第1章 遭遇
類は落ちた場所から一歩も動けずにいた。
未だに頭の中は混乱したままだ。
確かに高校へ向かうために通学路を歩いていたはずなのに、黒い水たまりに落ちて、気づいたらここにいた。
こんなことがありえるのか。
その時脳裏にアナウンサーが妙に明るい声で言っていた時空の歪みという言葉が蘇った。
確かこれも中学で習った。
10万分の1という確率で空間が歪むことがあるという。そこは地面だったり、海の中だったりしてどこに空間の歪みが発生するかは解析不能らしいが、そこに落ちると異世界、つまり獣界へ渡ってしまう。
昔はゲートが行き来自由だったので獣界へ落ちたとしてもすぐに手続きをして人間界へ戻れたらしいのだが、両世界の関係が冷え込んだ現代では落ちたら最後。生きて人間界へ戻る事は不可能と言われている。
スッと全身の体温が下がった気がした。
心臓がキリキリと痛む。
身動きひとつでもすればその瞬間に殺されてしまうのではないか。そんな恐怖が襲い掛かる。
ここは獣界なんだろうか。信じたくはないが、さっきまできちんと整備された歩道を歩いていたのだ。別の場所に来てしまったことは間違いない。
ゲートを探さないと。
まず思い浮かんだのはそれだった。
幸い世界を繋ぐゲートは残されている。
何とかそこを通って人間界へ戻らなければ。だがどこへ行けばいいのか。
ゲートの場所もわからないのにむやみやたらに動き回って大丈夫だろうか。こちらの世界がどれほど広いかは知らないが、もし人間界でインターネットも使わずたったひとつのゲートを探せと言われたら早々に諦める。でも諦めたら人間界へは帰れない。
帰れなかったらどうなる?
脳裏に「死」の文字がよぎって叫びだしそうになった。
何としても自分の世界へ帰らなければ。大体今日は高校生活1日目だったのだ。
地獄の受験生活を乗り越え、これから素晴らしい高校生活が始まる予定だったのにこれはあんまりだ。
テスト前に友達と勉強したしないのくだらないやり取りもしたいし、部活に入って活躍したいし、できれば可愛いマネージャーと付き合いたい。
まだまだやりたいことがあるのにこんなとことで人生を終えるなんて冗談じゃない。
震える足で何とか立ち会があることに成功した時、類の耳に馬の爪が土を蹴る音が聞こえた。
だんだんと大きくなる音は、間違いなくその対象がこちらに近づいてきている事を示している。
脈が速まる。
早くどこかに隠れなければと思うのに、意思に反して身体が固まって動かない。
やばい。
その言葉が溢れて頭に広がっていくがどうしようもなかった。
そしていよいよその対象が類の前に姿を現した。
首の付け根部分が170センチある類とほぼ同じくらいある大きな馬は艶のある黒い毛で覆われていて、その背中にひとりの男が跨っている。
太陽の光を集めたような金髪、目は海を映したかのような青だ。鼻筋はスッと通り、美術の授業で使うような石膏像のように整った顔立ちをしていた。それだけを見れば外国のイケメン俳優がここで映画の撮影でもしていたのだと安心できたかもしれない。
だが男の肌はやや青みがかっており、尖った耳は先へ行くほど濃い緑色になっている。
それはいつか教科書で見た竜族の特徴で間違いない。
やはり自分は獣界へ来ていたのだ。
竜族に会えば殺される。そう刷り込まれていた頭が条件反射で身体に指令を出したらしい。
類は自然と男に背を向けて走り出していた。
とにかく離れなければ。
「嘘だろ!なんで追ってくるんだ!頼む見逃してくれぇ~!! ヘルプ!ノー!ヘルプ!」
異世界で何語が通じるのかわからないが、とにかく必死に言葉を紡いだ。
背後の足音に足を止めないまま振り返ると、馬から降りた男が追ってきている。
しかも速い。
おそらく人生で一番本気で走ったはずだが、悲しいかな身長差もあってあっという間に追いつかれて腕を掴まれてしまった。
