていた。どうやら、放っておくと食事を抜いたりインスタント食品を立ち食いしたりするショーコやユイを気遣って、彼女がセレアに申し出たものであるらしいと、サラは聞いていた。セレアはその食材費を支給する旨を約束し、結果としてブルーナは事務担当兼賄い担当という役割になっていた。


「私は特に、好き嫌いありません。……サイ君が来たことですし、少し栄養価とボリュームのあるものなんか――」

「わかりました。パスタのカイレル風に鶏と野菜のスープ、それにデザートを奮発しましょう。私はこれからちょっと、買出しに行って参りますので」

「いつもすみません。よろしくお願いいたします」


 ブルーナが出て行くと、サラは電話の受話器を取り上げ、ダイヤルした。


「……お疲れ様です。サラですが、ちょっとお願い事がありまして――」




 シンとしたハンガーで独り、メーカーから届いたばかりの武装をチェックしていたショーコ。

 対CMD用の短銃に大型のショットガン、それに小型ながら破壊力の高い自動小銃と、物々しい武器ばかりがずらりと並んでいる。

 が、朝、セレアとの話があった手前、彼女としてはやや複雑な心境であった。

 これだけのものを揃えるのに、途方もない手間と経費がかかっているのである。ヴォルデのStar-lineに対する親心と期待の賜物であるのだが、新型機が導入ということになれば、さらに膨大な経費がかさむことであろう。それを要求してしまったショーコにとって、やや気持ちに負担がなくもない。


(折角、こんなえらい物揃えてもらったのにねぇ……。申し訳ないってば、申し訳ないし)


 心で呟きつつふと時計に目をやると、そろそろ昼時であった。


「さぁってっと。お昼にでもするかね」


 立ち上がって一伸びすると、


「ああ、そんな時間ですねぇ。それじゃ、一度休憩しますか」


 ユイも同意した。


「今日のお昼は何かなぁ。一日の楽しみ楽しみ」


 オフィスに戻ろうとして、ショーコはハンガーの中を見回した。リベルは腹が減れば勝手に自分で飯にするので、放っておいてもよい。彼女が気にかけているのはサイである。

 きょろきょろと見回していると、直立しているDG―00の足元に、彼を見つけた。

 装甲を外し、内部駆動系機関の手入れをしていたらしい。

 ショーコは近寄って行って、後ろからそっと覘いてみた。

 細かな部品の一つ一つを、念入りに調べている。傷んでいないかどうかひっくり返して隈なく目視したかと思えば、叩いて音の具合を聞いてみたりしている。部品の数が中途半端ではないから気の遠くなるような作業なのだが、サイは黙々と、実に丁寧に繰り返していく。治安維持機構の時から、さすがにショーコはこういうことはしなかった。毎日出動があるからやっている余裕がないというのも事実なのだが、細かい部品などは半ば使い捨て状態であり、破損がなくても定期的に交換してそれでお仕舞いなのであった。

 が、新品の部品であっても時に不良品はある。金属製品だけにひと目で判断することは難しく、叩いてみたり油の馴染み具合によってそれは判断しなければならない。ショーコほどになればある程度はわかるのだが、入隊間もない新人の整備担当などにはとても無理であった。しかし、彼等は新しい部品と古い部品を取り替えるということしか頭にないから、不良品だろうと粗悪品だろうと、そのまま取り付けてしまう。要は、新しく納品された部品の精度を吟味するという作業の重要性を誰からも教わることがなく、また教える人間もいないのである。整備担当たるもの、基本は部品の判別から、とショーコなどはうるさく言ってきたつもりだが、このあたり、どうも前向きに理解しようとする人間はほとんどいなかったように思われた。

 彼女は昼飯だと伝えるのも忘れて、じっとサイがやることを見ている。

 感心したような、ちょっと嬉しそうな表情になっていた。


(成る程ねぇ……。これなら、サラに対して偉そうな台詞の一つや二つ、言う権利はあるわよね。心の底から、CMDを大切にしているもの)


