第35話 激情【礼隆】
いっそ本当に溶け合ってひとつになれていたらどんなによかっただろう。
そうすれば、傷つくことも苦しむことも悲しむことも、すべて自分の痛みとしてこの身に受け入れることができたのに──
蜜のように甘かったあの夜、彼女が見せた幸せそうな寝顔。
沖縄行きを早めたあの日、彼女が絞り出した涙に濡れた声。
もう一年も前のことだというのに、その記憶は未だ色褪せることなく礼隆の心をきりきりと締め上げ、耐えかねた生傷の痛みに呻きを漏らす日々が続いている。
いっそ本当に溶け合ってひとつになれていたら──
けれども、いくら体や心を寄り添わせても完全にひとつになることなどできないのだ。
傷つき、苦しみ、悲しむのは結局彼女であり、自分が全てを引き受けられるわけはない。
それだけじゃない。
もしも彼女を傷つけ、苦しませ、悲しませるのが、他でもない自分だったとしたら──
瞳子をかけがえのない大切な存在だと思えば思うほど、礼隆はその恐れに身震いが止まらなくなった。
求めることをとっくに諦めていた愛情を突然勢いよく注がれたって、干からびた心では彼女の思いをきっと溢れさせてしまう。
受け止めきれずに零れ落ちていく雫が彼女を傷つけたとしても、自分ではどうすることもできそうにない。
あの “彼” のように、彼女の全てを掬い上げて受け止められるような人間には敵わない。
瞳子の話を聞いて、礼隆はそれを痛感した。
“彼” は全てを知っていた。
自分というセフレの存在を、そして自分に対する瞳子の思いを知った上で、彼女の決意を見守り、結末を受け容れるつもりだったのだ。
未熟な自分がそんな大人の男に到底敵うわけがない。
彼女の幸せを本気で願うのならば、身を引くべきが自分であるのは明らかだった。
だから、これで良かったのだ──
天井をじっと見つめていた眼を手の甲で覆い隠し、寝転がった自室のベッドで礼隆は今日も呻きを漏らした。
重苦しい吐息を遮るように枕元の携帯が軽快なメロディを奏でる。手に取り画面を操作すると、リサからのメッセージが表示された。
いよいよ今日の夕方の便で、彼女が沖縄に着くらしい。
当面の生活費と引越し費用、そして通信制高校の授業料に充てるため、彼女は一年をかけて十分な資金を蓄えた。
もう二度と風俗の仕事に就かないことを条件に、礼隆は彼女のサポートを約束した。
思えばリサもこの一年で随分と変わった。
傷を舐め合う相手を失いたくなかったのだろう。礼隆が沖縄へ移ったばかりの頃は、追いかけて行きたいと駄々ばかりこねていたものだ。
そんな彼女を受け容れるでも突き放すでもなく、礼隆は変わりつつある自分自身の姿や思いを折に触れ彼女に伝えてきた。
沖縄への就職を決めたのは、脱線した人生から逃げるためであったと気づいたこと。
けれども今は新しいレールを作るために、こちらでの生活を頑張っていること。
仕事や母の看病に追われながらものんびりとした空気や美しい自然に癒されて、これまでになく充実した日々を過ごしていること。
いつしかリサも感化され、自分も人生をやり直したいと言うようになった。
彼女が新しい未来へ向かうためならば、“同じ傷” を抱えていた者としてできる限りの協力をしてやりたいと礼隆は考えた。
高校中退のリサが高卒資格を取れるよう通信制高校への入学を勧めたり、沖縄でのアパート探しも手伝った。
せっかく彼女も新しい人生のレールを敷くための一歩を踏み出したのだ。
自分への依存度が高まらない程度に距離を取りつつ、今後も彼女を応援していくつもりだ。
今日仕事が休みであることをリサに伝えてはいなかったが、メッセージには到着予定時刻も記されている。
せっかくだから後で空港へ迎えに行ってやろうかなどと考えていると、祖父が自分を呼ぶ声が聞こえてきた。
どうやら昼食の用意ができたらしい。
階下のダイニングへ降りると、鰹だしと醤油の良い香りが鼻をくすぐる。
「ゴーヤチャンプルー? まだ三月なのに、こっちじゃもうゴーヤが出回ってるんだね」
好物を前に礼隆が席につくと、斜め向かいに座る祖母が微笑んだ。