その手を振り払うために全力で抗うが、片手で腕を掴んでいるというのにビクともしない。パニックになってめちゃめちゃに暴れる。
類には男の腰にささった立派な剣が見えていたのだ。
この抵抗を辞めた瞬間その剣でバッサリいかれるに違いない。
「うわぁ!!やめて殺さないで!ヘルプノー!」
「お前日本人だな?英語に慣れていないなら普通に話せ」
「日本語!?しかも英語も知ってる!?」
「よかったな、ここが竜王国で。他の国だったら苦労してたぞ」
「他の国は日本語通じないのか?」
「ああ、他国は基本英語だ。ここ竜王国は初代竜王の時代――まだこの国にちゃんとした言葉がなかった時代に落ちてきた日本人の男に言葉を教えられた。初代竜王はその男と親密な関係になり、その男も多くの国民にも慕われていたから自然と日本語がこの国の公用語になったと言われている」
「へぇ!そうなんだ」
「まあそれでも人間を嫌う者は多いが」
「え!じゃあ、もしかして――!?」
「落ち着け。命を奪う事はしない。少なくとも俺は」
「ほ、ほんとか?」
俺は、という一言がとても気になったが、とりあえずこの場でバッサリいかれることはないらしい。
とりあえずほっとして類は身体から力を抜いた。
それを感じ取ったのか男も腕から手を離す。
「それで、なぜお前はここにいる?」
「なぜって、俺にもさっぱり……。急に目の前に黒い水たまり見たいのが現れて、そこに落ちたらここにいて……」
パニックになっていて気付かなかったが、この男かなり身長が大きい。類の身長でも見上げなければならないほどだった。
沖縄の海を思わせるその瞳に見つめられ、時が止まったような感覚に包まれる。
無意識に見とれてしまうほど綺麗な色だ。
そんな瞳を持つ男は腕を組んで何やら考え込んでいる様子だ。「隠しゲートかと思ったが――いやしかし」と何やらぶつぶつ言っている。
イケメンは無表情で独り言を言っててもイケメンだなと状況も忘れて見とれていると、不意に男が話を振ってきた。
「お前時空の歪みに落ちたのか」
「……たぶん」
時空の歪みなんて見た事はないが、こうして獣界に落ちてきたということはそうなのだろう。頷くと「たまにいるんだ、お前みたいな間抜けな奴が」と無表情のまま言われて傷ついた。
なぜ初めてあったばかりの男に間抜け呼ばわりされなければならないのか。納得できない。とはいってもここで喧嘩を売る勇気はなかったので聞き流しておく。
「――タイミングが悪かったな。もう少し前の時代だったらよかったんだが」
「え?どういうことですか?」
「人間と竜族の関係性は今最も悪化している。先日も迷い込んだ人間が民衆によって殺されているんだ」
「え!?」
こちらに落とされた人間が問答無用で殺されているという話は本当だったのかと息が詰まった。
心臓がキリキリと締め付けられているように痛み出す。
そんなに怖い真実は知りたくなかった。
「あ、の……、ゲートは?ここから一番近いゲートはどこですか!?」
「ゲートは大半が破壊、生きているゲートも厳重な警備のもと封鎖されている。お前のようなものが近づけば瞬殺だろう」
「そんな――。じゃ、じゃあ俺は……」
再び脳裏をよぎる「死」の文字。
それだけは絶対に嫌なのに。
こちらの焦りなどまるで理解していないようにどことなくゆったりとした口調のまま「お前の世界に戻ることは叶わないだろう」と告げられる。
「なんとかならないんですか!?」
反射的に縋りついて訴えれば少しは必死さが伝わったのか、男がしばらく目を閉じて沈黙した。
なにかいい案が出ることを願って見守る。しかし男の口から出た言葉に希望などひとかけらも見出せなかった。
「ゲートに関してはどうにもならないだろうな。とりあえずお前が選べる選択肢は3つ。ここで野垂れ死ぬか、民衆に殺されるか――」
