空の妖精と《天の石》4
息を飲んだのと、獅子は全身を軋ませながら跳躍したのは同時だった。
獅子は無骨なその手でサージェスを払い飛ばした。
「ひ、ひいいっ!?」
セレスレーナを掴んでいた護衛も控えていたもう一人も、悲鳴を上げてあっという間に逃げ出していく。放り出されたセレスレーナはなんとか力を振り絞って起き上がろうとしたが、ぬっと影が差して凍りついた。
だが攻撃してこなかった。それどころか確かめるようにセレスレーナの上で頭を動かしている。興奮させないようそっと起き上がると、獅子はまるで礼儀正しい紳士のように一歩下がったが、硝子玉の目はじっとセレスレーナの胸元を注視していた。そこでようやく気付いた。
「この光……」
この胸、身体の内側で光っているもの。――《天空石》の波動だ。
『あ、り……』
金属をこすり合わせたような音が人の言葉に似たものを発した。
『あり、あ……守、ル』
慕わしいものに呼びかけるような切ない声でそう言ったかと思うと、閉ざされた扉を突き破って外に出て行ってしまう。急いで追いかけたセレスレーナは、夜空に広げられた獅子の翼が放つ翡翠色の光を見た。
それは自然のものにはあり得ない軌跡を描いて地上に放たれた。
どん、と大地が鳴った。
石造りの城が、城壁ががらがらと崩れ、地には穴が空いた。「敵襲か!?」と叫びながら兵士たちが現れるが、続いて降り注いだ翡翠の光は木造の小屋や植物を焼いたらしい。上がった火の手に慌てふためき、周囲は騒然となった。
赤と黒の空で翼を広げる造り物の獅子は、まるで魔の存在だった。
『ありあノ敵、スベテ倒ス』
けれど無垢なほどの声で言うと、空を蹴って移動し、さらなる破壊の光を降り注ぎ始めた。
見ていることしかできずにいたセレスレーナはやっと我に返ると、周囲を見回し、城の出口に向けて走った。混乱した城の中で一人駆けている姿は非常に目立ったはずだが、それよりも人々は飛び回る獅子に目を奪われており、攻撃を受けないよう逃げ回っていたから構うことができなかったのだろう。
こうした城には正門の他に通用門が設けられている。案の定門が開けられ、使用人たちの避難が始まっているようだった。厩舎にも被害が出たらしく、馬を逃そうとする一団がやってきたので後尾につく。すると振り返り振り返りする人々が、ああっと声を上げた。
「主塔が崩れる」
翡翠色の光が塔を突き崩した。建物が崩れる轟音が響き、セレスレーナは立ち尽くした。
――燃え盛る炎の景色。今のそれがジェマリア城のあの夜に重なる。
胸の光は静かになっていたがまだ鼓動を打つように輝いている。誰の目にも映らないその光を隠すように胸を押さえたとき、視線を感じた。
影からすうっと現れたかのように、裾長の黒衣に帽子を被った男が立っていた。
男は自分の手のひらに乗せたものをセレスレーナに向け、にやりと笑った。《天空石》の計測器だと理解したときには手を掴まれ、その場から引きずり出されてしまった。
「逃がすものか。やっと捕まえたのに」
「翔空士……あなたがイクス王に危険な空船を売りつけた商人!?」
異世界を知らなければ口にすることがない単語の数々に、商人は感心したようだった。
「知識があるのはいいことだ。ええそうですよ。私が空船を売りました」
「翔空士の規則で異世界の文明を持ち込むことは禁じられているはず。何が目的なの!?」
「理由はいろいろありますが、一番はあなたです」
そこで言葉を止めた商人は、驚き様子を見守る人々に笑顔で語りかけた。
「王のご命令でこの方を探しておりまして。このまま私が連れて行きますからご心配なく」
うさんくさい男の言葉に反論する声はなく、気にかけながらも人々は背を向けて門をくぐっていく。聞こえたとしても彼らには訳が分からなかっただろうが、商人は声を潜めて囁いた。
「あなたの立太子の儀に参列しておりましたから、お顔はよく存じ上げております。ああ参列と言っては語弊がありますかね、あなたの想像もつかない便利な道具で一部始終を拝見させていただいておりました。ジェマリア王国のセレスレーナ殿下。驚きましたよ。まさか《天空石》の力を取り込むことができるなんて」
商人は笑ってはいない目でにこやかに、セレスレーナの秘密を知っていることを告げた。
