始動編2  勇者になるための決断(前編)

始動編2 勇者になるための決断(前編)


 住居のあるA地区までたどり着いた頃には、もうとっぷりと日は暮れていた。

 この都市が築かれた時に最初に開発されたこの地区は、都市機能が移転されていくにつれて次第に活気を失い、今や経済的に下層の人々が住むだけの区域になっている。都心部から遠いという理由で家賃や地価が低くなっており、旧世代に建築されたままの古いアパートが無数に立ち並んでいる。スラム化という程ではないが、路という路はろくに修繕も清掃もされていないために荒れていく一方で、その薄汚れた地底のような地面から宙を仰げば、くすんだ中層建築アパートが天を圧している。建物と建物の間には洗濯物を干すためのロープが天と地を遮るように張り巡らされていて、疲れ切った生活感だけが澱んだ空気のように漂っている。

 かつては都心部や他地区までの地下鉄や空中軌道交通システムが地区の中央まで通っていたが、それもいつの頃かカットされてしまい、今は隣接しているB地区、F地区まで行かないと公共交通機関を利用することはできない。この地区は政府からほとんど見捨てられているのではないか、住民達はそう自嘲気味に話し合うことが日常茶飯事になっていた。

 A地区の南、F地区の駅に降り立ったサイは、しばらく歩いて住居の近くにあるぽつんと営まれている小さな商店に立ち寄った。今晩の夕飯を買わなければならない。

 発展している他の地区にはコンビニエンスタイプのストアが無数にあるが、この地区にはそういう店もない。こうしたエリアでは、防犯上の対策が困難、というのが理由であるらしい。


「……こんばんは」


 赤錆だらけの重い扉を開けて中に入ると、妙に鉄くさい。一世代前に流行した鉄骨建築物の名残にはよくある状態で、まだ潤っていた頃のこの地区では特に集中的に建築されていた。老朽化してくるとその錆の匂いが目立つようになる。修繕なり改築すれば改善もされようが、この地区の誰もがそういう発想を持たなかった。というより、したくてもできないに違いなかった。

 中は暗い。

 いつの時代のものなのか、ほとんどアンティークのような古びた裸電球が一個、天井からぶら下がっているきりである。そして狭い。人が四人も入れば、もう窮屈になるであろう。

 商品とて、ろくになかった。陳列棚という必需品すらなく、何かの箱をひっくり返し、その上に無造作に品物が置かれているだけである。商売をしているというには余りに不完全で、しかしこの地域の何事かを象徴していた。

 ややあって奥の扉がギィーッと開き、サイと同じ位の年かさの女性が顔を出した。

 衣服こそよれよれだったが、表情が活き活きとしていて、顔立ちがやや勝気な印象を与える。彼女が登場したことで、荒んだ空間が少しだけ華やいだようになった。

 女性はサイの姿を見ると、ちょっとはにかんだ。


「あら、サイじゃない。バイトの帰り?」

「お、ナナ。家にいるなんて、珍しいな。戻ってきていたのか?」

「……お店、一昨日潰れちゃったのよ。だから帰ってきたの」


 ナナといった女性は、肩まで伸びた髪をいじりつつ仕方なさそうに笑った。

 つられて笑顔を浮かべるサイ。が、すぐに表情を消した。


「じゃあ、また大変だろ? 社長、体調が良くなさそうだし」

「そうね。あたしが戻ってきて、ちょっと嬉しそうだったけど。でもそれじゃ身体は元に戻らないわ。すっかり老け込んじゃって、見ている方が辛い。ウェラさんが毎日来てくれているのが、せめてもの救いかしらね」


 彼女は言いながら、肩からずり落ちている服をひょいと無造作に戻した。決して明るい話ではないのだが、ナナの口調はどこまでもからりとしている。

 彼女とその祖父こそ、かつてサイが勤めていた土木建築会社の社長と、その孫娘なのである。もともとサイとナナとは幼馴染であった。二人とも早くに父親を喪っており、サイに至っては十一歳になった時、彼の面倒をみてくれていた母親も病気で喪った。そんな彼を励ましてくれたナナの母親も、その一年後に亡くなった。こういう経済的環境で生きていく以上、人々は多少の無理を承知で働かねばならず、そのことが結果として健康を害してしまうらしい。

 まだ少年の身ながら、両親を喪ったサイもまた、自ら働かねばならなかった。

 そんな彼を時々食事に招き、あるいは知っている伝手を頼って彼の働き口を探してくれたのがナナの祖父・ガイトであった。ガイトはかつて大手の建築会社にいたが、不正を発見してその立場を追われ、やむなく自分で小さな土木会社を興し、細々とやっていた。三年前、サイが十六歳になった頃、ガイトは厳しい経営ながらもサイを自分の会社に入れてくれた。

 そこでサイはガイトの恩に報いるため、独学ながらもCMDについて学び、会社の所有財産ともいえる一機のCMDを大切に扱うことに努めた。ガイトはそんな彼の姿に感銘し、苦しいながらも会社の必要のためとして彼に重機免許を取りに行かせてくれたのである。サイは現場でCMDを操作する一方、戻ってくると自分でメンテナンスを行った。真面目な彼にはそういう素質があったのかどうか、CMDの一般的な知識にも詳しくなっていった。依頼されて知り合いの会社へ助勤に行き、そこのCMDをみてやることも度々でてきた。

 しかし、時代の波は容赦なく彼らに襲い掛かり、ガイトの会社は大手の建築会社の圧迫を受け、潰れてしまった。それ以来、生き甲斐を失ったガイトは一気に体調を崩してしまった。ナナは何とか祖父を養うために遠い都心部の地区まで稼ぎに出ていた。

 それが、駄目になってしまったという。

 都市中心部は未だに経済成長を続ける一方で、過疎地区における貧困問題は深刻化していくばかりであった。容赦のない技術革新に中小零細企業はついていくことができず、かといって過度に効率化されてしまった労働現場はマンパワーの過剰な雇用を拒絶した。CMDはじめ、機械化するメリットの方が遥かに大きかったからである。

 リン・ゼールなど反政府組織の一部は、そういった社会問題を活動の口実にしているが、あくまでそれがポーズであることに、ほとんどの大衆は気付いていた。自分達が体のいい理由にされていることに気付かぬほど、大衆というものは鈍感ではない。それらテロ組織が巨大な社会的脅威になろうとも躍起になるのは政府系組織ばかりで、一般庶民にはどこ吹く風であるという現実の裏側には、そういった事情があった。

 サイがヴォルデのスカウトに素直に頷けなかったのも、無意識のうちにそういう大衆心理の何事かが作用していたからだと言えなくもないであろう。

 ナナが遠くの地区まで出稼ぎに行ってからというもの、ウェラという元従業員の侠気ある中年女性がガイトの世話をしつつ、知り合いの卸屋から安く分けてもらった商品を売るという商店の真似事を始めた。

 サイにとって今気を許して話のできる相手といえば、このナナかウェラくらいなものであった。

 しかし、そのウェラも最近「どうも、体の調子が良くなくて……」と言っていたのを、彼は耳にしていた。このままでは、とてもガイトの世話どころではあるまい。幸いナナが戻ってきたとはいえ、彼女は稼ぎ口を失ってしまっている。これから先、ガイトの世話をしながらどうやって暮らしていくというのであろう?