「死ぬ以外の選択肢くれない!?」
敬語が取れてしまったがもう気にするもんか。こっちは生きるか死ぬかの死活問題なんだ。今のところ死ぬ以外選択肢ないけどと早くも泣きたい気持ちになった。
すると男が呆れたように大きく息を吐き出した。
「まだ最後の選択肢を言っていないだろう……。せっかちだな。いいか?最後の選択肢は俺と兄弟の契りを交わし、お前自身が竜族となる事だ。そうすればこの世界でも生きていける」
「……はぁ?」
聞いたことのない単語の連続に思考が停止しかける。
容量がいっぱいのPCのようにゆっくりと言葉を処理して、ようやく文章を理解できた。ただその意味まではやはり理解できない。
「兄弟の契りってなに?竜族になるってどういうこと?」
「竜族の血を人間が一定量飲むと竜族になれるらしい。お前が俺の血を飲む儀式を兄弟の契りと言うんだ」
「はあ!?普通に嫌だよ。なんで俺がお前の血なんて飲まなきゃいけないんだ。大体竜族になるって、人間やめるってことだろ?」
「そうだ」
またしてもあっさりと頷く男に怒りがこみあげてくる。
お前は竜族やめろって言われて簡単にやめられるのかと問いたかった。だが実際に口から出る言葉が違うのはお愛嬌だ。
「そんなの嫌だ!ゲートが通れるようになった時困るだろ!そんな尖った耳で人間界で生活できないって!それともまた人間に戻れるのか?」
「無理だ。一度種を変えればもう元に戻る事はできない」
「じゃあ嫌だよ!」
「ではこのまま死ぬしかないな」
「見捨てるの早っ!頼む何とかゲートまで連れてってくれ!あとは強行突破でもなんでもするから」
手触りが滑らかな布がくしゃくしゃになるのも構わず握りしめて揺さぶる。
だが男は相当身体を鍛えているようで類の力ではビクともしなかった。
悔しいので揺さぶり続けていると、そっと手をはがされる。あまりにもあっさりと引き離されて、目の前の男との力の差を突きつけられた。
そしてまたため息が頭上から降ってくる。
「お前どれだけ屈強な兵士がゲートを守っているか知らないのか?お前など一瞬で消し炭だ。それでも構わないというのなら連れて行ってやるが」
「まじかよ……」
そういえば人間側でも厳重な警備が敷かれていた。ゲートを守っている軍人たちもかなり屈強だった。それはやはりこちら側も同じらしい。
蟻一匹近づくことはできないと念を押されてさすがに怖気づく。
だが人間をやめるなんてそんな重要な選択肢を簡単に選び取ることはできない。
自然とうつむいて草の多い茂った地面を見つめてしまった。頭上からは刺さりそうなほど視線を感じる。
無言で選択を迫ってくる男に、しかし類はなにも言葉を紡げなかった。
二人の間に重い沈黙が落ちる。
しばらくするとまた男がため息を吐いてその沈黙を終わらせた。
「……仕方がない。ゲートが見える位置まで連れて行ってやる。そこで生きるか死ぬかを決めろ」
「……やっぱり死ぬ選択肢は消えないのね」
がっくりと肩を落とした視界の先で、男の靴が後ろを向く。
視線を上げれば男は類に背を向けていた。
「ついてこい」とだけ言ってさっさと歩き出してしまう男の後を慌てて追いかける。
その先には男が乗っていた馬が大人しく草を食みながら待っていた。男が戻ってきた事に気付くとどこか嬉しそうにひと鳴きする。
男はその馬の鼻筋を優しく撫でてから身軽に馬に跨る。お前も乗れと背を差しているが、自分の身長よりも高い馬にどう乗れというのか。
あたかも馬に乗る事が普通と言うような振る舞いだが、人間界では普通じゃない。牧場なんかの体験乗馬でもちょっと特別感がある。そんなことを言ってもきっとこの男には通じないだろうけど。
とりあえず馬の横に立ってみるが、目の前に立つと余計にその大きさが際立つ。
鞍になんとか手をかけて力を込めてみるが、身体が持ち上がらない。
「ふっ……!よっ……!
