第2章 教育係

 ふわふわとしたものが身体を包み込んでいる。

 重力も感じさせないその感覚に、もしも雲のベットがあるのならこんな感じなのかもしれないと思う。

 呼吸をするたびに雲が流されて、今はどこか海の上でも漂っているのだろうか。少し涼しいから山の上かもしれない。

 これ以上ないくらい心地いい。

そんなことを考えていると少しずつ身体の感覚が鋭くなってくる。

 ああ、まだ目覚めたくないのに。

 現実と夢の狭間を漂うのはどうしてこんなに気持ちいいのか。もし目覚めてしまっても絶対に二度寝してやる。そう心に決めた次の瞬間には自身がベットのような場所で横たわっていることがはっきりと感じ取れた。

 目を開けてまず初めに見えたのは高い天井だ。沁みひとつない白い天井が広がっている。

 それから視線だけを動かして観察を続けた。

 壁も白い。天井まで続いている窓には黄緑色のカーテンが引かれ、光さえぎっている。床とカーテンの間から光が差しているので、外はもう日が高いようだ。

 足元の方にはガラスのローテーブルと白いソファが見えた。

 よく見るワンルームのような作りに見えるが、一体ここはどこなのだろう。

 そう思ったがベットも布団も気持ちよくて、身体を起こす気にはならない。

 怠惰の極めだなと自分で少し呆れはしたが、それでもまだこのぬくもりに包まれていたいという欲には抗うことは出来なかった。

 枕もちょうどいい固さと高さだ。最早観察することも諦めて頭を預ける。

 目を閉じればもう一度くらい眠れそうだった。

 そもそもなんで自分はこんな上質なベットに寝ているのだろう。

 眠る前自分は何をしていたんだっけ。

 誰かと話をしていた気がする。

『最後の選択肢は俺と兄弟の契りを交わし、お前自身が竜族となる事だ――』

「――――!!」

 急に頭にルークの声が響いてすべてを思い出した類はバッと上半身を起こした。

 両手を目の前に掲げる。

「え――っ!?」

 15年間慣れ親しんできたはずの自分の手が、全く見知らぬものに変わっている。いや、形は人間のそれなのだが、色が明らかに違う。元々日に焼けて浅黒かったはずの肌は今は白く、青みがかっていた。

 まさかと恐る恐る耳に手を伸ばす。――尖っていた。

「か、鏡!!」

 音を立てて布団をはねのけると、先程まで微睡んでいたとは思えない程機敏な動きでベットを飛び降りた。

 まったく知らない部屋の扉は2つ。恐らく廊下につながっていないであろう扉に辺りをつけ解き放つと見事に勘が当たり洗面所につながっていた。洗面所を挟むようにまた扉が二つ付いていたが、恐らくトイレとバスルームだろう。そんなことより今は自分の姿を確認しなければ。

 曇りひとつない鏡に映る自分の顔は変わっていない。相変わらず平凡な日本人顔だ。うっかりイケメンにでもなっていてくれればまだよかったのに、相変わらず平凡な日本人顔に立派な竜族の耳が生えている。顔の肌も青白い。どうやら全身この肌色になっているようだ。

 目の色も髪色もほんのり茶色く変わっている。

 完全なる竜族になった類がそこには映っていた。

「――うわああああああ!!」

 現実を受け入れられずムンクの叫びよろしく両頬に手を当てて絶叫する。

「ちょ、え!ナニコレ!?え!?俺本当に竜族になってる!!」

 パニックに陥る頭に再びルークの声が響いた。

『――契約により我と汝は兄弟となり、汝は種を変え我が同志となる。誓え、我にその生涯を捧げることを』

「……本当に兄弟になったってことか?確かに見た目完全に変わってるけど!てか生涯を捧げるってなに!?もっと詳しく話聞いとくんだった!いやでもそうしないとあの時点でゲームオーバーだったわけだし人生リセットできないし!俺これからどうなるの!そんでここどこ!?」

「――なにを騒いでいるんだ?」

 突然の声にバッと俯いていた顔を上げると、鏡越しに石膏像に色を付けたような整った顔立ちの男が映っていた。

「うわあああ!!」

 純粋な驚きで悲鳴がのどから出ていく。それに男、ルークはやや不快そうに眉を寄せた。

「大声を出すな。うるさい」

「あ、ごめん……。でも急に現れるから……。それにこれ!耳!肌!」

「それがどうかしたのか?」

「どうかしたのかじゃない!俺が俺じゃなくなってる!もう別人!」

「そうだな」

「いやそうだなって!あっさりしてるな!」

 思わず芸人のように頭を叩いて突っ込みを入れそうになったが、何とか手だけは我慢する。

 こっちはこんなに混乱しているというのになぜこの男はこんなにも平常心なのか。無表情なのが余計に腹が立つ。なにを考えているのかまったく読み取れなくて、モヤモヤとした気持ちになるのだ。

 下から見上げながら精一杯睨んでいると、やがてルークが目を閉じて大きく息を吐き出した。

「他に何を言えばいいんだ」

「とりあえず俺の身体が大丈夫かどうか教えて」

「それだけ元気があれば問題ないだろう。それに耳も良く似合っているぞ」

「え、ありがとう……。って似合ってるかどうかはどうでもいいの!俺完全に竜族になったってことか?」

「そうだな。見た目は完全に」

「ああぁ……なんてことだ……」

 思わず頭を抱えてしゃがみ込む。

 生きる為とは言えこの選択は正しかったのだろうか。いやこうしなければあの時点で死んでいたかもしれないし、この選択自体は間違ってなかったはずだ。けれど見た目が完全に人間ではなくなっていることへのショックは大きい。

「とにかくこれからのことを簡単に説明するからこちらへ来い」

「うーい……」

 促されるままソファーに向かい合って座る。

「お前は俺の血族になったわけだが、それがバレるとそれはそれで面倒なことになる。だからお前の公式な立場は俺が拾ってきた孤児ということにしてある。それならば親がいない説明や、この世界についての知識が少なくても怪しまれる可能性が低いからな」

「なるほど」

「それからしばらくは使用人という扱いにする。なにもしていないと文句をいう輩もいるからな」

「使用人てなにするの?」

「お前の担当は掃除だ。あとで掃除長を紹介する」

「……俺一生掃除当番で生きてくのか?あー、思い描いていた未来がぁー……」

 高校だってやっと合格できたのに。これから青春満喫する予定だったのに。それが一生掃除当番とは悲しい。悲しすぎる。第一掃除は苦手だ。自分の部屋の掃除だって四角い部屋を丸く掃いているといって母に怒られてばかりなのだ。

 肩を落としていると正面から「人間界ではなにをしていたんだ?」という言葉が飛んできた。

 類はよくぞ聞いてくれたとばかりに自分の不運を訴える。

「俺高校生になったばっかりだったんだよ。明日から普通に勉強とか部活とか、かわいい子とデートしたりする予定だったのに……」

 するとルークは目を見開いて「高校生だったのか」と心底驚いたように呟いた。

「幼いので13くらいかと思っていた」

「おい」

 声だけで突っ込めば肩をすくめられる。

 そりゃあ童顔だし、身長も大して高くはない。長身のルークから見れば余計に子供のように見えるかもしれないが、さすがにそれはない。

 これでも義務教育は終えているんだ。

 むすっと頬を膨らませた類を見て失言に気付いたのか、ルークが少し気まずそうに視線を逸らした。

「まぁ勉強はこちらでもしないといけないだろうな。お前はこちらの常識が無さすぎる。部活に関しては、まあ適当に運動をやらせてやる」

「あんたは人間界について詳しいのな。部活とかも知ってるし……。じゃあ俺はこっちでも高校生やれるの?」

「それでもいいが、いきなり外に出すのは不安だからしばらくは家庭教師をつける。一般教養も含め外に出しても恥ずかしくない紳士になったら好きにしろ。まあ学校に通うのはお前の学力にもよるが」

「……もしこっちで受験失敗したらどうなるんだ?」

「一生使用人として働くことになるかもな」

「そんなあぁ!俺青春したい!高校生したい!」

「それなら勉強を頑張るしかないな」

「う……。てか家庭教師って?あんたまさかとんでとんでもない金持ち?家もでかいし」

「とんでもないかはわからんが、お前ひとり養うのに問題ないくらいの金はあるだろうな。俺が管理してるわけじゃないから総資産は知らんが」

「すげぇ……」

「とにかくお前の教育係は俺がふさわしいと思える者を選んでおいた。頼りになるやつだ」

「へぇ。それは助かるなー、俺って本当に勉強苦手だから」

 紹介してやるから少し待っていろと言い残して部屋を出て行くルーク。それを見ながら教育係なんてドラマみたいだなと思う。

 一体どんな人が来るのだろう。

 美人だろうか。それとも絵に描いたような七三眼鏡の人だろうか。どちらにせよ話しやすく、気軽に質問できるような人だといい。わからないところがわからない生徒を見捨てるような人は駄目だ。それから万が一そんな生徒を馬鹿だと思っても顔や態度に出さないでいてくれる人。それでなければメンタルがズタボロにされてしまう。馬鹿は馬鹿なりに馬鹿だと言うことを自覚しているので、傷をえぐってはいけない。

