第5章 奇襲

 目覚めてすぐに類は自室が半壊し、住める状態にない事。シンプルでこじんまりしたこの部屋がしばらく自室となることを知らされた。

 怪我の状態については全身に切り傷や打撲は見られるものの、骨には異常がないという事。

ルークは呆れたように、しかしどこか安心したように「あんまり過激な遊びはするな」と優しくベットに横たわったままの類の頭を撫でた。その大きな手に安心感を覚えたのは一瞬で、その先に見えた般若の様な恐ろしい顔をしたフリードを見つけてしまい、すぐに布団にもぐり込んだ。しかしそれも一瞬でバサッと乱暴にはぎとられる。咄嗟に抗おうと腕に力を入れたが、同時に突き抜けるような痛みが腕から肺へと伝わり、うめき声を上げながら丸くなった。

「無駄な抵抗をするからですよ。まったくあなたと言う人は……。いいですか、今後一切の魔術に関する本を読むことを禁じます。もちろん呪文を唱えてもいけません。それからしばらくは馬術や剣術、体術といった訓練も参加してはいけません」

「え!?」

「なんですかその反応は。骨に異常はないと言ってもあの術を使った影響でかなりの貧血状態になっていますし、過度な運動は危険ですから当たり前の処置でしょう。しかし安心してください。今後は余計なことを考える暇もないくらい課題を増やす予定ですから」

 キラキラと星が舞っていそうなほど綺麗な笑顔を向けられるが、類の身体には足先から頭の先まで鳥肌が立っていた。これほど恐ろしい笑顔はない。

「聞いていますか?もし今言ったことを破ればひどい目に合わせますからね」

「は、はい!わかりました……っ!」

「よろしい。とりあえず一週間は安静にしているのですよ。その後徐々に訓練を再開しましょう」

「わかった」

「では私たちは一旦部屋を離れますが、外に近衛兵をひとりつけておきますから何かあればその者に声をかけなさい。いいですね」

「はーい」

(自業自得だけど、しばらくはここに張り付けかぁ。身体も痛いし、なんにもしたくないけど、ただ寝てなきゃいけないってのも辛いな)

今回のことでフリードの自分に対する評価はどん底を突き抜けて奈落に落ちただろう。信頼を取り戻す――今まででどれくらいあったのかは不明だが、とにかく取り戻さなければいけない。それにこのままではまたケイトに離されてしまう。

ケイトは優秀だ。勉強も、剣術も馬術も呑み込みが早いと珍しく素直にフリードが褒めていたのを聞いた事がある。冗談なのか本気なのか――本気の可能性が高いが、ルークの騎士がケイトならばよかったとも言っていた。

盗み聞きのようになってしまったあの日、正直かなり落ち込んだ。

なにせ自分にはルークしか頼れる人物がいないのだ。毎日頑張っているのも、ルークの騎士にふさわしくなる為。自分自身の居場所を確立する為なのだ。

ケイトにそれを取られたら、自分に存在価値がなくなる。ここに居られなくなる。

そうなれば、人間ですらなくなった自分に居場所はない。

(だけど……人間じゃないのに、竜族としても不完全だ)

魔術で認められようとしても、逆に迷惑をかけて信頼を失った。

なにか、自分だけのものを手に入れないと。

ぎゅっと手を握りしめていると、大きな手がそっと添えられて手を開かせた。

同時に「ルイ」と声をかけられ、いつの間にか俯いていた顔を上げれば、優しく微笑むルークと目が合った。

「あまり落ち込むな。誰だって好奇心に負けるときはある。今回の事を教訓に、これから自制していけばいい」

「うん……。ありがとう。部屋、ぐちゃぐちゃにしてごめんな」

「いい。あれくらいすぐに直る。お前も早く身体を治せ」

最後にポンと頭を撫でて、ルークの手が離れていった。その手に縋りつきたくなったのは何故だか、自分でもわからなかった。







 あの日から4日が経った。

 相変わらず痣は痛むが、もう自由に動けるくらいには回復している。

 フリードの課題も徐々に増えた。

 しかしまだベットを離れる許可は出ていないので、相変わらず部屋にこもったままだ。昨日くらいから1日中ベットの上で教科書を読んで課題をこなすという日常が精神的にきつくなってきた。

 やはり人間身体を動かすことは精神の健康を保つという意味でも大事なのだと実感する。

(少し屋敷の中を散歩しよう)

 外に出るのはさすがに怒られそうだが、屋敷の中をリハビリがてら歩くくらいは許してもらえるだろう。

 思い立ったらすぐ行動。

 類はそっと自室の扉を開け、外を窺った。

「あれ?」

 先程まで扉の外に立っていた近衛兵がいない。

 丁度引継ぎのタイミングなのか、何かしらトラブルがあったのか、理由はわからないが、類にとっては最大のチャンスである。

(すぐ戻ればいいよな。どうかフリードにだけは見つかりませんように)

 祈りながら部屋を抜け出す。

 類の部屋はルークの執務室や私室がある棟から離れた位置にあるため、この辺りは普段から人通りが少ない。よほどのことがなければ見つかる可能性は低いはずだ。

 その予想は当たり、中庭が見える廊下まで順調に歩みを進めることができた。

 この廊下を進むと執務室がある棟にたどり着いてしまうので、ここで引き返さなければいけない。

 ここで少しだけ景色を楽しんでから戻ろうとそっと窓の外を覗き込んだ。

「あれ……ルーク、あんなところで何やってんだ?」

 噴水の向こう側、周囲を背の高い木々に囲まれた場所にルークが立っている。

 誰かと一緒にいるようだが、そちらは木々の葉が邪魔で誰かは特定できなかった。だが、不意に強い風が吹いて相手の姿を隠していた葉が一瞬だけ位置を変える。

「あの人……」

 以前にもルークと密会していた――確かアイリスと同じ聖ロナルド教会に属している――白いひげを蓄えた初老の男だ。前も今回も、人目を避けるようにして何を話しているのだろう。

「変だな」

「!?」

 廊下の向こうからフリードの声が聞こえ、反射的にしゃがみ込んだが、廊下の真ん中にいては意味がないと慌てて廊下の角まで走る。そこからそっと廊下を覗き込めば、やはりフリードが廊下をこちら側に歩いてくる。しかもなぜが隣にはアイリスの姿もあった。

 美男美女が並ぶとやはり絵になるなと見とれかけたが、二人の性格を知っているが故にすぐに冷や汗がつたってきた。

 どうにかばれないように部屋に戻らなければ。

 そろりと後ろに片足を動かしかけて、しかしアイリスの言葉に動きが止まる。

「――でしょう?やはりおかしいですわ。次の使いを選ばねばならない時期に来ているというのに何も動きがないなんて」

(使いって、なんだ?)

