始動編3  勇者になるための決断(後編)

「――はぁっ、はぁっ……」


 どこをどう通ってきたのか、サイはよく覚えていない。

 ただ、最近出来た建物が多少目についてきたところから察するに、A地区の南エリアにやってきたと思っていい。

 建物と建物の間、細く暗い路地に飛び込んだところで、とうとうナナの足が止まってしまった。


「ちょっ、サ、サイ、あたし、もう、はしれ――」


 言葉が継げないほどに、すっかり息が上がってしまっている。

 サイの疲労も同じようなものだったが、ここで休んでいたら追いつかれるに違いないと思い


「ナナ! もう少しだ! 確かこの辺りに、どこかの研究施設があった筈だから、そこでかくまってもらえるかも知れない」


 そう彼女を励ますことが出来ているのも、もしかするとちょっと引き離せたかも知れないという安堵感からきている。迷路のように入り組んだ路地を相当ちょこまかとやってやったためで、せいぜい数人程度の追っ手では、二人の行く先に網を張ることなど不可能に思われた。幾ら碁盤の目状とはいえ、一歩廃墟の裏路地に迷い込んだが最後、東西南北の感覚は狂わされ、そう簡単に道筋の見当を付けられる様な代物ではないのである。この辺りに住んでいて普段遊んでいる子供達ですら、廃墟の奥には恐れて立ち入らない。


「サ、サイ……」

「うん?」

「こ、ここ、どこのあたり、かしら……?」


 そう訊かれても、サイには答えられない。

 確か二本ばかりびくびくしながら大通りを横切ったような記憶はあるが、それが縦のC通りなのか横のL通りであったのか、まったく覚えていない。

 道に詳しいナナですら皆目わからないということは、彼女もよっぽど切羽詰っていたのであろう。命を狙われている以上、無理もなかった。

 答えに窮したままふと顔を上げると、狭い路地が行く手で大きな通りに繋がっているのが確認できた。通りの向こう側に巨大な近代的建築施設が見えている。近寄ったことがないだけに、それが何の施設なのかはわからなかった。が、テロ組織に追われているということを訴えれば、悪いようにはされないのではないかという気がした。

 ここがどこなのかを言う代わりに、サイは


「……すぐそこに、大きな施設が見えてるよ。あそこまで行けば、どうにか晦ますことができそうだ。もうちょっとだから、ナナ」


 いつもは彼をリードしてばかりいる彼女も今は心細くなっているのか、こっくりと従順に頷いて見せただけであった。


「よし、行こう」


 彼は、ナナの手を引いて走り出した。

 目の前の大きな通りさえ横切ってしまえば、あとはあの建物に逃げ込むだけである。

 が、こういう大通りが最も怖い。

 だだっ広いだけに、迂闊にゆっくり歩いていれば、見つけられてしまう可能性もある。

 ここは一気に駆け抜けるしかない。


「……ナナ、走り抜けよう。見つかったら厄介だから」


 もう精も根も尽きたような表情で、ナナは首を縦に振った。

 幸い、この寂れたエリアのこの時間だけに、車の通りはなさそうであった。

 二人は最後の力を振り絞って、通りをダッシュで横切ろうとした。

 その時。


「……!!」


 突然、右手に眩しい光を感じた。

 気が付いた時には、それは驚くほど至近距離に迫ってきていた。

 サイは一瞬、頭の中が真っ白になった。




 5L通りを西に向かって装甲車を走らせているショーコ。

 サラのDG-00を行かせる前に、自ら前線の様子を偵察するつもりである。それが「状況支援」という担当の役割でもあった。

 この場合位置関係が多少煩わしいが、正方形を描いてみたほうがわかりやすくなる。この正方形をスティリアム物理工学研究所とするならば、上の辺が4L通り、下の辺が5L通りである。正方形の左辺が3C通り、右辺が2C通りということになる。ショーコが西に向かって走行しているこの5L通りの左手はもうF地区であり、右手にはスティリアム物理工学研究所の頑丈かつ無愛想な塀が続いている。

 通りは片側三車線ほどあり、かなり広く出来ている。地区と地区の間を走る通りは幹線扱いとされており、道路が広く敷かれているのである。

 本来なら真っ暗で静まり返っているはずのA地区だが、緊急車両の回転灯が放つ赤い光があちこちを照らしていて、物々しいことこの上ない。左手F地区もまた、このあたりは開発が進んでいないエリアだけに空き地が目立ち、その向こう側に都市部高層建築の明かりが夜空の星のように瞬いて見える。

 そろそろ交戦区域になるであろうと推測し、彼女はややスピードを緩めた。

 同時に、レシーバーのスイッチを入れて


「――ユイちゃん、聞こえる? こちらショーコ。現在地よろしく」

『はーい、ユイです。現在2C通りでサラ隊長を降ろしました。こちらに賊の姿はありません。情報では、3C通り付近にて治安機構B中隊とリン・ゼール機五機が交戦中の模様。治安機構Aブロック中隊が北側の4L通り側から突入したみたいですが、苦戦の模様です。どうぞ』

(まあ、無理もないか。ポンコツB中隊じゃあね)


 B中隊というのは、FからJ地区までの治安維持を担当する治安維持機構Bブロック統括に所属する隊のうち、二個小隊分を指している。そのBブロック統括所属部隊というのは機体の扱い方の酷さで定評があり、どの機体もあっという間にガタがきてしまっていることから、事情を知る人々から「ポンコツB隊」として揶揄されている。

 CMDは沢山の部品から出来上がっているから、扱いが悪いとその劣化は全体に波及してしまうのである。CMDに携わる者としては初歩中の初歩的な知識であるが、連中にはその意識が皆無であるらしい。


「まあ、A中隊も出動してきているんでしょ? あそこのVVVS型は高性能だし、乗ってる連中もエリートだし、何とかカタつけてくれるん――」


 軽口を叩きながら、ふと視線を走らせたときである。

 いきなり左手から飛び出してきた、二つの人影。

 無線通信に気をとられていたショーコは、その影に気が付くのがやや遅れた。


「ちょっ! うわっ!」


 咄嗟にハンドルを右にきり、思いっきりブレーキを踏んづけた。

 キキキキと派手にタイヤが軋み、装甲車は横向きになって止まってくれた。スピードを落としかけていたのが救いであったろう。飛ばしていたなら、とてもではないが避けきれるタイミングではなかった。


「……あぶねー。もうちょっとで、あたしが殺人犯じゃない」


 鼓動の高鳴りが収まらぬままそっと窓から覗いてみると、車のほんのすぐ脇に一組の男女が倒れている。

 幸い、轢かずに済んだらしい。間一髪という状態である。

 こうなれば、ショーコは容赦なかった。


「ちょっと、そこのバカップル! 危ないじゃないのよ! どこに目ェつけて歩いてんのよ! 無理心中だったら、他所の車でやんなさいよね!」


 機関銃のような罵声を浴びせていると、まず男の方がゆっくりと顔を上げた。


「痛ててて……。どうやら、まだ、生きてるみたいだな……」


 どんな馬鹿か顔をとくと見てやろうと、ショーコは車を降りた。

 倒れている二人の近くへ寄って行ったその時、彼女は思いもかけない人物をそこに発見した。


「あ! あなた!」

「……へ?」


 互いに顔を見合わせた時、二人は驚きのあまり同時にのけぞっていた。


「何でこんなところにいるのよ!? あの、その、ええと……名前が思い出せない」

「サイです。サイ・クラッセル」


 咄嗟にシャキッと答えるサイ。

 ショーコは両手を腰に当てて仁王立ちしながら


「そうそう、サイ君だった。CMDの天才青年! ……って女の子なんか連れて、こんな時間にこんな場所でデート? この近くにホテルなんかないわよ」


 ショーコのどぎつい言葉にも、二人は反応しない。両方とも、相当息を切らしている様子である。

 息を整えつつ、サイが恐る恐る尋ねた。


「あの、ここ……どこでしょう?」

「A地区南3C5Lよ。あなた達、ここがどこかも知らないで歩いてたの? 」


 それを聞いたサイは


「ああ、大分滅茶苦茶に走ってきちゃったんだ」言いかけて、突然きょろきょろと辺りを見回し「……警察に治安機構? すると、誰かが通報してくれたのかな? でなけりゃ、監視ネットワークシステムか……?」

「……通報? サイ君、何かあったの?」


 サイは、帰宅しようとしてリン・ゼールの人間に追われる羽目になったことを話した。

 それを聞いて、途端に苦い顔をするショーコ。


「……やっぱり。そういうことになりゃしないかと思ってた。あいつらってとんでもなく執拗なのよ。ちょっとでも関わった人間をしつこく狙い回すのよね。口を封じるまで、ね。監視ネットワークシステムは好きじゃないけど、そういうものでもないと命がいくらあっても足りないわよね。物騒な世の中だこと」


 二人がどういう経緯で面識があるのか、そしてその会話の内容がよく理解できないナナは


「サイ……? これって、どういうこと?」

「あ、ああ、ごめん。言ってなかったな。実はさ――」


 彼は日中に起きた出来事を、簡単に話して聞かせた。


「まぁ。そんな大変なことになってたなんて! どうして言ってくれなかったのよ?」

「いや……まさかここまでつけ狙われるなんて、思ってなかったんだ」

「CMDを借りて鎮圧の手伝いまでするなんて。……それはさすがに狙われて当然よ」


 二人の会話を聞いていたショーコは


「やだ! そのコ、訳もわからないで引きずり回されてたんじゃないの! そりゃあ、いい迷惑よね? よりによって、テロリストに追われて、ねぇ?」


 ショーコは同意を求めるようにしたが、ナナは黙殺した。雰囲気からすると、何かが気に障っているようだったが、それが何なのか、サイにはわからない。

 ふと、彼は思い出したようにショーコに問うた。


「Star-lineが何で、ここに?」


 目の前のスティリアム物理工学研究所を、顎でしゃくって示すショーコ。


「そこにあるスティーレイン系の研究所よ。リン・ゼールの襲撃を受けたって一報が入ったのね。うちのリファが、たまたま来てたみたいなの。本当は治安機構にやらせておくっきゃないんだけど、うちの関係者が巻き込まれてるってんじゃあね。黙って放っておく訳にもいかないでしょう?」