 ふと、背後の気配に気が付いてサイが振り返った。


「あ、ショーコさん。勝手に、いじってますが……」

「いいのよ。自分で自分の機体をチェックする。フォワードドライバーとして、いい心がけだわ」


 にっこりと微笑むショーコ。


「――こういう作業、とっても大切なのよ?」


 手にしていた小さなリング状の部品に丁寧に油を塗って元の位置にはめ直したサイは、くるりと彼女の方を向いた。


「……やっぱり、こいつ、大分疲れてましたね」


 サイの表情は固い。


「接動部分の潤滑油が飛んで、磨り減っちまってるんですよね。明らかにオーバーワークかけたからもしや、と思って調べてみたら、やっぱりそうでした」


 自分の動かし方に原因があると言わんばかりの口調に、聞いていたショーコはちょっと苦笑いしながら


「それは、格闘用CMDの宿命よ。どんなに上手く乗ろうとしたって、機体にはどこか負荷がかかってしまうのは仕方がないことなの。サイ君が前に扱っていたのは、土木作業用だったじゃない? 格闘用とは用途も動かし方も全然違うからね。格闘用のCMDには格言があってね、新型も一度乗ったら中古と思え――って、あたしが治安維持機構に入った時、信頼できる先生がよく言ってたわ」


 彼女はDG-00を見上げた。

 天井の採光窓から差し込む光を受けて、つるりとしたそのヘッドやボディが輝いている。


「格闘用CMDの宿命、ですか……」


 やや納得いかなさなそうな、半ば仕方なさそうな顔でサイが呟いた。

 ショーコは、サイの気持ちがわからなくもない。今でこそそういうメンテをする人間も少なくなったかも知れないが、かつてCMDがまだ普及半ばで部品も思うような調達がままならなかった頃、整備に携わる人間達は部品の一つ一つまで大切に扱っていたという話を、彼女も聞いたことがあった。一個の部品ですら溶接したり補強したりして、駄目になるまで使い切っていたというのが、CMDの草創期であったという。

 彼についていえばその草創期の人間ではないにせよ、まともにメンテの予算もない小さな会社に所属していて、最大限にCMDを大切に扱っていたであろうということは、今の彼の作業や態度を見ていればよくわかるのである。

 ふと、朝、機体を取り替えてくれとああもあっさり要求してしまったことが、何だか後ろめたく思われてきた。彼女は目的のためにDG-00を試行段階の機体としてしか考えていなかったが、この青年は絶妙に乗りこなしながらも一方で機体に蓄積されていく負荷の心配をしているのである。昨夜飲んでいた折にも、事実を告げる一方で彼はこんなことも口にしていた。

 装甲重量の見直しと駆動部耐性値の取り方で、まだまだ十分に使える機体だと思います――と。

 MDP-0の一件をちらりとサイに話そうかと思っていたショーコ。

 とはいえ、こうもDG-00を大切に思っている彼に、そんなことは伝えられるものではないような気がした。

 が、この都市を取り巻く治安状況は、些かも予断を許さない。

 優秀な機体が手に入るのであればその通りにし、とにかくあらん限りの手を尽くして最善を施していかなければ、やがては自分達の生命をも守れなくなるのである。

 結局、そこを判断基準にするしかないのかもしれなかった。

 ただ、サイのそういう姿勢が必ず活きて来る機会がある、とも思わないでもない。今は、どういう機体がやってこようと、それを駆使してテロ組織と戦う以外にない。

 その点、サイに対してどういう言い方をするのが適当か、言葉に悩んでいると


「――ショーコさーん、サイさーん。お昼にしましょうよー」


 ハンガーの入り口で、ユイが叫ぶのが聞こえた。

 ショーコは救われたように


「……と、いうこと。まずは、お昼にしましょう。ここのお昼は、ブルーナさんが作ってくれるのよ。だから、昼の心配はしなくていいの」

「は。ブルーナさんって、あの……?」

「そうそう、朝色々と入隊手続きの話をしてくれた人ね。――ささ、昼メシ昼メシ!」


 急に明るく言って駆けていく彼女の背を眺めながら、複雑な面持ちのサイ。

 その胸中の奥の奥にある何事かまでは、さすがショーコも察することはできなかった。

 サイの脳裏にガイトと、そしてナナの姿がある。




 午後を少し過ぎた頃、昼食の後片付けをしようと休憩室にやってきたブルーナは不思議に思った。

 皆が食事した後の食器が既に片付けられている。


(あら? 誰か、下げてくれたのね) 


