海底散歩

深夜太陽男【シンヤラーメン】

第1話

 何もない場所へ行きたいと君が言ったので、まず僕が確かめに行こうと思った。大した理由なんかなかった。

 空気中から海中への移行。海面を通過する瞬間、肌は温度の変化に凝縮し、今までの世界と決別する。ずうっと息を吐きだし続けていれば、体は浮力を出さずどんどんと沈んでいった。呼吸をしなければと思うから苦しいのであって、忘れていれば楽だ。そういうことってたくさんあった。

 海底に足をつけて、僅かに砂が舞う。とりあえず、深い深いところへ、行けるだけ行ってみよう。歩行、地上のソレとは違い海水は意思を持つかのように僕に抵抗する。僕はそれでもゆっくり歩を進める。籠り響く音、まるで海中とは時間を濃密にした空間のようだ。視界だって霞んでいる。自分の思考だけが、やけにはっきりとわかるんだ。


 魚群が通り過ぎる。彼らにリーダーはいないのに、その動きは統制がとれている。スイミーという絵本を思い出した。あれは本当に一匹の大きな魚だ。

 沈没船を見つけた。赤い十字マークが描かれている。戦時中に活躍したと言われる病院船だ。国際条約で差別なく負傷者を助けたらしい。しかし病院船はカモフラージュで図面にない船内空間に兵器や兵士を載せて輸送したとか。もう誰も真相を知らぬまま、歴史はここに眠る。

 鯨の骨が横たわる。鯨骨生物群集、鯨の死体は腐敗し、ガスを生む。大質量から生産される物質は多くのイキモノを引き寄せる。そして新しいイキモノも生まれることがあるらしい。だだっ広い海底で閉鎖された生態系。

 52ヘルツの周波数で鳴く鯨は珍しく、世界で孤独な鯨と呼ばれた。あの鳴き声はまだ誰にも届かないまま、海中を彷徨っているのだろうか。


 僕は進む。さあ、もっと深いところへ。


 やがて光の届かない場所へきた。温度もずっと低くなり、圧力も半端ない。当然人間の体は維持して活動ができない。肉体が崩壊しても僕は意識のまま歩き続けた。

 究極の環境で、独自の進化を遂げた深海魚たち。自ら光るもの、目が見えないもの、体が硬いもの、逆に脆くも再生するもの。誰も知らない世界で、彼らは確かに生きている。

 もっと深く。カタチあるイキモノはいなくなった。細かい細かい菌のようなものが微かに漂流している。海流もなく、ここはとても寂しい。


 そして、世界で一番高い山をひっくり返しても全然届かない場所へ。

 ここは、なんにもなかった。

 世界の終わりだ。

 絶望という言葉すら、潰され霧散し消失する。

 こんなにも近くに、永遠を閉じ込める宇宙は存在したのだ。

 そうだ、ここは何もないのがなくちゃならない。僕はいられない。もちろん君も。君に、伝えなきゃならない。急がなきゃ。

 僕の意識はたった一つの泡となり海面への上昇を始めた。

『光あれ』

 神の一言で無責任にも世界は始まってしまった。海の色に青みがかかる。スピードを上げて、輝く出口へ向かって。

 これは出産だ。胎内から飛び出せば祝福が待ち構えているかのように。君に会うために生まれてくるのだ。嬉しくて大声で泣くよ。


 きっと海底を散歩した記憶なんて誰も憶えちゃいないけど、僕らはみんなそこを目指して歩き続けるのだ。

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