「リファさんって、あの……」

「そうそう。顔がすっごい可愛くて、でも一本ずれてるコ」


 ずけずけと言うショーコ。

 言われてみれば確かにそういう感じではあったような気はするが、何もそこまで言わなくても……と、サイは思った。

 それにしても、彼等二人がリン・ゼールに追われる一方で、こんなすぐ近くで襲撃事件が発生していたのである。恐ろしい反面、警察機構や治安機構が多数出動している様子だったから、彼は迷い子が母親に巡り会ったような心地であった。ここまで物々しくなっているところへ飛び込んでしまったら、リン・ゼールの殺し屋といえど、そうそう手出し出来るものではない。


『ショーコさん! ショーコさん! 大変です!』


 突如イヤホンから、ユイの叫び声が聞こえてきた。


「ああ? どうしたのよ、ユイちゃん? 叫ばなくても聞こえてるわよ」

『賊機が、賊機が……そちらの方へ……』

「はあ!? 治安機構が二個中隊もいたんでしょ? そいつらはどうなったのよ!?」

『壊滅しました! 今度の賊、とんでもなく強力なCMDを出してきてるみたいです!』

(何が治安維持機構だか……。市民の税金を無駄遣いするのが仕事なのかしら)


 ショーコが内心でぶつくさと呟いている間もなくドドンと凄い音がして、3C通りの方に黒い大きな影が二つ三つと姿を現した。

 リン・ゼールの賊CMDである。


「あいつらか……。こりゃあ、治安機構が蹴散らされる筈だわ」


 ショーコが思わず納得してしまったのは、賊機が完全な人型をしていたことである。夕方に対峙したのはずんぐりとした鈍重なフォルムの機体であり、これは主に重火器を装備する軍用CMDに見られる形態である。格闘を前提としておらず、重火器を発砲する場合の安定性を重視されているためといえる。なお、重心がいきおい低くなるため、銃撃戦となった場合に機体を伏せやすいという利点もある。

 が、完全な人型となると機動力はその比ではなく、かつパワーも桁違いに跳ね上がる。

 操縦者のバランス調整が非常に難しくはあるものの、格闘戦ではほぼ無敵だといっていい。各関節部に深刻なダメージさえ受けなければ、継続的な戦闘が十分に可能なのである。

 夕方の交戦では相手が鈍重だったから何とかなったかも知れないが、これでは全く条件が異なる。しかも、相手の装甲は闇に溶け込むような黒である。その姿たるや、まるで悪魔か魔物のように見えなくもない。しかも、頭部は中央にメインカメラ、その上に左右に分かれたセンサーが配置されたデザインで、イメージは髑髏に近い。そのセンサーが赤くチカチカと点滅している様は、目が光っているようでこの上もなく不気味であった。


「んで、誰が接待すんの、あれ? こっちにゃ何の準備もないじゃないの」


 ユイからさらに、歓迎すべからざる一報がきた。


『ショーコさん、サラ隊長がそっちに向かっています! 5L通りを移動中です!』

(冗談じゃないわよ……。サラじゃ無理だわ……)


 ショーコは眉をしかめたが、すでに接近してくる機体を肉眼で確認できるまでになっていた。闇に目立つ白いカラーリングの機体は紛れもなくStar-lineのDG−00であり、サラが動かしている。


『――ショーコ! そこどきなさい! 相手は私がするから!』

「サラ! あんたに出来るの!? 相手はこれまでの奴とは違うのよ!」

『いいから、退避なさい! ショーコの装甲車で向かっていって止められる相手じゃないでしょう!?』

(それもそうだけど……)


 今いる場所が少なくとも格闘戦の土俵になるであろうことは明白である。サラが本気である以上、早々と避難しなければ、彼女の活動を妨げてしまうことになる。

 車を出そうとして、ショーコはハタと気が付いた。


「サイ君! 早く! 早くこれに乗りなさい! ここでCMDの乱闘が始まるわよ!」

「え? あ、は、はい!」


 道路にぺたりと座り込んでいるナナの腕をとって引き摺ると、サイは装甲車に飛び込んだ。飛び込んだという間もなく、勢いよく車を発進させるショーコ。車道の端に寄せつつ、今度は2C通りに向かって逆走を始めた。

 それを掠めて、サラのDG−00が走り込んでいく。


「そこの機体の操縦者に警告します! こちらは警備会社Star-line、ただちに反社会行動を止めて機体から降りなさい! さもなくば実力を行使します!」


 ありがちな警告を発しつつ、サラはDG−00に左腕のシールドに格納されている対CMD用大型震刃ナイフを抜かせた。その程度の脅しで相手が大人しくしてくれるとは微塵も思っていないが、治安組織側としては対象が犯罪者であれいきなり無言で殴り掛かるわけにはいかないのである。

 柄を握るや否や、ナイフに内蔵されたモーターが回転し、刃が高速で微細振動を始めた。金属装甲を切断するにはただの刃物ではまるっきり歯が立たないが、刃の部分を細かく震わせることで切れ味は飛躍的に増す。完全人型仕様の機体が登場したのち開発され、やがて治安部隊や警備会社に広く普及した。

 

「てぇえええっ!」


 脇に引き付けるように構え、そのまま突進していくサラ。

 が、動きが直線的過ぎた。


(あんなストレートな突っ込み方したら……!)


 サイがひやりとした瞬間、それは現実のものとなった。

 ナイフを突きつける間もなく、賊機がすっと間合いに入るようにして、左手でDG−00のナイフの持ち手を押さえたのである。

 突然モニター一杯に賊機の黒い姿が飛び込んできて、サラは動揺してしまった。


「……!!」


 思わずナイフを繰り出そうとしたが、右腕が動かない。当然であろう。

 賊機はDG−00の動きを止めるや、右半身を圧迫しつつ左足を払った。サラのぎこちない操縦とは段違いに差がある。賊機の動きは流暢でいて、DG−00の動きをよんでいるかのように見える。CMDにおいて、操縦者の慣れ不慣れによる動きの差は絶対といっていい。

 バランスを失ったDG−00は、体勢をもちこたえることができない。


『――ああっ!』


 サラの悲痛な叫び声が聞こえた。

 間髪を容れて、ズズーンと衝撃がきた。

 賊機に突き飛ばされたような形で、背中からもろに倒されてしまったのである。

 思わず、装甲車を急停止させるショーコ。


「――サラ!!」


 サイが運転席のシートにかじり付いた。


「戻って助け出しましょう! 操作が動きについていってないです! このままじゃ、隊長さんが――」

「そうしたいけど! 今行ったら踏み潰されるか、撃たれてそれまでよ!」


 仰向けに倒れたDG−00に、賊機が近寄りつつある。


「ああっ! サラ!」


 この期に及んでは、さすがのショーコも悲痛である。

 黙っていれば、運が良くて負傷、悪くいけば殉職を待つばかりである。

 為す術もなく窓から身を乗り出してそれを見ているサイ。

 と、不意にナナが彼の袖をくいくいと引っ張った。


「……サイ! 今よ! 今なら、行けるわ」

「……あ? 何だって?」


 彼女の言う意味が判らず、サイは眉をしかめた。

 その時。

 まだ動けるらしいA中隊のVVVS型が二機ばかり、突然3C通りから飛び出してきた。あちこちの装甲が吹っ飛び、機器が剥き出しになったりケーブルが千切れて振り乱されている。一機は、頭部を喪った首なし機。メインカメラがやられている以上とても格闘に耐えられるような状態ではないのだが、操縦者に根性が具わっているのかどうか、無謀にも賊機に武者ぶりついている。さすがはエリートのA中隊、といったところであろう。