「あまりに驚いたので僭越ながら調べさせていただきました。あなたの母親……ちょっと特殊な方のようですね?」
セレスレーナは感情を殺した。何度も心を揺らされてたまるものかと思っていた。
「あなたの母親レナグレースは行き倒れていたところをジェマリア王と王弟に助けられたとか。彼女は身元不明で記憶も曖昧、だがその比肩するもののない美貌と教養に惹かれた王は周囲の反対を押し切って結婚し、あなたが生まれた。あなたの儀式の失敗は王妃の不貞を疑うものもありましたが、一部では身元の不確かなことが理由に挙げられていたそうですね」
「……それがどうしたの。周知の事実だわ」
「ずばり言います。あなたの母親は異世界人ですね?」
――空へ行きなさい。
母の導きの声が指す空はあの青空だと思っていた。でもこの世界の外に世界があることを知っている今では、もしや世界をつなぐ『空』を指していたのではないかという疑問がもたげる。
「知らない。母はすでに亡くなった。真実を語れる人はもういない」
だがセレスレーナにとってはそれがすべてだった。母の出自は不確かだがそれでも父は母を愛し、母は短い時間だが自分を慈しんでくれた。異世界人だったとして何が違うだろう。
そう思うのに商人はセレスレーナを掴む手を強くした。
「あなたは自分の血に流れる重要性を分かっていない。あなたのその血が《天空石》の力を操り、獅子を動かしているのですよ。それに見たはずです、あの儀式のとき、あなたの前に現れた『空の妖精』を」
「ゼームス!」
ちっと商人が舌打ちした。サージェスが兵を連れて現れたのだ。
「よく捕まえてくれた! その女をこちらに寄越せ」
「これはこれは殿下。何やらおかしな態勢になっておりますが、どこかお怪我でも?」
腹部を押さえて身体を傾けていたサージェスは苦い顔になった。
「あの獅子にやられたんだ。お前、あんな不良品を売りつけて、どうするつもりだ?」
「どう、とは……あれは正しく機能しております。きちんと主人を守ろうとしている。発展の遅れた国で生まれ育った殿下にはお分かりにならないでしょうが」
かっと赤く染めたサージェスの顔は、商人が懐から取り出して放った銃撃に青くなった。
「何をする!」
「目的のものを手に入れたのでこれにて失礼させていただきます。せいぜい、この世界を壊してくださいませ」
商人の次の行動が読めた。
彼が自身の持つ銃を片手で操作し、セレスレーナに押し付けようとした。身体を痺れさせたあの雷撃が来ると判断したセレスレーナは、掴まれた腕を起点に大きく身体を振り上げると、頭上から踵を叩き込んだ。
だが裾が邪魔をして攻撃は頭ではなく肩に入る。どがっと鈍い音がして商人はよろめいた。
意識を失わせることはできなかったが、拘束は解かれた。取り落とした銃を拾うとそのまま門に向かって走る。
「待、うわあああっ!?」
狙いすましたかのように獅子が飛来し、光線を放つ。
『あり、あ、ノ敵。倒ス。倒ス。倒ス』
があんと凄まじい音がして塔が倒れ、粉塵と黒煙が立ち上らせた。大量のがれきがセレスレーナの来た道を塞ぎ、これ幸いとセレスレーナは逃げ出した。
しかし少しも行かないうちに足を止めた。
辺りは真っ赤に染まっている。炎の照り返しを受けた城内は罪人が行くという煉獄のようだ。
罰を受けたのだ、ざまをみろという気持ちはある。けれど。
(あいつらがしたのと同じことをしてしまったのではないか)
正しく機能して、主人を守ろうとしているとあの商人は言っていた。《天空石》に従っているのならあの城を破壊しているのはセレスレーナだ。
そう思うと不意に底知れない恐怖を感じた。
「……やめて」
懇願の言葉が漏れる。
「やめて! もういい……もういいから!」
目が痛いのは黒煙のせいだけではない。
戦を終えておきながら首都を攻撃されたことを恨まなかったわけではないけれど、自分の知らないところで煮え立つような怒りがあの獅子を突き動かしているのかと思うと恐ろしかった。
胸を押さえても光は消えない。呼びかけても心の収まらないことを示すかのように獅子が飛び、悲鳴が聞こえる。
ジェマリアの城が落ちる夜と同じだった。セレスレーナは無力感に苛まれて震えていた。
(どうすれば止められる。どうすれば。どうすればいい!?)