 好奇心が勝り、もう少しだけその場にとどまる事にした。

 まだ二人との距離は十分ある。もう少しここに居てもなんとか逃げられるだろう。

「……わたくしの知らないところで何かが動いている気配はあるのです。でもわたくしに何も知らされないなんて……。なんだかとても不気味ですわ」

「そうだな。この時期に決まっていないはずはないからな……。こちらでも調べておこう」

「ええ、お願いしますわ。なんだかとても嫌な予感がしていますの……」

「大丈夫だ。きっと、いつも通り終わる」

「そうですわよね。……いつも通りが良いというわけでもないのですが」

「わかっている。誰だって、本心では嫌なんだ。だが、犠牲がなければこの世界は成り立たない」

(犠牲……?一体あの二人は何の話をしているんだ?)

 あまり響きの良くない単語に、身体がこわばる。

 その意味を確かめたい気もするが、聞いたら後悔する気もする。

 類はそっと、できるだけ音を立てないように部屋へと引き返した。

(俺は、まだ何にもこの世界の事を知らないんだな……)

 不意に両親や友達の顔が脳裏を過った。

 もう二度と会えない人達。あの人たちに囲まれた生活は今に比べたらとても暖かく、居心地が良かった。

 こんな風に自分の価値を探し続けなくてもよかったからだ。

 竜族は完全実力主義。力のないものは容赦なく置いて行かれる。切り捨てられる。

 この世界で誰とも、なにとも確固とした繋がりのない類にとってはルークだけが唯一頼れる存在だ。けれど、ルークに必要とされている自信はない。

 未だにルークの腹心ともいえるフリードからは落第点をもらってばかり。さらに先日の失態。

 今の自分にはなんの価値もない。このままでは近いうちにルークにも愛想をつかされて捨てられてしまうのではないか。そうなればいよいよ居場所がなくなる。

 今こうして何不自由なく生活できているのはルークのおかげ。

 この姿では奇跡的に門を抜けられても、人間界で両親と暮らせる可能性は低い。

 両親は受け入れてくれると信じているが。

 けれど、世界中から研究対象にされることは間違いないだろう。

 研究所よりはここの方が良い。

 ここに居る為にはもっとこの世界を知って、ルークに見合うだけの強さや知識を手に入れなければいけない。

 でも、今の自分にはそれがない。

 今の場所を守るためにはいつまでも寝ているだけでは駄目だ。

 幸いにも身体の痛みは和らいでいる。

 簡単な鍛錬なら初めても問題はないだろう。

「よし。今日の分の課題はあと少しで終わるし、剣でも振ってくるか」

 本当は乗馬でもして気分を上げたいところだが、さすがにまだそこまでの回復はしていなさそうだったので諦める。

 部屋の前には相変わらず見張りはいない。

 今日は運がいいようだ。

 素早く部屋に入り、ジャージに着替えると、念のためベットに人がいるように見えるよう細工をして外へ飛び出す。もちろん映画のスパイのように慎重に。

 どうやらフリードたちは類に用事があったわけではないらしく、もうその姿は見えなかった。

 本当に今日は運がいい。

「おっと、さすがに正面から堂々と出て行くわけにはいかないか」

 確か裏庭に警備が手薄な抜け道があったはずだ。鍛錬場へは遠回りになるが、それならばそのまま真っすぐ突き進んで丘の上まで行こう。そこで木の枝でも振ればいい。

「臨機応変ってやつだな、ははっ!おっと」

 裏庭に出たところで思わず笑い声が漏れて、慌てて口を塞いだ。

 咄嗟にしゃがみ込んで植木の陰に身を隠す。その数秒後、見回りの兵が廊下に姿を現した。

「なんか声がしなかったか?」

「えー、訓練の声じゃないか?今日は近衛隊第一班がフリード様に鍛えられているらしいから」

「ひぇー!そりゃ怖い。最近機嫌よさそうだったのに、あの使用人が部屋をぶっ壊してから機嫌悪いもんな」

「だなー。でもあいつ、ルイだっけ?怪我で実技の授業ができないらしいから、しばらくはこっちがしごかれることになるな」

「あー、まじかよ。じゃあ早くルイには元気になってもらわないと。俺見舞いにいこうかな」

「やめとけやめとけ。見張り付きで部屋に閉じ込められているやつに簡単に会えるわけねぇし」

「それもそうか。じゃあお祈りだけしとくわ。早く良くなりますようにって」

「だな」

(何なんだ、あの会話。心配してるんだかしてないんだか)

 類は二人の姿が見えなくなり、完全に足音も聞こえなくなった頃、ようやく背中を伸ばした。

「にしても、やっぱりフリードって近衛隊のみんなからも怖がられてるんだな」

 それだけ実力があるということなのだろう。

 誰にでも尊敬され、恐れられる存在、地位。そこにたどり着くまでフリードはどれくらい努力したのだろうか。

 フリードは文字通り寝る間も惜しんで勉学や剣術に励んでいそうだ。

 勉強はもしかしたら教科書を3回読めばテストで満点を取れてしまうタイプかもしれないが、武術はやはりそうはいかないだろう。ということは少なくともあの地位に上り詰めるまで相当の努力をしているはずだ。

 士官学校に入る前、どのような勉強をしてどれくらい武術の稽古に励んだのか。聞いたら教えてくれるだろうか。

 それが類にとって参考になるかどうかは別だが、一度は聞いてみたい。

「でもまあ、とりあえず今は自主練に行かないとな!」

 周りを見渡し、視界に見回りの兵や庭師、使用人がいないことを確認して一気に駆け出した。若干骨がきしむような感覚がしたが、我慢できる程度の痛みだ。

 ここで躊躇えば抜け出すチャンスを失うという危機感もあり、類は全力で庭を駆け抜けた。

 裏庭側は見回りの兵が少ない分、高い壁に囲まれている。だが、一部、穴が開いている場所があるのだ。子供が一人通れるくらいの穴だ。子供でも体型の大きな竜族では無理だろうが、この世界で小学生扱いされたこともある細身の類ならばなんとか通る事が出来るはずだ。