 しかも、DG−00の手前である。賊機は、二機の死に損ないに止めを刺さない限り、サラの方へ近づくことができない。

 サイが呆気にとられていると、なおもナナが囁いた。


「……乗り換えるなら、今しかないわ! 悪いけど、あの操縦者じゃあ……」


 ようやく、彼女の言う意味が理解できた。ナナは、サイの実力を知っている。

 そして――ナナの直感は「行ける」といっている。


「……わかった!」


 ナナが言うならどうにかなるかも知れない。サイは内心、自信が湧いてくるのを覚えた。


「……ナナ! 行ってくる!」


 勢いよく装甲車から飛び出していくサイ。

 その様子に気が付いたショーコが、ドアを開けて身を乗り出し


「サイ君、ちょっと!! あんた、バッカじゃないの!! 戻りなさい! 死にたいの!?」


 怒りやら何やら感情の収まらない彼女は、後部座席を振り返りざまナナにも怒鳴り散らした。


「あなたも! 何で彼を止めないのよ! あんなCMDが動き回っているところへ生身で飛び込んでなんて行ったら――」

「……行けるのよ。今なら」


 まったく冷静に、くすりと笑ったナナ。

 彼女はさらに一言、付け加えた。


「あなた、知ってるんでしょ? サイの実力。今、操縦を代わらなかったらあの操縦者の人、潰されて死んじゃうわよ?」

「……」


 ショーコは思わず気勢を削がれてしまった。

 この娘は、何かがわかっている。

 わかっているからこそ、強気な言葉を口にしている。彼女は、その言葉裏にある何かを感じ取った。


「……」


 それ以上口に出す言葉も見つからないまま、のろのろと車を降りたショーコ。

 と、2C通りの方からトレーラーが近づいてきた。

 トレーラーは装甲車の傍で停止し、ユイが飛び降りてきた。

 彼女は、CMDの格闘現場に突進していく人影を認めて肝を潰した。そしてその人間がサイであることを見確かめた時、


「うそ? あ、あれ……もしかして、あの、サイ、さん?」


 信じられないといった調子で尋ねた彼女に、無言で首を縦に振るショーコ。

 ユイは声を限りに、


「戻ってください! 潰されちゃいますぅ!」


 が、彼女の悲痛な叫びは、サイの耳には届かなかった。

 今やCMDの闘技場と化した道路を、彼は必死に駆けていく。

 幸いなことに、DG−00は仰向けに、2C通り側へぶっ飛ばされてきている。

 前方で揉み合っている賊機と治安機構機を横目に、彼はDG−00のコックピットにかじり付き、ガンガンとハッチを叩いた。


「――開けてください! あの、その、俺、夕方の通りすがりの者ですけど! 俺に、俺に、やらせてください! お願いします!」


 道路に叩き付けられた衝撃で、半ば意識が遠くなりつつあったサラ。

 ガンガンとハッチを叩く音でハッと我に返った。そして叫んでいる声とその内容から、すぐにサラは外側にいる人物が誰なのかを悟った。が、何故彼がここにいるのかということまでは、さすがに疑問に思っている余裕はなかった。

 外部音声のスイッチを入れると


『そこにいるのは、サイ、君、だったかしら? すぐに避難なさい! この危険な状況が、わからない訳じゃないでしょう!?』


 言い終わるのを待たずして、突然バシュッとハッチが開いた。サイが外のレバーをいじくって、強制的に開けたのである。無論、彼にとってこんなものを操作するのは朝飯前である。


「な……」


 上から見下ろすようにして覗き込んでいるサイ。

 彼はキッとサラを見据え、ずばりと言った。


「あなたじゃ、無理です!」


 歯に衣着せぬストレートな言い方に、サラもカチンときた。


「な、何てことを言うの? 失礼にも程があるわ! あなたのような腕前じゃないにしても、私だってCMDの操縦は訓練を受けて――」

『――サラ、聞いてる?』


 コックピットの無線から、ショーコの声が届いてきた。


『今は、サイ君に任せた方がいいわ。彼の操縦データ、サラも見たでしょう? 気持ちはわかるけど、あなたが未熟とかじゃなくて、今度ばかりは相手がやばいのよ。A中隊のVVVS型も、もう保たないわ。今となっては、治安機構じゃ奴らを抑えきれない。ここは――』

「ショーコまで、何を言い出すのよ!? いくら操縦に長けてるとはいったって、彼は一般人なのよ!? そういう人に、こんな危険なことを、やらせられる訳がないでしょう!」


 些か感情的に叫ぶサラ。

 しかし、マイクの向こうのショーコはどこまでも冷静だった。


『いい、サラ? ――お兄さんの仇は、何もあなたの手で討つ必要はないのよ?』

「……」


 やがて、前方でズンと音がした。

 サイがそちらを見やると、善戦虚しく、VVVS型は無残な姿で路上に転がっていた。賊機がそのもぎ取った片腕を、ゴミでも捨てるかのように背後に放り投げた。人間同士のそれではないにせよ、見ていておぞましい光景である。人間同士ならなお、凄惨な様相であったかもしれないが――。

 賊機が一斉にこちらを見ている。

 もっとも手前にいる賊機の頭部センサーが、チチチチと赤く点滅した。

 ずしりと一歩を踏み出し、こちらに向かってくる様子を示した。

 その気配は、外にいるサイにはわかっている。

 もはや躊躇している暇はない。一瞬でも判断が遅れれば、二人まとめて命はない。


(こうなった以上は、仕方がないけど――)


 彼は意を決し、コックピットの中へ飛び込んだ。


「ちょっ! サイ君、一体何を――」


 サイはサラの腕をつかんだ。


「俺がやります! 俺なら、あいつらを止められます!」

「なっ、何するのよ!?」 


 DG−00のコックピット内で、CMDの格闘以前に、サラとサイが格闘を始めた。


「いい加減にしなさい! 操縦が上手いからって、図に乗るのもほどほどに――」

「あんな動きをしていたら、やられるだけです!」


 二人のやり合いは、ショーコ達のレシーバーにも届いている。ユイが困ったような焦ったような表情でショーコを見たが、彼女は何も言わない。

 サラはサラで意固地になっており、埒が明きそうになかった。

 こうやって揉み合っている間にも、危機は迫っている。黙っていれば、二人とも命はないであろう。


「――あなたと言う人は!」


 たまりかねて、サイは思わず叫んでいた。


「人の上に立とうって立場なのに、そんなに人を信じることが出来ないんですか!」


 痛烈な一言であった。

 抵抗していたサラの動きが、はっとしたように止まった。

 なおもサイは咆える。


「あなたは特別なCMDの教育を受けたかも知れません。俺はそんな教育は何一つ受けてなくて、でもポンコツだけど一機のCMDを大事にして、それで全部学んできた。だから、出来ると言っているんだ! 他人を信じる事が出来ないで、どうして一隊の隊長が務まるっていうんですか!!」


 ふと脳裏に、恩人であり師匠でもあるかつての勤め先の社長ガイトの姿が浮かんだ。


(――サイ君に、あっさり見抜かれちゃったわね。あんたの欠点……)


 離れた場所でそっと、切なさそうに笑ったショーコ。

 彼女とて、気が付いていなかった訳ではない。サラのそんな欠点をして、時々チームの皆を不快や心配にさせる場面が幾度かあった。しかしショーコが何も言わずにいたのは、余りにもサラが必死過ぎていて、言えば潰れてしまうような気がしたからである。隊内における人間関係の部分については、自分がバランスをとってやればとりあえずどうにかしていけるだろうとは思っていたのだが――聡明なショーコは、はっきりと悟ってしまった。

 そういうメンタルな処置ではどうにもならない課題というものがあって、いつかは直面せざるを得ないのはわかっていたつもりだったが、早くもそのシーンがやってきてしまったのだ。うかうかしていれば、サラの気持ちが潰れる前に、彼女の肉体が潰されてしまうのである。

 一気に咆えてしまったサイは沈黙しているサラを注視している。

 なおも拒まれるか、と一瞬思った。

 が。


「……」


 彼女は不服そうな、しかし観念した表情で黙ってコックピットを譲った。

 入れ替わりにサイが急ぎシートに身を沈めた。

 彼はすぐに手早く、ステータスモニターをチェックしていく。


「うわ……背部装甲、強度低下。こりゃ、自重が仇になったなァ」


 その声は、機体から飛び降りたサラに届いている。


「そうよ、無理よ! いくら何でもあなただって――」


 しかし、もうコックピットから仰げるほどに、賊機はすぐ目の前まで迫ってきている。


「いけない! 逃げて!! 機体なんて、いいから!!」


 絶叫するサラ。


「んなこと言ったって――」


 サイには逃げる気など毛頭ない。

 自分の目でチェックしてみて、この機体はまだまだやれると答えている。この体勢から反撃が上手くいくかどうかの保証はなかったが、今は機体を信じてやることが重要なのだ。

 彼は一瞬のうちに決断した。


「やるしかないでしょうが!」


 半ば自棄気味に、サイはフットペダルを思いっきりガーンと蹴っ飛ばした。

 すると、いきなり天に向かって右脚を突き上げるDG−00。あたかも、サイの意志がそのままシンクロしたかのようである。

 と、奇蹟はそこからやってきた。

 右脚は丁度、正面から近づいてきた賊CMDの胸部下あたりをとらえた。

 ガァン、と派手な音と、飛び散るパーツの破片。

 賊機はバランスを失い、仰向けに倒れていった。致命傷にこそなっていないものの、コックピットを蹴っ飛ばした訳だから、操縦系にやや不具合でも起こすであろう。

 サラは両腕で身を庇いながら


「なんて無茶を! たまたま当たったからいいものを!」


 危険極まりないサイの行動に、苛立ちを隠せない。


「あんたはそう思うでしょうよ。……だけど」


 離れた位置で仁王立ちしているショーコは、ニヤリと笑った。


「――いいじゃない、面白い!」


 ぼそっと呟くと、頭からレシーバーをつかみとり、マイク部分を握り締めて興に乗ったようにぶち上げた。


「サイ君! 構わないから思いっきりやっちゃえ! ぶっ壊したらあたしが直したげるから、遠慮は要らないわ!」

「ちょっとショーコ!? 一体、何てことを……」


 サラが青くなっている。


「何もへったくれもないわ! こうなりゃ、どんな手段を使ってでもあいつら叩きのめさないと、生きて帰れないのよ! いいわね?」

「いいわねって、ショーコ……」


 押し切られた、というより完全に呑まれてしまったサラ。呆然とした面持ちで呟いた。こうなったショーコを誰にも止められないということは、彼女が何よりも知っている。 


「――言われなくたって、やりますよ!」


 言い捨てるや、サイは両レバーを全開に引き絞った。

 コックピットハッチが安全機構によって瞬時に閉じ、DG−00頭部のメインカメラが、電力をチャージしてキラキラと発光した。

 起動の気配を察知して、サラは機体から離れた。

 ブゥン! と機体全体が震え、DG−00は勢いよく立ち上がった。

 ステータスモニターに表示される状態を瞬時に読み取りつつ、サイは前方の賊機を数えた。まともに立って歩いているのが五機、うち一機はサイに蹴倒されて転がっている。どれも同型機で、完全人型の高性能機であると思われた。