 給湯室の方へ回ってみると、カチャカチャと食器を洗う音がする。


「……サイさん?」


 彼が一人でてきぱきと、食器を洗っていた。


「あ、ブルーナさん。皿、洗っておきました」

「そんなこと、わたしに任せておいてもらっていいんですよ? 皆さんには皆さんの仕事があるんですから――」


 今時、律儀な若者もいたものだと彼女は思った。

 が、サイは濡れた手を拭きながら


「自分のことは自分でやるもんだって、よく前の会社の社長とか職人さんが言ってたんです。小さな会社だったから、いっつもそんな風で……ははは」


 身についた習慣といえばそうなのかも知れなかったが、彼が育ってきた環境にあっては、常に全てを自分でやる以外になかったのであろう。ブルーナは、朝サラと彼について話したことを思い出していた。

 黙っていればこの若者は、毎日こうやって皿洗いに徹するに違いない。

 しかし、彼女は彼女なりの思惑があった。


「でも、明日からは私に任せておいてくださいね? 皆さんはスティーレインとこの都市を守るという大事な使命があって、私はそれを支えたいと思ってここにいるんですから。だから、サイさんは自分が果たすべき役割にしっかり専念していてください」


 こういうと何か突っぱねているような感じだが、彼女の言い方はどこまでも穏やかで、噛んで含めるように話しているから、サイはそういうものかとストレートに納得している。


「はぁ……わかりました。そういうことなら、俺は俺のやることやらないと、申し訳ないですよね」


 素直に受け止めている彼に、ブルーナはにこと笑って見せた。

 あちこちの職場で随分色々な人間と接してきたが、こうも従順で質朴な青年というのも、見たことがなかったからである。


「そうそう、それでいいんです。その代わり、サイさんは私の分まで、テロリストを思いっきりやっつけてきてください。聞けば、昨日からすごい働きだって、皆さんが驚いていましたよ?」


 昨日の一連の出来事は偶然と運命がなした産物というか結果だと思っている彼は、照れくさそうに仕方なさそうに笑っているしかない。最後は彼が下した判断であるとはいえ、気が付けばこうなっていたといっても半ば外れではない。

 そこへ、サラがひょいと顔を出した。


「あ、いたいた。サイ君、ちょっといいかしら?」

「あ、はい」


 サラはサイを伴ってオフィスへ戻ると、たくさんの書類を広げて見せた。


「これ、あなたの入隊に必要な諸々の書類なの。この中で、一つ確認が――」


 そう言って彼女は、ひとくくりの書面を拾い上げた。

 表紙には、ファー・レイメンティル州市民登録申請書とある。

 声を落としてサラは言った。


「……朝、ブルーナさんに調べてもらったら、どうもサイ君、市民登録ネットワークに名前がなかったみたいなの。何か、心当たりはある?」

「……」


 言われてみれば、彼はこの歳になるまで、そういった行政手続きを行った記憶がなかった。


「ハノ・クラッセルにシエラ・クラッセル。これ、お父さんとお母さんでしょう? でも、これ以外にクラッセル姓は検索にひっかからなかったのよ。お父さんとお母さん、サイ君が生まれたのに、登録していなかったのかしら? それとも、他所の州で生まれたとか……何か、覚えていない?」


 覚えているかと問われれば、覚えていないとしか答えようがなかった。

 サイの父・ハノが死んだ時の事は、殆ど記憶にない。ただ、母の手に引かれて地区の外れにある閑散とした侘しい墓地を訪れたことくらいが、せめてもの記憶であった。粗末な四角い墓石が無数に地面から生えていて、その向こう側に鉛色の海が続いていた。ふと振り返ると、そこにはまだ幼いナナが祖父の手を握り締めたまま悲しそうに彼を見つめていて――思い出したくないという程のものではないが、思い出すだけでぞっとするような色彩のない虚しい光景であった。