 背の高い草をかき分けて、穴に頭から突っ込む。

「うっ……!よ……っと!よし抜けたあ!」

 何とも言えない達成感で思わず両手を突き上げる。

 このまま全部忘れて自由に慣れたらどんなにいいだろうと思う。だが、今自分がすべきことは生き残る可能性の低い自由を求めることではない。

 今の居場所を守るために自分を鍛える事だ。

「よっし、いくか!うりゃああ!」

 傾斜の緩い坂を全力で上る。当然整備などされていない山道は走りづらかったが、止まったら負けだと自分に言い聞かせて、一度も止まらず駆け上った。

「はぁ……はぁ……っ」

 さすがに息が切れる。

 それともベットに沈んでいたあのたった数日でここまで体力が落ちたのだろうか。

 多少は落ちているだろうと覚悟していたが、ここまでの疲労はこの世界に来て以来かもしれない。

 なんだかんだ毎日の鍛錬や筋トレは欠かさなかった。それなのにここ数日は筋トレさえもできなかった。

 それが響いているとしたら、まずい。ただでさえゼロからのスタートだと思っていたのに、これではマイナスからのスタートだ。考えただけでつらい。

 だが、取り戻すには鍛錬あるのみだ。

 すぐに下を向きそうになる気分を無理やり上向かせ、剣の代わりとなる木の枝を探す。

 できれば剣より少し重いほうがいいな。

 前かがみで下に落ちている木を見定めながら歩く。

ガサッ。

「ん?」

 かすかに聞こえた草を踏む音。

自分のものではない。

一瞬で緊張が全身を包んだ。

「誰か、いるのか?」

 ここはルークの敷地のすぐそばだ。もしかしたら何かの訓練をしていた兵かもしれない。

 そう思って声をかけたのだが、返事はない。

 気のせいかとも思ったが、確かに誰かがいる気配がする。

「そこに、いるよな?姿を見せてくれると嬉しいなぁ、なんて……って、人間!?」

 恐る恐る覗き込んだ木々の先、片膝を立てて身を潜めていた人物に思わず二度見してしまう。

 そこにいた人物は肌が白く、髪は黒い。耳は丸く、まさに人間の姿形をしていたからだ。

「嘘だろ!?人間!お前も時空の歪みに落ちた――ってわああ!」

「はあああっ!」

「うをおっ!」

 間一髪振り下ろされた剣を避けた。

 前髪が数本切り取られたが、なんとか首は無事だ。

「ちょ、待って、状況が理解できない!なんで急に切りかかってくるんだよ!」

「人間と見ればすぐに殺す竜族が何を言う!」

「うわあっ!」

 ザッ!

 再び振り下ろされた剣を鍛え上げられた反射神経で避ける。

 これだけは衰えていなくて本当によかった。

 でなければ今の二振りで胴と頭が切り離されていたかもしれない。

「ちょっと落ち着けって!俺に敵意はない!ほら、剣も持ってないし!」

「だとしても仲間を呼ばれれば厄介だ。ここで仕留める!はあっ!」

「ま、待って!うわあっ!」

「くっ!すばしっこい奴め!はあ!」

「うわっ!だから!お、落ち着けって!仲間なんて呼ばねぇし!」

「信じられるか!」

「もっと信じられない事言うけど、俺もと人間だから!」

「……なんだと?」

 次の攻撃を繰り出そうとしていた男の手が止まった。

 ほっと息をついて、チャンスとばかりに類は身の上を語って聞かせた。

 高校の入学式初日に時空の歪みに落ち、生きるか死ぬかを選ぶことになり、生きるために竜族になったのだと。

「信じられないな……」

「俺もそう思うけど、本当なんだって!ほら、この身長だって人間サイズだし!」

「……確かに、竜族であれば小学生くらいだ」

「だろ……」

 身長で納得されるのが少し悲しい。竜族が規格外すぎるのだ。

「しかし、竜族の血を飲むと竜族になるなんて知らなかったな……。生きるためとはいえつらかっただろう」

「……あ」

 目を細め、憐れんでいるように、しかし優しく微笑む男。

 彼の言葉に、類は鼻の奥がツンとするのを感じた。

「……つらかったです。つらかった……っ!」

「……そうだろうな。君はまだ高校生だ。親元で庇護を受ける歳で一人こんな世界に落とされて、しかも人間でなくなるなど、俺でも耐えられるかどうか……。君はよく頑張った。よしよし」

「っ……うぅ……っ」

 人間らしい柔らかく、温かい手が頭を撫でる。

 その手に促されるように、嗚咽と共に涙が零れ落ちて行った。

「俺も、この世界に来た時は絶望したよ。幸い、同じような仲間に出会えたから、今まで何とかなっているが……」

「仲間?えっと、あなたの他にもまだ人間がいるのか?」

「ああ。そうだ、名を名乗っていなかったな。俺は新藤達也。君は?」

「俺は……吉沢類」

「では、類くんと呼ぼう。俺のことも達也と気軽に呼んでくれ。この世界の人間はみんな仲間だからな」

「はいっ!達也さん!」

「ははっ。よかった、少しは元気が出たようだな」

「あ、すみません。いきなり泣いてしまって……」

 いい歳した男が人前で泣くなんて恥かしいことをした。

 類は誤魔化すように両目を強く擦り、頬もふいて涙の痕跡を消す。

「気にしなくていい。それより類はあちらから走ってきたようだが、あちらは確かアルシード公爵の屋敷だろう。なぜ公爵の屋敷から?」

「アルシード公爵?ってルークのことだよな。あいつ公爵だったのか」

 詳しいことはわからないが、かなりの地位であることはわかる。

 やたら広い敷地を持つのも、近衛隊がいるのも納得した。

「ルーク?類は公爵をそう呼べるほどの仲なのか?」

「うん。まあ、一応ルークに保護されてるから。竜族になるために血を分けてくれたのもあいつだし。今はあいつが親代わりみたいなもんだよ」

「……そうか。しかし公爵の保護を受けている者がこんなところに一人でいていいのか?」

「う、それは……」

「はは、黙って抜け出してきたんだな。まだまだ若い。でも、早く戻った方が良い。現状類が生きていくためには公爵の庇護が必要だ。怒りを買っては大変だからな」

「うん……」

(怒り爆発で俺を放り出しそうなのは確実にフリードだけどな……)