「……ふん。数で押せばいいってものじゃあ、ないのさ」


 DG−00の状態が思ったよりも良好であることに、彼は満足していた。

 破損は背中の装甲のみで、操縦系、駆動系、末端伝達系に異常はない。つまり、五体満足。

 突然動きが見違えたことに警戒しているのか、向こうにいる四機の賊は容易に近寄って来ない。

 相手の位置関係を見ながら、自機の動きをどうすべきか考えているサイ。武装はショートレンジ仕様で、震刃ナイフが一丁と片刃広角ナイフが一つ。これは震刃ではないから、装甲に突き立てることは出来ない。ちょっとしたケーブルなどの切断に使用する程度の切れ味しかないのである。


(ロングレンジの武装はなし、か。……ま、持ってたところで俺には扱えないけど)


 銃撃戦でもない限り、CMD同士の戦いは武装ではない、とサイは思う。どこまで機体の性能を把握し、それを十分に活用できるかどうかであろう。機体のスペックが隔絶してしまっているならともかく、今は大差ない。人間同士の争いなら自らの肉体を庇うものだが、CMDなら多少腕の一本や装甲を失おうと最後に立っていられればいい。

 やがて、彼に蹴っ飛ばされた賊機が、ググググと上体を起こした。

 そのまま、道路に手を付きつつ立ち上がろうと試みている。モニターで確認する限り、コックピットの下ハッチ装甲が吹っ飛び、股関節部がひしゃげてしまっていた。人間でいうなら下腹部から股にかけて受傷したようなもので、これではスムーズに立ち上がる訳にはいかないであろう。

 その様子を、サイのDG−00は黙って見ている。

 ショーコ達のいる位置まで駆け戻ってきたサラは


「彼……何やってるの? 今のうちに、動きを止めれば――」

「あたしに聞かないでよ。サイ君なりに考えがあるのよ、きっと」


 ショーコは腕組みをして落ち着いている。

 尻餅をついた状態の賊機が腕を支えにしてようやく腰を浮かせ、そこからぐいっと立ち上がった。立ち上がるや否や、こちらに向かってきた。

 DG−00との間合いはほとんどない。

 賊機が右手でつかみかかろうとしたその刹那、サイはガンッと右フットペダルを踏んづけた。だけである。

 すると、DG−00はいきなり右足を腰の辺りまで蹴り上げるようにした。

 そこには右半身を前に踏み出した格好の賊機がいる。

 見事なカウンターであった。

 よけたり防いでいる間は全くない。DG−00の右足は再度、賊機の腰の辺りに真っ向からヒットした。

 ガコォンと衝撃音がして、賊機は一気に右半身から道路にのめり込んだ。


「……ふっ」


 短く笑みを漏らすショーコ。

 その傍で、サラが固唾を呑んでいる。

 賊機はすぐに起き上がろうとするものの、下半身が言うことを聞かないらしい。腰から上だけでじたばたともがいている。同じ個所に二度も強い打撃をくらえば、どんな頑丈なCMDでも異常をきたさざるを得ない。

 そこへ、サイのDG−00が近寄って行った。

 賊機の左側で歩を止めると


「CMDを上手く乗りこなすコツは……」


 三度、彼はDG−00に右足を上げさせた。真下に、賊機の頭部がある。


「――無駄な動きをしないことさ!」


 賊機の頭部が、アスファルトにめり込んだ。

 一瞬おいて頸椎の辺り、そして腰や股関節部がはじけ飛び、煙を上げ始めた。赤い点滅を繰り返していたセンサーが、ややあってすうっと消えていき、同時に、ぴくぴくと動いていた上半身も動かなくなった。操縦者が観念してしまったらしい。


「は……」


 呆気にとられているサラ。

 大した動きもしていないというのに、サイはあっさり一機を仕留めてしまったのである。

 ただ単に相手の動きを読んでいただけではない。機体の状態を観察して致命傷となるであろう部位へ、的確に打撃をたたき込んでいるのである。並みの操縦者にできる芸当ではなかった。確かに、人間と同様、腰部は人型機の最大の弱点であるともいえる。強いダメージをくってしまえば、二度と立って歩くことは出来なくなるのである。


「……ねぇ、サラ」


 ショーコが呼び掛けた」


「え?」

「彼を信じてみて、間違ってなかったでしょう?」

「……ええ、そうね」

「人を信じればその分、自分の荷物は軽くなるのよ。――信じる相手は選ばなきゃ、だけどさ」


 などと言いながらも、一方で彼女は別のことも思っていた。 


(これって……やっぱ、リファのツキのせいかしら?)


 ショーコは内心ほくそえんだ。

 リファがのこのことこんな所まで来なければ、彼と再会することは叶わなかったであろう。そう考えれば、リファが呼び込んできた何事かであるというのも、外れではない。


「あっ! いけない!」


 そう叫ぶや、彼女は装甲車に潜り込み、簡易端末を立ち上げた。

 リアルタイムでDG−00の稼働データを解析しようというのである。

 と、そこへ数台もの黒い装甲車が走り込んできて、ユイのトレーラーの周りで停止した。

 中から夥しい数の完全武装した屈強な男達が降りてきて、格闘を始めたCMDとショーコ達とを遮るように大型の盾を並べて整列し


「Star-line、大丈夫か! 我々はSTRだ。」


 端末をたたきながら窓の外をちらりと見やり、ヒュゥッと口笛を鳴らすショーコ。


「……いやいやいや、いい男達のお出ましだわ、こりゃ」


 STRの上官に気が付いたサラは、姿勢を正して敬礼した。


「お疲れ様です。研究所の方にはリン・ゼールの工作員がいると聞きましたが……」

「ああ、連中は全部で八名であるのを確認している。これらは速やかに身柄を確保した。問題はない」


 彼は、顎をしゃくった。

 すると、多数の隊員達が今しがた仕留められた賊機の方へ駆け寄って行った。コックピット周りを包囲し、不測の事態に備えて盾で防ぐ体制を整えると、ハッチをこじ開けにかかった。程なく開けられると、リン・ゼールの操縦者が引きずり出された。

 その様子は、残りの賊機からも見えている。

 同志が捕まったのを見て何を思ったか、機体が一斉にこちらに向かってくる気配を示した。データの解析に余念がなさそうにしつつも、ショーコは実はそちらの方にも注意を払っていた。やることはしっかりやっている。


(あれがこっちに寄せられると厄介ね。どうにか、空いてる場所へ――)


 マップで地理と各機体の位置関係を照合しつつ、彼女は無線を入れた。


「サイ君! 賊をそっちの廃墟の方へ誘い込んで! ここだと、研究所に被害が及んでしまうかも知れないの! ――出来る!?」


 サイは5L通りで3C通り方向を向いて賊と対峙している。その背後に、ショーコやサラ達がいる。南のF地区側が、丁度更地となっている。そこへ賊機を誘導してくれという指示である。


『やりゃあいいんですよね! やれば!』


 賊機は格闘戦に自信があるのか、飛び道具を使ってくる気配はなかった。向こうは数を頼みにしている部分もあろう。こちらが動けば、相手も動いてくるのではないかと、サイは予測した。

 DG―00は装甲が厚い分、思ったように速力が出ない。

 ショーコが送って寄越したデータで確認する限り、歩速については案の定賊の方が上回っているようであった。


(と、なれば、こっちがちょこまか動き回るよりは――)


 サイは素早く方針を固めると、両フットペダルを一気に踏み込んだ。DG−00が駆け出していく。彼はゆるゆると左前方へと寄って行った。

 予想通り、賊機もそれに合わせてきた。

 3C通りまで進んで来た時、彼は左前方の区域に何もないことを確認し、右側をちらりと見やった。賊の一機が、DG−00をその手にとらえようというばかりに接近している。

 おあつらえ、とばかりにニヤリと笑みを浮かべたサイ。


「――増速移動中の相手に格闘を仕掛けるなんてのは」


 彼はDG-00を急停止させた。勢い余って突っ込んできた賊機の右腕を掴んで引き寄せるなり、足をひっかけて更地側に投げ飛ばした。


「――自殺行為だぜ」


 地面を抉りながら、派手に吹っ飛んでいく賊CMD。少なくとも、叩きつけられた右腕くらいは駄目になったであろう。

 なおもピピピピと、接近警告音が鳴っている。

 が、サイは全く動じていない。背面カメラを睨みながら冷静に機体を反転させつつ、


「後ろから――」


 間髪を容れず繰り出されてきたナイフを絶妙のタイミングですれすれにかわさせ


「――突いて来るんじゃねぇ!!」


 バランスを崩した賊機の肩を掴みざま、相手の腰部に膝蹴りを決めたサイ。

 彼にとっては最高の体勢である。賊機にとってはたまったものではなかった。

 ドガッ と鈍い音がして、賊機の腰の辺りが背中の方から飛び出した。

 機体ががくっと「くの字」に折れ曲がり、背中のあたりから煙が出始めた。

 サイはなおも容赦しない。 

 脳裏に、脱出したパイロットがユイを人質にとった、夕方の苦い経験がある。


「……くぉのお!」


 膝から滑り落とすようにして、賊機の上半身を力任せに地面に叩き付けた。

それもうつ伏せに、コックピットをもろに、である。


『うわぁああああ……』


 賊の悲鳴が轟いた。

 ガシャァン、と、賊機が頭部側から地面にのめり込んだ。至る箇所から煙が噴出し、間接部のあちこちから火花が散っている。

 この程度では中の人間は潰れないにせよ、もはや自力で脱出など不可能であった。

 この光景に、サラは息を呑んだ。


「……あんなとどめの刺し方を。サイ君、あんな人だったかしら?」


 すると、背後にいたSTRの上官がもっともらしく頷いた。


「正しい処置ですな。中途半端に動きを止めただけでは、中にいるテロリストが逃げ出してしまい、後で厄介な事態に発展してしまう場合がある。人命に差し支えない程度に相手を再起不能にしておくことは、重要な処置です」