優しく、根気強く教えてくれる教育係を希望しています――類は期待を込めてルークが出ていった扉を見つめていた。

 それから待つ事数分。ルークは目的の人物を廊下で待機させていたのかもう1人その背後に伴ってすぐに戻ってきた。

 その人物は想像していた人物とはまるで違っていた。美形であるという点ではイメージ通りなのだが、当たり前に耳は尖っている。体型はルークよりも細身で、肩に着くくらい長いクリーム色の髪を右耳の下で緩く縛っている。目は切れ長で、鋭い。ルークよりも凛とした空気を放つ男の姿に、類は思わず立ち上がった。

 このまま座っていてはいけないと本能が告げていた。

 二人はそのまま類と一定の距離を空けて足を止める。

 ルークよりも少し背の低い男が近くに立つとわずかに薔薇のような香りがした。

 まるで女子のようなその香りに思わず深呼吸してしまう。するとそれに気づいた男に薄気味悪いものを見るような視線を向けられたので慌てて「あはは……」と愛想笑いをして誤魔化す。するとさらに視線は冷たさを増した。何故だ。

「こいつがお前の教育係。マークス・フリードだ」

「マジすか」

 第一印象最悪だ。けれどもう過去は取り戻せない。それを証明するかのようにフリードはもうこちらを見ていない。本人はまったく自己紹介する気がなさそうだ。完全に失敗した。

 それでも何とか取り戻そうと類は最大限の作り笑いで自己紹介する。

 ここでめげたら負けだ。負けるな――そう自分に言い聞かす。

「は、初めまして。俺は吉沢類。よろしく、お願いします」

 そう言ってぎこちなく差し出した手にフリードの冷たい視線が降り注ぐ。

 そのまま数秒間の沈黙。

 類は持ち上げた手をどうしていいのかわからずにずっと腰のあたりに持ち上げたままだ。なんの支えも無しにその高さを保つのは意外ときつかった。

 永遠とこの沈黙が続くのかと恐ろしく思えた時――「なんですかその手は?」とフリードが初めて口を開いた。

 その声に一瞬あれと首を傾げる。ルークよりわずかに高いこの声は、どこかで聞いたことがある。――そう、血の契約を結び、意識を失う直前に。けれどあの声の主はこんなに丁寧な話し方をしていなかった。別人なのだろうか。

 類が意識を遠くへやっている間にもフリードの言葉は続く。

「――まさか握手をしろと?」

「あ、うん。まずは握手かなと……」

 外国では当たり前の挨拶なのだが、まさか竜族は日本式の挨拶なのだろうか。

 しまった――焦っていると「冗談じゃない」と思いのほか鋭い言葉が飛んでくる。

「いくらあなたがルークの血を引いていようとまだ人間の臭いがまとわりついているその手で握手などしてみなさい。私は自分の手を切り取ってしまうかもしれません」

「――――!!」

 挨拶の仕方が間違っていたとかそういう問題ではなく、フリードは極度の人間嫌いらしい。

 幸いなことにこれほどの嫌悪感情を他人に向けられることなく生きてきた類は息が詰まりそうなほどの衝撃を受けた。

「そんな、俺とは初めて会うのに、俺のことなんにも知らないくせにそんな言い方は酷い、と思います……」

 怖くて顔を見られない。それでも精一杯思いを紡ぐ。だがフリードは鼻で笑うだけだ。

「いくら姿形を変えようとその中身までは変えられない、変わらない。私は人間が嫌いです。弱いくせに態度だけはいつも大きい」

「だから!それは、俺じゃ、ない……!」

 例え過去に人間がどんな罪を犯していようとそれは自分ではない。そんな言い訳通じないのかもしれないけれど、自分にはどうしようもなかった過去の歴史のせいで今自分が嫌われているとしたらそれは納得できなかった。

 勇気を持って顔を上げると、宝石のように澄んだ紫の瞳とまともにぶつかった。

「そうですね。今のあなたは竜族だ。私の失言でした。けれどどんなに否定しようとも、元人間であるという事実も変えられません。あなたが私よりも秀でているものがあるとも思えません」

「……っ」

「おや、もう反論は終わりですか」

 まだ攻撃の手を緩めないフリードの名をルークが呼んだ。

「そのくらいにしておけ。お前が人間嫌いなのは知っているが、お前だって納得して引き受けただろう」

「あなたの汚点を世に知られるわけにはいきませんからね。それはもう仕方なく、しかたなーくです。それにいじめないとは言っていません」

「確かにそうだが……」

「……いじめてた自覚あったのか。ヤなやつ」

 ルークの声に紛れるようにぼそりと言ったのだが、フリードにはしっかり聞こえていたらしい。氷のように冷たい視線が突き刺さった。

「なんですか?もっとメンタルボロボロにしてあげてもいいんですよ?」

「俺への当たりが強すぎる!」

「弱くする理由がありませんから」

「でも弱くするだけなんだ。当たらないという選択肢はないんだ」

 こんな人間嫌いを教育係に任命するなんてルークは何を考えているのか。

 仲良くする気もない人物とどうコミュニケーションを取ればいいのかわからない。自身が学校の教師にどう接していたかを思い出してみるが、それをフリード相手に応用することは難しそうだった。

 生徒を初めから嫌っている教師など自分の周りにはいなかったからだ。いや、いたかもしれないが少なくともそれを顔や態度に出している教師はいなかった。

 それにフリードは圧倒的に怖い。性格は少し子供っぽいが、やたらと口が達者だ。

言葉で攻撃しようものなら先程のように返り討ちにされてしまう。

 出来るならできるだけ話しかける状況には置かれたくないし、廊下でもすれ違いたくない。

 同じ空間にいるというだけで緊張感が生まれる。

 フリードが教育係なんて絶望的だ。

 ガクッと肩を落とした類を見てなにを勘違いしたのか、ルークはその肩をポンと叩いて「安心しろ」と声をかけてきた。

「マークスは優秀だ。かならずお前を立派な竜族にする」

「そんなに褒めてもなにもでませんよ。しかし期待には応えなければいけませんね」

 ルークに褒められたことが余程嬉しかったのか、先程までの氷漬けにされそうな表情から一変して微かに微笑んでいる。

 もしかしたらフリードはとても分かりやすい竜族なのかもしれなかった。

「ルイ。マークスは勉学だけでなくマナーを始めとする一般教養、剣術や馬術も指導に当たる」

「えー!マナーはわかるけど剣術とか馬術ってなに!?それも習わないといけないのか?」

「この世界には人間界のように自動車なんてものはありませんし、銃をはじめとする兵器もありませんからなにか有事があった場合は基本的に剣で戦うことになります。剣術も馬術も重要なスキルですよ」

「へぇ、そうなんだ」

 単純に感心しただけなのにまた嫌な顔をされた。小さく「そんなことも知らないとは、ドン引きですね」と呟いている。

 類にとってはそんな言葉を知っていることの方が驚きだ。

「あのさ、さっき基本的にはって言ったよな?剣以外でも戦う場合もあるのか?」

「おや、気づきましたか。少し感心しました。そうです。剣術以外でも戦う場合がありますが、これは個人の能力に大きく左右され、使えない者のほうが多いので基本的には、という表現をしました」

「ふんふん。で、他の方法とはなんなのでしょうか」

「ずばり、魔術です」

「…………」

 類の目が高速で瞬いた。

 頭が必死フリードの言葉を処理しようとしているようだ。

 魔術、魔術と壊れたロボットのように繰り返し呟いている。

 それから突然我に返ったように「魔術って魔法!?」と叫んだ。

「そう言われることもありますが、我々は魔術と呼んでいます」

「え、え、この世界って魔法が使えるのか!?」

「魔術です。だからそう言っているではないですか。一度で理解しない馬鹿は嫌いです」

 さりげなく暴言を吐かれたが、興奮している類の耳は都合よく受け流した。

「すげぇ!俺も魔法使えるようになるのか!?かっこいいー!!」

「人の話を全く聞いていませんね。先程個人差があると言ったでしょう馬鹿。竜族でも使える者は一握り。魔術が扱えるだけでエリートの道は決まったようなものなのです。貴重な人材なので王宮の警備や王族の身辺警護などに就くことが多いですから」