 脳裏に氷の様な笑みで魔術を放つフリードの姿がよぎり、ぶるっと身体が震えた。

 それを何か勘違いしたのか、達也は「ほら、早く戻った方が良い」と背中を優しく押してくる。

「でも、せっかく人間に会えたのに……」

「それならまた会おう。そうだな……、4日後の午後16時。そのくらいの時間にまたここへ来られるか?その時ならまた俺もこのあたりにいるから」

「大丈夫だ!絶対その時間にここに来る!そしたらまたいろいろ話そう!」

「ああ。そうだな。楽しみにしているよ。さ、屋敷の者にバレないうちに戻るんだ。バレれば再び抜け出すのは難しいぞ」

「あ、そうだよな。わかった。じゃあ、またな達也さん!」

「ああ。また」

 片手を軽く上げ手を振ってくれるのに、振り返し、類は再び坂を駆け下りる。

 その表情は今日の空模様のように清々しく晴れていた。







「ふふふ~ん、ふ~ん……」

「ル、ルイ。今日は、なんだかとても機嫌がいいみたいだね。久しぶりの講義がそんなに嬉しいの……?」

「え?」

「あの、だってさっきからずっと鼻歌うたってるから」

「嘘?そうだったか?」

「うん。いつも講義の前は暗い顔してるのに、珍しいなって、思ってた」

「ああ、確かにそうかも」

 あの日、裏の丘で達也に会ったあの日は誰にも見つかることなく無事に自室に戻る事が出来た。

 そして今日はまた達也に会える日だ。

 課題も先にすべて終わらせたし、この講義が終われば自習の時間が出来る。

 その時間に会いに行こうと思っていた。

 この世界で人間に会えるというのは特別だ。

 達也も言っていたが、この世界で会えたというだけでもう仲間と思えるくらいには。

 なにせこの世界、特に竜族は人間への恨みが強い。

 見つかれば殺される。

 しかし人間界へ帰る方法は、また時空の歪みに落ちない限りはない。

 生き残るためには助け合って生きていかなければならないのだ。

 それに、達也は竜族の血を飲んでいない。

 人間の姿で生きていくには類の想像を超える大変さがあるはずだ。

 見た目は竜族となっている自分なら、なにかしてあげられることもあるかもしれない。

 今日は昨日近衛隊のマックスから新鮮な桃を3つも分けてもらった。それを2つ達也にあげるつもりだ。

 その時にどうやって生活しているのかも聞こうと思う。

 もし食べ物に苦労しているようなら、日持ちのする食料を定期的に届けてあげよう。

 それでいつか、みんなで人間界に戻れたらいい。

 失われていたはずの希望が再び類の中で光を放ち始めていた。

「あ、また笑ってる。そんなに謹慎処分がつらかったの?」

「え、謹慎処分?」

「うん。ルイはフリードの言いつけを破ったから謹慎処分を受けてたって聞いたよ」

「ああ……」

(外では俺が休んでた理由、そうなってるんだ)

 あれほど大きな騒動が起きていたというのに、情報操作が行き届いている。

 それだけフリードやルークの統括力がすごいのだろう。

(まあ、究極呪文ぶっぱなしたなんて言えないよな。失敗してるし)

「あの、一週間も謹慎処分って一体何したの?言いたくないなら、良いけど……」

「え、ええと、その……」

「聞くだけ無駄ですよ。本当に私の言いつけを破ったというくだらない理由ですから」

「げっ、フリード!」

「げ、とは何ですか。さあ姿勢を正しなさい。今日は久しぶりに二人そろっての講義ですからね。まずは現在の知識量を知るために、テストから始めましょうか」

 にこりと一見天使の様な微笑でフリードが爆弾を投下してきた。

 さすがのケイトも横で固まっている。

「ちょ、それはないよフリード!」

「何がですか。休み明けはきちんと課題をこなし、その知識が身についているか確認するのが指導者の役目でしょう。それ次第で今後の対策も変わってきますからね」

「いや、でも……」

「問題用紙はこちらです。制限時間は1時間。簡単な復讐内容ですから9割を下回った場合、追試+課題増量ですからね。はい、はじめ」

「ちっともこっちの話聞いてない!しかも9割って無理!」

「ル、ルイ。とにかく頑張ろう、ね」

 ケイトがチラチラとフリードの方に視線を向けながら少しだけ怯えたような声を出した。

 その視線に導かれるようにフリードを見上げれば、透き通った紫色の瞳と目が合った。

 ゾッ。

 得体の知れない恐怖が全身に鳥肌を立てる。

「……そうだな」

 今のは見なかったことにして、視線をゆっくりと机に戻した。

 どうせ抗議したところでこちらの要求が受け入れられることはないのだ。

 類は先程までとは打って変わって重いため息を一つこぼすと、大人しく問題用紙を捲った。

(てかこれ何問あるんだよ。問題用紙。厚さが1センチはあるぞ。1時間で終わるのか?)

 そんな事も思ったが、終わらなければ終わらないで容赦なく点数を削るんだろう。

 そうなれば9割など絶望的だ。

 その先の恐ろしいペナルティを想像して、類は少し震えた。







「はは、そんなことがあったのか。類は想像以上にハードな環境にいるんだな」

 自分についている教育係がどれだけ厳しいか話して聞かせると、達也は心底楽しそうに声に出して笑った。

 だが類はぎゃくに頬を膨らませて抗議している。

「笑い事じゃないよー……。生きていくためとは言ってもハード過ぎるって……」

「だがそれをこなせばやがてはエリートと呼ばれる近衛隊に入隊することも可能なんだろう。竜族としての地位を確立できるじゃないか」

「それって嫌味……?俺、できるなら人間界に戻りたいんだけど」

「……そうだな。なんとかしてゲートをくぐれればいいんだが」

「うん。でもさすがにあのメインゲートをくぐるのは無理だよな」

「ああ。なんとかチャンスが来るまで生き残っていくしかない。だから類、つらくても頑張るんだ。上り詰めれば、権力も持てる。そうすればゲートに近づくチャンスもくるかもしれない」

「あ、そうか。そうだよな。俺、目の前のことに必死で、そこまで考えてなかった」

 ゲートを守っていたのは兵だった。

 達也の言う通り上り詰め、ルークの騎士としてふさわしい力をつければゲートに近づくのは簡単だ。

 そうすれば、最低でも達也やその仲間を人間界へ帰してやれる。

「……俺、頑張るよ。時間はかかるかもしれないけど、ここで力をつけてみんなを絶対に人間界へ戻す」

「ありがとう。だけど、無理はするな。身体を壊せば、元も子もないからな」

 そう言って達也は類の頭をそっと撫でる。

 子供扱いも何故だか達也からなら気にならなかった。

「そにしても類はいつもどうやってあの警備の中を抜けてきてるんだ?入るのも出るのも大変だろう」

「うん。普通に突破しようと思ったら絶対無理だと思うよ。でも裏庭の壁に小さな穴が空いてるんだ。竜族なら小学生じゃないと無理だろうけど、俺は自分で言うのもあれだけど、その小さいほうだから」

「なるほど。そこから出入りしているんだな。通りでいつも頭に埃がついていると思った」

「え?」

 慌てて頭を払う。

 気にしていなかったがあれだけギリギリの穴を抜ければ頭にゴミがついていて当たり前だ。そんな類を見た達也がふっと笑う。

「さっき払ったからもうついていないよ」

「さっき……あ」

(もしかしていつも頭を撫でてくれるのって、ゴミを払う為だったのか?)