 そしてこうも付け加えた。


「――さすがはStar-line。優秀なドライバーに恵まれたようですな。我々も、ぼやぼやしていられますまい」

「は、はあ……。恐れ入ります……」


 大真面目でそういうことを言われると、サラも恐縮するよりない。

 あれが正規隊員でない、通りすがりの若者であると教えたら、この上官はどんな顔をするのであろう。

 立て続けに二機が料理され、残っている賊機はさすがに間誤付いているようである。

 ここで間を与えてはいけない。

 サイはそちらへ向きを変えつつ、一気にダッシュをかけた。

 よほど熟練の操縦者でもない限り、不意を衝いて接近してくる敵機に冷静に対処できるものではない。接近された賊機は案の定、どういう対応も叶わなかった。

 賊機の右脇腹に、左肩でタックルをくらわすDG-00。ドッと賊機の腰が引けた。そのまま吹っ飛ばすのかと思われたが、意外にもサイはそこで勢いを緩めていた。


「……突き飛ばさなかった? どうして――」


 サラはそう呟きかけて、その答えに気が付いた。

 どこで抜いたのか、DG-00は右手で震刃ナイフを抜き、賊機の脇腹に叩きこんでいたのである。十分に奥まで刺し込んだところで、右腕は力任せに水平に振り抜かれた。

 切り裂かれた傷口からやがて煙が上がり、賊機のあちこちの間接部でスパークが起こった。脚部にそれが生じた直後、賊機は膝をつき、そして前のめりに倒れて停止した。震刃ナイフはCMDに突き立てられると、その電導系にショートを起こさせるのである。そしてそれを叩き込むべきベストな部位は、上下半身をつなぐ腹から腰の位置であるといっていい。神経ともいえる操縦系からの電導が絶たれ、CMDは全く稼動不能に陥ってしまう。

 さらには――サイが突進した方向、その向こう側には、大破した治安機構A中隊やB中隊の機体が転がっており、危険を承知で救助作業に取り掛かっている人数がいた。

 彼が力任せに賊機を吹っ飛ばしたなら、それらの人間が巻き添えを食ったであろう。

 その位置関係はサラには見えていなかったが、そのことを知ったならば、彼女はなおも驚嘆したに違いない。サイは、そこまで見ながら機体を操っていた。


(電導系を絶った以上、こいつはもう自力で脱出出来ないな……。さて、と)


 キュインッとDG-00の頭部が動き、残った一機に目を付けた。

 賊機は躊躇っているようだったが、やがて自らもナイフを抜いた。

 ブゥンと音がしたあたり、それも震刃ナイフであるらしい。そのまま、DG-00目掛けいきなり突っかけてきた。

 DG-00がグッと状態を沈めたところまでは、サラもユイも見ている。

 が、次の瞬間、賊機の右肘から先が無くなっていた。下からサイがナイフを一気に振り上げたためなのだが、その素早い動作を、二人とも捉えることができなかった。間髪を容れて、ゴォンと右腕が地面に落ちた音がした。


「すごーい! どうやったら、あんな動きができるのよ!?」


 呆然とした面持ちでユイが呟くと、後ろから


「……サイ君だから、だろうね」


 声がした。

 はっと振り向くと、そこには何とヴォルデとセレアの姿があった。

 慌てて敬礼をするサラとユイ、そしてSTRの面々。ショーコだけは装甲車の中で稼動データの解析に忙しかったから、彼等の登場に気が付いていない。

 ヴォルデはサラとユイに優しく微笑みかけ、


「……またとない、幸運だったね。まさか、ここで彼に出会えるとは」

「あ、は、はい。ええと、あの、私では――」


 正規の操縦者である筈だった自分が上手く対応できなかったことを思い、サラは恥じ入るように下を向いてしまった。

 その彼女の肩を、ポン、と叩いたヴォルデ。


「……運もまた、上官には大事な資質なのだよ。すべて自分の力でやり切ろうという思いは大事だが、組織の中では必ずしもそうとは限らない」


 短いその言葉の中に教訓と励ましが込められているのを感じ取り、サラは少し胸が熱くなった。


「リファ君は大丈夫かね? セレアの話では、何でも、研究所の中に――」

「ええ、ショーコが迂闊に動くなと指示を出しています。ですので、問題はないかと」


 ヴォルデはさっと表情を固くすると、STRの上官に


「リン・ゼール工作員の残党が残っていないかどうか、状況が片付き次第、もう一度付近を洗っておいてもらいたい。セキュリティが厳重だとはいっても、今日の今、もしかすると別の角度から狙ってくる可能性もあるだろう」

「はっ! 了解です」

「それと、うちの研究所を狙った動機だ。開発中とはいえ、特に目新しい技術発表もないというのに、解せないことだ。警察機構から、賊の取調べ結果についてよく聞いておいてもらいたい」

「了解であります」


 そこまで指示を出して、ふとヴォルデは傍らの特殊装甲車の中を覗きこんだ。

 中には、嬉しそうにキーボードを叩きながら、しきりと独り言を呟くショーコがいる。


「ああ、右CパーツからMO部の伝導がちょっと弱いかなぁ……。でも、左はぜんぜんOKね。おお、腰部QEと脚部右LF、この精度はいいじゃん。んで――」


 ふっと窓の外に目をやった瞬間、ヴォルデと目が合ったショーコ。途端に引きつったように笑いながら


「……あ、これは会長、どーも。――えーと……」

「……楽しく仕事をするのはいいことだ。続けてくれ給え」




 セキュリティルームには、避難してきた研究員達に混じって、リファの姿があった。

 緊急時の避難用に設置されているその部屋は殊のほか強固に設計されており、イリスの話では軍の対CMD用特殊ランチャーを数十発ぶち込んでもびくともしないように設計されているらしい。

 中には、幾つものモニターが設置されており、外部の状況が把握できるようになっていた。その前に研究員達がどっと詰めかけ、推移を見守っている。

 リン・ゼールの工作員が発見された時は彼等に動揺が広がったが、たちまち駆けつけた警察機構とSTRによって取り押さえられた瞬間、安堵のため息が流れた。

 が、治安維持機構が良くない。

 B中隊がほどなく潰滅し、A中隊までもがやられそうになるや、再び不安な空気が流れ始めた。その時、一人部屋の隅で端末を操作していたイリスが声を上げた。


「――わかったわよ! イゼルベス・ファー・インダストリー、ここの最新型、FLVZ二式! こいつのデザインをちょっと変えてあるわね。スペックが大分いい。格闘戦になったら、そこら辺の治安機構機じゃ勝てないのも当たり前ね。……何で、こんなものを賊がもっているのかしら?」


 そう訊かれても、リファにはさっぱりわからない。が、それはイリスの独り言である。

 A中隊がほぼ賊機に止められかけた頃、一台のモニターを見たリファが


「あ! ショーコちゃん達が来たみたい! もう、大丈夫ね」


 無邪気な声を上げた。

 それを聞いて喜色を浮かべた研究員もいたが、イリスは冷静に


「……でも、もうあの天才パイロットはいないんでしょ? 残っている隊長さんじゃあ、あの連中とは渉り合えないわ。相手は五機だし……」

「じゃあ、サラ隊長達に、その最新型機のデータを教えてあげなくちゃ」


 解放無線送受信機を使って通信しようとしたリファを、イリスが押し止めた。


「やめなさいったら! 今ここから無線を使えば、賊に傍受される危険性があるのよ! 受信はともかく、送信は駄目。それに、この部屋からじゃとても届かないわ。電波が遮断されちゃうし」

「でもでも、その新型機のデータを届けてあげれば、サラ隊長でも戦えるかも知れないでしょ? サラ隊長、何としても自分で戦おうって、すると思うから……」


 珍しくまともな発言をした彼女の顔を、まじまじと眺めているイリス。


「それに、それに、私……状況支援担当だから。ここでじっとしていないで、みんなのところへ行かなくちゃ」

「……リファ、あなたも時々は真剣になるのね」


 感心したように微笑を浮かべた。

 確かに、ただ突っかかっていっても返り討ちに遭うだけであろうが、敵機のスペックを機体のコンピュータに転送すれば、多少なりとも機体の方で相手との状況優劣を判断し、何事かの助けにはなるであろう。

 彼女はチェアから立ち上がり


「エレ! 非常退避坑を調べてみて! 今の状況から判断して、5L通り側に出られるかどうか」


 そう指示をしておいて、端末からデータをコピーしたカードを抜き取った。


「これ。うちのデータベースだから調べられたけど、Star-lineの端末じゃここまではわからないと思うの。こいつのスペックを見れば、多少は役に立つと思う。時間稼ぎができればその間に、治安機構C中隊とかA・B予備中隊が駆けつけて来てくれる筈だから」

「うん!」


 エレといった女性研究員は、予備端末を操作してこのエリア地下に張り巡らされた地下坑の図面を引っ張り出し、プリントしてリファに渡した。


「これをみれば、何処に出られるかわかると思います。現在、Star-lineは2C通りから5L通りにかけて展開していますから、賊に見つかることなく辿り着けると思いますが」