「…………」
「よいしょっ……!」
「…………」
「えやー!」
「……お前はなにをやっているんだ?」
「すみません引っ張り上げてください」
プライドがひび割れる音がした気がしたが、自力ではもうどうすることも出来なさそうだったので仕方なく頭を下げる。また呆れたようにため息を吐かれるかと思ったが、男はただ静かに手を差し出している。
「俺の足に足をかけてもいいから上って来い」
「……ありがとう」
思わぬ優しさに毒気を抜かれながら、類はなんとか馬上に上がる。
その時踏んでしまった足は痛くなかっただろうか。
男の表情を盗み見ようとしたが、背後に跨った状態ではただ広い背中が見えるだけだった。
「落ちないようにしっかり掴まっていろ」
「う、うん」
なにが悲しくて男の胴に腕を回さなければいけないのかと一瞬思ったが、乗馬経験などない類は馬が歩くたびに上半身がグラグラと揺れ、冗談ではなく気を抜くと落とされそうだったので遠慮なく掴まる。
「……あのさ、竜族って人間嫌いって聞いたけど、あんたはどうなの?」
「俺は別段どうも思っていない。罪は犯した者が償うべきだと思っているそれだけだ。血の報復については事件の元となった人間は確かに憎いが、こちらもやりすぎた面もあると思う。時空の歪みに落ちるたび殺される人間を見るのは気分のいいものではないしな」
「そっか……」
色々怖い選択肢を迫った割には、悪いやつではなさそうだと少し安心した。
あの選択肢はただ事実を教えてくれただけなのだ。
そして恐らく最後の選択肢は彼の優しさなのだろう。
よく考えればわかる事だった。誰がどうでもいい人間に己の血を分け与えてまで生きるという選択肢を示すだろうか。
そんなことを考えていると「お前はどうなんだ」と問いかけられる。
まさか逆に質問されるとは思っていなかったので驚いた。
「お、俺?」
「ああ。お前竜族についてどう思ってる?」
「……憎いとかは思ってないけど、怖いとは思ってる。俺たちはそうやって教えられて生きてきたから」
正直に告白したことで男がフッと笑う。
「素直だな。だが怖がるのは悪い事ではない。お前たちが俺たちを怖がってこちらの世界に干渉しようと思わなければ過去のような過ちは二度と起きることはないだろう。お互いの世界が交流したことでいいことももたらしたが、やはり姿も文化も違う者たちは真に分かり合えないのだ。互いに干渉しない方が平和でいい」
「そう、だな」
干渉しない方がいいなんて、確かに類もそう思うが、改めて言葉で断言されると少し悲しい気持ちになるのはなぜだろう。自分だって彼らを知ろうともしないで人間界に帰ろうとしているのに。
それからは特に会話もないまま森の中を進んだ。
感覚で10分くらいだろうか。森が開け、丁度崖の先端部分に来た。
「ほら、あれがゲートだ」
そう言って男が指した先、崖下の左側に大きな黒いゲートが見える。テレビで見たのと同じゲートが確かにそこにあった。そしてやはり人間界と同じように屈強な男たちが大勢その周りに立っていた。
人間界と違うと言えばゲート前を守る男たちが全員竜族であり、その腰には中世ヨーロッパで使われていたような立派な剣がささっているということだ。
彼らは皆何かを警戒するように視線を動かしている。
確かにここをひとりで突っ切ってゲートに飛び込むのは難しそうだ。
だがそうしなければ死ぬ。最悪でも人間をやめなければならない。
「どうする?これでも行くか?」
「…………」
無理だとわかっているのにそんなことを聞くなんて意地悪だ。
心の中でだけ悪態をついてその背中を睨む。
何事もなく平和に過ごしてきた普通の高校生が兵士相手に挑んでいけるわけがないだろう。即死だ。もう死の予感しかしない。嫌だ死にたくない。でもこのままここに留まるのは考えただけできつい。
わずかな希望にかけていっそ突っ込んでみるか。
頭の中で5回シミュレーションして5回とも突っ込んだ瞬間に死んだ。なんだこれ。イメージの中でも全く勝てる要素がない。