 どこまでも子供の様な自分に、顔が赤くなるのを感じた。

「……類はわかりやすいな。その素直さで足をすくわれないようにな」

「え、うん。気を付けるよ。まあ誰も俺の足をすくおうなんて思わないだろうけど」

「……そうかな。なんにせよ他人の心は誰も読めない。気を付ける事だ」

「…う、うん」

(なんだ?なんだか一瞬達也さんの空気が変わったような気が……)

「類はまだまだ幼い。人間界の親御さんに代わって、しっかり見といてやらないとな」

 暗い色を宿したように見えた瞳は瞬き一つでまた優しい色に戻った。

 達也さんの微笑は本当に優しくて、ほっとする。

「俺にはなんでも話してくれていいからな。つらい事、楽しい事。たくさんの思い出を共有させてもらえたら嬉しい」

「ありがとう。俺も、もっと達也さんの話を聞きたい」

「そうか。ならたくさん話そう。また、抜け出して来てくれるか?」

「もちろん!時間は限られるけど、大丈夫だ」

「わかった。もし抜け出しやすい時間があれば言ってくれ。できるだけそっちに合わせるから」

「ありがとう。時間だと、夕方の方が抜け出しやすいかな。俺も自習時間ってことが多いし、何より18時くらいに警備が交代するから、抜け出しやすいんだ」

「……そうか。ならその時間に合わせるよ。あんまり頻繁だとバレてしまうかもしれないから週に一度でどうだ?」

「うん。それでいい」

「よし決まりだ。じゃあまた一週間後に会おう」

「うん。あ、そうだ。今日はこれも渡そうと思ってたんだ。はい、桃」

 腰に下げていた皮のバックからクッション材に包まれた桃を二つ差し出す。

「こんな立派なものをもらってもいいのか?」

「うん。たくさんもらったからおすそわけだ。他にもなにか必要なものがあったらいってくれよな。俺に用意できるものならなんでも用意するから」

「はは、ありがとう。今のところはないが、なにか必要になったら声をかけるよ」

「うん。俺も達也さんの役に立ちたいからな」

「ありがとう。君みたいないい子に出会えてよかったよ」

「いい子はさすがに照れる、かな」

 そこまで子供扱いされるとさすがに恥ずかしい。

 思わずうつむいた頭上でまた達也の笑う声がした。








(よしよし。今日も誰にも見つからずに部屋までたどり着けそうだな)

 ジャージ姿で首にタオルをかけ、運動をしてきたという偽装が功を奏したのか、正面玄関から堂々と戻ってきたというのに誰も怪しんでいる様子はない。

 自身の作戦が成功していると知り、気分を良くした類は軽い足取りで別棟へと向かう。

 別棟へつながる廊下を渡れば、一気に人の気配が減った。

 これでもう安心だ。

 ほっと息を吐き、自室のドアノブに手をかけた時「ルイ」と背後から名を呼ばれ、大げさな程肩が揺れた。

 しかもその声の主は今一番会いたくなかった相手だ。

 このまま部屋に逃げ込みたいが、それでは不審感を募らせるだけだと言い聞かせ、軽く深呼吸してから振り返る。

 やはりそこにいたのはフリードだった。

 今は親衛隊長としての仕事をこなしているはずのフリードが何故ここにいるのか。

 その静かな表情と相まって、底知れぬ恐怖が類を襲う。

(まさか、達也さんに会っていたのがバレた?)

 緊張で顔がこわばっているのを感じながらもなんとか「何か用?」という一言を紡ぐ事には成功した。

 だが自分でもわかるほどに声が固い。

(これじゃあ駄目だ。もっとリラックスしろ。バレるぞ!)

 ただでさえフリードは鋭い。例え今はバレていなかったとしても、わずかな表情の変化から何かを隠しているということは読み取られてしまう。

 だが類は彼と駆け引きできるほど出来た人間ではなかった。

 今はただフリードが一秒でも早くこの場を去ってくれることを祈るだけだ。

「私としたことが明日までの課題を渡し忘れていたので届けに来たのですよ」

 そう言って2センチはあろうかという紙の束を渡される。

 わざわざ届けに来てくれたことに礼を言って受け取れば用は終わりかと思ったが、フリードは相変わらずその場にとどまっていた。

「あの、まだ何か……」

「いえ。この自習時間に課題をやっていないのは珍しいと思いまして。しかし鍛錬場や馬術場でも姿を見かけなかったのに運動をした後の様です。一体どこで運動を?」

「あ、ええと、ただ屋敷の回りを適当に走っていただけだけど……」

「そうですか。それにしては息も乱れていないし、汗の量も少ないようですね」

「そ、そうかな。きっと俺も身体能力が上がってるんだよ。ははは」

「…………」

 なんとか笑って誤魔化したが、フリードはその澄んだ紫の瞳でじっと類を見つめている。

 まるでその表情から思考を読み取ろうとしているかのように。

 その視線を感じて、急に周りの空気が薄くなったのではないかと錯覚するくらい息苦しくなった。

いつまで沈黙が続くのだろう。

限界が近づいたその時、ようやくフリードが言葉を発した。

「ひとつだけ聞かせていただきたいのですが、あなたは本当に外周を走ってきたのですか?」

「そ、そうだけど」

「外周とは屋敷側のですね?」

「う、うん」

「そうですか」

 相変わらず、フリードの瞳ははまっすぐに類を捉えている。

 ゆっくりと、しかし大きく脈打つ心臓。

 このままでは本当に呼吸困難で倒れそうだ。

 フリードは明らかに何かを疑っている。

「あの、何かまずかったか?」

「いえ。ただ外周はあまりすすめませんね。あなたの様な子犬を狙う不逞の輩がいないとも限りませんしね」

「そ、そうだよな。気をつけるよ」

「ええ、そうしてください。まあ外の警備は見直す予定ですが、念の為」

「え?警備、見直すのか?」

「ええ。どうやら警備が不十分のようですからね」

「俺にはよくわからないけど、その、なんでそう思ったんだ?」

 一拍の間。

 そして。

「――お前から人間の臭いがするんだ。これはお前の臭いじゃない」

「――っ!」

 ぐっとフリードの顔が近づく。

 至近距離で見つめられ、息が止まった。

「どこかで人間にあったか」

(これは、まずい。敬語じゃなくなったフリードは、本気だ)