 彼女は、そんな風に説明してくれた。

 リファはこっくりと頷き、図面を受け取った。


「ただし……」


と、エレは付け加えた。


「地下に走っているのは殆ど、非常退避坑としてつくられたものではありません。この辺りで以前進められていた地下高速軌道交通計画や高層建築街計画の際に調査用として掘られたものばかりです。下手に進むと迷ってしまって深層部へ落ちてしまうこともありますので、地図を見て確認しながら、十分に注意してください」


 イリスも頷き、


「……気をつけてね。あなた程のおっとりさんでも、少しは仕事熱心みたいで、安心したわ。Star-lineの皆さんによろしく。――それから、落ち着いたら稼動データも寄越してね」

「わかった! ありがとう、イリスちゃん」


 リファは研究所地下の非常口から、地下通路へと出た。

 メンテナンス用に若干の照明が設置されているものの中はほの暗く、広くもない通路の両側に夥しい数のケーブルが走っていて、不気味なことこの上ない。


「わあ……こんなものが造られていたのねぇ」


 怖がるでもなしにしきりと感心しながら、リファは通路を進んでいく。どこからともなくズーンという衝撃が伝わってくるのは、地上でCMDが稼動しているせいであろう。


「あ、やってるやってる。ショーコちゃん達、大丈夫かなぁ」


 やや歩いていくうち、彼女ははたと気が付いた。

 地図でどの辺りを歩いているかを確認しながら進んでこなかったのである。無論、ただの地下坑には懇切丁寧にそこがどこでどっちに行けばよいかなどとは示されていない。


「困ったなぁ……これじゃ、どこから出たらいいのかわからない」


 とりあえず、地上に繋がっている出入用の縦坑を探すことにして、リファは通路が続く限り歩き回った。途中、壁が途切れ、その奥に真っ暗な空間が続いているのを見た。どうやらそこは果てしなく巨大で深い穴らしく、ォオオという地鳴りにも似た音が陰々と響いている。


「……まぁ、怖い。落ちたら、死んじゃうわね」


 そんな独り言を口にしながら彼女は穴を横目に通り過ぎ、やや歩いたところで地上への縦坑を発見した。「F3・1/2―5」と記された鉄板が壁に打ち付けられている。F地区3C通り過ぎ、5L通り付近という位置表示らしい。


「あ、ちょっと行き過ぎちゃったけど、ここから上に出られるわね」


 地上に出ることだけを考えていたリファは、そこを出たならばどういう状況が待っているかということまでは考慮していなかった。

 鉄製の梯子を登り、重たい鉄の蓋を持ち上げて、外へと出た。

 辺りはどうやら何もない更地らしく、暗い。

 が、少し先の方で、幾つもの照明が眩いばかりに輝いているのを発見した。しかも、よく見れば、CMD同士が今まさに格闘戦を演じている最中である。


「あ、あれって、ショーコちゃん達ね!」


 リファはそちらの方へ駆け出して行こうとした。

 その時、背後に巨大な影が接近してくるのを感じた。


『おい! 動くな、女! 動いたら、こいつでブチ抜くぞ』

「……えーっと。あれ?」




 特殊装甲車の中でショーコは、次々と送られてくるDG−00のデータを解析している。


「うははは、こりゃ、国宝級だわ! こんなに見事な稼働のCMDは見たこたないってば」


 幸運にもサイという最強の味方に再会してしまい、彼女はすっかり自分の本分を忘れていた。本来であれば、細かく状況を把握しながら、彼に的確に指示をとばしていかなければならない役割なのである。

 その時。


『――コちゃん! ショーコちゃん! こちら、リファですけど』


 無線の奥から、リファの長閑な声が聞こえてきた。


「はいはいはい、ちょーっと待ってくださいな」


 そういえばと彼女は思い出した。

 諸々があってすっかりリファと連絡をつけるのを忘れていたのである。

 どうせ大した用件でもないだろうと、ショーコは軽く無視してキーボードを叩き続けている。

 が、リファは諦めることなくいつまでも連呼している。


『ショーコちゃーん! ショーコちゃーん!』

「あん? リファ? うっさいなー。今忙しいんだから。何をやって――」


 罵りながら何気なく多面拡大モニターに目をやったショーコ。

 装甲車に取り付けられている望遠カメラが捉えている映像である。

 手前側に賊機を叩きのめしているサイのDG-00があり、それよりもさらに向こう側、F地区寄りの更地の奥に、リファが立っている。

 よく見れば、そのリファはなんと、後ろにいるCMDから銃を突きつけられているではないか。

 それも、賊CMDの、大口径機関砲である。この至近距離では、どうやって撃とうが当たるであろう。

 仰天して言葉を失っている彼女に、リファは長閑な調子で


『あのね、後ろから、動いちゃ駄目っていうんですけど。動いちゃ……駄目かな?』

「ばっ……」


 開いた口が塞がらない。

 一呼吸おいて


「――かじゃないの、あんた! う、う、動くんじゃないわよ! う、ごいたら、死ぬわよ!」

『そうなの? 困るじゃない』


 人質をとる卑怯な賊よりも、別な意味でリファに腹が立っている。我が身の危険というものが、まるでわからないとでもいうのか。


「あんた、今、人質になってんのよ! 人質! わかる? 人質! モノとおんなじ!」

『ショーコちゃんたら、酷いこと言うのねぇ。私、何にも悪いコトしてないのに。リン・ゼールの機体のデータがあったから、折角届けにきたのよ?』

「だあっ! ちったぁ黙ってなさい! イライラするっ!」 


 ちっとも自分のおかれている状況を理解していないリファを放っておいて、ショーコは急ぎ装甲車を降りるとサラを呼んだ。


「サラ! サラ! まずいことになったわ。リン・ゼールの連中、リファを人質にとってるのよ」


 手前で展開されている格闘戦に見とれている彼女らには、その向こう側まで肉眼で捉えることはできない。辺りが暗いということもあり、たまたま暗視機能がついた装甲車のカメラだからこそ、その様子が確認できたという訳である。


「何ですって!?」

「何だと?」


 傍にいたヴォルデもセレアも顔色を変えた。


「――ショーコ君、その場所は?」

「あの格闘現場の向こう側、F地区の方向です!」


 さしあたってSTRの人数を護衛に借り、一同は状況が現認できる位置まで急ぎ移動した。

 3C通り近くへ来た時、彼等はF地区側の離れた位置にその状況を見た。

 なるほど、リファが立っている。そしてその背後で、ずんぐりした形状のCMDが一機大口径機関砲をぴったり突きつけていた。


「賊め。何という、卑劣な真似を……」


 ヴォルデが呻いた。


「何で、こういうことになるのよ!? リファと連絡とってなかったの?」


 まるでショーコが犯人であるかのようにサラが詰り始めた。


「あーもう! そんなこと、知らないわよ! リファに聞きなさいよ!」


 リファもリファならサラもサラだ、とショーコは腑が煮えくりかえる思いだった。指揮官にこうも動転されては、部下はどうにもならないではないか。

 怒りながらも、何であの場所にリファがいるのかと彼女は不思議に思った。確かリファは、研究所内にいた筈ではなかったのか。そんなことを考えている矢先、彼女のレシーバーに突然外部無線が割り込んできた。


『――聞こえますか、Star-line? こちらはスティリアム物理工学研究所、主任研究員のイリス・フィットナーです。繰り返します――』

「はいはい、Star-lineです。聞こえていますよ、どうぞ」

『お伝えします。先ほど、Star-lineメンバーのリファ・テレシアが、合流を図るべく地下配線坑を通ってそちらへ向かいました。地上へは恐らく――』


 みなまで聞くことなく、ショーコははぁっと大きくため息をついた。

 リファは彼女なりに自分が何をすべきか考えてのことだったのであろうが、訳もわからず地上に這い出てきて、挙げ句賊に見つかるところとなってしまったらしい。もう少し早くその話が届いていれば、と苛立たしくもないが、そこは研究所を責める訳にもいかない。

 もともとはリファの独断行動だからである。


「えー、状況を報告します。うちのリファは地上にのこのこ出て来て、勝手にリン・ゼールの人質になってくれました。以上」

『……は? 人質!? それって――』


 向こうで叫んでいるのを無視して、ショーコは一方的に無線を切った。

 今さら、研究所側と交信したところでどうにもならない。リファがこっちへ来るなら来るで、せめて出る前に連絡くらいして欲しいものである。


『――おい、Star-line! これが見えているだろうが! 動くんじゃねぇ!』


 荒々しい男の外部音声が、サイのDG-00にも届いている。

 ハッとして彼は、DG-00を停めた。掴んでいた賊機の胴体が手から滑り落ち、アスファルトにゴーンと叩きつけられた。

 モニターにはどこに潜んでいたのか一機のリン・ゼール機が映っている。

 照射照明が反射して見えにくくはあったが、よくよく注視してみると、そのすぐ前に人影があることを認識した。倍率を上げていくと、リファである。


(これって……洒落になってないよ……)


 途端に、彼は震えがきた。

 彼の機体に突きつけられたのならまだしも、生身のリファにとあっては、どうすることも出来なかった。ロングレンジの銃砲類の装備もない。震刃ナイフでも投げつけてやればいいかも知れないが、まかり間違えばリファに当たる危険性が大きい。