 勝手に気持ちを暗くしているサイの心の内が見えているのか、ナナは努めて明るく


「でも、少しくらいなら貯めてきたから、何とかなるわよ。それに、ここのところ、機械会社中心に配達仕事が流行ってるっていうじゃない? それなんかどうかなぁって」


 傍らの箱の上に腰を下ろしつつ、ナナはそんなことを言った。

 ひと足早くサイがそれを試してきた訳なのだが、とにかく散々な目に遭った。かといって、それでもいいからやらなければ生きていくことはできないのだが、今、そのことをナナには言えないような気がした。言ってはならないような気がした。

 サイを相手に知らず知らずぼそぼそと愚痴めいたことを口にしていることに気がついたナナは


「あ、ごめんごめん。早く帰って食事にしたかったでしょ? 久しぶりに会ったものだから、ついついこう、色々とね」

「いや、いいよ。ナナがいると、何か、心強いしさ」


 偽らざる心境であった。

 どちらかといえば優柔不断で流されやすいサイと、しっかり自分の意見をもってどんどん前に進んでいくタイプのナナ。いつの頃からか、メンタルな部分をナナに支えてもらっていることが多くなっていることに、サイは気が付いていた。

 照れたように、ナナが笑う。


「やだ、サイってば。急に何言うのよ? 弱気になっちゃって」


 弱気の一つもなるだろう、とサイは思う。これだけ明日の見えない暮らしをしている中で、いつも快活で楽観的(サイからみて、だが)なナナの生き方というのが、不思議な程である。彼女には彼女なりの哲学もあるらしいが、面と向かってそれを聞いたことはない。それをぬけぬけと口にするのは、ナナにとっては恥ずべきことなのであろうと、サイは彼なりに思っている。

 だから


「……そういう日もあるさ。いつもじゃないけど」


 と、適当に自分の発言にケリをつけておいた。本当は昼間のドタバタを引きずっていてそのことを言いたかった訳なのだが、何となく口に出すのが憚られた。


「あ、で、どうする? 今日はこれだけしかないわ。いいから持って行って、って言いたいけど、ウェラさんがこれの支払いをどうしているのかが分からないのよ。だから、その――」

「あ、いや、いいんだ。今日は――」 


 とまで言いかけて、サイはふとポケットの中の五千エル札に気が付いた。 

 あんな事件があってすっかり忘れていたが、リン・ゼールの人間と思われる男性から怪しげなプログラムの運び賃としてもらったものである。結果としては犯罪に加担するような格好になってしまい、それを成り行きで彼自身が片付けたようなものだが、どうもこの金をもらってはいけないような気がした。彼の中にある軽い後悔の念が、その気持ちの出所であったかもしれない。しかし、この金を無駄にすることなく浄化する手段が一つだけ、あった。

 彼はほとんど発作的に、その金をナナに差し出した。

 彼女はちょっと驚いたような表情をして


「……まぁ、大金。でも、これ全部買っても、そんなにしないわよ?」

「いや、じゃなくて、その――」


 サイはポリポリとと頭を掻いた。


「……社長に、お見舞いさ。世話になってるし、その、今日は」


 正直に社長を労わる気持ちが、彼に罪のない嘘を赦した。


「新しく見つけたバイト先で、思ったより仕事が多かったんだ。だから、真っ先に社長に恩返ししたくて、俺。だから……」

「受け取れないよ、サイ」


 即座にきっぱりと断ったナナ。


「それは、あなたが生きていくためのものよ。お爺ちゃんの恩は恩。でも、サイは明日も頑張って生きていかなきゃいけないんだから、それはあなたが自分の糧にしなくちゃ」


 言いながら、彼女はそっと目頭を拭った。祖父を想ってくれるサイの気持ちが嬉しかったのであろう。

 サイはちょっと戸惑ったが、ナナがそういう以上はどうしようもなかった。彼女は、こうと思い切った以上は決してその意向を翻すことがない。


「あ、うん、そう……だよね。こんなもので、恩返しなんて、ならないよな」


 泣き笑いしながら、ナナが頷いた。


「あたし昨日、いきなりクビにされて、正直どうしようかと思って暗い気持ちで帰ってきたの。……でも、サイがきてくれて、そんな風に言ってくれて、とっても嬉しかった。帰ってきて、良かったみたい」

「……そう、かな」


 最後は自分の気持ちであったが、入り口は不純な金の処理であったかもしれない。ナナがこうも喜んでくれていることが却って、苦しかった。いつにもなく心が不安定で落ち着かない。

 のろのろと、彼は店を出ようとした。


「あ、サイ? いいの? 大丈夫?」


 ナナが追ってきた。


「あ、ああ、うん。用事はそういうことなんだ。あんまり、腹も空いてなくて」


 本心がどこにあるかわからない。あんまりにも、自分自身が頼りなかった。


「じゃ、また来るよ」


 サイはくるりと背を向けて歩き出した。


「……」


 闇に溶けていく彼の背中に何事かを感じたナナ。それは、どこか重く、そしてやや不吉な感じすらした。

 急に彼女は、そそくさと走り寄って行き、並んで夜道を歩き出した。


「ナナ?」

「何か、あんまり大丈夫じゃないみたい。あたしの勘が、そういってる」 


 昔から、ナナの勘は鋭かった。サイの母親が倒れた時も彼女の直感が働いていて、サイはその異変に気が付くことが出来たのである。あるいは、彼にはCMD関係の作業が向いているのではないかと、ガイトに助言したのも彼女である。そもそもCMDに携わるきっかけを作ったのは、ナナであるといってもいい。

 彼女にそういう予感がするというのは、余り好ましいことではない。

 昼間のことがふと脳裏を過ぎる。

 が、ナナはそのことを知っている訳でもなく、根拠はないといえばない。治安こそ悪化していないが、こんな夜に女性を一人歩きさせる方が心配である。

 サイはやや無理して笑って見せ


「はは、ちょっと疲れているだけだよ。……別に何もないから、家に戻りなよ」


 ナナは、じっとサイの目を見た。


「……違うの。サイ自身のことじゃなくて」

「俺のことじゃなくて、どういう?」

「よく、わからないわ。だけど、何となく嫌な感じがするのよ」


 憂鬱そうに言って、彼女は口を閉じた。

 それきり、二人は沈黙したまま暗がりを歩いて行く。

 久しぶりに会ったナナに何か話をしようと思うものの、これという話題が出てこない。あるといえば、ようやく見つかった仕事の初日にろくでもない目に遭い、思いがけなくもCMDに乗ってテロリストを叩きのめしたという日中の一件なのだが、今彼女にそれを言うのは憚られた。これといって理由はなかったが――かといって明日からの生活が楽になる訳でもなし、逆にもう仕事には行けない状態になり、しかもナナまでもが失業していた。そんな明るくない条件ばかりが重なって、彼の心を物憂くしていたせいかも知れない。