「へぇー!二人はどうなんだ?魔法使えるのか?」

「ああ」

「当たり前でしょう」

「すげぇー!いいないいな!なあちょっと見せてくれよ!」

「本当に馬鹿ですね。魔術は室内で使っていいものではありませんし、そう簡単に誰かに見せたりしないものです」

「そうなのか?」

 フリードが意地悪をしてそう言っている可能性もあるので、類はきちんとルークにも問いかける。するとルークは「ああ」と頷いた。それでようやく嘘ではないのだとわかる。

「魔術は最大の攻撃だと言われている。つまり基本敵を仕留める為に使われる」

「あなたがまる焦げにされて灰になりたいというのならすぐにでも見せますが」

「いえ大丈夫です」

 本当にされたらかなわないので食い込み気味に否定しておく。「残念ですね」と心底つまらなそうに呟いていたが、追及しても怖い思いをするだけなので聞こえなかったフリでルークに質問を続けた。

「魔術って攻撃系しかないのか?よく漫画だと癒し系とかあるじゃん?」

「癒し系?よくわからんが、魔術は攻撃する為にしか使われない」

「そうなのか。なんかイメージと違うな……。もっと色々出来て万能な感じかと思ってた」

「人間の勝手なイメージを押し付けないでください」

「まーた突っかかる……。少しはスルーしてくださいー」

「これは失礼。思ったことは口に出さないと気が済まないもので」

「……さようですか」

 フリードの冷たい視線から目を背けることでダメージを受けないようにしていると、この状況を唯一わかっていないルークが「お前たち仲がいいな」と的外れなことを言っている。だが類にはそれに反論する気力はなかった。

 一変して穏やかな目になったフリードが「それは盛大な勘違いです」と肩を優しく叩いている。その変わり身の早さに類は少し呆れてしまった。

「そうか?だがそうやって言い合える関係と言うのはいいと思うぞ。マークス、ルイのことは頼んだぞ」

「お任せを」

「任せた」

フリードの言葉に大きく頷くと、「ルイ、頑張れよ」と言い残してルークは部屋を出て行った。

まさか初日から教育係と二人きりにされるとは思っておらず、内心「えぇー!」と大声を上げる。実際にやれば確実にフリードに叩かれていたはずなので、なんとか声を我慢した自分をほめた。

「――とりあえず座りなさい。スケジュールの説明をします」

「あ、うん」

「これを」

 ローテーブルをはさんで向かい合うように座ると、フリードのジャケットの内ポケットから四つ折りにされた紙が取り出され、ローテーブルに広げられた。

 直接渡す気がないことに少し傷つきながら紙を拾い上げる。

 一週間のスケジュールとタイトルがつけられたそれは、月曜日から日曜日まで項目が分けられ、それぞれ何時から何時まで何をするという予定が細かく書き込まれていた。

 手書きで書かれたそれは癖のない明朝体のような字で、とても見やすい。フリードが書いたのだろうか。

――それにしても、スケジュールがぎっしりだ。

 まさに受験前かというくらい勉強漬けである。学校のスケジュールよりも詰め込まれている。

「朝食事前にランニングってあるんですが……」

「起床後に身体を温めるのは普通のことでしょう。いいですか、時間は厳守。1分でも遅れたらひどい目に合わせます」

「こえぇ……。でもこれほとんど休みないんだけども。日曜日は休みになってるけど自習とか自主練て書かれてるし」

「それも当たり前のことでしょう。他人が休んでいるときに努力する者しか勝利することはできません。まあ稀に圧倒的な才能でもってあっさり勝つ者もいますが、あなたは努力しかないでしょうから」

「そりゃそうだけどー」

 もっと休みたいと文句を言う類にまたしても鋭い視線が向けられた。

「あなたはルークに血の契約についてどのような説明を?」

「え?えっと、血を飲んで竜族になって、兄弟になるって言ってたけど?」

「……それだけですか?」

「うん。あ、あと一生離れられないとかって言ってた」

 フリードが大きく息を吐き出し「あの人にも困ったものですね」と天井を見上げる。

 その後で再び類に視線を戻した。

「真実を知らないままでは不憫ですから言いますが、本来血の誓いを交わすのは己の身を守る盾となる者です。そして主は己の盾となる代わりに生涯の生活を保証する。終身雇用のようなものなのですよ」

「盾って、どういうことだよ?」

「文字通り盾です。私たちは騎士と呼んでいますがね。己の力のすべてで主を守る忠実な騎士となる誓い。それが血の誓いです。誓いを交わした者は常にともにあるので兄弟の契りとも言われるんです」

「え、ちょっと待って。つまり俺はあいつの騎士ってこと?なんかかっこいい」

 類の頭の中ではイギリスの城を守る衛兵の姿が浮かんでいる。

 あんな風に制服を着てルークを守る自分を想像してニヤけた。

 だがフリードは氷点下の視線で睨んでいる。

「能天気なものですね。本来騎士に選ばれるのは己が最も信頼のできる優秀な人物です」

 優秀な、という部分をものすごく強調された。

「あなたのようななんの取り柄もなさそうな者に紋章を与えるなんて気が狂ってるとしか思え――ごほん。つまりあの人はただあなたを守るために誓いを交わしたという事です」

「紋章?紋章なんて貰ってないけど」

「まさかそれも聞いていないのですか?」

「うん」

「はぁ……」

 類の頷きに長く息を吐き出したフリードが額に手を当てて俯く。

 頭が痛いと言わんばかりの姿に、イケメンはなにをやっても絵になるなとまったく別のことを考えた。

「……ワイシャツを脱いで、自分の左胸を見てみなさい」

「え?」

「早く」

 促されるままボタンを外して前を寛げた。まだ見慣れぬ青白い肌に戸惑いながら左胸を見て驚く。

「これなに!?」

 そこには雪の結晶のような模様が、入れ墨のように鮮やかな青色で描かれていた。

 こすっても取れないので本当に入れ墨かもしれない。

 いつの間に彫られたのだろう。

 これじゃあ学校に行けない。プールも温泉も入れない。

 焦ってゴシゴシと擦り続ける類に「無駄ですよ」と冷静な声でその行為をやめるように言われた。

「それは血の誓いを交わした者に現れるものです。そこに刻まれるのは主の紋章。つまりあなたがルークの騎士であるという証なのです。それがあるだけであなたを尊敬する者もあるでしょうが、実力が伴わないうちは誰にも見せない方がいいでしょうね。万が一勝負を挑まれて負けたらルークの恥です」

「え?これがあるだけで勝負挑まれたりすることがあんの?」

「騎士を倒せばそれだけで箔がつきますからね。まあよっぽど根性がなければルークの騎士に剣を向けようとは思わないはずですが、しかし心配です。剣術も馬術も経験がないようですし、外に出しても恥ずかしくない騎士にできるかどうか。ともかくそのスケジュールは明日からこなすとして、今日はあなたの実力を見せてください。クローゼットの中にジャージがありますから、すぐに着替えてください。鍛錬場へ案内します」

「鍛錬場?」

「剣術や実践訓練を行う場所です。屋敷の裏の林を越えた先にあります。早くしなさい」

「よくわかんないけど、着替えてくればいいんだな?」

「そうです。早くしなさい」

「はーい」







 この世界にもジャージがあるあることに少し驚いたが、フリードもスーツのようなものを着ていたので、服装自体は人間界とあまり変わらないのかもしれない。

 クローゼットに入っていたジャージは黒一色で、上質なものなのか伸びが良くかなり動きやすかった。

 着替えたことに対するフリードの言葉は特にないまま、スニーカーのような物を渡されて足を入れる。その時「靴下もあったでしょう」と呆れたように言われて慌ててクローゼットから取り出した靴下をはいた。靴のフィット感も問題ない。

 なぜすべてのサイズがぴったりなのか気にならないでもなかったが、もしかしたら寝ている間に採寸されていたのかもしれない。

 ようやく準備を終えるとフリードの背を追って部屋を出る。

 廊下は思っていたよりも広く、天井も高い。王宮といわれても疑わない豪華なつくりに驚きながら、一階へ降り広いホールを抜けて外へ出た。

 噴水や色とりどりの花が咲き乱れる花壇、木々の隙間から見える東屋などがある裏庭を進むと、背の高い木々が多い茂るエリアに入る。そこを抜けるとサッカー場ほどの広さの空間が開けていた。ここには木もなく、草もない。鉄の扉がついた小さな小屋だけがぽつんと建っていた。

