空の妖精と《天の石》5

「大丈夫か? 怪我はないか?」

 肩を抱くディフリートを呆然と見上げる。

「遅くなって悪かった。居場所を見つけるのに手間取った」

 首を振る。胸がいっぱいで何も言えなかった。

(助けに来てくれたんだ、私を)

「……本当に大丈夫か?」

「だ、大丈夫……ありがとう……」

 声を出すと涙が出そうだったけれど、心配そうに覗き込まれて慌てて言った。けれど声が揺れるのはどうしようもなかった。

 自覚すると感情が大きく揺れて、ぽろり、と涙がこぼれ、ディフリートがぎょっと息を飲んだのがわかった。けれど、止まらなかった。

「……っ、く、た、助けに来てくれるなんて、思わなかっ……んくっ、だ、って、私、今まで誰も……」

 今まで誰もが、セレスレーナを強い人間として扱った。他者よりも強くあるべきだと育てられ、そのように振る舞ってきたセレスレーナは弱さを見せることは許されなかった。助けられることは恥ずべきことだと思っていた。弱音を口にできないセレスレーナを助けてくれる人は誰もいなかった。

 助けを求めていないのだから助けてくれないのは当然だ。けれどずっと心の中で叫んでいた。

 ――誰か助けて。ひとりにしないで。私を支えて。

 その心の声を聞いたかのように。

 涙を拭うセレスレーナは、ディフリートの腕の中に抱きしめられていた。

「……俺がいる。ちゃんとお前を見てる。だから泣きたいときには泣いていいんだ」

 その優しい声を聞いただけで、喉が詰まったようになり涙が堰を切って溢れてきた。今まで心の内側で伸ばされるだけだった手はディフリートの背中に回り、彼の服の裾を強く握りしめた。

 そうしてただ抱きとめてくれる人がいるだけで世界はこんなにもあたたかいのだということを、セレスレーナは初めて知った。

 ふと、人の気配を感じた。

 何気なくそちらに目をやって「ぅ!?」と短い悲鳴をあげる。扉をあけて立っていたのは、十歳くらいの少年を先頭にした子どもたちだった。

 みんな十歳から年下のようだ。じいっと無垢な目でこちらを見ている。セレスレーナは声を上げかけ、ディフリートに抱きしめられている状況に気付いて絶叫しそうになった。

「でぃ、でぃふりーとっ! ちょ、ちょっと。ちょ……!」

「はいはいはいはい! あんたたち、これは見世物じゃないよ!」

 扉が大きく開き、黒髪の女性が子どもたちを散らす。

「早く部屋に帰りなさい。船長にぶん殴られたいの?」

「えー、せっかくいいところだったのに」

「もうすぐちゅーだったのにねー」

 顔が真っ赤になるようなことを言って、子どもたちはぞろぞろと引き上げていく。彼らを散らした豪奢な黒髪の女性はやれやれと肩をすくめてディフリートを見下ろした。

「そろそろ離しておあげ。その子が窒息しちゃうよ」

「マリーヤ」

 それが彼女の名前らしい。目が合うとにこっと笑顔を向けられた。

 ディフリートの手を借りて立ち上がると、彼女はセレスレーナの肩を両手で掴み、ぎゅっと眉を寄せて勢いよく引き寄せた。

「かわいそうに。こんなに傷だらけで……怖かったろうね」

 母くらいの年齢のその女性からは石鹸を思わせる優しい香りと、働く人独特の甘い汗のにおいがする。豊満な身体に似つかわしいたくましい腕とぬくもりを感じていると、急に胸の奥がきゅうっとなった。

 また勝手に流れる涙を唇を噛んで堪えていると「よしよし」と背中を撫でられる。初めて会う人に泣き顔を見せてしまうなんて、よっぽど弱っていたらしい。ますます止まらなくなってしまった。

「顔を洗って着替えをしよう。あなたの心配事はひとまず男どもに任せておきなさい。あんたもそれでいいね、ディー? 離し難いのはわかるけど、もうちょっと気にしておあげ」