 一瞬でも気を抜けば、このまま息の根を止められる。

(震えるな、呼吸をしろ……。誤魔化すんだ)

 努めてゆっくり思考を巡らせて、心を落ち着かせる。

 それでも指先が震えていたが、気づかれてしまっただろうか。

「人間になんて、会うわけないだろ。ここ、獣界だぞ。人間が生きていけるわけ、ないって」

「ええ。その通りです。ですから、直接会っていなくともこの屋敷の周辺に人間が隠れ住んでいるという可能性も出てくるのですよ。そしてそれは警備の目をかいくぐり続けている」

「……」

「これで警備の見直しの理由はご理解いただけましたね。では私はその事も含めやる事が山積みですのでこれで」

「あ、ああ。じゃあ、またな」

「はい」

 コツコツと靴音を立ててフリードが去っていく。

 その背中が見えなくなるまで、類はその場を一歩も動くことができなかった。







 フリードにバレる恐怖はあるが、一週間後また類は丘の上に来ていた。

 まだ達也は来ていないようだ。 

 いつも肩を並べて座る切り株のもとに歩みを進めると、不意に木々の間に茶色く変色したものが見えた。

「あれ、これって……」

 丸いものがふたつ。両方とも崩れ、茶色く変色しているが、かすかに香る匂いから桃であることがわかる。

 これは一週間前、達也に渡したものではなかったか。

 達也は食べなかったのか。それとも何らかの理由で食べられなかったのか。

 なんにしてもあの美味しい桃がこんな姿になっているのを見るのはつらかった。

「嫌いだったのかな……」

 それならそうと言ってくれれば持ち帰ったのに。

 そんな事を考えながら切り株に腰を下ろすと、草を踏む音が聞こえてきた。

 振り返れば、案の定木の陰から達也が姿を現す。

「やあ。無事に今日も抜け出してこられたようだな」

「うん。なんとかね。でも次はどうかわからないな。警備が見直されて、この辺りの警備も厳しくなるみたいだから」

「そうなのか?」

 驚いたような表情の達也が隣に座る。

「うん。なんか警備の指示をしてる人が少し怪しんでいるみたいで……。警備が強化されたら週一で会うのも難しいかもしれない。達也さんが見つかる危険性も増すし」

「……そうだな。残念だが、仕方がない。一か月に一度にしようか」

「うん。見つかったらやばいからな。それがいいと思う」

「ああ。でも情報を貰って助かったよ。知らなければ、あっけなく見つかって殺されていただろうからな」

「そう、だな」

 殺されていた、そんな重い言葉を達也は笑いながら口にしている。

 回避できた喜びなのかもしれないが、実際に死の恐怖を味わったことのある類にはその表情が異常なもののように思えた。

 この世界は本当に人間に優しくない。

 それを日々感じているからなのかもしれないが。

 それでも今の達也の表情にはいつもとは違う何かを感じた。

 だからなのか。

「……あの、達也さん。この前あげた桃、美味しかった?」

 別に言おうとは思っていなかったのに、自然と達也を探るような質問が口から出てしまった。

 だが達也は類の心情を知ってか知らずか、瞬きを一つすると類に向き直り微笑んだ。

「ああ、あの桃か。美味しくいただいたよ。ありがとう」

 ついこの間まで優しい微笑だなと思っていたそれも、何故だか今は作り物のように思えて仕方がなかった。

 二人の間に微妙な沈黙が落ちた時、離れた場所で草を踏む音が複数聞こえた。

 瞬間、達也の目が恐ろしいくらいに鋭いものに変わった。

「達也さん……?」

「しっ!どうやら竜族が嗅ぎつけて来たらしい。彼らは嗅覚が鋭いからね。風に乗った臭いを辿ってきているんだろう。俺はもう行く。類も早く戻るんだ、いいね」

「あ!達也さ――」

 止める間もなく、達也は走り去っていた。だが不思議とその足音は聞こえなかった。

(一体、何者なんだ……)

 長年竜族の世界で生きてきたせいなのか、達也はたまに忍者のような機敏さを見せるときがある。気配もわかりにくい。

 普通の人間が竜族の世界に落とされたからと言って、あそこまで研ぎ澄まされた感覚や運動能力を身に着けることが可能なのだろうか。

「――どうだ?」

「いや。急に臭いが薄れたようだ。気づかれたかもしれない」

「ああ。そうだな。もう少し探してから戻ろう」

 聞こえる声と足音が確実に近づいている。

 自身もいつまでもぼーっとしているわけにはいかないと、類も慌てて斜面を駆け下りた。

 達也とは違い多少の音は出てしまうが、このまま逃げ切れば問題はない。

 服の汚れも気にせず、転がる勢いで駆け下るとあっという間に敷地を仕切る壁までたどり着いた。

 ここまでくればもう安心だ。

 ふぅーっと息を吐き出して身をかがめると、穴をくぐり抜けた。

 しかしその先に見えた上質な白い布にどきりと心臓が大きく高鳴り、類の身体の動きを止めた。

 それは間違いなく近衛隊のもの。

 恐る恐る視線を上に上げれば、まったくの無表情でフリードがこちらを見下ろしていた。

 その目を見た瞬間、身体が真冬の草原に素っ裸で放り出されたかのように大きく震え出す。

「詳しいことは、部屋で聞かせてもらおうか」

「うわっ!ちょ、痛い!そんなに引っ張らなくても逃げないって!」

 四つん這いの状態で固まっていた類を片手で引っ張り起こしたフリードは類の腕を掴んだまま屋敷の方へと歩き出す。

 掴まれている部分にフリードの指が食い込んでいて、このまま骨を折られるのではないかと思うほどだ。

 だがフリードは前を向いたまま一言も発しないまま、類を仮の自室へと連れ帰った。

 そして部屋の扉を閉めた瞬間に類を乱暴に放り投げる。

 ドンッ。

「痛っ!」

 受け身も取れず、肩を強打した。

 いつもならここで「情けない、受け身も取れないとは」という嫌味のひとつでも飛んできそうなのだが、今日はそれもない。

 フリードは本気で怒っている。

 また類の震えが大きくなった。

「お前、嘘を吐いたな」

「……な、なんのこと」

「今さらとぼけるな。まさかと思って監視していたが、本当に人間と会っているとは」

「な、なんだよ監視って……。そんなに俺は信用なかったのかよ……!」

「実際嘘を吐いただろう。失った信頼を取り戻すために課題や鍛錬に励んでいると思って感心してた俺が馬鹿だった。いや、初めから信頼を寄せることが間違っていたのだ。どれだけ姿形が竜族に似ようとも、お前は所詮人間だ」