「ここが鍛錬場です。剣術を行うときはここへ来てください。ちなみにその小道を抜けた先が馬術場です」

 簡単に説明を終えたフリードは小屋の扉を鍵を使って開けると、中から剣を二本持って出てきた。そのうちの一本を手渡される。反射的に受け取ったが、予想外の重みに腕が落ちた。慌てて両手で構える。

「筋力もないんですね。朝のランニングにプラス筋トレと書いておいてください」

「えー……」

「剣も振るえないようでは話になりませんよ。打ち合いでもしようかと思ってましたが、到底無理そうですね。とりあえず素振りしてみてください」

「――よっ!――ほっ!」

「…………」

 一振り一振り苦労しながら持ち上げて振り下ろす。

 それを5回繰り返した時、思わずと言った感じで「遅い」という声が聞こえた。

「それじゃあひと振り目を振り下ろす前に死んでます。あなたよく今まで生きてこられましたね」

「人間界じゃ一般人は戦わないの。だから必要なかったんだよ」

「人間界の常識は忘れなさい。せめてこれくらい動けないと話になりませんよ」

 言うや否や、フリードが片手で剣を振り下ろし、続けざまに横に薙ぎ払う。流れるような剣捌きはまさに風を切るようなスピードで、類の目にはその動きすべてを捉えることは出来なかった。

「……ちなみに剣術歴はどれくらいで?」

「もう20年以上は」

「20年以上やってるやつと同じ動きしろとか無理だろ!!」

「だからゆっくりやったでしょう。まあ片手で構えることもできない人には酷ですかね」

「むー……」

「そんな豚みたいな顔してなにがしたいんです?顔芸ですか?」

「違うわ!無言の抗議だよ!」

「なるほど。人間界では無言の抗議をするときは顔芸をするんですね。覚えておきます。私はやりませんが」

「…………」

「おや、今度はフグに」

「からかうなよ!――絶対いつか扱えるようになってやるからな!」

「いつか、ではなく近日中にはせめて振れるようになってください」

「わかったよ。筋トレすればいいんだろ」

「そうですね。毎日欠かさずですよ。先ほども言いましたが、スケジュール表に追加しておくように。では剣術はこれくらいにしておきますか」

 剣はまったくあつかえないことがわかりましたからと剣を下げるフリード。それにほっとしつつふと思った。

「なぁなぁ、ここなら魔法見せてくれる?」

あからさまな期待を込めた目でフリードに訴えるが、彼は半目で見返してくる。

「剣術もまともにできないのに魔術を見せろとは、どれだけ図々しいんですか」

「えー、いーじゃん魔法のひとつやふたつー。人間にとっては架空のものだから生で見てみたいんだよー」

「私たちの世界だって珍しい人は珍しいんですよ。そうそうお目にかかれるものではありません。――でも、そうですね。1週間の間にあなたが私に剣術か馬術で勝てたら、見せてあげてもいいですよ」

「えー!それは不公平だ!こっちは素人なんだぞ!基本のきの字も知らないのにー!」

「もちろんハンデはあげますよ。剣術では、そうですね。私は一切反撃しません。あなたが私の剣を弾き飛ばすか、私の身体のどこかに剣を突きつけたら勝ちとします。馬術はスピード勝負にしましょうか。トラックを先に一周して帰ってきた方が勝ち。私はあなたが200メートル進んだところでスタートします。どちらでもお好きな方で勝負を挑んできてください」

「え、200メートル?そんなにハンデくれるの?よし乗った!俺馬術の方がいけるかもしれない!ちょっと馬に乗らせて!」

「かまいませんよ。どうせ次は馬術場へ行こうと思ってましたから」

剣を戻してきますから待っていてくださいと類から剣を受け取ってまた小屋に入っていくと、最後はきちんと扉に鍵をかけて戻ってきた。

「こちらです」

そう言った時にはもう歩き出していたフリードを慌てて追う。彼の歩調は足の長さが違うからか類からするとかなり早歩きだ。

そのままフリードの数歩後を歩きながら並木道のように整備された道を150メートルほど進んだところでまた空間が開け、学校のグラウンドのように整備された土のトラックが現れた。馬のコースであることを示すためか、トラックに沿うように木のフェンスが建てられている。しかしトラックの規模は学校とは全く違い、コーナーが遥か先だ。聞けば1周2キロのコースらしい。あまりの広さに驚くが、獣界の馬のコースとしては小さい方らしい。それを聞いてまた驚いた。

そんな話をしつつフェンス脇を抜けて学校の校舎がスッポリ入りそうなほど広い敷地に建つ木造平屋の建物に入る。見た目は類の家よりも立派だが、中はきちんとスペースが区切られ、数えきれない馬たちの居住区になっていた。余裕のある部屋で馬たちが思い思いにくつろいでいる。

それぞれのスペースには木の扉を開閉して使う窓があり、それが開け放たれている今は日当たりも風当たりも良好だ。

どの馬を見ても毛艶がいいので、きちんと管理されていることが素人にもわかっる。

左右の馬たちに何者だというような視線を向けられながらフリードに続いてさらに奥へ進んで行くと、一番奥まった場所でようやく足を止めた。

フリードはそのスペースにいた1頭の前に歩み寄ると、その鼻筋をそっと撫でる。

その馬は月明かりのような不思議な毛色をしていた。

「この子はアルフレッド。あなたが乗るのはこの馬がいいでしょうね。飛び抜けて速いというわけではありませんが、穏やかで扱いやすい馬です」

「速くない馬に乗ってあんたに勝てるのか?」

「それは乗り手次第ですかね」

「ちなみにあんたの馬はどれ?」

「私の馬はあちらです」

 アルフレッドから手を離すと、通路を挟んで反対側にいた馬に歩み寄り同じように鼻筋を撫でる。

その馬はカラスのように艶のある青黒い毛を持ち、身体は細みで引き締まっていた。鋭い眼光はどことなくフリードに似ている。

「エリオットと言います。私の言うことを良く聞く自慢の馬ですよ」

そういうフリードは本当に自慢なのだろう。ルークに見せるような顔をしている。

「ちなみにこちらはリシャール。ルークの馬です」

「――ああ、その大きさ。どうりで見覚えがあるはずだ」

 エリオットの隣の部屋からこちらを覗いていた馬は首の付け根が類の頭辺りにある。相変わらず大きいなと思いながら近づく。

「よお、俺のこと覚えてる?」

 見よう見まねで鼻筋に手を伸ばせば、こちらの意思をくみ取ったように頭を下げてくれる。そんな些細なことに感動した。

「すげぇー。俺の言葉わかるのか?」

「馬は賢い動物ですからね。もしかしたらあなたよりも」

「また一言余計」

「ふん。それにしてもリシャールが無条件に触らせるなんて珍しいですね。やはり自分より弱いものを見ると憐れむ気持ちになるのでしょうか」

「フリードは全然優しくしてくれないけどね」

「憐れんではいますよ。あまりにも無力すぎてこの先どうやって生きていくのかと」

「……嫌なこというなぁ」

 一々心をえぐってくるフリードに肩を落とせば、慰めるようにリシャールが頬に鼻を寄せてきた。その時大量のよだれが頭にかかったが、それよりも喜びが勝る。

「そんなことよりあなたの馬はアルフレッドなんですから、こちらを撫でてあげなさい」

「そうだよな」

 言われてようやくアルフレッドの前に移動する。

 アルフレッドはリシャールより一回り小さいが、身体のバランスがいい。目は少したれ目気味で、どことなくカピバラを彷彿とさせた。愛嬌のある顔立ちをしている。

「俺は類。これからよろしくなー」

 挨拶がてら差し出された鼻筋を撫でると、アルフレッドが心地よさげに鳴き声を上げた。

「では早速鞍をつけて乗ってみましょう」

「はーい」

 その後意外な程丁寧に鞍のつけ方などを教えてもらい、アルフレッドを引いてトラックに出る。しかし悲しいかな足が短いせいか鐙といわれる部分に足をかけるのも精一杯だ。なんとか足をかけても筋力がないので身体を持ち上げられない。そういえば初めてリシャールに乗った時もルークに引っ張り上げてもらったのだと思い出す。

 悪戦苦闘していると背後ではぁという大きなため息が聞こえた。

「まったく……。筋力のなさは致命的ですね。ほら、力を込めて」

 なんやかんや文句を言いながらも尻に手を当てて押し上げてくれるフリード。それでようやくアルフレッドに跨ることができた。しかし今回は身体を支えてくれるルークがいないのでうまくバランスが取れない。思わず手綱をぐっと引いてしまった――その瞬間アルフレッドが突然大きな鳴き声を上げて上半身を持ち上げた。