 その後の彼と母・シエラの窮迫は悲惨なもので、彼女は昼夜を問わず働き続け、身体を壊して働けなくなるまでの間、丸一日母の顔を見ない日の方が多かったように思われる。老朽化した小さな部屋で一人ぽつんとしていて、時々寂しさの余り泣いていたサイ。するといつも、ドアがギィッと開いて、ナナが顔を出すのである。


『……サイ? 泣いているの?』


 慌てて腕で涙をかいなぐりながら


『泣いていないよ。泣いてない……』


 下手に強がっていると、ナナがやってきて彼の隣にちょこんと座り


『……サイ、寂しがってるような気がしたの。だから、来てみた』


 彼女はそう言ってにこと笑った。今思えば、あの時からナナの勘は不思議なほどに冴えていたのである。そしてその彼女に、どれだけ支えてもらっていたかわからない。時々はガイトもやってきて、寂しさを紛らわせるために色々な話をしてくれていた。そういうナナの母親も、遠くの地区まで働きに行ったままなかなか帰ってこれなかったらしいという話を、サイは後になって知った。ナナもまた寂しかった筈なのに――と、切なくてやりきれない気持ちになったのを、彼はずっと忘れていない。

 ふと、そんな過去の諸々が一瞬のうちに浮かんでは消えていった。

 サイは、推測交じりで答えた。


「……多分、親父も母さんも、働くのに必死で、俺の登録とか何とか、余裕がなかったんでしょう。だから、俺の名前がないんだと思います」

「……」


 それじゃ社会福祉保障は、と言いかけて、サラは黙った。

 生活保障や年金などの福祉施策の恩恵にあずかるには、市民登録は絶対条件である。が、その日の暮らしにも困るような貧困層の人々が、どうやって行政の仕切りについていけばいいというのだろう? かつ、国家ならびに都市統治機構の福祉施策は、無条件な保障を認めている訳ではなかった。あれこれと複雑な支給申請を要求した挙げ句、審査で却下されるケースも少なくない。どちらかといえば、経済的中間層の市民を対象にしたようなその施策自体、貧困層の住民を救うという意志が政府に希薄であるということの表れであるといっても良かった。さらには、その制度の存在を知らずに暮らしている者が多数いるという実態もあるらしい。この国家と都市は、持てる者と持たざる者とのギャップを知ってか知らずか、あるいは切り捨てようとしているのか。もはや貧困層の住民達には救いを求める気力もなく、ただ倦怠感と諦観でもって日々を送っているのである。

 正義感が人一倍強いサラには、それを単なる社会実情として捉えるよりも、この都市が放置して憚らない一種の行政サポタージュとして感じ取っていた。いたずらに効率化と機械化だけを推進し、そこの底辺で生きる人々の生活には一顧もはらわないという、この作為的な統治のあり方には強い憤りを覚えざるを得ない。

 そういう彼女であるから、サイの言葉裏を多少なりとも理解することが出来たのである。このあたり、サラもただならぬ強い意志を持った人間であったといえる。

 結局のところ、サイの言う通りなのであろう。

 が、その事情をあれこれ突き詰めるのが今の本題ではない。

 過去の事情でされていなかった彼に関する行政手続きをこれから実施するため、その本人確認をしようとしているに過ぎない。

 二人の間に生じた沈黙を破って、サラが口を開いた。


「……サイ君が登録されていなかったことについては、きっと様々な事情があったことと思いますから、それはそれとしましょう。私は、サイ君がStar-lineに入隊してやっていくために必要なこれからの話をします。つきましては、ブルーナさんから説明があった通り、今後は都市統治機構の定める社会保障を正当に享受できるようにするために、サイ君を市民登録ネットワークに登録する手続きをとります」

「はい……」


 突然未知の世界に連れて行かれるような話に、サイはただ大人しく聞いているよりない。


「現在は犯罪を目的とした不法登録を防止するため、都市統治機構の住民登録審査が厳しくなっています。大体の場合で、各地区の行政事務センターが発行する住民登録認定申請書が必要になりますが、またはこれに類する身元保証書類の添付でも構いません。――そこで」