 取り留めもない考えだけが頭の中を堂々巡りしていく。

 いつの間にか、サイは自分の意識の中にいた。

 ふと、真っ直ぐにいつもの道を行こうとした彼の袖を、ナナが引っ張った。


「こっち。西4C3Lの廃墟、今日壊しちゃったんだって。もう何もない筈だから、ショートカットできるよ」

「そう? 別に、そんな近道しなくても――」

「いいじゃない。少しでも楽しなきゃ、カラダ、保たないわよ?」


 それもそうかと思いつつ、サイはナナに従って道を曲げた。

 地区はどこも基本的に碁盤の目構造だから、空き地になった区域を斜めに横切ることで、多少は近道ができるということなのである。それに、長いことこの地域に住んでいる二人には、どこをどう通れるかということは、猫のように詳しく知っている。

 古アパートとアパートの間の細い小路を縫うように進んでいく二人。彼らは直進と左折を繰り返しながら、方角的には北西の方向へ進んでいるということになる。

 当然街灯なんかないから、ほとんど真っ暗である。CとLのつく大きな通りだけは申し分程度に照明があるが、それでも他地区から比べれば月と星の差である。

 狭い小路が途切れ、ナナが言った廃墟の取り壊し跡という空き地に足を踏み入れようとした。区域の角にあたるそこはCとLの通りがクロスする場所でもあり、他の場所に比べればやや明るい。

 ふと見ると、その空き地に一台の車が停まっていた。


(……見慣れない車だな)


 反対側から明かりに照らされて逆光になっていたから最初はよく見えなかったが、車の側面の文字が見えた瞬間、サイはぎょっとした。

 ロデリー精密機械会社、とある。

 彼の脳裏に、瞬く間に午後のあの出来事が甦った。

 不意に荷物の運搬を依頼され、何気なく引き受けたそれが、実はリン・ゼールからその下部組織への密荷であった。あれから詳しい話は聞いていないが、どうやらリン・ゼールのその動きは偵知されていたらしく、監視ネットワークシステムによってサイがテリエラのアジトに到着したところを治安維持機構が現認し、突如一斉に包囲されたのである。要するに、サイでなくとも、あのタイミングで誰かやってくる人間があれば、即座に動き出すというシナリオだったのであろう。運悪くサイが、しかも本当に密荷を運ぶ羽目になってしまったということなのである。

 今ここに依頼主、即ちリン・ゼールに違いなかったが――が現れたということは、少なくともサイと無関係ではないであろう。

 夕方のCMD乱闘事件によってテリエラのアジトが踏み込まれた事を知ったリン・ゼールが、露顕する引き金となったサイの居所をどうにかして突き止め、口封じにやってきた、と考えて矛盾はない。それが、サイの故意であろうとなかろうと、そんな理屈は彼らには必要ないのであろう。接触した人間は消す、それだけである。

 偶然にもナナが一緒にいて、近道しようと言ったがために先んじて彼らを発見することになったが、普通にいつもの道を歩いて帰ったならどうなっていたであろう。張り込んでいたリン・ゼールに見つかって殺されていたに違いない。

 しかし、今のサイにはそこまで思い至る余裕はなかった。

 咄嗟にサイは、前を歩いていたナナの腕を掴むと、元来た暗い道へ引っ張り込んだ。

 そこまでは良かった。

 しかし、彼女はそんな事情など知らないのである。強い力でぐいっとやられた彼女は


「ちょっと、サイ! なに――」


 声を上げてしまった。

 人気のない夜道に、彼女の声はよく響いた。

 程なく、空き地の方から


「――おい、誰かいるぞ!」


 男の声がした。


(やばい! 絶対、やばい!)


 サイの背中に冷たいものが流れていく。

 立ち往生している彼の顔を不思議そうに覗き込むナナ。


「……サイ? どうかしたの?」

「……」


 二人は、建物と建物の間にある狭い小路にいる。

 まごついているうち、その出口のあたりに、人影がさした。


「そこに誰かいるのか!?」


 暗いといっても、人の気配がわからぬ程ではない。男は、二人の存在に気が付いたらしい。


「……ゲル! モス! こっちに人がいる。若い男女だ」

「何ィ、若い男女? それぁ、昼間のあのガキじゃねぇのか?」


 一帯に人気がなくシンとしているから、その程度の会話でもよく聞こえてくる。

 明らかに、サイのことを言っている。

 彼は怖気が立った。このままでは、男達がやって来てしまう。

 幸い、背後には逃げ道が続いており、しかも細い小路が網の目の様にはしっている。


「――走るんだ、ナナ!」


 いきなり彼女の手を握ると、一気に駈け出すサイ。


「ちょっと! 一体、どうしたっていうのよ!? 何で逃げるのよ?」

「いいから! 事情はあとで説明するから!」


 逃げるしかない。

 どういう手段を使ったのか、わざわざ彼の居所を突き止め、先回りして待ち伏せしているような連中である。捕まったが最後であろう。


「――おい! 止まれ!」


 後ろで声がしたが、構わずサイは走る。意味もわからないままそれに付き合わされるナナこそ、災難であったろう。

 適当なところで彼は、左に続いていた細道に駆け込んだ。

 その直後、パァン、という音が彼の耳に届いた。そう遠くはない。


「サ、サイ? 今の、今のって……」


 ぎょっとしたように、ナナが聞いてきた。

 前を走っているから表情こそ彼女には見えなかったが、サイはほとんど必死の形相であった。答える余裕など、全くなかった。

 上手く道を変えて行かなければ、後ろから撃たれてしまう。

 得体の知れない恐怖が、全身を貫いた。


「……」


 考えなしに走り、いきなり途中で横道に逸れるサイ、そしてナナ。

 その瞬間、パァン と乾いた破裂音と、キュンッ、という銃弾が弾かれる音がした。

 廃墟街の静けさに、その殺意のエコーはよく響いた。

 もはや、ナナも口を利かない。今の銃声で確信していた。

 自分達は何者かに命を狙われている。その理由は、どうやらサイが知っているらしい、ということを。

 が、とりあえず今は、逃げるしかない。

 ナナは懸命に、彼の背中を追いかけ続けた。




 その刻限。

 A地区南3C5Lにある「スティリアム物理工学研究所」の受付に、ひょっこりと一人の美女が現れた。


「あのー、私、リファっていいますけど……イリスちゃん、いますかぁ?」


 日中の受付嬢はとうの昔に退社していたから、この時間帯は警備会社の男性が受付を守っている。彼は、突然現れた美しい女性に度肝を抜かれつつも、やや警戒するような表情を浮かべた。イリス・フィットナーといえば、この研究所でも名の通った主任研究員である。その彼女を、ちゃん付けで呼ぶとは、一体何者なのか。