『――おい! 歩け!』


 賊がリファを銃口で小突いた。


「乱暴ねぇ。そういう人には、お嫁さんがきてくれないわよ?」


 ぶつぶつ言いながら、リファは更地を歩き出した。その後をぴったりと、賊機が付けて行く。エリア右上の角、3C5L交差点にやや近い位置で、リファは足を止めた。


『おい、どうした!?』

「……眩しいもん。これ以上近づけないの」


 治安維持機構やらSTR、それにショーコ達の車両の投射光が一斉に彼女に向けられていて、あたかもアイドルのコンサートステージ的な眩しさである。


「――STR特殊狙撃班の用意を。F地区北3C5Lエリアを包囲するように」


 ヴォルデが、STRの上官に指示を出した。

 STRの上官が後方へ走り去っていく。無線では、傍受される可能性があるからである。


『よくもここまでやってくれたな、Star-line。この女と引き換えの条件だ。さっき逮捕した我が同志の即時全員釈放、それにその白い機体、そいつを渡してもらおうか。返事はすぐにしろ。返事をしなかったり、拒めば――』


 銃口が、リファにぴったりと付けられた。


『この女はすぐに――』

「冷たいですってば! この服、背中が開いてるんですから、そんなものくっつけないでください!」


 リファが苦情を言って、そそくさと右側へ離れていくようにした。


『おいこら! 動くなと言っているのが聞こえねぇのか!』


 タタタタタと銃声が響いた。


「リファ!?」

「リファ君!」 


 見ていたヴォルデやショーコ達が一瞬、凍りついた。

 が、それは威嚇射撃であったらしい。一同はホッと胸を撫で下ろしたが、収まらないのが約一名いた。


「こっ、この大馬鹿リファー!! 動くんじゃないって、何度言ったらわかるのよ!! あんたなんか、百でも二百でも、少し脳みそに風穴開けてもらえばいいのよ!!」


 もはや賊にではなく、リファに対して激怒しているショーコ。

 怒り狂ってレシーバーを投げつけようとした彼女を、


「ちょ、ちょっとショーコ! そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 落ち着きなさいってば!」


 サラが必死に押し留めている。


「えー……そんなに怒らないでよぉ、ショーコちゃん。だってだって、今日のお洋服はね、背中のところが――」

「だあぁっ! いちいちそんな説明要らないわよ! この馬鹿っ! 大馬鹿!」

「ショーコさん、ショーコさん! お、落ち着いてください! 落ち着いて!」


 今度はユイも一緒に止めにかかった。

 その修羅場を、周りのSTR隊員達が呆然と眺めている。

 賊も驚いたことであろう。要求の返事を催促することも忘れて、沈黙している。

 なおも猛っているショーコをユイに任せておいてサラは


「……ヴォルデさん、ここはとりあえず、機体の方を渡すように見せては」

「この状況では、それもやむを得まい。リファ君の代わりはいないが、機体の代わりはいくらでもある。――その隙に、STR特殊部隊が包囲を完了できれば、あるいはリファ君を救い出すチャンスができるだろう」


 そんな相談が取り交わされている。


「……」 


 すると、それまでじっと様子を見つめていたナナが、すっとユイの傍に依っていった。


「……貸して」


 彼女はレシーバーを取り上げると、DG-00のサイに向かって言った。


『……サイ、もう一歩だけ、踏み出しておいて』


 ナナの声である。

 動けばリファを殺すと言われているのである。


「ナナか!? この状況、見てるだろ? 何を――」

『いいから。一歩でいいの。その一歩が大事なの』


 状況に反したことをさせようとしている彼女の指示を聞いて、サラがつかつかとナナの傍へ寄って行った。


「あなた! 何言っているか、わかっているの!? 動けば、あの子が殺されてしまうのよ! いい加減に――」


 傍でさんざんがなっているサラには目もくれず、ナナはもう一度、静かに言った。


『……いい? あたしを信じて、サイ』

「……」


 サイの中で、葛藤が始まった。

 機体を止めて降りなければ、リファは殺される。かといって、降りたところでどうなるかわかったものではない。相手はテロリストなのだ。下手をすれば、その場の全員が殺されてしまうという事態もありうる。


(どうする? どうする? 早くしないと、リファさんがヤバい。ナナは一歩だけでいいとか言うけど、それで上手くいくって保証はないんだよな。でも……)


 逡巡しながらもふと、ナナとの過去の様々が瞬時にめぐっていった。

 彼が危機に陥った時、いつも傍にいて支えになってくれたナナ。彼女が力になってくれて打開できなかったことはただの一度だってない――。


(そうか……そうだったな。俺にできることは、ナナを信じることだ。さっきサラさんに言ってやったばかりだったな、人を信じなきゃダメだって)


 己の迂闊さに苦笑する思いだったが、すぐにサイは決断した。

 ナナを、信じる。

 どうせどの道、このままでは誰かが命を落とすのだ。ならば、思い切ってナナの言う通りにした方がいい。彼女がそういうならば、きっと何か理由がある筈だった。あるいは直感なのかもしれないが、その驚くべき精度は彼が一番よく知っている。

 もう一度、促すように哀願するように、短くナナの声が届いた。


『……お願い』

(……よし! わかった!)


 心で自分に気合いをかけ、レバーを握るサイ。

 さすがに、手が震えた。

 ズン、とDG-00が右足を一歩、前に踏み進めた。


「……ああっ!」


 サラやユイが悲鳴を上げた。


『おい! 動くなと言ったのが聞こえなかったのか! そっちがそうなら、この女を殺すまでだな!』


 賊機が、ジャキッと機関砲を構え直した。

 声が殺気立っていた。追い詰められて、相当焦っているのであろう。どう見ても、リファを撃たずに済ませるとは思われなかった。

 今から殺されようとしている筈のリファは、特に怯えるでも泣くでもなく、つらっとしてその場に立っている。悲壮感の欠片もなかった。

 普段、多少のことでは動じないショーコも、これには焦らざるを得なかった。


(ほんっとに、やりやがった! あの坊や)


 隣で、がくっと膝から崩れ落ちるサラ。


「あ、あ……」


 今まさに引き金が絞られようとした、その瞬間である。

 賊機の姿が、消えていた。

 いや、正確には、その足元にいつ出来たのか、巨大な穴がぽっかりと口を開けていた。その穴に落ちた、という以外に説明がつかないであろう。

 いつの間に落ちたのか、リファの安否に気を取られていたせいか誰にも解らない。

 ややあって、ドドーンという地鳴りにも似た大音響が轟いた。穴の底にでも叩き付けられて爆発を起こしたらしい。ついでに、サイが放り投げた賊機も巻き添えで同様の運命になってしまったようであった。


「……え? 何だ?」


 突然賊機の機影が消失してしまったため、モニターが故障したものと思ったサイ。そろそろと上部ハッチを開け、隙間から外を覗き見た。

 なんと、彼のDG−00が踏み出した部分から先の地面が、綺麗に無くなっている。

 吸い込まれそうな穴を覗き見つつ、そっと左手の方を見ると、ナナがこっそり笑って見せていた。そういうことか、とサイはようやく理解した。

 いつまでも鳴らない銃声に、恐る恐る目を開けて見たユイが固まっている。

 膝をついたまま、ぽかんとしているサラ。

 ヴォルデ、そしてセレアも、さすがに口が利けないでいた。

 最後まで状況を注視し続けていたショーコは、一瞬何が起きたのか飲み込めずに険しい表情のままでいた。が、すぐに理解すると、


「……いやっほぅ! 手前で勝手に自滅しやがったわ! あははは、ざまぁないわね!」


 今度は、狂ったように喜び始めた。

 その様子を見たリファが異変に気づき、ちらりと背後を見やった。半歩後ろの地面がすっかり掻き消えているのを知り、


「……まぁ。大きな穴」


 と、感心したように声を上げた。

 STR隊員たちからどよめきが起こっている。

 ふと、ショーコは目の前で静かに佇んでいるナナに気が付き


「……あなた、サイ君に一歩踏み出させたのは、このことが判っていたからなの?」

「……当然でしょ。でなけりゃ、人質を取られてるのに動けなんて言えないわ」

「でも、どうしてあそこの地面が崩落するって、わかったのよ?」


 無愛想に説明するナナ。


「……別に。この辺り、全然補修されてなくて路面がガタガタだったし、ちょうどこの下、地下高速軌道交通の工事がストップしたままだったのよ。あいつがいたあたり」


 彼女は、賊機が落ちた大穴を指した。


「縦坑、だった。そして、あいつの稼働時振動圧と、とどめにサイの機体の対地加圧振動。これだけ重機が上で動けば、ただ軽く閉めただけの蓋なんて、落ちて当然よ」

「それを……あなた、計算していたとでもいうの?」

「あたしは神じゃないもの、そこまで運命をよむことなんか出来る訳ないでしょ。――強いていうなら、あの人ね」


 顎でしゃくった先に、リファがいる。


「のこのこと、あそこまでやって来て立ち止まったからよ。サイも、上手い位置で停止してくれたし。でも」


 ナナはようやく、不敵な笑みを見せた。


「……もう半歩ずれていたら、あの人も一緒に落ちていたかしらね。運のいい人だわ」


 ショーコはゾッとした。

 そんなことなど露知らず、ついさっき、サイに賊をそちらへ誘い込めとショーコは指示をしていたのである。運がいいのか彼が判断したのか、幸いにしてDG-00はその範囲へ踏み込むことはなかったが、もしその更地側へ侵入していたなら、間違いなく賊機と同じように深い穴の底へ落ち込んでしまっていただろう。


「ちょ、ちょっと! そんなヤバいことを知っていたんだったら、どうして教えてくれなかったの!? あなたも、あたしの指示出すのを聞いていたんでしょ?」


 今度はフッと可笑しそうに笑ったナナ。


「あなたもCMDに詳しいのなら、それくらいわからなくて? 歩速が相手より倍以上早いならともかく、あの位置関係でサイが先にあの範囲まで辿り着ける訳がないでしょ? 穴がなかったにせよ、あんな不安定な場所で完全な人型機が格闘なんて出来っこないわ。サイがCMDを動かす時は、何よりまず足場を確認するのよ。これはCMD乗りの常識。――だから、あたしはあの隊長さんじゃ無理って言ったの」

