Cløckwørk・Children.《クロックワークチルドレン》
坂本Alice@竜馬
file:01 It is difficult to live properly.
Prologue
ある時不意に、何か大切な忘れてはいけないことを、忘れてしまったかのような、そんな気分になる。
どれだけ考えても、それは思い出すことができない。
いつの間にか、そうやって思考を巡らせていたことさえも忘れている。
そもそも、忘れてはいけないことなんて言うものは、元より存在しないのかも知れない。
全ては僕の、思い過ごしの杞憂だったのかも知れない。
ただ――――― そんなことですら、今の僕は思い出すことができない。
徐々に頭の片隅から、何かが崩れていく音がする。
それはきっと、「僕」という人間が、腐って壊れていく音だ―――――。
◆
夜の街は冷える。
丁度あの日は、打つような大粒の雨が降っていた。
眼前を行き交う人間は皆一様に傘を差して、僕のことなど、路端の石ころほどにも気に留めてはいない。
頭に被せたボール紙越しに届いた雨の冷たさが、酷く身に染みる夜だった。
頬を伝う雨粒を舐め取ると、少しだけしょっぱいような気がした。
水分をたっぷりと含んだ空気。
霧に霞んだコンクリートジャングル。
濡れて艶やかに光る石畳。
跳ねる飛沫と灰色の空が、まるで僕を嘲っているようで。
僕はほんの少しだけ、この理不尽に、諦めのようなものを感じた。
雨は心の膿を洗い流してくれるなんて誰かが言っていたけれど、むしろ僕の心は、この仄暗い街のように、霧がかかっているみたいだ。
ひとつ、水溜まりが揺らいだ。
「―――――風邪を引いてしまうわ」
彼女は開口一番に、僕へそう言った。
薄汚い路地にはあまりにも不似合いで、場違いな白と黒のゴシックドレス。
顔を隠した黒いレースのヴェールを持ち上げて、優しげに彼女は微笑んだ。
当時、齢十二の六月。
僕と先生の、出会いの日。
そして、僕が生まれ変わった日だ。
◆
窓越しに降りしきる雨を眺めていると、ふとあの日のことを思い出す。
椅子に凭れながら手に持ったティーカップを煽ると、口のなかにふわりと、独特のメントールの香りが広がった。
「チェック、です」
向かいの席から、声がかかった。
クロスが引かれたテーブルには、碁盤の目の……いわゆるチェスボードと両軍の駒が、白が劣勢の状態で戦線を展開していた。
目の前で同じように腰かけた彼は黒の駒を手に取ると、冠をのせた白の駒に忍び寄るように、その背後の目にコトリと置く。
「うっ」
思わず苦々しげな呻きが漏れた。
もはやすでに手詰まり、王の周囲は敵の刺客により包囲されてしまっている。
素早く僕は敗けを認め、降参と白旗を振った。
「お見それしました… しかし強いなあ八瀬君」
「副長が弱いだけですよ」
「あはは、これは手厳しいね」
そう言って、もう一口紅茶をすする。
うん、ダージリンとかアールグレイもいいけど、たまにはウバも良い。
なにより香りが好みだ。
「てゆーか神代さん、今日だんちょーと一緒に本部でカイギがあるんでしょ? 行かなくていーの?」
「うん、もう準備はしてあるよ。ヒロとは向こうで集合になってるから。だからそろそろ行くよ」
足元に置いてあった横長のトランクを引っ掴んで、立ち上がった。
まだ残っている紅茶を飲み干す。
「それじゃ。羽屋見さんと八瀬君、行ってくるね。先生によろしく」
「はーい」
「はい副長、お気をつけて」
見送る二人に手を振って、玄関のノブを回した。
時は2135年、科学と機巧技術の進化に比例するように増加した機巧犯罪を取り締まる為、20年前から全国に設置された機巧犯罪対策局に僕は捜査官として勤めている。
アンチ・クロックワーク・エネミー、略称
便利に、そしてより強力になった機巧技術は、機巧犯罪の過激化に拍車を掛けている。そのせいで、矢面に立つ捜査官は自然と危険に晒され、時代でもない命がけの戦争を繰り返しているのだ。
濡れた道路を、警察が保有している巡回用の多脚装甲車が通り過ぎていった。
ランプが灯っていたから、どこかで事故でも起きたんだろう。
開いた傘を打つ雨粒は少し勢いを緩め、空は青色を覗かせていた。
雨が上がる。
「帰るときには止んでるかな」
僕は足早に歩を進め、本局へと向かった。
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