「うわああああっ!」

「――っ危ない!」

 どうする事も出来ずに振り落とされる。地面への落下を覚悟したが、しかしそうはならなかった。ギリギリでフリードが受け止めてくれたのだ。

 一瞬類の鼻をつく臭いが馬の臭いからさわやかな薔薇の香りに変わった。

 なにか香水でもつけているのかなと関係ないことを考えていると、間近で不機嫌そうな声がする。

「いつまでそうしているんですか。自分の足で立ちなさい」

「あ、すいません」

 慌てて身体を離すと、不機嫌さ丸出しで服を掃い出すフリード。そんなに汚くないと言いたかったが、薔薇の香りをさせている人に言っても無駄だろうと黙っていた。

「急に手綱を引くから驚いたんですよ。こう見えて馬は繊細で臆病なんです。驚かせてはいけません。あと足は鐙にあんなに差し込まない。かかとが下を向くくらいです。姿勢はまっすぐ背筋を伸ばすこと」

「そうは言うけどあの上で背筋伸ばすの大変だったぞ」

「あなたの筋力が致命的に少なくて、体幹もないからでしょう。アルフレッドにちゃんと謝ってから乗るんですよ」

 アルフレッドは一見平常心に戻っているように見えるが、先程よりも悲しそうな顔をしているようにも見えた。

「アルフレッド、驚かせてごめんな。次は気を付けるから、もう一度乗せてくれ」

 ブルルと首を振っている。

 駄目ということだろうか。

 助けを求めるようにフリードを見ると「大丈夫だから早く乗りなさい」と促される。

 簡単に言ってのけるその姿になにかあったら責任とれよなと心の中で毒づいて、再び鐙に足をかける。今度は勢いで跨ることに成功した。

 手綱に力をこめないように意識するとやはり身体が安定しない。フラフラしていると「足の位置」と厳しい声が飛んできて、慌てて鐙に差し込んだ足の位置を調整した。

「フラフラしない」

「そんなこと言ったって、無理……!」

「まったく。動いていない状態でそれではとても走ることなど無理でしょうね……。勝負は全て不戦勝になりそうですか」

「――なっ!まだ勝負はわからないだろ!今日は初日だからしょうがないし!てかどうやったらアルフレッドは歩きだしたくれるわけ?」

「鐙で脇を軽く蹴ればいいんですよ」

「軽くってどれくらい?こうか?」

コンと軽く蹴ってみたがアルフレッドは動かない。

「もう少し強く」

「でも痛くないのか?」

「あなたの筋力では思いきり蹴っても痒いくらいですよ」

「そこまで貶すか……。たく……。アルフレッド?ちょっと蹴るからな」

念のため声がけをして、先程よりも強く蹴る。すると今度はちゃんと歩き出してくれた。しかし歩いているだけだと言うのに案外馬上は揺れる。

「うわ、おっと!ととと……!」

「一々うるさいですね」

「そんなこと言ったって……!お?」

バランスが難しい、と続けようとしたところでアルフレッドが足を止めてしまった。

まだ数メートルも進んでいないのに何があったのか。状況を問うようにフリードを見れば「あなたのせいですよ」と告げられた。

「あなたの不安を感じ取って歩みをやめてしまったのです。また落としてしまわないか心配なんですよ。馬にまで心配される運動神経……はぁ……」

「そんな哀れみの視線で見ないで!」

「乗馬も今日はこれ以上無理そうですね。アルフレッドとの信頼関係も今日明日でどうにかなるものでもないですし、乗馬の勝負も難しそうですけどまあ精々頑張ってください。 私はあなたがどれだけボンクラかルークに説明して説教してきますから気が済んだらアルフレッドを厩舎に戻しておいてください。今日は当番で調教師のライかボルースがいるはずですからわからないことは彼らに聞いてください」

では。と言うや否やさっさと背を向けて歩いていってしまうフリード。

「え?ちょ、え?待ってフリード!せめて降ろしてから行って!」

何せ初めて馬から降りるときはルークが降ろしてくれたし、先ほどは振り落とされた。ひとりでまともに降りたことがないのだ。

必死に顔を捻ってフリードに声をかけると数メートル進んだところで足を止めて振り返ってくれた。

よかった、なんだかんだ助けてくれるらしい――安心したのもつかの間。

「それくらいひとりで出来るでしょう。甘えるんじゃありません」

そう言い残してまた背を向けて歩き出してしまう。

「えー!嘘でしょフリード!ねぇ嘘だよね!?」

己の腹筋を限界まで使って叫ぶが、今度こそ本当に振り返らずにやがてその姿は木々に紛れて見えなくなってしまった。

「………嘘だろ」

ぽつんと残されたひとりと1頭。

しばらくフリードが消えた並木道を見つめていたが、体感で5分過ぎてもやはり彼は戻ってこなかった。

どうやら冗談ではなかったらしい。

「え、マジでどうしよ……」

そっと足下を覗き込んでみる。

あまりの高さに軽く目眩を覚えた。

鞍を手で持ち、左足で身体を支えたまま右足を下ろす。そんなシミュレーションをしてみるが、右足が鐙から離れる気がしなかった。鐙を片足でも離れたらたちまちバランスを失って落ちてしまうだろう。

「アルフレッド、このままなんとか厩舎に連れてってくれない?」

 厩舎に行けば誰かしらいるらしいのでその人たちに降ろしてもらおうと思いつく。ただしそこまでアルフレッドが運んでくれるかはわからなかったが。

 試しに先程と同じ力で脇を蹴ってみる。

 するとなぜかその場でクルクルと回り出してしまった。

「え、え、なんで?違うよアルフレッド、あっち。厩舎に帰るの」

 しかし言葉が通じるわけもなく、クルクルと回っていたアルフレッドは今度は好き勝手に歩き出してしまった。

 なんとかその動きを止めようとするも、そこで初めて馬の止め方を習っていなかったことに気付く。サアーッと血の気が引いた。

 このままではアルフレッドが散歩に飽きて自主的に厩舎に戻るのを待つしかないではないか。

「あー……。空がきれいだなぁ」

「おい!お前何やってる!どこから入った!」

 青い空を見上げて現実逃避し始めたその時、鋭い声が聞こえ、次いで彼かが駆けてくる音がした。

 首がもげそうな勢いで振り返る。

 そこには鬼の形相でかけてくる、短髪の男の姿があった。身長はフリードと同じくらいで、髪色は淡い金。鼻筋が通ったキリっとした顔立ちをしていて、動きやすそうな上下黒のジャージを着ているが、その上からでも体型がかなりがっしりしていることがわかった。

「お前!馬泥棒か!?」

「へっ!?いやいやいやいや!誤解誤解!俺フリードに馬術習ってたんだけどあまりの才能のなさに見捨てられて降りることもできず――!とりあえずアルフレッドを止めて俺を降ろしてくださいぃ~!」

「はぁ!?いや、ちょ、よくわからんが泣くな!」

「うぅ~……」







「なるほどなー。まぁあの人はどSで有名だから」

 類を無事アルフレッドの馬上から救い出してくれた彼はライ・グリードと名乗った。この厩舎を預かっている者のひとりで、厩舎の掃除や馬の調教なんかをしているらしい。

 泣き出した類を子供にやるようにあやしながら馬上から救い出してくれた。

アルフレッドを厩舎に戻しながら事情があってルークの屋敷で働くことになったのだが、あまりにも何もできないのでフリードに勉学だけでなく馬術や剣術を習うことになったのだと簡単に説明する。だが言えない部分を隠して説明したので案の定グリードが突っ込んできた。

「働くって使用人?それだったら勉学はともかく剣術や馬術はいらないんじゃないか?」

「あ、いや。俺、高校に通いたくて、事情があって行けなかったから。ここで働きながら高校に通うってことになって……。あ!そうだ!」

 そこで忘れていた公設定をもうひとつ思い出した。これを言えばすべて納得してくれるはずだ。

「俺孤児だから!」

「――え、そうなのか?……てかそんな明るく言うってすごいな」

 きょとんと目を開くグリードにテンションを間違えたことを悟ったが、もう遅い。

 なんとか誤魔化さなければとあたふたしていると、グリードが声を出して笑いだした。思わぬリアクションに今度は戸惑う。

「お前いいな!高校にも通えなくて苦労しただろうに明るいし、前向きだ。俺好きだよそういうやつ」

「は、はぁ……。どうも」

 こちらの失態をいいように誤解してくれたようだ。騙していることに心が痛むが、真実を言って殺されたのではたまらないので真実は絶対に明かせない。

「馬術も習っとけば行ける高校の幅が広がるのは事実だしな。よし!馬術は俺も教えてやるよ。こう見えて昔はすごい選手だったんだぜ?」

「え!そうなんですか!そんな人に教えてもらえるなんてラッキー!」

 思わず手を叩いて飛び上がる。

「そんなに喜んでもらえるならこっちも嬉しいな」

「そりゃ喜びますよ!少なくとも馬術の基本も知らなくて、馬上から降りられなくなった生徒を見捨てるような人には見えないんで!」

「ははは!フリードは実力主義だからなぁ。安心しろ。ちゃんと基本から教えてやる」

「それで1週間後にレースでフリードに勝てますか?」

「は――?」

 当然だが、お前何言ってんのとばかりの視線が痛い。

「……レースって?」

「俺どうしても魔法が見たくて、剣術か馬術で勝ったら見せてくれるって。でも剣術は絶対無理そうだから。レースはハンデで200メートルくれるって言ってたし、可能性があるのはこっちかなって」