「失礼ですが、イリスには、その……どういったご用件でしょうか?」


 畏まった質問を返され、ちょっと当惑したリファ。


「えーっ……ご用件? ご用件っていっても、その……」


 来所目的を問われた途端、おろおろし始めた。

 その困った表情が愛らしく見え、警備員は一瞬取り次いでやることを思った。幾ら物騒な世情とはいえ、とてもこんな女性が不審者であるとは思われなかった。

 しかし、女工作員が跳躍しているという情報も入っており、もしかしたらという可能性も捨てきれない。今日も、あちこちでテロ組織が破壊行為を行った旨、しきりと情報が届いていたのである。

 任務に忠実であろうと思い直した警備員は、付け足すように


「大変失礼ですが、当研究所は身元ならびに来所目的のある方でなければ、お通しできないようになっております。または、当研究所所属者とのお約束などあれば……」

「約束ですかぁ? イリスちゃんが、八時にここに来てって言ったんです。ですから、私来たんですけどぉ……ご用件、ご用件って――」


 リファはしきりにご用件という単語をぶつぶつと繰り返している。

 困ったのは警備員の方である。

 彼女は確かに約束があるらしいことを言ったが、それは研究所の所属者の方から受付に対し、何時に誰の訪問がある、と連絡があって、初めて取り次ぐ決まりになっている。来所者がいくら「呼ばれた」と言っても、それだけでは入所を認める訳にはいかないのである。げんに、この女性が来所するということは、彼の元には伝えられていない。


「ご用件、ご用件……」

(うーん、取り次いだものか、いやいや、待て待て――)


 二人は向かい合ったまま、固まってしまった。

 その時、唯一建物の中へ通じている玄関ホール奥のセキュリティドアがカチャリと開き、白衣をまとった若い女性が姿を現した。長い髪をアップにまとめ、きつめの印象を与える眼鏡をかけている。白衣の下のスカートが短く、覗いている素足がすらりとしていて艶かしい。

 彼女はふと、受付でお見合いしている来所者を目にすると


「あら! リファじゃない。なかなか来ないから、どうしたのかと思ったわ」

「あーっ! イリスちゃん!」


 リファは安堵した表情になって、いきさつを話した。


「ああ、ごめんごめん。忙しくて、受付につなぐの、忘れてたわ」

「ひどーい。イリスちゃんが来なかったら、私、入れなかったのよ?」


 彼女の苦情を聞いて、可笑しそうに言うイリス。


「私も悪かったけど、だったらどうして『Star-line』の身分証明書を見せないのよ? あれさえあれば、例えばスティーレイン・セントラル・バンクの地下金庫室にだって、無条件で入れてくれるのに」


 その言葉を聞いて、警備員が目を丸くした。


「は! ス、Star-lineの方でありましたか! そ、それは大変に、失礼いたしました」

「いいのよ。このコったら、自分の勤め先がどんなに凄いところなのか、全然理解していないんだから」

「だって……今はお仕事の時間じゃないもん」


 可愛くふくれているリファを連れて、イリスは建物の中へ戻っていく。

 長くて白い無機質な廊下を歩きながら、彼女はちらりとリファを見やった。


「……そういえばリファ、ここに来るのは初めてだったのよね?」

「うん。別に、来るような用事もないし」


 にこにこして無邪気にそんなことを言う彼女に、イリスはちょっと呆れたような顔をした。


「ホントは、山程あるのよ、来る用事。あなたが『Star-line』のメンバーである以上はね」


 このスティリアム物理工学研究所は、スティーレイン財団傘下にあり、CMDを主とした産業用大型機械に関する技術研究、ならびにその他一般市場向け製品の商品開発などを行っている。つまりはStar-lineと身内の機関であり、その証明書さえあれば、とイリスが言ったのは、そういうことである。

 彼女は長い廊下の途中で立ち止まると、壁についている四角いドアホンのようなものに、自分の人差し指を当てた。点灯していた赤いランプが緑色に変わり、カチャリとロックが解除される音がした。


「さ、入って頂戴。ここが、私のプライベートルーム。ちょっと、汚れているけど」


 中はちょっとしたホテルのデラックスルームほどの広さと設備があり、綺麗に整えられたベッドにソファが置かれている。部屋の角にはシンプルながら機能的なデザインのデスクやチェアがあり、その周りに沢山の書籍や書類そして端末が置かれているあたり、イリスの仕事というものを象徴しているように思わせるのであった。

 ソファに面した壁一面に巨大なスクリーンがかかっていて、美しいマリンブルー珊瑚礁の海と、沢山の熱帯魚が泳ぎまわっている映像が映し出されている。

 きょろきょろと見回していたリファはそれに気が付き、ソファにどすんと座った。


「すごーい! こんな大きなディスプレイ、見たことないわぁ! これ、イリスちゃんの持ち物なの?」


 イリスは白衣を脱ぎつつデスクの上の端末をチェックしながら


「……ええ、その一式だけは、ね。そんなものでもないと、時々、気が狂いそうになっちゃうもの。こんな建物に毎日毎晩缶詰にされてたんじゃあ、ね」


 そんな彼女の苦労話が耳に入ってかどうか、リファは嬉しそうにディスプレイの中の魚達を眺めている。端末から顔を上げたイリスは眼鏡を外し、呆れつつもちょっとホッとした顔をして、親友の後姿を見つめた。

 無邪気なのか脳天気なのか、人生に最低限必要なシリアスというものすらどこかに置き忘れて生きている彼女の存在が、恨めしくもあり羨ましくもあった。


「……リファ、何か、気付かない?」

「え? 何が? とっても立派なディスプレイじゃない」

「そうじゃなくて……。ここ、窓がないのよ。保安上の理由で。だから、そういうものでも置いて眺めてないと、とてもじゃないけど、神経が保たないの」

「へぇ……イリスちゃん、大変なのね」


 さり気無く大変なのだと言ったつもりだったが、彼女は聞いていなかったらしい。

 が、こういう性格の人間だとわかっていて親友付き合いしているイリスは、特にそういう聞いて貰い役をリファに求めるつもりは毛頭なかった。天真爛漫に生きている彼女を眺めているだけで、多少はイラッとすることがあるにせよ、スクリーンの中の魚達同様に、どこか気持ちが落ち着くのである。一人くらい友達にしておくといいタイプの人間かも知れない。