それでも諦めてはならないことだけは分かる。
宝物庫に入って死を待つように、すべてを投げ出すわけにはいかない。心にはあの獅子を止めたいという気持ちがある。サージェスたちに対する怒りとは別のところで、この一方的な蹂躙を止めたいと願う自分がちゃんといる。
手にあるのは拾った銃だけだ。使用者を見ているので使い方は分かっている、と思う。
(行こう)
そして走り出した。獅子の姿を見ながら、サージェスたちに捕まらないよう道無き道を踏み越え、繊細なドレスの裾を裂き、手足に傷を作りながら獅子に手が届く場所を探した。
そうしてたどり着いたのは城の外周にある物見塔だった。高さがあって城を一望できる。目立つ危険はあるが獅子に声が届くかもしれない。
物見のほとんどは消火に駆り出されたのだろう。屋上にたどり着くと様子を見守っていた兵士たちがぎょっとした顔でぼろぼろの格好をしたこちらに「何者だ」と誰何したが無視する。
兵士たちは顔を見合わせると逃げるように階段を駆け下りていった。衣服から高貴な人間と判断し、サージェスを探しに行ったのだろう。
熱せられた大気が風を生み、黒煙は大きく街の方へ流れている。燻された空気で何度か咳をしながら獅子を探した。
(いた!)
獲物を追い立てるように地上に向けて光を放ち、人々を追い立てているようだ。
守るという言葉とは裏腹に、獅子は狩りを楽しんでいた。その圧倒的な力に反撃されないことでますます嗜虐心を疼かせ、悲鳴を聞くのを喜んでいるように見える。
セレスレーナは銃を構えた。弓で的を狙うようにすればいい、心を落ち着かせるのだと言い聞かせる。
(今だ!)
引き金は軽かった。弓弦を引き絞ることを思えば小指で事足りるような感覚で、図った時機は外れてしまった。銃から放たれた白い光線は獅子の翼をかすめることなく消える。
そしてその光景をセレスレーナの背後で見ていた者がいた。
「賢いと言われていたお前も愚かな真似をするんだな」
サージェスだった。物見塔に追い詰めたことがよっぽど嬉しいらしい。
こちらに近付いてこようとするのでセレスレーナは問答無用で銃を撃った。
だが狙いが逸れて控えていた兵士に当たってしまう。白い光に弾かれたように兵士は目を回しどっと倒れこむ。サージェスは顔を引きつらせながら距離を取った。
「近付かないで。撃たれたくなければ全員下がりなさい」
言いながらも背後で飛んでいるであろう獅子を気にしなければならない。セレスレーナが心を乱せば獅子は塔を攻撃するだろう。その隙に近付こうとする兵士の足元に再び銃を撃った。
(扱いが難しい。狙いが定まらない)
あの気色の悪い痺れを受けて気を失い、ここに連れてこられたことを思うと、誤って撃ってしまった兵士が気がかりだった。だから緊急事態でない限り人に当てないようにしよう、そう思って足元を狙ったのに今度の光は小さく弱々しかった。
驚いて引き金を引くと、光が出ない。《半天石》の力が切れてしまったのだ。
「行け! 取り押さえろ!」
果敢に打って出るか、それとも唯一の退路でありながら負傷を免れ得ない背後へ飛ぶか。
(行くしかない!)
セレスレーナが銃を振りかざしながら地を蹴ろうとしたところへ、ひゅん! と空を切り裂いて鋭いものが兵士たちの前に突き刺さった。
ひゅん、ひゅん、ちいん! と三つ続けて放たれたのは銃による攻撃だ。
背後で風が起こり、懐かしい声がした。
「飛べ、レーナ!」
振り返ったセレスレーナは、淵に立っていたディフリートの手に誘われるがまま、ともに中空へ身を躍らせる。
それを白い光が包み込み、気が付けば、転送装置のある見知らぬ部屋に座り込んでいた。
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