「まあ、それならレースの方が可能性はあるが……。でもフリードも国際大会の出場経験あるくらいの腕だぞ?身体もできてるし。お前のあのイカみたいな体幹じゃあとても……」

「無謀なのはわかってるよ。でもやってみたいんだ!魔法見たいし!」

「1週間でレースできるくらいにするってかなりきついぞ。お前俺のいうことちゃんと聞けるか?」

「ああ!」

「きつい特訓とかもあるぞ」

「なんでもやる!」

「本当だな?」

「もちろん!」

 どんと胸を張って頷いた類を見極めるようにグリードがじっと類を見つめる。そしてしばらくの沈黙の後「よし」と頷いた。

「お前の根性を信じる。とりあえず、空き時間は毎回ここに来い。例え10分の休憩でもここに来てアルフレッドに触れて、世話して、乗りこなせるようになれ。信頼関係を築くためにも、アルフレッドの癖を見抜くためにも世話したり、できるだけ乗ったりするのは大事なことだ。短時間で乗りこなせるようにするためには特にな」

「わかりました師匠!」

「師匠って……。俺のことは気軽にライって呼んでくれていいから。俺もルイって呼ぶし。あんまり堅苦しくしてもしょうがないから」

「おおー!!」

 フリードとは180度違う人当たりの良さに感激した。

「これからよろしくなルイ!」

 そう言って笑うさわやかさと言ったらどこぞのアイドルと見紛う程だ。

 類が女だったら即恋に落ちていただろう。







 それから類はライの言いつけを守り僅かな休憩時間――授業と授業の間の15分でさえ厩舎に通い、アルフレッドの世話をした。ブラシッングや餌やり、全日程が終了した夕食前には厩舎の掃除も手伝った。そんな日々を過ごして3日ほど経つといつの間にか理由は信頼関係を築くためから、単純にかわいいから、に変わっていることに気づく。

アルフレッドも懐いてくれているのか、類が姿を見せるとどこか嬉しそうに鳴き声をあげ、通路近くまで歩いてきてくれるようになっていた。鼻筋を撫でればもっとやれとばかりに押し付けてくる。とんでもない癒しだ。

 他の授業でどれだけアルフレッドに貶されようともアルフレッドに会えば傷が塞がるような気がした。

 乗馬の方も中々順調だ。全力はさすがに無理だが、軽い駆け足くらいなら乗りこなせるようになっていた。

 フリードに言われた筋トレやライのアドバイスで体幹トレーニングもしているので、身体のバランスも整いつつあるようだった。ただし連日全身筋肉痛で痛みと戦いながらの練習になるのが辛いところだ。そして連日の疲労は蓄積されていくので身体を動かしているときはいいのだが、椅子に座っての座学はとてつもない睡魔に襲われてしまう。

 受験に必要な基本教科や一般常識について学ぶのは類の部屋の日当たりのいいスペースなので、フリードの流れるような説明と相まって自然と眠りに落ちていった――瞬間。

 ゴツンという音と共に凄まじい衝撃が頭を襲った。

「痛ってぇえええ!」

 一瞬にして意識がクリアになる。いつの間にか机に伏せていた身体を起こし、両手で痛む頭を押さえた。痛む箇所をスリスリと高速で撫でていると、すぐさま隣からの殺気が飛んできて動きを止める。

 恐る恐る見上げれば分厚い教本を片手に掲げたフリードがナイフのような鋭い目で見下ろしていた。

 どうやらその教本で叩かれたらしい。

 それで叩かれてよく頭が割れなかったなとか、それはさすがに殺傷能力が高すぎるとか色々言いたいことはあったのだが、今回の事は100%自分に非があるのはわかっていたのでぐっと我慢した。

「なにか言いたいことは?」

「すみませんでした」

「よろしい」

 絶対零度の視線を向けていた割にあっさりと許しの言葉をかけられ「お?」と首を傾げる。ミスに厳しいフリードにはありえないことだ。なにか裏があるのではないかと訝しんでいると「なにか?」と逆に問われてしまう。

「あ、いや、なんか寝落ちした割には優しいから……」

「なんです?もっと厳しく殴りつけた方がよかったですか?」

「いえそんなことはありません!もう目は覚めました!」

 シャキッと背筋を伸ばして返事をする。すると頭上からため息が落ちてきた。

「……あなたの根性を少し甘く見ていました」

「へ?」

「1日のスケジュールはほぼ休憩なしで朝から晩までぎっしりです。そこらへんの高校生ならとっくに逃げ出していますよ。馬術や剣術、筋トレのメニューも短時間で使い物になるようにしなければとかなりハードになっています。もしかしたらそこら辺の兵士でも逃げ出すかもしれないメニューです。それをあなたは文句をいいつつも手を抜くことなくこなし続けている。実際少しずつ筋力は上がり、剣を振るい、馬も乗りこなせるようになりました。――人間なら1日で音を上げると思っていたのに、予想外でした」

「……もしかして俺を追い出すためのメニューだった?」

「そんな思惑がなかったとはいいませんが、メニューはきちんと力になるように考えましたよ。まあ逃げ出したらルークの汚点として闇に葬るつもりだったので、根性だけはあってよかったですね」

「サラッと怖いこと言った!」

 闇に葬るとは絶対に人間界に送り返してくれるという意味ではないだろう。

 考えない方がいい程恐ろしい意味であるはずだ。それ以上考えないように無理やり話題を逸らした。

「ま、まあそのメニューのおかげで少しはまともになってきてるんだし、4日後の勝負もしかして俺が勝つかもな?」

「剣術は無理でしょうが、馬術は可能性があるかもしれないですね。なにせあのライ直々に指導しているようですから」

「あ、知ってたんだ。てかライって昔すごい選手だったっていうの本当なんだな。フリードがそこまで言うなんて」

「当たり前ですよ。国内の大会はほぼ優勝。国際大会でも必ずメダルを取っていた選手ですから」

「へぇー!」

 確かにライの馬術の技術や馬の扱いはすごかった。教え方も上手く、指摘も的確だ。だがライ自身が気取った感じではなく、むしろとても親しみやすい友達のように接してくれるのでつい忘れてしまう。というか本当にそんなにすごい選手だったとは信じられなかった。

「でもなんで今はここにいるんだ?」

「……レース中に落馬し、怪我をしたみたいですね。それで引退したんです」

「そう、なんだ……」

 見た目ライはまだ若い。若くして一線を退かねばならない理由は決して明るいものではないと覚悟していたが、やはり心を重くする。そして同時に一線を退いてもなお馬に関わる仕事をしていることにライの思いを感じた。

「――さあ、雑談はこれまでにして歴史に戻りましょう」

「はーい」

「いいですか。竜王国にはとてもやっかいな魔物が封じられている地があります。約3万年前獣界に突如として現れ、破壊の限りを尽くしたという魔物です。通称【闇の落とし子】と呼ばれています。かつて竜族の5賢者が魔物を撃ち滅ぼすべく究極呪文を使いましたが、彼らは発動中に命を落とし、弱っていた魔物を教会関係者が今の地に封じました。そこは【封印の地】と呼ばれています」

「え!?そうなの?なんかやばそうな話……」

「ヤバイどころじゃありませんよ。現在5賢者程の魔力を持つ者はいないと言われています。つまり究極呪文を扱える者がいないんです。それが示す意味はわかりますね?」

「……獣界が滅ぶ?」

「最悪人間界も」

「マジかよ……。でも今は大丈夫なんだよな?」

「ええ、今のところは」

「ならよかった……」

 封じられていて目覚める心配がないならとりあえずノストラダムスの予言的な心配はしなくていいようだ。

 だがなぜかフリードはひとり苦い顔をしていた。

 その意味が気になっていたが、すぐにフリードが次の話を始めてしまったので結局問うこともないまま授業は進み、いつしかそのことは頭から消え去っていた。







「あー……、失敗したなぁ」

 いよいよ明日は勝負の日だ。もちろん勝負には馬術を選んだ。

 今日は最後の追い込みでコースを全力で走ってみたのだが、気持ちが焦っていたのかアルフレッドと息が合わずに落馬してしまったのだ。

 まさかのお姫様抱っこでライに医務室に運び込まれたが、幸い骨に異常はなかった。しかし打ち身による痛みが激しいため治療を受け、ついでに今日は安静にしているようにというドクターストップまでかけられてしまった。まだ練習がしたいと訴えたのだが、ライが初めて会ったときのような怖い顔で「駄目だ。今日は休め」と念を押してきたので引き上げざるを得なくなってしまった。