「リファ、コーヒーでいいかしら? まだ帰ろうにも帰れないし、アルコールは駄目なのよ、ここ」

「あ? うん、イリスちゃんと一緒でいいよ」


 コーヒーメーカーからカップ二つにコーヒーを注ぎ淹れ、それをリファの前のガラステーブルにコトリと置いたイリス。自らもソファにゆっくりと腰掛けながら


「最近、どう? Star-line、慣れた?」


 リファは両手でコーヒーカップを持ち上げた。まるで、幼児みたいな仕草である。相変わらずディスプレイに目を釘付けにしたままである。


「……まだ、出来たばっかりだしね。それに私、ショーコちゃんとかユイちゃんみたいにこれといって特技もないから、よくわかんない」


 面識こそなかったが、その属人名をイリスは知っている。

 まだ若くしかも女性ながらCMDの扱いに関しては超一級の技術と知識を持っているにも関わらず、奔放な性格が災いして所属していた治安維持機構を辞めてしまったショーコ・サク。都市統治組織のエリート官僚を両親に持ちながら反発して家を飛び出し、ふとしたことから出会ったショーコに拾われ、今やCMDに情熱を燃やしているユイ・エルドレスト。そういう一芸に秀でた人間の中にあって、自分の存在意義がよく分からないのであろう。普段あっけらかんとしているくせに、ちらりと垣間見せたリファの何気ない不安に、イリスは正直心のどこかで安堵していた。全く何も感じていないのであれば、親友として推挙者として、苦言の一つも言い聞かせなければならないかもしれない。

 リファを新設の組織『Star-line』に推薦したのは誰でもない、イリスなのである。

 といって、彼女に特別な技術があったからなのではない。彼女自身ですら気付いていない、しかし彼女にしかない、とある重大なことをイリスが発見してしまったからなのだが、そのことはStar-lineの統括責任者であるセレア・スティーレインにしか話していない。他の、例えばこの研究所の同僚にでも漏らしてしまえば、恐らく彼女は技術者としての素質を疑われてしまうであろう。あくまでも、親友として数年の付き合いを続けてきた仲だからこそ、その能力を見つけ出すことができたと、イリスは思っている。

 Star-lineは創設されて程もない。ろくに活躍の場すらなく、今はヴォルデの引き立てによって現場に出るチャンスを与えられているに過ぎないのである。

 しかし、とイリスは思う。

 この先、リファ達がいよいよ一線に立ってテロ組織と渉り合う様になってきたとき、リファの持っている潜在能力が十二分に発揮されるであろうということを、イリスは推挙したという理由以上に、自分の直感として信じている。


「わぁ、このコーヒー、美味しい」


 無邪気にコーヒーに感心しているリファを、横からじっと眺めているイリス。


「……あのね、リファ」


 ちょっと改まった調子で、呼びかけた。


「なに? イリスちゃん」


 イリスは、身体全体をリファの方に向けるようにした。


「あのね、今日、急に来てもらったのは、話があったからなの」

「話? 何?」


 目をぱちくりとさせているリファ。


「今日、O地区でテリエラが暴れて、その区域警備ってことで、出動したでしょう? こないだ入れたばかりの、DG-00ってテスト機、引っ提げて」

「うん、行ったよ。ヴォルデさんと、セレアさんも来ていたの」

「それはいいわ。……で、そのあと、こっちにDG-00の稼動データが寄越されてきたのよ。私、すぐにそれを見せてもらったんだけど――」


 イリスは、ディスプレイに向けてリモコンを操作した。

 途端にマリンブルーの珊瑚礁の映像が消え、スクリーンにプログラムが映し出された。延々と複雑な横文字が何百行にもわたって並んでいる。さらにリモコンのボタンを押すと、画面右側に小さなウィンドゥが現れた。そこには、夕刻港湾の倉庫街で散々に暴れたテリエラのCMDの様子が映っている。


「あ、これ……」

「そう。あなた達が担いで行った、DG-00のメインカメラが捉えた映像」


 映像の動きに合わせて、左のプログラムが上から下へスクロールしていく。時にゆっくりとなったり、いきなり早くなったりするのは、機体の動きに合わせたものであるかららしい。ということまでは、リファは理解していなかったが。

 メインカメラで賊の機体を捉えてから次に動作に移るまで、ほとんど間がない。賊機がこちらを認識した瞬間には、ほぼその間合いを盗んでいるといった状態である。

 最後に、銃を突きつけられて泣きそうになっているユイの顔がアップされたところで、イリスは映像を止めた。


「……で、聞きたいことがあったの。――これ、乗っていたのは、サラ隊長さん?」

「ううん。違うよ」


 その即答に、イリスは驚いたような顔をした。


「え……? だって、あれに乗れるのは、今のStar-lineでサラ隊長だけ、でしょ? あといるって言えば、そのショーコさんとユイさんに、あなただけ、だものね?」


 リファはずずっとコーヒーを啜り


「それがね、イリスちゃん。そういえば、なんだけど――」


 彼女は夕刻の出動時の様子を語って聞かせた。

 搭乗する予定だったサラが渋滞に巻き込まれて現場到着が遅れたこと、そして突然その場に現れたサイと名乗る若者からDG-00を貸してくれと頼まれ、承諾したこと。そして――。


「待った」


 イリスが手でストップをかけた。


「つまり、サラ隊長は現場に間に合わなくて、あなたとユイさんはテリエラ機に襲われたのよね? それで、そのサイだかっていう、見知らぬ男の人がいて――」

「そうそう、そうなの。やっつけちゃったのよ。ものの三分もかからないで」

「重火器で武装して、しかも市場にも出回ってない新型の稼動制御システムをインストールした賊のCMDを三機も相手にして?」

「うん。凄かったのよ。もうずっと前から操縦していた人みたいに素早くて、上手なの」


 それを聞いたイリスは、眉をしかめた。


「なんか、リファ……まるで、傍から操縦しているのを、見ていたみたいな言い方ね?」


 こっくりと頷いて見せるリファ。


「そうよ。一緒に乗ってたんだもの」

「え? 一緒に? 何よ、それ……」

「だってだって、ショーコちゃんが――」


 生々しく同乗の様子を説明するリファ。

 彼女にしてみれば、言い付けを素直に守ったというつもりなのだが、見知らぬ男性の膝の上に乗っかり、しかもその身体にしっかり抱きついていたという証言を聞いた途端、イリスもさすがに眩暈がした。仕方がない(リファにとって、だが)状況であったとはいえ、どこの世界に見ず知らずの男に進んで密着する馬鹿がいるだろうか。


「そっ、それはまぁ、もう、いいから」


 なおも話そうとするリファを制し


「私が驚いたのは、こんな頭の空っぽな機体で、ここまで素晴らしい動きをさせてみせたってことよ。少しは稼動制御プログラムが入っていたみたいだけど、それだけじゃこんな見事な動きは絶対に無理。だから話を聞いてみたくなって、あなたを呼んだのよ。――で、その人、それからどうしたの?」

「勝手に使ってご免なさいって謝って、行っちゃった」

「は……? こんなに凄い活躍をしておきながら?」

「でも、ヴォルデさんが言っていたわ。もし、出来ることならStar-lineに来て欲しいって。でも、何も言わないで帰っちゃったのよ、サイさん。だから、もう、どこにいるかもわからない」


 現在の住民登録ネットワークを隈なく探せば、あるいは見つかるかも知れなかった。

 しかし、経済的に下層の人々の全てまでが把握されている訳でもなく、彼等は常に開発という巨大な波に住居を追われてしまっている。そんな民衆の一人であるとすれば、とてもではないが見つかる当てもないであろう。そのことは、このA地区で働いているイリスにはやや実感として理解することができる。