「……はい。すみません」

 そう言ってディフリートが殊勝に頭を下げた。どうやらこのマリーヤという人に頭が上がらないらしい。

 セレスレーナは優しく促され、一旦部屋を出ることになった。

 少しも行かないうちにあった一室に足を踏み入れると、わっと声をあげて女性たちが駆け寄ってきた。

「大丈夫? もう心配ないからね」

「これで顔を拭いて。着替えはそれを」

 甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるのに圧倒されながら、言われるがままに顔を拭く。

 ふとサージェスによる気色の悪い口づけを思い出し、口の周りは念入りに拭った。煤で真っ黒になった布から顔を上げると、ずっとこちらを見ていた女性が笑顔になり、分かっているよとでも言うように「きれいになった」と言ってくれた。

 ぼろぼろになったドレスを脱ぎ捨てる。固い素材のシャツと脚衣という小姓のようだと思っていた衣服の方がずっと落ち着くことに気付かされて、やっと安堵の息を吐くことができた。

(けれど、まだ終わっていない)

 あの獅子を止めなければ。

 その場にいた人たちにお礼を言うと、マリーヤが心配そうに言った。

「もう少し休んだ方がいいんじゃないの? まだ顔色が悪いよ」

「大丈夫です」

 そう答えてから、もしディフリートが聞いたなら納得しないなと気付き、言い方を変えた。

「辛くなったら、ここで休ませてもらってもいいでしょうか?」

「もちろん。息子に言えばもっと広くて快適な部屋を用意してくれるよ」

(息子……息子さんが船長なのか)

 ということはディフリートの知人なのだろう。あとでちゃんとお礼を言わなくては。

「皆さん、ディフリートを知っているんですね」

 尋ねると再び女性たちはわっとなった。

「そりゃ知ってるよ! 船長の一番の友達だったんだもん」

「王子様だって聞いて衝撃を受けてたよね。人づてに聞いて『どうして言ってくれなかったんだ』『親友だって思ってたのは俺だけだったのか』ってめちゃくちゃ荒れてさあ」

「仲直りできずにいまだに引きずってるの、かっこわるいよねー」

「仲違いしているんですか?」

 ディフリートが王子様だと聞いて叫んだ記憶は新しい。その船長も隠されていたのを突然知ってしまって驚いたに違いない。親近感を覚えて尋ねるとみんな一斉に頷いた。

「そうみたい。なかなか仲直りできなくて、顔を合わせたら喧嘩ばっかり」

「今回も急に進路変えたと思ったらディフリートに仕返ししようとするんだもん。呆れちゃった」

「ほんとにね。仲良かったから余計に許せないんでしょう。だからって変な人たちとつるむのはどうかと思ったから流石に怒っておいたけど」

 そこまで聞いて疑問がもたげる。セレスレーナはディフリートの知り合いに会ったことは数少ないが、どこかでそんな風に彼と険悪な雰囲気になったところを見た気がする。

(……まさか、気のせいよね)

「操舵室まで案内するよ。おいで」

 そのまま話が続きそうだったのをマリーヤの一声が止める。

 セレスレーナは同行を申し出た女性たちに付き添われて広い廊下を進んでいき、先頭にいたマリーヤが突き当たりにある両開きの扉を押し開けた。

 そこはアーヴレイム王国の王立研究所のような場所だった。前方に巨大な画面があり、壁際に備え付けられた機械に多数の人が向かっている。しかし部屋の中心に位置する舵輪が示すのは、ここが操舵室であるということだった。

 舵輪の前に立つ黒衣の人物は、こちらを見て微笑んだ。

「また会ったな、姫さん。ようこそ、マギス・ロアへ」

「ヴェルティ・ルーベルース氏!」

 やっぱり! とセレスレーナは声を上げた。ディフリートと仲が悪い人間として真っ先に思い浮かぶのが彼だった。

 彼はディフリートと険悪だったはずだが、その船に転送されたということは協力関係にあるのだろうか。その場にいたディフリートをそっと伺うと、いつもの朗らかな表情を土で塗り固めて隠したかのようなこわばった顔をしている。