 サラは手にした書類を一枚捲った。

 そこには、身元保証書と題された書面があり、保証人の欄には何と、ヴォルデ・スティーレインと直筆の署名それに押印が入っている。世界のどこを探しても、これ以上に十分な身元保証書類はないであろう。

 驚きのあまり目を丸くして固まっているサイ。


「こ、これ、これ……」


 ちょっと笑って、サラは頷いた。


「本当は、Star-lineという組織として保証人になろうとセレアさんに申し出たの。それで、さっき届いたこれを見たら、私もびっくりしちゃった。それくらい、ヴォルデさんのサイ君に対する期待は大きいのね」


 さらに彼女は、少し前にヴォルデから電話があったことも話して聞かせた。

 ヴォルデはサラに、サイのために今後も必要なことがあれば、すぐに連絡するようにと言ったらしい。そして、彼こそがこの閉塞された状況を打ち破ってくれる大きな力になるであろうということも付け加えたのだと、彼女は話した。

 サイは、もはやヴォルデの期待がどこにあるのかわからなくなった。

 ただの一貧乏青年を自分の支配下の組織に入れただけではなく、自らその便宜を図ってくれるなどとは、破格以上にとんでもなく、あり得ない対応である。昨夜にしても、彼に対してわざわざ頭を下げて見せた。はたまた、夕方の出動も夜間の騒ぎも、急報を聞くや自ら現場に乗り込んできているのである。

 呆然としている彼に、サラは


「……そういう方なのね、ヴォルデさんは。未来ある若者のためには、どんなこともしようとする。社会の天辺の方にこういう人がいるって、私も信じられなかったわ。ずっと、そうしたかったみたいだけど、ああいう立場の人ってやれそうでなかなか出来なかったらしいのよね。だからやっとそれができるようになって、Star-lineを創設したり研究機関に若い技術者の卵を大勢登用したり、それはもう、大変な張り切りよう。――といって、私達はそれに甘えないように、しっかりやらなくちゃいけないんだけど」

「……そ、そうです、よね」


 恐れ入ったまま、サイはがくがくと首を縦に振った。

 と、不意にデスク上の電話の内線通話ランプが点灯し


『――おーい、サイ君、いるー? DG-00の修理終わったから、トライアルするわよ。ついでにLW武装の着装テストもしたいから、サラも来てくれるー?』


 ショーコが呼んでいる。


「わかりました。もうちょっとしたら、そちらに出ます」


 返事をして、内線を切った。


「と、いうことで、市民登録しますから、この書類の中身を一通り、確認してください。――そうそう」


 サイが書面を受け取って目を落とそうとすると、サラが付け加えた。


「勝手に決めるようで申し訳ないんだけど、サイ君の住所はこの本部舎内隊員宿舎棟ということにさせてもらっているの」

「え……? それって、つまり――」

「そういうのも、どうかとは思ったんだけど」


 サラの表情が消えた。


「理由は三つ。一つに、A地区の住居からここまでの通勤ではとても緊急時に対応できないため。二つに、フォワードドライバーとして働いてもらう以上、心身の負担を極力軽減するよう、確実かつ速やかな休養が可能な場所で生活できるようにする。つまり、このStar-line本部敷地内には宿舎棟が完備されていますから、ここで寝泊りするのが最も適当だという判断です」


 言われるがまま、黙って聞いているサイ。

 そしてサラは、三つ目の理由を語った。


「三つ目の理由については、極めて重大なのですが……要は、あなたは重要保護指定市民という立場になるからです。これはまず、テロ組織活動鎮圧に第一線で携わる人間だからという観点、それに――」

「……昨日、リン・ゼールに追われていたから、ですか」


 重要保護指定市民。

 テロ組織との戦いが激化している情勢下で、一般市民が巻き添えを食わないようにと国家統治機構が考え出した、苦肉の策である。要は、テロ組織から重要視されている人物、あるいは狙われている人物を、一定の条件化で政府が保護してしまう施策であった。指定された市民はある程度行動を制約されてしまうが、極めて厳重な保護の下、テロ組織の手にかかる危険性を高い確率で回避できるようになる。