「……っ!あ、当たり前だろ!俺は、ずっと人間として育ってきたんだ!急にひとりになって、そこで同じ人間に会ったら嬉しくなって当たり前――っ!」

「黙れ!」

「うっ!」

 上半身だけを起こして反論していた類の肩をフリードが容赦なく足で蹴りつけた。

 そのまま片足で肩を押さえつけられ、身動きが取れなくなる。

「お前は騎士としての自覚が本当に足りない。ルークの騎士としてふさわしくない。あの丘に住み着いている人間と共に始末してやる」

「――っ」

 ぞっとするくらい低い声に、死という文字が頭をよぎる。

 このままでは本当に殺されてしまう。

 嫌だ。死にたくない。

そう思っても類がフリードを振り切って逃げきれる可能性などゼロだ。

現実を拒絶するようにぎゅっと目を閉じた時。

「何をしている?」

「ルーク」

 フリードと類の声が重なった。

 二人の視線の先には少しだけ困惑した表情のルークが立っていた。

「とりあえず足をどけろマークス」

「だが――」

「どけろと言ったのが聞こえなかったか」

「……はい」

 一度は抗う姿勢を見せたフリードも僅かに口調を強めたルークに感じるものがあったのか、今度は素直に足をどける。

 入れ替わりで近づいてきたルークが「大丈夫か」と手を差し出し、優しく立たせてくれた。

「一体どうしてこんな状況になったんだ」

「報告した通りです。この者はあろうことか人間と密会しておりました」

「それは聞いたが、別に密会していたからといって何か重要な情報を渡していたわけではないのだから、いいだろう」

「確かにそいつは大して情報を持ってはいませんが、屋敷の見取り図くらいは作れますよ。それに警備状況も把握しています」

「だが、それを知ったところでここを攻める程人間側に人数がいるとは思えない。同郷に会って嬉しかったというのは本当だろう。許してやれ」

「あなたは甘い!やはり人間は信用できません。即刻殺すべきです」

「マークス。血の誓いは絶対だ。ルイは生涯俺と共にある」

「ですが、このまま何の咎めもないままでは――」

「わかっている。ルイ」

 フリードと向き合っていたルークが類に向き直る。

 その声は優しい。

 けれど、この状況ではまったく安心できなかった。

 判決を待つ被告人のような気分で、類はルークを見上げる。

「お前は一週間謹慎処分だ。部屋から一歩も出ることを禁じる」

「え……それだけ?」

「ああ。同じ人間に会って、どう感じたか、想像するのは容易い。それゆえの行動を責めることはできない。この処分はあくまで建前だ」

「ルーク……ありがとう」

 横からフリードの心底呆れたような大きなため息が聞こえたが、ルークは聞こえないふりをすることに決めたようだ。

「まったく、本当に甘いんですから。課題の増量くらいはさせてもらいますからね!」

 不機嫌さを微塵も隠さない声色で言い放ったフリードは、そのまま荒々しい足音を立てて部屋を出て行った。

 その背を見送ったルークは、再び類に向き直ると「気にすることはない」と優しく声をかけた。

「お前が裏切りなどしないことはマークスだってわかっている。ただあいつは人間嫌いだからな。勝手に裏切られた気になって自己嫌悪に襲われているんだ」

「うん、わかってるよ。フリードなら俺を殺そうと思えば一瞬で殺せる。だけどそうはしなかったから」

「わかっているならいい。お前たちが仲違いするのは堪えるからな」

「……うん。今回は俺が悪かったし、今度ちゃんと謝るよ」

「ああ。時間をおけばマークスも落ちつく。謹慎が明けたらちゃんと謝るんだ」

「わかった」

 その言葉に頷くと、ルークは類の頭にポンと一度手を乗せ、静かに部屋を出て行った。

 先程とは打って変わって静まり返った部屋にぽつんと立たずみながら、窓の外に視線を向ける。

 いつの間にか空もどんよりと曇り出していた。









 ドオオオオオンッ!

「な、なんだ!?」

 フリードから手ひどいお叱りを受けたその夜。

 さすがの類も落ち込み、眠れずに小さな明かりだけをつけて課題をこなしていた。

 集中して問題を解いていた時、唐突に大きな爆発音が響き渡った。

 窓ガラスも音を立てて揺れるほどの衝撃に思わず立ち上がり、窓に駆け寄る。

 すると表門の方からオレンジ色の火が上がっているのが見えた。

「なにかの訓練か?」

 だがすぐに多くの近衛兵が門の方へ走り出すのを目撃し、自分の推測が間違っていたことがわかる。

 では一体何が起こっているというのか。

 状況把握ができないまま立ち尽くしていると、また大きな爆発が起こった。

 今度は門より内側に見える。

(屋敷に近づいてきてるのか?)