「そう……。サラ隊長さんならともかく、その人だったらどうしようもないわね。これだけの稼動データを蓄積できること自体、画期的なことだったから、今後のCMD開発に大きく貢献できるかと思ったのに」 


 いかにも残念そうに、イリスは言った。


「ふーん……。上手な操縦だなとは思ったけど、そんなに凄いことだったんだ……」

「凄いどころじゃないわ。機体の性能を十分に熟知したとしても、それをフルに発揮させる乗り方、ってのが必要なのが現在のCMDの限界よ。今は稼動の記録をデータにして残せるから少しは開発に役立てることが可能になったんだけど、あんなガラクタに近い機体をあそこまで的確に動かしてみせるなんて、正直寒気がしたわ。でなきゃ、あなたをわざわざここまで呼びつけて話を聞いたりしようだなんて……」


 いわば、イリスの技術者魂であろう。

 希望校への受験が叶わなくなった生徒みたいにがっくりしている彼女に、リファは何だか自分のせいであるかのように、申し訳のない気持ちになっていた。


「ご免ね。イリスちゃんのお役に立てなくて……」


 心底そう言う彼女に、イリスはちょっと表情を明るくした。


「あなたのせいでもなんでもないでしょ。開発に使いたいとか何とか、それはこっちの都合だからね。強いて言うなら……サラ隊長さんかしらね。それだけ凄い人材を、むざむざ逃がしてしまうなんて。この先、大丈夫かしら?」


 そう言って笑った途端である。 

 突然ビィーッビィーッと凄い音量で警報が鳴った。


「……え? 何?」


 ハッとするイリスと、びっくりしてきょろきょろしているリファ。

 数秒後、事態を知らせる女性のマシンボイスが響き渡った。


『緊急警報! 緊急警報! 侵入者を検知しました。警戒レベルフィフス、警戒レベルフィフスでの対応を要すると判断されます。繰り返します――』


 イリスが顔色を変えた。


「警戒レベルフィフスですって!? ただ事じゃあないわね!」


 彼女はすぐに立ち上がってデスクの上の電話をとった。


「……イリスよ。どうしたっていうの? ――不審なCMD? 何機? そう、ちょっと多いみたいね。治安機構への連絡は? うん、で、警備かい――」


 そこまで言いかけて、はっとしたように顔をリファに向けた。


「――いるじゃない。ここに」

「……ん?」


 ソファに腰掛けたまま、目をぱちくりさせているリファがいた。




「さぁて、っと。装甲部品の納入関係はおしまい! あとは、電導関係……ね」


 チェアに座った状態で、ぐいっと身体を一伸びさせたショーコ。

 白い色調のオフィスで、小綺麗に整頓されたデスクが固まって置かれており、その中で彼女のところだけ書類や書籍が乱雑に散らかっている。

 時計は既に二十一時を指そうとしていた。彼女の外には、誰もいない。

 コーヒーでも淹れようかと立ち上がった時、ガチャリとドアが開いた。帰り支度をして私服に身を包んだサラであった。


「あら、ここにいたのね。ハンガーにいないから、もう帰ったのかと思って」

「ああ、うん。パーツの請求やら支払い先の関係がね。ユイちゃんにもおいおい教えないとなんないんだけど、今日の今日はまだ、あたしがやっとかないと」

「そう……。なんだか、申し訳ないわね」


 しんみりと詫びるサラに、ショーコは


「いいってば。要員と機体確保の話、ヴォルデさんにはしてくれてるんでしょ? だったらもうちょっとの辛抱だもの。それに――」ニッと笑って見せた。「待遇だって、全然悪くないし。ヴォルデさんと出会わなかったら、あたしは今頃、路上暮らしでもしてたんじゃないかしらね」

「まっさか。あなたはどこのメーカーも高給でスカウトしにくるだけの実力があるわ。私も、相手がヴォルデさんじゃなかったらここの話はお断りしていたかも知れないわ。治安維持機構っていう組織は好きじゃなかったけど、兄のこともあったから簡単に辞められないと思っていたし」


 元々治安維持機構に優秀な成績で入隊していたサラ。しかし男社会の組織で彼女は冷遇され、一隊を率いるだけの実力と資格があったにも関わらず、広報室という閑職に回されていたのであった。失意の日々を送っていた時、CMD運用を主とした警備会社設立のために視察に訪れたセレア・スティーレインを案内したことをきっかけに、サラは新たな道へ進むことになった。その過程で、Dブロック整備班長の肩書きを蹴っ飛ばして辞めていたショーコと知り合い、共に『Star-line』に入隊となったのである。

 入隊とはいっても、新設の会社を丸ごと一つ任されたようなものである。国家組織である治安維持機構とはまるで異なり、『Star-line』はあくまで民間の私設警備会社でしかなかったからである。立ち上げこそオーナーであるヴォルデやセレアの力を借りたが、CMDの運用や部隊の常時体制などは、それこそ彼女らがやってきたことの延長線である。サラやショーコが何とかやってみせねばならなかった。

 しかし、何より心強かったのは、政財界でも重鎮のヴォルデが彼女らの意見を良く聞き、必要があれば即座に手を打ってくれることであった。緊急時出動の経験にと、わざわざ出動する機会をつくってくれたのも、彼であった。そうでなければ、治安維持機構で固められた現場になど、彼女らは一歩たりとも入れてもらえなかったであろう。

 サラはオフィスに入ってくると、自らコーヒーを淹れてショーコに渡した。


「……ありがと。ちょうど、飲もうかと思っていたのよ」


 微かな笑顔で頷くサラ。が、大分神経的に疲れているであろうことは、ショーコが一番良く知っていた。

 そもそもが、真面目すぎるくらい真面目な性格なのである。隊務に遅滞や怠業がないように、日々気を遣い過ぎ、やや精神のバランスが取れなくなってきていることを、こう見えても敏感なショーコはとっくに見抜いていた。とはいえ、立ち上げて間もない今が重要な時期である。巨大なスティーレイングループを守るために設立された以上、後継の警備組織の模範となるべく、活動していかなければならない。さすがに、二十一歳になったばかりのサラには重いのでは、と、思うことがなくもない。そのショーコもまた同じ歳なのだが、こちらは典型的に技術屋肌で余計なところに気を遣うようには出来ていなかったから、多少気持ちにゆとりはあった。メンタルな部分で太いだけに、サラを支えてやろうという意識が強く、そのこともまたサラにとっては幸福であったといえる。

 俯いてくたびれたようにため息をついているサラ。こうして私服に着替えている時の彼女を見れば、ごく普通の若い女性でしかない。

 ずずっとコーヒーを一口啜りながら


「さ、早いトコ戻りなさいな。日中勤務体制でなくなったら、ろくに夜も戻れなくなるわよ? ちゃっちゃと一杯ひっかけて、帰って寝て、さ。……いい男がいたら、それに引っかかっても悪くないかも知れないけど」


