第34話 激情【越川】
分別のある振りはもうたくさんだ。
独り瞳子を思う時、越川圭介はいつもそう考えていた。
二年前に
いっそ彼女を抱いてしまえばいい。
それができないならば、さっさと手放してしまえばいい。
そう思うのに、己や相手の思いに真摯に向き合おうと不器用に藻掻く瞳子を前にすると、理性の利く男として大切に扱いたくなる。
そこから強引に引き上げることも、諦めて手を離すこともできずに──
けれども、彼女がある日を境に藻掻くのをやめた。
足を取られていた沼地から自分で立ち上がったのだ。
繋いでいた手を離すタイミングが来たというのに、越川にはそれが出来なかった。
“僕にも最後の賭けをさせてください”
そんな提案をして、初めて彼は気がついた。
自分がもうとっくに分別などついていなかったことに──
***
「悪い。今日はやっぱり直帰にするよ。大事な用を思い出した」
取引先との打ち合わせを終え、社へ戻る地下鉄の改札前で越川は同行の後輩にそう告げた。
会釈して立ち去る後輩を見送り、背広の内ポケットから携帯を取り出して画面を確認する。
時刻は午後五時四十七分。
着信もメッセージの受信もない。
あの “彼” のために人生を賭けると瞳子から決意を告げられて、今日でちょうど一週間。
ギロチン台に首を預ける心境でこの毎日を過ごしてきたが、彼女からは現時点で何の連絡も来ていない。
律儀な彼女のことだ。
彼の元に行くことが決まったのなら、自分の元へ報告と謝罪があるはずだ。
いまだ決着がついていないということなのか、それとも、こちらに連絡をする余裕のない状況なのか──
今日は彼女の定休日だから、彼と一緒に過ごしているということも考えられる。
そう推測し直しても嫌な胸騒ぎが収まらず、手にした携帯の画面をタップした。
コールが続くにつれて胸騒ぎが増幅していく。
二十回ほどのコールの後で諦めて通話を切る。
逡巡した後に意を決した越川は、改札を抜けて瞳子のマンションへ向かう方面のホームへと駆け下りた。
彼女の自宅にいる二人と鉢合わせなどしようものならとんだ道化だ。
けれども、確かめずにはいられない。
ギロチンの刃を繋ぐ綱を自ら切り落とす覚悟で、閉まる寸前の車両ドアに飛び込んだ。
***
マンションに着いたけれど、電話をかけてもインターホンで呼び出しても応答がない。
エントランスのドアの脇で所在なげに立ち尽くす越川の前を、帰宅した住人達が訝しげに一瞥しながら通り過ぎていく。
このままでは不審者として通報されかねないと焦り出したところに、宅配業者が台車を押してやってきた。
罪悪感が針のように背中を刺すが、越川はバッグから鍵を探す素振りをしつつ彼の後に続いてオートロックのドアをすり抜けた。
玄関ドアのインターホンにもやはり応答しない。
躊躇いつつも三回押し、さらに十を数えてからドアハンドルに手を掛けた。
ガチャリ、と音がして呆気なくドアが開く。
と同時に、部屋の奥から冷えた夜風がドアを押し開けるように流れ出てきた。
窓が開いている……!