 耳を澄ませばかすかに兵たちの怒号も聞こえる。

 良くないことが起こっている。

 それは間違いなさそうだ。

 類は踵を返すと、廊下へとつながる扉に手をかけた。

 この向こうには例の如くフリードがつけた監視役がいる――今夜は確かマックスだった。

彼に聞けば、何かわかるかもしれないし、最低でもどうすればいいのかアドバイスが貰えるはずだ。

 だが、扉を開く前に再び爆発。

 今度はこの別棟のようだ。

 衝撃で身体が揺れ、倒れないように慌てて扉に寄り掛かった。

「一体、なんなんだ――」

「なんだお前たちは!?どこから入ってきた!」

「え?」

 扉の向こうでマックスが叫んだ。直後、刀がぶつかり合う音が連続して響く。

(戦ってる!?まさか、そんな……)

 非現実的な音に身体が硬直する。

 こんな時の対処法はフリードから習っていなかった。

 しかもここには剣もない。

 自分に出来る事はなんだ。

 一般人相手なら体術も通用するだろうが、プロであるマックスが苦戦しているのだ。

 自分は足手まといにならないよう気配を消しているのが正解だろう。

 そう思っていたのに。

「ぐあああっ!」

 マックスの悲鳴を聞いた瞬間、飛び出していた。

「マックス!!」

 血まみれのマックスが倒れている。

 慌てて抱き起すと「馬鹿っ、俺にかまってないで、逃げろ……!」と肩を押される。

 その力の弱さから深刻なダメージを負っていることが分かった。

「一体誰がこんなことを――」

「俺だよ」

「え――」

 明かりのない闇の向こうから誰かが一歩、明かりの方へ進み出て来た。

 徐々に姿が闇から現れる。

 優しげな微笑。まるい耳。白い肌。

 間違いなく新藤達也、その人だった。

「……どうして、ここに」

「はは、君を助けに来たんだよ。さあ、おいで。公爵を殺し、共に逃げよう」

「……ルイ、まさか、お前……」

「違う……!」

 腕の中で困惑したような声で名を呼ぶマックスに思い切り首を振る。

「俺は何も知らない!俺はルークを裏切ってなんかいない!」

「そうか。類はやはりそちら側なんだな。残念だよ。でも君は役に立ってくれた。純真無垢で世間知らず、情報を引き出すのは容易かったよ」

「どういう、意味だ」

「警備体制は世間話の中でも十分探れた。俺はね、類。君と違って自らこちらの世界に来たんだよ。竜族を掌握するためにね」

「なん、だと……。人間が、竜族を従わせようと言うのか……!そんなことは、無理に決まってる!」

「マックス!」

 ボロボロの身体でそれでも立ち上がって剣を構えるマックスを見て鼻で笑う達也。

「竜族といえども魔術を使われなければそれ程恐れる存在でもない。今夜、ルーク王子の命は貰っていく」

「そうは、させるか!!」

「マックス!無理だ!」

 しかし類の声も聞かずマックスは達也に切りかかる。

 だがあっけなく受け流され、達也の日本刀がマックスの腹を切り裂いた。

 傷口から血が吹き出して、スローモーションのように倒れるマックス。

「マックス!」

 駆け寄ろうとした類の目前に血に濡れた日本刀が突きつけられる。

「人間でもなく竜族にもなれない哀れな類。ここで君も眠りにつかせてやる。だが安心しろ。元同族として痛みもなく一瞬で終わらせてやる」

「達也さん……」

「うっ……、に、げろ……」

「マックス!」

(まだ生きてる。まだ助けられる。助けないと――!)

「はぁ……はぁ……!」

 呼吸が苦しい。

 うまく息ができない。

「ル、イ……」

 弱々しくマックスが名を呼ぶ声がした。

 もう時間がない。

「チッ!しぶとい男だな。これで息の根を止めてやる!」

「っ、やめろ!!」

 咄嗟に振り上げられた達也の手に飛びついた。だがすぐに振り払われて情けなく床に転がる。

「邪魔をするな!お前はこいつを始末した後だ!」

「ルイ!」

 再び達也の腕が振り上げられた時、二つの声が同時に類を呼んだ。

 廊下の向こうにオレンジ色の明かりが差し込み、その中にルークとフリードの姿。

 二人とも目を見開いている。

 普段なら珍しいなと思ったのかもしれないが、すぐに意識は日本刀に向けられる。

 あの距離からでは二人に達也は止められない。

 自分しか、マックスを助けられない。

 そう思った瞬間、視界が白く染まる。

「やめろ!ルイ!」

焦ったようなルークの声が白い空間に響き、次の瞬間には大きな爆発音と共に熱風が類を襲っていた。

爆風に吹き飛ぶ身体。床に叩きつけられた衝撃で意識が戻った。

ぼーっとした意識のまま、なんとか上半身を起こす。

(いったい、なにが、起こったんだ……)

 寝起きのように視覚も聴覚もはっきりしない。

 だが血まみれのマックスをフリードが抱き起し、珍しく額に汗を浮かべたルークがこちらに走ってくるのだけは見えた。

 ルークがなにかを言っているが、うまく聞こえない。

 マックスを部下に引き継いだフリードもこちらにやってくる。

「――ルイ、大丈夫か」

 ようやく聴覚も視覚も正常に戻った。

 はっきりと聞こえたルークの声に頷く。

「ルーク、達也は……?」

「達也?あの人間のことか?」

 再び頷く。

「あの人間なら死んだ」

「え――」

 言葉の意味をうまく理解できない。

「だれが……」

 震える声で紡いだ言葉は予想よりもはるかに小さかった。

 だが聞き漏らさなかったフリードが「覚えていないのですか」と少し驚いたような声を上げる。

「あなたが魔術で倒したんですよ。よくやりました。禁止している魔術ですが、マックスの命を救ったのですから、今回は目をつぶりましょう」

「俺が……達也、を?」

「そうですよ。これであなたは立派に竜族であることを証明できましたね」

 どことなく嬉しそうにも聞こえるフリードの声に吐き気が襲ってきた。

(俺が、人を……達也を、こ――)

 信じられない。信じたくない。

 きっとこれは悪い夢に決まってる。

 現実を確かめようとルークの肩の向こうを覗き込んだ。

「見ない方が良い」

 ルークがその先を覗き込もうと傾いた類の肩を掴み、元の状態に戻すが、もう遅い。

 類の目は黒く焦げた、人だったものの姿をはっきりと認識していた。

 瞬間こみ上げる吐き気を堪え切れず、うずくまる。

「うっ……!」

 胃液が口の中に溢れる。

 我慢ができない。

「大丈夫だルイ。吐いても良い」

 口を手で押さえ何とか耐えていると、ルークが優しく背中を撫でてくれた。

「大丈夫。大丈夫だからな」

 子供に言い聞かせるように優しく繰り返される言葉に、ついに涙が溢れだす。

(俺は、人を、殺してしまった……っ)

「ひっく……ひっく……っ」

「我慢するな。全部吐き出してしまえ」

「ルーク……!」

 ついに人目もはばからずその胸に縋りついて泣き出した類を、咎める事もなくそっと抱きしめるルーク。

 外の喧騒とは対象に静まり返った別棟には一晩中、類の嗚咽だけが響いていた。

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