「……」


 完全に度肝を抜かれたショーコ。

 傍で二人のやり取りを聞いていたサラしかり、ヴォルデやセレアも同感であった。何でもなさそうな一般人と思われたナナが、そこまでこの状況を把握していたのである。


「……じょ、状況の確認! それから、賊の身柄の確保! 急げ!」


 ようやく、STRはじめ周囲が慌しく動き始めた。


「――ショーコちゃーん!」


 そこへリファが、何食わぬ顔でぱたぱたと駆け寄ってきた。


「あのね、これ。イリスちゃんにもらったんだけど、相手のCMDの――」


 言い終わらぬうちに、ショーコがガン、と拳骨をお見舞いした。


「いったーい! 何するのよぉ! せっかくあたし、これを届けようと思って――」


 涙目でリファは猛抗議する。


「っざけんじゃないわよ! どんだけみんなに心配かければ気が済むのよ! 勝手に現場をちょろちょろと! サイ君と、それから――」


 彼女は、傍で冷ややかな顔つきで立っているナナをちらりと見やり


「このコがいてくれたから、この一件は何とか片付いたのよ! わかってるの!?」

「うぅ……」


 ショーコの逆鱗に触れた挙げ句、脳天に天罰をくらったリファは、悲しそうに頭をさすっていた。そんな彼女の頭をそっと優しく撫でながら、セレアが言った。


「ショーコさん。リファさんの状況を把握するのが、今のあなたの役割だったのでしょう? それを忘れていたのに、一方的にリファさんを責めるものではありません」

「……はい」

「リファさんも。現場で自分が動けばどういう結果になるのか、よくよく考えなくてはいけませんよ? ショーコさんが怒るのももっともです。これからは、気をつけて」

「はーい」


 あたかも母親のように切々と諭すセレアに、二人は何も言い返すことができない。

 そこへ、ズン、ズン、とゆっくり、DG-00が戻ってきた。

 あれだけの格闘を演じたにも関わらず、全くの無傷である。見た目の受傷といえば、サラが乗っていて突き飛ばされた際の背部装甲のダメージくらいなものであろう。

 が、何気なくステータスモニターに目をやったサイは


「……お前には、ちょっと無理させたな。筋肉痛になってしまうと思うよ」


 と、呟いていた。

 ちょっと憂鬱気味にカメラモニターに視線を移すと、前方でショーコやユイが飛び上がって手を振っていた。

 



 賊の身柄も全て確保され、蹴散らされた賊機やら、治安維持機構機の撤収が始まっている。

 Star-lineも、サイが手伝ってDG-00の撤収準備を完了していた。

 機体から降りてきた彼は、サラのところまでやってくると


「……これ、お返しします。二度も拝借してしまって、申し訳ありません」


 キーカードを手渡した。


「……」


 何とも言えない表情でそれを受け取ったサラ。

 思いは複雑であった。しかし、彼に言われた一言や、ショーコがかけてくれた言葉は彼女にとって、決して重荷になるものではなかった。むしろ、これからの自分のあり方を的確に示唆してくれたのだと、今なら思えるような気がした。

 受け取ってからやや間をおいて、サラは微笑して見せた。


「……それでサイ君、お願いがあるのよ」

「お願い、ですか?」


 彼女がさっと身を引き、代わってヴォルデが進み出てきた。


「……いやはや、夕刻の件といい今の活躍といい、実に感服したよ。長年、色々なCMDの乗り手を見てきたが、君のような素晴らしい操縦者には、私はかつて会ったことがない」

「……恐れ入ります」

「それで、だ」


 彼はセレアやサラ、そしてStar-lineの面々を見渡した。

 皆、そこここで頷いて見せた。


「今度こそ、頭を下げて頼みたい。――是非、Star-lineに加わって、いや、どうかその力を貸して欲しい。心から、お願いする」


 そう言って、ヴォルデは深々と頭を下げた。

 国内の政財界でもっとも強い発言力をもつと言われているこの人物が、自分から頭を下げて見せたのである。これは破天荒な対応どころではない。しかも、その背後ではセレアも一緒に頭を下げているのである。この女性とて、誰にでもそういうことができるような立場の人ではない。

 サイはすっかり動転してしまった。


「あ、あ、あの、その、俺……」


 困ってうろたえていると、ちょっと離れたところにナナの姿を認めた。

 彼女はじっと、やや憂いを含んだような目で、サイを見ていた。

 そこでサイはハッと気が付いた。

 今の活躍についていえば、決して彼一人で出来たことではない。

 傍にナナがいてくれて、彼女が水も漏らさぬ的確なアドバイスをくれたからこそ、あの危機を脱することができたのではなかったか。

 そう考えた時、彼はふと表情を改めた。


「……ありがとう、ございます。俺のような者に。確かに、俺のよくわからない技術が何かの役に立つんなら、そうしたいとは思います。だけど」


 サイは、ナナの方を向いた。


「――ナナがいてくれるんなら、です。俺達はずっと、こんなところで育ってきて、でもナナに沢山助けてもらって、でもナナのことは助けてやれなくて……。一緒に入隊できるんなら、その、俺は――」


 途中で何を言っているのか、自分でもよくわからなくなった。

 が、ナナという存在が自分にとって必要だ、という意味のことは言ったつもりである。

 頭を起こしたヴォルデの眼差しは、優しかった。


「……サイ君、無論だ。ナナ君、といったね? 彼女の状況判断は素晴らしい。そしてCMDについても少なからぬ知識があって、それがいちいち実働経験に基づいている。彼女にも、私は是非、Star-lineへ迎えたく――」

「……お断りよ」


 横からナナが冷たく言い放った。


「……ナナ?」


 ハッとしてそちらへ目を向けるサイ。

 彼女は、キッとヴォルデを睨んでいた。


「……お爺ちゃんがまだ会社やっていた頃よ。B地区の一区画の造成を任されて、お爺ちゃん、すごく喜んでいたの。サイもいたから、知っているでしょう?」

「……」

「なのに、スティーレイングループのエスリート建設が横槍を入れてきて、お爺ちゃんはその仕事を奪われてしまった。受注がない中、折角、苦労に苦労を重ねてつかみとった仕事だったのに……。大資本てのは、いっつもそうよ。小さい会社で大変な思いをしている人達のことなんか、何にも考えてやしない」


 ヴォルデをはじめ、一同は黙って彼女の怒りに耳を傾けている。


「お爺ちゃん、その仕事の報酬をみんなの給与に当てるつもりだった。もう何ヶ月も仕事なかったから、みんなに給金払えていなかったし。……でも、それでパー。残ってくれていた人もいなくなっちゃうし、資材業者からは訴えられるし、会社は潰れたわ。お爺ちゃんはすっかり弱ってしまって、今じゃ寝たきりよ。一体、誰のせいなのよ!?」


 激しい口調で言うだけのことをぶちまけたナナ。

 彼女はすっとサイの傍までやってくると、彼の手を両手で握り締めた。


「サイ……」


 ナナは、じっと彼の目を見つめた。その視線は、しっとりと優しいものになっていた。


「サイが入隊するのは、あたしも賛成よ。それだけの腕前があるんだもの、社会のために活かせるなら活かして欲しいと思う」

「ナナ……」

「でも、あたしはやっぱり、こういう人達の中にはいられないわ。どうしてもお爺ちゃんのことを思うと、ね。……だから、ごめんね」


 彼女はそれだけを言うと、くるりと背を向けて闇の中へ走り去っていった。


「おい! ナナ!」

「大丈夫よ! 道には気をつけていくから!」


 その後ろ姿を呆然と眺めているサイ。


 さっきショーコと出くわした時にナナが何故にべもない態度をとったのか、ようやくわかったような気がした。それをわかってやれず、ただただ目の前の事柄に気を取られていた自分が、何とも情けなく、ナナに対して申し訳がないように思われて仕方がなかった。

 そんな彼の肩を、ショーコが不意にポンと叩いた。


「……あの子の帰り道なら、心配要らないわよ。STRのおにーさん達が、この近辺をしっかり警備してくれているから」

「は、はぁ……」

「……それに」


 ショーコは、サイの頭をわしわしと撫でた。


「あたしも、わかるんだ。彼女の気持ち。だから、力になってあげられると思う。だから、色々と教えて頂戴。サイ君のことも、彼女のことも――」


 そこから先のことは何も触れなかったが、ショーコにも何か言えない辛い過去があるのだろうと、サイは感じた。

 今はただ、彼女が伝えてくれた言葉だけが救いであり支えであるように思えた一方、それにすがる以外に気持ちの行き場を落ち着けることができない自分がいることにも気付いている。

 色々な思いが交差して、複雑な表情で二人の様子を眺めていたサラ。

 呆っとしていると、ヴォルデが不意に


「……サラ君、疲れているところ、申し訳ないのだが」

「は、はい!」


 急に芯が入ったように、シャキッとしゃちほこばるサラ。


「クレイド君も、来てくれ給え」

「はっ!」


 クレイドと呼ばれたSTRの上官も、二人の傍へやって来た。


「彼女の、身辺を保護する必要がありそうだ。その手配りを頼んでおきたい」

「と、申されますと?」


 ヴォルデは、ナナが消えていった闇の向こうを一瞥した。

 かつてなく厳しい表情をしている。


「……意図せぬ経緯であったとはいえ、彼女もリン・ゼールと関わってしまった。このまま、何事もなく済むとは思えないのだ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る