 軽口を叩きつつも、ショーコの口振りには思いやりがあった。

 今のサラには、そんな彼女だけが支えであるように思われてならないのであった。


「うん……。じゃあ悪いけど、あとはお願いね? 何かあったら、連絡して頂戴」

「了解よ! ゆっくり休んでね」


 小さく微笑んで、サラはオフィスを出て行こうとした。

 その時、壁際に設置されているやや立派な通信コンソールの外部通信受信ランプが点滅した。


「……はいはい。こんな時間に何でございましょー?」


 ショーコがカップを置いて、機器の傍へ行った。

 部屋を出かかったサラが足を止め、戸口でそれを見ている。

 カタカタとキーを叩きながら、モニターに現れる情報を見ているショーコ。


「何々……A地区南3C5L、スティリアム物理工学研究所、ああ、うちの所属施設ね。で、発生時刻2058、緊急警報警戒レベルフィフスにて発報……って、随分物騒な話ね」

「……」


 帰りかけたサラも駆け寄ってきて、ショーコの後ろからモニターを覗き込み


「警戒レベルフィフスって、CMDで襲撃を受けてるってことでしょ! これって、まずいじゃない!」


 思わず叫んでいた。

 が、ショーコは落ち着き払っている。


「まあまあ。さしあたり、第一報は治安機構のAブロック統括指令に飛んでいるわ。出動要請報だから、直ぐに向かってくれてるでしょー。昼間のこともあるし、名誉挽回ってところで頑張ってくれればいいんだけど……」


 が、サラはもう顔色が変わっている。


「グループ施設だから、治安維持機構に任せっぱなしというわけにもいかないわ。とりあえず、出動待機をかけるわね。セレアさんには、私から連絡するから、連絡がつけば、現地につないでみて欲しいの。お願いね!」


 言い捨てて、サラはばたばたとオフィスを出て行った。


(なんとまぁ、苦労の多い隊長さんだこと)


 哀れむような同情するような表情で、彼女が出て行ったドア口を眺めているショーコ。

 幾ら立ち上がったとはいえ、まだ正式に活動開始申請は出されていない以上、こうも慌てるような必要などないのである。対テロ活動部隊として治安維持機構(頼りなかったにせよ)がきちんと動いているからには、今はそちらにやらせておけば済む話なのである。

 Star-lineが息せき切って駆けつけたところで、恐らくはどうにも出来ないであろう。


「そんなに気張らなくったって、ねぇ……」


 呆れたように呟いていると、通話呼び出しランプが点灯した。

 モニターには、スティリアム物理工学研究所の回線ナンバーが表示されている。


「あらあら。うちに救援要請かしら? だから、まだどうにもならないって……」


 受信スイッチを入れたショーコは、そこで固まった。

 何と、画面に映し出された相手はリファではないか。


『あっ! ショーコちゃん! よかったぁ。あのね、あのね――』

「リ、リファ!? あんた、そこで、何やってんのよ! 良い子は早くおうちに帰って寝なさいって、言ったでしょうが!!」

『……? 言われたっけ? あたし……』


 会話が支離滅裂である。

 ショーコにしてみれば、何故そこにリファがいるのかと訊きたい。が、リファはショーコの売り言葉をストレートに受け取ってしまったから、大変である。


『でも、でも、今日はお友達と約束があるって、確かあたし、ショーコちゃんに――』

「ああっ、もう! んなこたぁ、どうでもいいっての!」


 バンッ とコンソールに両手を付いた拍子に通話ボリュームが上がってしまった。

 モニターの向こうで、びっくりしたように竦んでいるリファ。

 ショーコの怒声は恐らく、研究所の他の人間にも届いたであろう。


「状況よ、状況! 状況を報せて! 今、どうなってるのよ!?」


 彼女の怒髪天を衝いた形相が、向こうのモニターに目一杯映し出されていることに、ショーコは気が付いていない。何をそんなに怒鳴られているのか全く理解していないリファは、怯えたようにおずおずと喋り出した。


『あ、あのね、リン・ゼールのCMDが、ええっと……五機だっけ、外にいるみたいなの。今、F地区から治安機構が駆けつけて来て、交戦状態に入ったばっかり』

「F地区から? 相手が五機なら、ちょっと不安があるわね。B地区から救援は?」

『今、向かってくるみたい。治安機構の方で、リン・ゼールが動くらしいって、情報をつかんでいたみたいなの』

「ああ、そういうことね。……囮にするたぁ、やり方が汚いわね」


 独り腕組みをして呟くショーコ。

 夕方の件にしてもそうである。一般人の後を追跡し、アジトの所在が明確になった時点で一斉包囲して殲滅する。手早いといえば手早いが、それに利用された一般人の安否まで考慮されているとは、とても思えないやり口である。しかも、さっきは討ち漏らしたどころではなく、逆に返り討ちにすら遭っているではないか。

 ショーコはもう幾つか、確認しておくことがあった。


「襲撃目標となった理由は? そっちで何かあるの?」

『……わかんない。イリスちゃんも、どうしてかしらって、首を傾げてるの』


 ついでに訊いてみただけの質問である。それはいい。


「CMDで襲われていることはわかったわ。あと……工作員は? 侵入してるの?」

『うん、いるみたい。でも、警察機構とSTR警備保障が来てくれるみたいだから、そっちの方は何とか防げそうだって、イリスちゃんが……』


 STR警備保障はこれもまたスティーレイン傘下の警備会社で、Star-lineとは兄弟みたいなものである。CMD専門の彼女達に対し、STRは通常の警備を専門としており、その対応力には絶大な評価がある。生身でちょろちょろやっているテロ工作員など、精度高く訓練を積み重ねてきているSTR部隊の前に、すぐ取り押さえられるであろう。それに、研究所のセキュリティ自体、生半可なものではない。

 こうなれば行かなくても良さそうに思われたが、リファがいるとなれば話は別である。かつ、問題はCMD同士の交戦が発生していることである。さすがのSTRも、何人束になろうともCMDには勝てない。

 サラには気の毒だが、これは出動しておかねばなるまい。ショーコは考えた。


「リファ! そっちに非常用の開放無線、常備してるでしょ?」

『あるよ』

「どこ行くにしても、それ持ってて頂戴。識別は4427にしておいて。うちらの現場到着予定は2130。うっかり顔なんか出して賊に撃たれたりしないようにね」

『はーい。早く来てね、ショーコちゃん』


 通話はそこで切れた。

 武装したテロリストに包囲されているというのに、リファはけろりとしていた。


(大丈夫かしら、あのコ……)


 何かちらりと不吉な予感がしたが、今はそのことにこだわっていられない。


「……さて、と」


 現地への指示を終わったショーコは立ち上がって部屋を出た。

 今度は、担いで行く機体の方をチェックしなければならない。

 Star−line本部舎は、まだ改装されて間もない。そのピカピカの廊下を、ずんずんと歩いて行くショーコ。


(そういや、昼間のあれはすごかったなぁ)