突沸した胸騒ぎが越川の背中を押した。
「瞳子さん──!?」
慌てて靴を脱ぎ、廊下の奥へと走る。
バンッ! と勢いよくドアを開けると、果たして正面の掃き出し窓が開いており、五階のベランダから身を乗り出すように下を覗いている瞳子の後ろ姿が見えた。
「瞳子さんっ!! 早まるな!!」
越川はそう叫ぶと後ろから彼女を羽交い締めにし、居室へと引きずり込んだ。
抵抗もなく、越川に抱きしめられたままフローリングにへたり込んだ瞳子がゆるゆると顔を向け、「圭介さん……?」と呟き見上げた。
泣き腫らした目であることは頼りない月明かりの下でもわかる。
顔を見られたくはないだろうと敢えて照明を点けず、彼女を抱きかかえたまま越川は穏やかに話しかけた。
「何度も連絡したんですが、応答がなかったから心配になって来たんです。間に合ってよかった……」
しばらくベランダに佇んでいたのだろう。
腕の中に囲った彼女は髪も衣服もひんやりとしていて、このひとを失わなくてよかったと安堵がどっと吹き出して思わず身震いする。
「ご心配かけてすみません……」
越川の胸に寄りかかるでもなく、かと言って腕の中から逃れるわけでもなく、瞳子は弱々しくそう呟いた。
「いっそ消えてしまいたかったんです。でも、できなかった……。私が幸せにならなかったら……彼はまた深く傷ついてしまうから……」
小刻みに揺れ出す声。
嗚咽を漏らす瞳子の背中を越川は優しく擦り続けた。
彼女を抱きしめるのは二度目のことだ。
“彼” の存在を知るまでは、過去の男性との付き合いやセクハラで悩み続けていたという彼女を苦しめないようにと、彼女が自ら踏み出してくれるまではと手を繋ぐだけのスキンシップに留めていた。
“彼” と彼女が体で繋がっていると知ってからは、激しい嫉妬に苛まれた。
力ずくで抱いてしまいたい衝動に何度も何度も駆られた。
けれども結局それはできなかった。
たとえ瞳子が自分とのセックスを拒否しなかったとしても、“彼” と同じ土俵で争うことが怖かったからだ。
心の繋がりで勝負するしか勝ち目はないと、自らを律しながら彼女に接してきた。
唯一彼女を抱きしめたのは、彼に拒まれ自分に寄りかかることもできず行先を見失った瞳子を慰めたときだった。
自分の人生を賭けて彼にぶつかったにも関わらず、彼女はまたしても拒まれた。
彼との未来が絶たれたのなら、もう何も恐れることはないのではないか──
彼女の温もりが、柔らかさが腕に馴染むにつれ、抑え込んできた情欲が胸の奥で膨れ上がる。
いまだ涙で震える瞳子を抱きしめたまま、越川は彼女の耳元で囁いた。
「瞳子さん……。僕が告げた最後の賭けを覚えていますか? あなたが彼に受け入れられなかった時は、僕があなたを全力で奪うと──」
彼女の細い肩がぴくんと跳ねて強ばった。
それでも最早止まらない。
「あなたが幸せにならなきゃいけないのなら、僕が必ず幸せにします。僕と一緒に歩む人生で良かったと心から思ってもらえるように、僕があなたを守ります。だから……今からあなたを奪わせてください」
腕の中で俯く瞳子の顎に触れ、身を屈めて口づける。
柔らかなその感触に、湧き上がる熱情はさらに温度を上げていく。
彼女の唇を貪りつつ、髪に指を絡ませて華奢なうなじを掻き抱く。
やがてセーターの下に手を潜り込ませ、ずっと触れてみたかった豊かな胸に掌をあてがうと、彼女の体がびくんと跳ねた。
「瞳子さん……。嫌なら全力で抵抗して。大声で叫んで僕を突き飛ばして。それくらいしてくれなきゃ、もう止められない──」
背中に回した腕を解き、服や下着を取り去って冷えた床に彼女を横たえる。
仄かな月明かりの下、輝きを放つように白く浮かび上がる稜線の美しさに越川は息を飲んだ。
その滑らかな肌に口づけようと近づいて、胸元に咲いた紅い痣をみとめる。
小さく、けれどくっきりと咲くその花は、瞳子の体のいたるところに点々と残されていた。
ここまで思いを残していて、どうして────
彼女を愛しつつも拒んだ “彼” への憤り。
残された紅い花に囚われる瞳子の肉体の美しさ。
心が張り裂けそうなほどの激情が越川を征服する。
「瞳子さん、愛してる……! 僕が絶対に幸せにします。絶対に……!!」
越川の言葉に、固く閉じられていた瞳子の瞼から再び涙が滲み出る。
床に落とされていた彼女の腕がゆるゆると上がり、覆いかぶさる越川の背中に力なくのせられた。
「ありがとう…………」
消え入りそうなその声を聞いて、越川は再び彼女の唇を塞いだ。
それから、身体中に咲く紅い花を一つ一つ摘み取るように瞳子に口づけていった。
彼女の唇から涙混じりの吐息が儚げに漏れる。
「愛してる……」
耳元でもう一度囁いてから、越川は瞳子と肌を重ね、彼女の中に深く深く沈み込んでいった。
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