いつまでも決心がつかずに悩んていると、森の中から馬の足音が聞こえてきた。
誰かが近づいてきている。
それを男も感じ取ったのか「――まずいな」と呟いた。
「おい、決めるなら早くしろ。やっかいなのが近づいてくる」
「そんな事言ったって人生の一大決心をそんな簡単に出来るか!」
「死ぬか生きるか、それだけの事だろう」
「それは、そうだけど……。大体竜族になるってそんなに簡単に出来るのかよ?」
「契約自体は簡単だ。俺の血を飲めばいい」
「うえ、気持ちわる……」
生憎だが地元には動物のものであろうと血を飲む文化はない。想像だけで軽く吐き気がした。
「飲めばもっと具合が悪くなるだろうが、一時的だ。どちらにせよ死ぬよりはましだろう」
「そうだけどっ」
わかってはいるが仕方がないではないか。
人間やめる宣言を簡単にできるやつなどいるだろうか。少なくとも自分には無理だ。
その時森の奥から「誰かそこにいるのか!?」と声が響いてきた。
目の前の男より幾分高い声だが、間違いなく男の声だ。
第三者の声に大げさな程肩が震えた。
そんな類の前で男は馬から降りる。
続いて類も男に支えられるようにして馬から降ろされた。
「どうするんだ?まあこのままではゲートを突破することもできずにここで死ぬことになるが」
「あの声、知り合い?」
「ああ、よく知っている奴だ。俺にとっては頼れる奴だが、今のお前にとっては死神だろうな」
なんて怖い例えをしてくれるのか。的を射ているのかもしれないがわざわざ怖がらせなくてもいいではないか。やっぱり意地悪だ。
「……ひでぇな、俺が一体何したってんだ。これでも結構真面目に生きてきたんだぞ」
そりゃあ反抗期中に親に暴言吐いたりしたときもあったけど出かけてる間に部屋を一面ファンシーな飾りつけにされて「反抗期おめでとう!」という文字を壁に飾られて1日で終わったし、勉強が死ぬほど苦手なのに吐き気に耐えながら受験勉強頑張ったし、その結果人間やめる事態に陥るってどいういうことだ。あまりにも酷すぎる。言ってはなんだが、世の中にはもっと悪いやつがいると思う。
なんで自分がこんな目に合わなければいけないのか。
ああやばい、泣きそうだ。
もう選べる選択肢がひとつしかないことはわかっている。わかっているからこそ悲しい。もう二度と親には会えないのだろうか。友人ともくだらないやり取りをすることはできないのだろうか。
もっと親孝行しておけばよかった。友達にももっと素直に気持ちを伝えておけばよかった。
今さら後悔しても遅いことが頭の中を次々に駆け巡っていく。
だって仕方がないではないか。
まだ高校生の自分がもう二度と親や友人に会えない事態になるなど誰が想像できるだろうか。
大抵の人間は明日が来ることを当たり前のように信じている。明日が来ないことを想像して生きている人間など一握りだろう。
ついに一粒の涙が頬を伝い落ちた。
頭に男の手が触れ、壊れ物を扱うように2、3度撫でられる。
「運命とは時に残酷なものだ。……安心しろ。お前が契約すれば、生活も保障してやる。お前に不自由はさせない。俺が守ってやる」
「……なんでそんなに優しくしてくれるの」
「……さあ、なんでだろうな。自分でもわからない。ただ、死なせたくないんだ」
「――――」
死なせたくないと願ってくれる人がいる、それだけでいいではないか。
もう二度と親や友人に会えなくとも、大切に思ってくれる誰かがひとりでもいれば。これ以上なにを求めるというのか。
死ぬことを考えたら竜族として生きる方がよっぽどましだ。
「契約って具体的になんなの?兄弟の契りって言ってたけど」
「文字通りの意味だ。俺の血を分け与えられたものは俺の兄弟になる。血の契りによって結ばれた兄弟は何があろうとも離れられない」
「え!?ずっと一緒にいなきゃいけないのか!?じゃあ俺がかわいい子とデートする時も一緒!?」
「なぜそうなる。別に四六時中一緒にいるというわけではないぞ。ただそうだな、家族になるというだけだ」
「家族……」