 今日のスケジュールはすべてこなしたので、たっぷり練習できると思っていたのにこれでは気力も削がれる。

 痛みも心なしか増している気がした。

 ミカンのようなオレンジ色の太陽を眺めながらトボトボと廊下を進む。

 すると珍しい人物に出くわした。

「ルーク!」

「ああ、ルイか。色々頑張っているようだな」

 どこか気だるげに視線を下げたルークの目元にはうっすらと隈のようなものが見えた。屋敷に来た日以来顔を合わせることもないほど忙しい日々を過ごしているのはフリードから聞いていたが、寝る時間も取れていないのかもしれない。

 会ったら剣術や馬術が少しは形になったこと、ライが師匠になったことなどたくさん話をしようと決めていたのに、出てきたのは「大丈夫か?」という一言だった。

「すごく疲れてるみたいだけど……」

「さすがに、疲れたな。だが今は時期的に仕方がないんだ。色々視察に出向かなければならないし、出かけている分書類がたまるから夜にやらざるを得ないからな」

「疑問だったんだけど、あんたの仕事ってなんなの?こんなでかい屋敷で使用人もたくさん抱えてて……。やばい仕事じゃないよな?」

 最後の一言にルークがふっと笑う。

「仕事量はやばいがな」

「いや、そういうことじゃなくて……」

「大丈夫だ。お前が心配しているような仕事はしていない。まあ仕事内容については追々教えてやる。それより明日はマークスとの勝負の日なんだろう。調子はどうだ?」

「――知ってたのか」

 話す機会もなかったのにどうしてと、質問を続ける前に類の思考を読んだルークが「マークスから報告は受けている」と先手を打った。

「マークスとレースをするんだろう?中々筋がいいとライからも聞いている。明日は俺も見に行くつもりだ」

「え!?来てくれるのか?」

「ああ。ハンデありとは言えお前が何処までやれるのか興味があるからな」

「そっか。でも、さっき最終練習で落馬しちゃって、今自信なくしてるとこなんだよな……」

 身体が浮き、地面に叩きつけられた時の衝撃。あの恐怖は胸の奥でくすぶり続けている。この恐怖を乗り越えるためにもすぐに練習を再開したかったのだが、生憎のドクターストップ。明日一発本番で乗りこなすことができるかどうか。もしあの恐怖が蘇って乗れなかったらどうしよう。アルフレッドが乗せるのを拒否したらどうしようと考え出したら不安はどんどん溢れてくる。

「大丈夫、と無責任なことは言えないが、今まで自分がやってきたことを信じるしかないだろう。無理なら、やめてもいい。別に勝負をやめたからと言って誰もお前を責めない」

「……フリードは馬鹿にするだろ」

「あれは素直じゃないから、心で思っていることをそのまま言葉にはしないだけだ。内心では結構お前のことを認めていると思うぞ」

「それはなんとなくそうかなとは思ってたけど、でも俺のこと蔑んでるのは本当だろ」

「それを越えたくてお前は頑張ってると思ってたが」

「……まあ。だって俺、こっちで生きていかなきゃいけないんだし」

「なるほど。それが本音か」

「……俺、今すごい崖っぷちなんだよ。人間界でちゃんと人間だったころは親だっていたし友達だっていた。でも、今は何もない。だから、なにかひとつでも成し遂げないと、俺に価値をつけないと――」

 早口に心にたまっていた思いを吐き出し続けていたが、「ルイ」と低い声で名を呼ばれて中断させられる。

 見上げれば、澄んだ青がまっすぐに類を見ていた。吸い込まれそうなほどきれいな青から目が離せなくなる。

「俺はお前に血を分けた時点で家族だと思っている。実際あの時点でお前が拒否しようと最も血の濃い兄弟となっている。あとはお前の気持ちの問題だ。その解決の為に必要ならぶつかって行け。疲れたらまた俺のところに吐き出しに来い。ひとりではないということだけは忘れるな」

「ルーク……。あの――」

「もう行かなければ」

「あ、うん。ごめん引き止めて」

「いや。久しぶりに話せてよかった」

 じゃあなと横を通り抜けていく瞬間にさりげなく頭を撫でられた。

 その感触が何とも言えず気恥ずかしい。

 類はしばらくその場を動くこともできずに呆けていた。








 いよいよ勝負の日がやってきた。

 ただフリードと個人的な勝負をするだけだというのに朝やってきたルークに立派な乗馬服を手渡され、問答無用で着替えるように言われた。

 白い襟付きのシャツに同色のネクタイを締め、その上に上質な黒のジャケットを羽織る。白一色のパンツは太もも部分がやや緩く、膝から下はぴっちりしている。そして最後にロングブーツを履いた。ブーツもだが、こんな貴族じみた堅苦しい格好は人生で初めてなのでどうも落ち着かない。

 服に着られている感がすごいと顔をしかめていると着替えを手伝っていたルークが「良く似合っている」と笑った。

「ああ、ジャケットのボタンははめておけ。だらしがない」

「うわっ、ちょ――!」

 自然に近づいてきたルークがこちらがなにか言い返すよりも早く手を伸ばしてジャケットのボタンをとめていく。子ども扱いされているようでカッと顔が赤くなるのを感じた。

「自分でできるから……」

「そうか?すまん。つい手を出したくなってしまった」

「いや、まあ、いいけど……。次は自分でやるから」

「ああ。さあ、できたぞ。ヘルメットも忘れるな」

「おう」

 手渡された帽子のようなヘルメットを脇に挟んで準備は完了。二人並んで馬術場へ向かった。

 そこは想像以上に人が集まっていた。

 時間の空いている使用人たちが興味半分に押し寄せているらしい。

 まさかの光景に動揺し、次いでものすごい緊張が類を襲った。

 そんな心情を察したのか、「大丈夫だ」と隣を歩くルークがそっと背を押した。

 促されるまま人混みを抜けてトラックに入るともうすでにアルフレッドとフリードの馬であるエリオットが鞍の準備を完了した状態で待機していた。そしてその脇にさわやかに「よお」と手を上げるライが立っていた。フリードはまだ来ていないらしい。

「いよいよだな。身体の調子はどうだ?」

「もう大丈夫。あとは気持ちの問題かな」

「そうか。緊張してるか?」

「さっきまでしてなかったけど、この状況にやられてる」

「ははっ、そうか。お前は注目されることに慣れてないんだな」

 気にしなければいいと注目されることに慣れているライは白い歯を見せて笑うが、その笑顔の癒し効果も今日は弱いようだ。

 少し息苦しさを感じ始めたころ、「おや。皆さんお揃いで」と妙にのんびりした口調が割り込んできた。

 振り返ればまぶしい白が目に飛び込んでくる。

 いつもは首の横で緩く結んでいる髪を首の後ろでしっかりと縛ったフリードは、類とは真逆の真っ白なジャケットを着ていた。いや、裾が長くなっているので燕尾服に近いかもしれない。ボタンは白に映える金で、パンツは黒だ。着慣れているのか、類とは違い様になっている。

 類の目には物語の中から飛び出してきた王子様のように見えた。

「なんです?そんなにジロジロ見ないでください。気色悪い」

「ははは……」

 口を開いたらいつも通りのフリードだった。

 乾いた笑いでなんとか受け流す。

 黙っていたら女にモテるんだろうなと密かに思ったが、絶対に悟られてはいけない。内心汗をたらしていると、さっさと類から視線を外したフリードはルークにその視線を移していた。

「ルークの見立てですか?」

「ああ。どうだ?中々いいだろう」

「ええ。服はとても立派ですね。こんなのに投資したところで無駄金ですよ」

「それはわからないさ。レースをしてみるまではな」

「まさかこの子犬が私に勝てるとでも?」

 子犬、と言うのは初めてフリードと夕食を共にしたときにつけられた不名誉なあだ名だ。

 竜族の食事量と言うのは半端ではなく、一食に提供される肉の量は2キロを超える。それがひとり分だというのだ。実際フリードはペロリと完食していたが、人間育ちの類には1キロが限界で、竜族からすればかなりの小食に当たるらしい。それを見たフリードが「子犬の食事」と言い、以来なにかと貶されるたびに子犬と言われている。決してかわいいとか、ポジティブなあだ名ではない。