 昨日のサイもそうだが、形振り構わぬテロ組織の手口は、一般市民をも利用するという悪質な域に発展しつつある。その悪質たる所以は、その市民が気付く気付かないに関わらず、早い段階で闇に紛れて殺害してしまうという点にあった。都市警察機構が公表している行方不明者数は増加傾向にあり、その大多数が日ならずして他殺体となって発見されているという。

 これを重く見た国家統治機構は、監視ネットワークシステムを大規模に構築すると共に、心当たりのある市民の駆け込み寺として各地区の警察機構支所に窓口を設置、緊急の場合はここに保護を求めることができることとした。こういうあたり、統治機構の対応は迅速であったといっていい。

 しかしながら、多くの場合は自分がテロ組織に利用されていることなど露知らず、いつの間にか命を狙われて殺害されているといったケースが後を絶たなかった。

 逆に、警察機構や治安維持機構などは明確にテロ組織の標的となってしまうため、所属員は全員が否応なくこの重要保護指定を受けることになる。

 そして、サイもそれに指定されるという。

この本部舎のあるL地区は重点警戒特区として、とりわけ治安警備が強化されている。ほとんど隙間なく監視ネットワークシステムが張り巡らされ、ここで住民登録された者は特殊IDの携帯を義務付けられている。このIDはセンサーで識別が可能であり、他地区からやってくる者は境界ラインに設置された指定検問所を通過しなければ入れないという徹底振りであった。そういう地区に住む以上、それなりに身の安全は保証されているといっても良かった。

 が、しかし。

 そうとなれば、生まれてから長年住み続けてきたA地区にはもはや帰れまい。

 さすがに、彼は言葉を失った。


「……」


 彼の様子をじっと見ていたサラは、同情するように


「……ま、近日中にこのStar-lineメンバー全員が、ここで暮らさなければならなくなるんですけれども」


 複雑な笑みを見せた。

 つまり、Star-line構成メンバー全員が重要保護指定を受けるという意味であろう。

 真っ向からリン・ゼールに喧嘩を売りしかも完膚なきまでに叩きのめしてしまった以上、これからずばり標的にされるであろうことは火を見るより明らかであった。昨日の活躍振りを見て、今朝ヴォルデがセレアを通じて指示してきたのだと、サラは言った。

 確かに、もはやA地区の自宅では安穏と生活は出来ないであろう。昨夜の様に、またいつ、リン・ゼールの連中が報復のために襲撃してくるかわからないのである。

 それは仕方がないことだと、サイは思う。増して、自分だけでなく、ショーコやリファを始め、Star-lineの全員がそういう立場に置かれるというのなら、文句の言い様もなかった。生きていくために選んだ道だから、半ば自分自身の責任でもある。

 ただ――。

 表情を曇らせてしまった彼の胸中を読んでいるかのように、サラが言った。


「STRに護衛を依頼しておきますから、今晩でも一度自宅に整理に戻ったらどうかしら? 人手と車はありますから、必要な物はみんな運搬してくれます」


 そして、こうも付け加えた。


「……実は、ショーコにもさっきこの件を話したのよね。彼女、長年P地区で暮らしていたし、あそこに色んな思いがあるもの、さすがにちょっと躊躇っていたわ。でも」


 サラは優しく微笑んだ。


「――サイ君やみんなと一緒なら、それも悪くないわ、って」

「……わかりました。では、今夜、そのようにしたいと思います」


 後ろ髪引かれる思いを断つように、サイは頷いた。

 正直なところ、気持ちが整理できている訳ではない。

 といって、他にどうすることができるというのか。ただ今は、できることをやる以外にない。考えれば考えるほど暗くなりそうだったが、ショーコが言うように、それも悪くない、と前向きに思い切るしかないような気がした。


『――ちょっとぉ! サラったらサイ君つかまえてお説教でもしてるの? 早いとことっかからないと、夕方までに終わらないでしょ!』


 電話機のスピーカーから、ショーコの苦情が飛んできた。


「はいはい。今、行きます。――さ、サイ君、行きましょ」

「はい」


 二人は揃ってオフィスを出て行った。

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