「まずは礼を言ってもらいたいな。うちの乗組員はかなり高度な技術を発揮したんだ」

「そうだな。さすがマギス・ロアだ。かなり狭い範囲で時間もなかったろうに、よく転送してくれた。ありがとう」

 機器に向かっていた青年が振り向き「どういたしまして!」と答える。ずっと同じところにとどまっているものよりも、塔から落下するところだった人間ふたりに焦点を絞って転送を行うのは技術がいるのだろうとセレスレーナは推測した。妥当な賞賛だった。

「助けてくださってありがとう。でもこれは……」

 そこではたと気付く。

「……『息子』?」

「正確に言うと私は実母じゃなくて、腹違いの弟の親だから義理の母だよ」

 絶句して女性たちを見ると「義理の姉でーす」「妹!」「叔母です」と声が上がる。

「このマギス・ロアの乗組員はみんな家族、言葉だけの意味じゃなくてヴェルティと腹違いの兄弟とその家族が乗ってる。さすが翔空王と言うべきか、あっちこっちいろんな世界の女と関係を持ったり子どもをこさえたりしててね。ヴェルティがそれをみんな引き取るもんだから、こんな大所帯になったんだ」

 船の規模を考えると、乗船している人の数を想像して感心してしまった。それをまとめているヴェルティはすごい。

「よほど腕利きの翔空士なのね……」

 そう言うとみんな嬉しそうに笑った。

「いい子だね! さすがディーの選んだ子だ」

「ヴェルティったら呆れてたもんね、あのディーの啖呵」

「あれ聞いてて久しぶりに『きゃー!』ってなった! 『きゃー!』って」

 よく分からないことを言って撫でられ肩を叩かれともみくちゃにされた挙句、「ご利益がありますように……」と若い女性たちからは手を合わされてしまう。意味が分からない。

 その時、男ふたりの咳払いが重なった。

「――仕事場に入るなと言っているはずだ。用が済んだら出ていってくれ」

「口添えしてくれたことは感謝するが、頼むからもう何も言わずに出ていってほしい」

 女性たちは「はいはい」と軽く応じ、操舵室の機器の前に座る男性陣の苦笑に見送られながら部屋を後にしていく。最後に出ていくマリーヤがセレスレーナに片目をつぶってみせた。そこに込められた思いがじわりと感じられた。

 ――あなたは一人じゃない。頑張って。それから、男どもをよろしく。

 大きく頷いたセレスレーナにおおらかな笑みを送ってマリーヤが消えると、機器が鳴り響かせる音だけになった操舵室はずいぶん静かに感じられた。

「……大丈夫か?」

 ディフリートの問いかけに言葉以上の心配が感じられたのは気のせいではないだろう。彼はこの船の女性たちを苦手としているのだ。

「ええ、もう大丈夫。それで……状況はどうなってるの?」

「解決するつもりか? そこまでの義理はないぞ」

 ヴェルティが呆れて言うのに反論しかけたところで、機器に向き合っていた乗組員の数人が顔だけ振り返って言った。

「船長、そんなこと言ってると、後で姉さんたちにぼっこぼこにされますよ!」

「そうそう、『ディーを助けてあげなさい!』ってまた操舵室に押しかけてくるって」

「みんなディフリート贔屓なんだもんなあ」

 なんだかぼやきが混じっているが、船を操作する彼らの心は同じらしい。ヴェルティはうんざりとため息を吐き、彼に聞こえない声量でディフリートが言った。

「マリーヤたちに何か言われたか?」

「だいぶ心配されたけれど……何か気になるの?」

「だったらいいんだ。お前を追うのをヴェルティに邪魔されそうになったんだが、マリーヤたちが説得してくれたおかげで協力を取り付けられた。後で礼を言っておかないとな。……ついでに余計なことをしゃべるなって釘を刺さないと」

 正面に向き直ったヴェルティがその会話を遮断するように命令した。

「地上の状況を表示しろ」

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