「そうだ。俺がお前の新しい家族になる。だからつらいだろうが命を無駄にするな」
「――あ」
男の名前を呼ぼうとして、初めてそこで男の名前も知らないことに気付いた。
「あのさ、家族になってくれるって言うなら名前、教えてくれない?」
「ああ、すまん。名乗るのを忘れていたか。俺はルーク・アルシード。お前の名は?」
「俺は吉沢類」
「そうか。では今日からお前はルイ・ヨシザワ・アルシードだ」
「血飲むの決定してんのかよ」
類が契約を交わすことを微塵も疑っていないその発言に思わず笑ってしまった。
「なら死を選ぶと?ただ俺と誓いを交わすだけだぞ。お前の道は常に俺と共にあり、俺もまたお前と共に在る」
「結婚の誓いかよ……」
「それとは別だ。お前とは結婚しない」
「俺だってするか!」
「で、どうするんだ?」
こちらの話を聞いているようで聞いていないルークに逆らうだけ無駄な気がしてきた。
それに実際自分には死を選ぶ勇気などないのだ。初めから選択肢などひとつしかない。
「……わかったよ。とりあえずそうするしか生き残れないってんなら俺は人間やめても生きてやる!」
「フッ、そういう考えは嫌いじゃない。ほらしゃがんで口を開けろ」
「うぅー……」
覚悟を決めろと自分に言い聞かせてルークの前に膝をつく。
さら低い位置から見上げるルークは最早巨人のように見えた。
ルークはおもむろに左手の袖を捲り上げると右手で剣を抜く。そしてそのまま躊躇いなく左の掌を切りつけた。
血を飲むということはこうしなければならないのはなんとなくわかっていたが、目の前でやられるとさすがに動揺する。
「――――っ!おいっ」
ほぼ条件反射で止めようと立ち上がりかけたが、「動くな」と血に濡れた左手で肩を押さえられてまた膝をついた。
「契約により我と汝は兄弟となり、汝は種を変え我が同志となる。誓え、我にその生涯を捧げることを」
目の前に差し出された血に濡れた左手を取る。そして覚悟を決めて口をつけた。
「――誓う」
生暖かく、鉄臭い不快な液体が口に入る。
生理的に受け付けず、反射的に吐き出そうとして口を開いたら「吐き出すな。飲み込め」と口を大きな掌で押さえつけられてしまう。いつまでも口に含んでいることも出来ず、身体の反射で液体が飲み込まれていった。それを確認してルークの手が離れる。瞬間盛大にむせた。
鼻から抜ける臭いも、口に含まれていた感覚も、全部が不快だ。
こみ上げる吐き気に耐えていると、急に心臓が大きく脈打った。それから痛いくらいに早く脈打ちだし、呼吸が苦しくなる。
「な、んだ……、苦しい……」
胸を押さえると服の上からでも心臓の鼓動がわかる。
息が乱れ、いよいよ立っていられなくなった類はそのまま地面に倒れ込んだ。
心臓から全身に痛みが広がっていく。
もしかしたらこのまま死ぬのではないか。
そんな恐怖が思考を埋め尽くす。
見上げたルークは相変わらずの無表情で見下ろしている。
まさかハメられたのでは、そんなことを思ったのを最後に意識はふわりと現実を離れた。
音だけが微かに耳に届く。
これは、馬の足音だ。
どうやら先程の音の主がやってきたらしい。
「探したぞ」
「ああ。すまん」
「まったく……。お前が好き勝手に行動するのはいつものことだがな。で?なんだ、このぼろ雑巾のようなものは」
「俺の兄弟に酷い言いようだな」
「はあ?兄弟?だがこの匂いは……」
「死にたくないというので血を分けた」
「はああ!?馬鹿かお前は!自分の血の特殊性を理解しているのか!しかもこんな中途半端に種を変えて……。どうせなら一思いに殺してやればよかったんだ。それが余程こいつの為だった。お前のせいで死ぬよりも辛い事になるかもしれないぞ」
「手厳しいな。だがこいつは死なせたくなかったんだ。安心しろ、我が儘を通した責任は取る」
「お前が取れるような責任ならいいけどな……」
誰かのため息を最後に類の意識は完全に途切れた。
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