 ふと、夕方に出動から戻ってきた時の事を思い出した。


「ふあぁ……ショーコさん、これ!」


 稼働データをチェックしていたユイの声に、傍から覗き込んだショーコも驚いた。

 機体に搭載されたシステムは、操縦系から駆動系に伝達された情報をデータとしてバックアップすることが出来るようになっている。つまりその指示伝達速度や動作効率性などが、データを解析することで把握できるのである。それはまた、そこから得られたものを大本の駆動制御システムに修正プログラムとして組み込むことで、より効果的な操縦が出来るようになり、操縦者の負担が減ることにつながる。

 DG-00はそういう面からいえば、全くといっていい程にシステム的なケアが不足しており、完全な人型を有しているだけにサラやショーコも動かすのに梃子摺ったものであった。つまり具体的には、操縦系をサポートするプログラムがなければ、駆動系への指示伝達が不安定となり、思ったように動かなかったり動きすぎてしまったりして、動作に肌理の細かさを欠いてしまう。

 しかしながら、サイが動かした後のデータは、機体のスペックや癖などに対して操縦者側が巧みにコントロールしていた形跡があり、機体や操縦にほとんど無駄な動きや指示がない。しかも、シールドを飛び道具にして賊機に命中させているあたり、常人では考えられない芸当である。


「うわ……これ、芸術的ね。このまま制御プログラムにして売り捌いても、いい金になるわ」と言って、ショーコはちょっと残念そうな顔をした。「あのコ、来てくれれば良かったのに。とは言っても、うちらもまだ、それほど知られた組織じゃないしね」


 夕方の時は幸運にして卓抜した(通りすがりの)操縦者がいたが、今はサラしかいない。

 治安機構大学で優秀な成績を納めたとはいえ、実戦経験がまだまだであることは、ショーコがよく知っている。新鋭機を導入する以前に、操縦者の身の安全を考えてより装甲の厚い、しかし鈍重なDG-00という機体をまず入れた方がいいと意見具申したのは、実はショーコであった。そのことを、サラは知らない。彼女は、単純に新鋭機を入れるにはまだ早い時期だから、という風に解釈している筈であった。重装甲はいいが、かといってそれだけではどれ程も保たないであろう。多少の小銃弾なら防ぐかもしれないが、転倒したところを上から殴られでもしたら、それまでである。過去に、そういう殉職例は幾つもあった。

 しかも今は、よりによって状況支援を担うべきリファもいないときている。


(……ま、本格的に殴り合いやるのは治安機構に任せておいて、うちらはSTRの支援ってことで、どうにかするしかないわね)

 頭の中でシミュレーションをしつつ、彼女は更衣室で作業着に着替えてハンガーに急いだ。

 CMDやトレーラーを保管しておくハンガーは、ちょっとしたスポーツでも出来そうなくらいに広い。

 その空間に、サラとユイの言い争う声が響いている。


「ユイちゃん、装備は!?」

「ステータスESです!」

「LWは!? 昨日、納品されてたでしょ!? なんで着装してないのよ!?」

「ですから!」


 一方的なサラの物言いに、キレてしまったユイ。


「今日チェックする予定だったって、言ったじゃないですか! なのに隊長が急に出動するなんていうから、出来なかったんです。あたしに、そんなこと言われたって……」

「……」


 ヴォルデとの話の中で、独断で出動を決めていたサラ。

 確かに、非は自分にある。サラは沈黙してしまった。


(やれやれ。やっぱり、こうなったか)


 入り口に立って二人のやり取りを聞いていたショーコは、苦笑を浮かべた。

 真面目すぎるサラは時に目の前しか見えなくなり、その分周囲にとって愉快でない態度になってしまうことがしばしばあった。今も、そうである。やる事はきちんとやっていると自負しているユイもまた若いのだが、そんなサラが気に入らない。折に触れ、何かとぶつかり合いが起きていたが、ユイもただのひ弱い少女ではなかったから、相手が上司だろうと容赦はない。

 こうなってしまうと、ショーコが間に立ってやらざるを得ない。


「まぁまぁ、サラもユイちゃんも」


 横から彼女は、宥める様にやんわりと割って入った。


「緊急事態なんだから、そうそうカリカリしなさんな。落ち着きなさいって」


 言いながら彼女は、ポンと二人の肩を叩いた。


「争ってる場合じゃないわ。ちょーっとやばいわよ。――襲撃を受けているスティリアム物理工学研究所に、リファがいたのよ」

「……え? リファさんが?」眉をしかめているユイ。

「……なんですって!? どうしてまた!?」


 サラの声は、悲鳴に近かった。


「お友達がいるそうよ。それはともかく、状況なんだけど――」


 ショーコは今つかんでいる情報を手短に二人に伝えた。

 聴き終わると、青い顔で頷くサラ。


「セレアさんからは、とにかく現場へ急行するように、指示が出たの。研究所がスティーレイン所属である以上、黙っておくことは出来ないって」

「でしょうね。リファにはそう言っておいたから。幸い、トレーラーの予備も貰ってるし」


 夕刻の出動で、もともと配備されていたトレーラーは銃撃を受けて中破してしまっていた。今ここにある大型トレーラーは、スティーレイン系の重機会社から回してもらった予備車なのである。


「ところで……」


 改まって言いかけたサラにストップをかけたショーコ。

 ここでサラに指示を出させると、ただでさえむかっ腹を立てているユイが収まらないであろうと思ったのである。ここは一つ、


「どうせ、乗るのはサラでしょ? リファがいないのは仕方がないわ。状況支援はあたしがやるから。いい? ユイちゃんは指示された場所にてDG-00を降ろして、後方へ下がって待機。ってことで」


 無言で頷くサラ。この二人が揃うと、どっちが隊長なのかわからない。

 そんな二人を見て、ユイがくすっと笑った。

 ショーコはレシーバーを頭からかけると、キリッと表情を引き締めた。


「五分後に出るわよ! ユイちゃん、トレーラー回して! サラはとりあえず乗って、そこからセレアさんに出動報告入れればいいわ。じゃ、よろしく!」

「了解」

「了解です」


 不完全な状態ながらも、今は行くしかない。

 トレーラーの運転席から、留守を預かる中年の男性整備員、リベル・オーダにあれこれと依頼をしているユイ。無口だが腕利きで気のいいこの親父は、かつてどこぞの重機メーカーに勤めていたが、セレアの頼みによってStar-lineにやってきたのであった。若くきびきびとした女性の下で働くのが気に入っているらしく、サラ以下女性陣が何を頼んでも嫌な顔一つせずに引き受けてくれる。今も、無口ゆえに返事こそしないが、帽子をとるとユイに向けて右手の親指を立てて見せた。了解、行って来い、という合図である。

 DG-00のコックピットに潜り込んで不安そうな表情のサラ。

 それとは正反対に、特殊装甲車のエンジンを回しながら、鼻歌を歌っているショーコ。理由はないが、彼女には妙な予感がしていた。どうも、悪い方向にはならないような気がするのである。


(リファってああ見えて、結構ツイてる奴だからなぁ――)

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