 肩を落としているとルークが慰めるように軽く肩を叩いてくれる。

「俺は可能性はあると思っている」

「フンッ。冗談もほどほどにしてほしいですね」

「ルイならやれるさ。少なくとも1週間でアルフレッドを乗りこなせるようになったんだ。頑張って来い」

 後半は類に向けて言うと、ルークはもう一度肩を叩いてトラックの外に出て行った。「頑張れよ」と声をかけたライもその後に続く。

 スターターを務めるライもトラックの外から合図を出すようだ。

 その後をなんとなしに眺めていた類だが、フリードがエリオットに跨るのを見て慌てて自身もアルフレッドに跨った。

 その瞬間に少し安心した。

 落馬の恐怖はあるが、なんとかいつも通りアルフレッドと走ることが出来そうだ。そのままフリードに倣ってスタートの位置まで歩かせる。

「アルフレッド。今日は頑張って逃げ切ろうぜ」

 声をかけて首筋を撫でれば、答えるようにアルフレッドがひと鳴きした。

 ふうっと息を吐いて気持ちを落ち着かせる。

 心臓の辺りが緊張で痛んでいたが、少しでも平常心を取り戻さなければ。

 大丈夫。筋トレもやったし、アルフレッドと交流もしてきた。ライという最高の師匠から技術も教わった。自分を信じろ、アルフレッドを信じろと言い聞かす。

「じゃあスタートの合図を鳴らすぞー!」

 ライの声に深呼吸ではどうにもならないくらい緊張感が高まった。思わず姿勢が前かがみになるが、ちらりと盗み見たフリードは遅れてのスタートになるせいかピシッと姿勢を伸ばしたまま静止していて、まるで絵画の様だ。その表情からはまったく緊張感は感じられない。それが悔しかった。

「よーい……」

「絶対逃げ切ってやる」

 口の中だけで呟いた瞬間、パンッという乾いた音が響いた。ほぼ同時にアルフレッドに走る合図を出す。すぐに風を切るスピードに変わる。この速さには未だ恐怖を覚えるのだが、今はそんなことを言っていられない。

 ライの教え通り尻を浮かせ、前かがみになった。出来るだけアルフレッドに負担を与えないように、そして風の抵抗を少なくする。

 順調だ。あっという間に200メートルの看板を越えた。背後で空砲の音がしたのでフリードもスタートをしたはずだ。あとはどれだけ距離を詰められないように逃げ切れるか。

 馬の蹄が土を蹴る凄まじい音が増えた。フリードが全力で追ってきている。

 怖い。

 今どれくらいまで迫っているのだろう。確認したいが、出来るはずもなく。追われる恐怖が類の呼吸を苦しくした。

 どれくらいの距離に迫っているのかわからないが、前を見据えて全力を尽くすことに徹する。

 そのままコーナーへ突入。

 その時視界の隅にフリードの姿を捉えた。

「嘘だろ――!?」

 あれだけハンデがあったというのにもう150メートルほどに迫っている。馬のハンデは人間が走るのよりも圧倒的に速くその距離を詰められるらしい。もちろんフリードの技術も影響しているのだろうが、このままではゴール前に追いつかれてしまう。

「アルフレッド!頑張れ!!」

 声をかけて奮起させるが、体力も筋力もまだまだ足りない類にとってもこのコーナーを超えたあたりから体勢を保つのが難しくなってくる。

 尻を鞍につけたい衝動にかられながらもなんとか気合で浮かせ続ける。その間にも耳に聞こえる蹄の音が大きくなってきていた。

 気持ちが焦る。

 もっと速く。もっと引き離さなければ。

 無意識に手綱を持つ手に力を入れてしまった――瞬間わずかにアルフレッドの足が乱れた。

 しまったと思ったがもう遅い。なにか指示をされたと思ったアルフレッドが混乱して身体を大きく揺らした。

 固い地面に叩きつけられるあの瞬間がフラッシュバックした。

「――っ!!」

「ルイ!!」

「――走れ!アルフレッド!」

 誰かの声にハッと我に返り、傾きつつある身体を無理やり立て直してアルフレッドに指示を出す。アルフレッドもわずかに落ちたスピードを再びトップスピードに乗せる。その頃には類の体勢も風の抵抗の少ない前傾姿勢に戻っていた。

 残り500メートルと言うところでついに視界の横にエリオットの首が見えた。すぐにフリードの眩しい白も視界に入る。

 二人が並んだ。

 姿勢を保ち続けていた身体が悲鳴を上げている。呼吸も苦しい。

 でもここまできて負けるわけにはいかない。

 ゴールはもう目の前だ。

 ――すべての音が消えた。景色がやけにゆっくり流れている。

 隣を走るフリードが馬のしっぽのように結んだ髪を風に靡かせながら、ゴールの線を越えていった――。







「いやあ、惜しかったな。でも1キロ勝負だったら勝ってたんだから落ち込むな」

 荒い息を吐き、膝についた手で身体を支えている類の肩をバシバシと叩いて慰めるライ。それに息も絶え絶えに「ああ、ありがとう」と礼を返す。

 心臓が爆発しそうなほど早いスピードで脈打っている。持久走を走り終えた直後のような喉の痛みも不快だ。

 甘いスポーツドリンクが飲みたい。

 身体の痛みに耐えながらなんとか上半身を起こすと、目の前にステンレスのボトルが差し出された。片手で扱えるサイズのそれをぶすっとした顔で差し出していたのは意外なことにフリードだった。

「えっと……?」

「飲みなさい。水分の補給は大事ですから」

「え、ありがとう。いいのか?」

「どうせ自分では用意していないんでしょう。これはあなたに差し上げます」

「ボトルごと貰っていいのか?ありがとう!」

 確かに言われてみれば勝負の後こうなることは想像できたはずなのに勝つか負けるかしか考えておらず、ボトルの準備などしていなかった。素直に礼を言って早速口をつける。

 中に入っていたのはありがたいことにスポーツドリンクのようだった。この甘さには覚えがある。

 喉を潤すその甘さをたっぷりと味わって、ほっと息を吐くとそのの様子を見ていたフリードが「勝負は私の勝ちですが――」と続けた。

「あなたの成長は目を見張るものがありました。その努力に免じて魔術を見せてあげてもいいですよ」

「マジか!?やったあー!!」

 もう魔術を見ることは叶わないのかと落ち込んでもいたので、そのご褒美は嬉しい。思わず両手を上げて声を上げるとルークとライが「よかったな」と共に喜んでくれた。

「あなたが回復したら隣の鍛錬場へ移動しましょう」

「もう大丈夫!すぐ行こう!今すぐ行こう!」

 逸る気持ちを抑えきれずに思わずフリードの手を引くと、ため息と共にやんわり手を引きはがされる。

「もう少し落ち着きを身に着けてください。幼児じゃないんですから」

「だってそのためにこんなに必死になってやったんだからしょうがないだろー」

「まあ、そうですが。しかし気持ちが逸るあまりミスをするというのはいただけませんよ。先程もそのせいで落馬しそうになってましたよね?」

「う……。確かにその通りで……。あれ、でもそういえばあの時フリード俺のこと名前で呼んでくれた?」

 あの時は必死で深く考える余裕などなかったが、あの場所で類の名を呼べるのは彼しかいない。思えば初めて名前で呼ばれた記念すべき瞬間だったのだ。

 しかしフリードは素っ気なく「なんのことかわかりません」とさっさと歩き出してしまう。

 その後姿を見ながらにやける顔をもとに戻すことは出来なかった。







 鍛錬場へは類とフリードの他にルークとライもついてきた。

 先程のレールとは打って変わってギャラリーの少ない鍛錬場で、フリードだけが10メートル程離れた場所に立っている。

 息をすることさえ躊躇うほどの凛とした空気をまとったフリードが意識を集中させるように深呼吸した。

 その宝石のような紫の瞳が隠され、形のいい唇が呪文を紡ぐ。

「――我が身に宿いし熱き力よ。炎となって焼き尽くせ」

 ぶわっと巻き上がった風がフリードの髪を揺らす。

「ファイヤーブレス――」

 息を吹きかけるようにフーッとその口から炎が放たれた。さながらファイヤーショーのような出来事。しかしこれは紛れもない魔術なのだ。

 吐き出された炎は丸太を描くように一直線に繋がったまま数十メートル先でふわっと消えた。

「――す、すげえええええええ!!」

 興奮を抑えきれずに叫ぶ俺にフリード以外の二人は微笑まし気に頬を緩めて笑っている。しかし「なあなあ!俺にもそれ出来る?」と隣のルークを見上げた瞬間、それは苦笑に変わっていた。

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