「これは恭子が作ったさ。おばあが買ってきたゴーヤを見て、自分が作るって言い出してねえ……」
「え……っ、母さんが?」
祖母の目尻に涙が溜まっているのを認め、礼隆は目の前の母に視線を移した。
少しずつ顔色は良くなってきているが未だに頬は痩せこけ、寝たり起きたりを繰り返す毎日の母・恭子。
そんな彼女が礼隆と視線を合わせると、口元に淡い笑みを浮かべた。
「礼隆は私が作るゴーヤチャンプルーが大好きだったでしょう? じいちゃんからゴーヤが送られてくると大喜びでリクエストして……。それを思い出したら、久しぶりに作ってみたくなって」
「うん。そうだったね。俺もよく覚えてるよ……。じゃあ、いただきます」
父との離婚をきっかけに心を壊した母が、久しぶりに自らキッチンに立った。
込み上げてくる喜びに胸を詰まらせつつも、礼隆は十数年ぶりの母の手料理を口に運んだ。
「美味いよ。ほんとに美味い。昔食べたのと変わらない味がする」
味わいながら思い出すのは、幼い頃の食卓。
父と母が交わし合う笑顔。
両親が自分に向ける眼差し。
「礼隆が喜んでくれるなら、母さんまた作るわ」
母の微笑みに温かく穏やかな記憶が重なった瞬間、目の奥がじんと熱くなった。
「うん……また作ってよ。俺にとって、母さんの作るゴーヤチャンプルーは幸せの味がするんだ」
恭子は涙ぐむ息子をじっと見つめた後、自分の前にほんの少しだけ盛られたそれに視線を落とした。
心を壊した彼女にとって、毎回の食事は生命を維持するための苦痛な作業でしかなかった。
一時はその苦痛が耐え難く、拒み続けて入院することすらあった。
礼隆が一緒に暮らし出してからは共に食卓を囲むものの、美味しそうに食べる姿を見せたことは一度もない。
彼女がゆるゆるとした動作で箸を取り、自分の作ったゴーヤチャンプルーを口に運んだ。
「うん……苦いけれど、懐かしくて温かい」
その味によって、礼隆と同じく幸せの記憶が引き出されたのだろう。
恭子は涙を流しながら、ゴーヤチャンプルーを少しずつ口に入れていく。
「美味しい……。私もこの味が大好きだわ……」
手放した過去を手繰り寄せるように、二人はほろ苦くも優しさに溢れたその味をゆっくりと噛み締める。
そんな母子を黙って見守っていた祖父母も、目尻をそっと拭って食事を始めた。
遠い過去に失くしたはずの幸福の記憶は、鍵のかかった扉の奥にきちんとしまわれていた。
母も自分も、今ようやくそれを取り出すことができたのだ。
埃を払ってみると、色褪せて輪郭は朧気に崩れているけれど、胸に抱えた時のやわらかさや温もり、確かな重みは変わらないままだ。
そうか。
こういうことなんだ。
胸の深いところにつかえていた何かがすとんと落ちたそのとき──
「瞳子さん…………」
礼隆の口から、彼女の名前が零れ落ちた。
色や形が変わっても、愛はずっとそこにあり続ける。
それを教えてくれたのは彼女だった。
雫となった彼女の名が、張りつめた感情の上にぽつんと落ちた。
そのひとしずくがあっという間に波紋を広げ、彼女への思いが心の縁からとうとう溢れ出す。
どんなに奥にしまい込んで鍵をかけたって、きっとこの思いも消えることなくあり続けるのだ。
それは決して辛いだけのことではない。
むしろ永遠にその温もりや重さを失わないのならば、自分はきっとこの先も人生のレールを敷いて進んでいける。
同じように、彼女が抱える自分への思いも彼女の人生に温もりを与え続ける存在であるのだろうか。
きっとそうであってほしい。
離れていても、彼女とは心の奥底で永遠に繋がっていたい──
礼隆の心の表層にそんな願いが浮かび上がったとき、とめどなく溢れる感情が勢いを増し、毎日の呻きと引き換えに築いてきた堤防を押し崩した。
彼女には幸せになってほしい。
心の奥で繋がっていられればそれでいい。
だが本当にそれを願っているのか?
いや、違う。そうじゃない。
自分が本当に望んでいるのは──
心の奥に仕舞い込んでほしくなどない。
どんなに色褪せて形が変わっても、この愛を両手でしっかりと抱え続けていてほしい。
たとえ溶け合いひとつになれなくても、互いに傷つけ合って苦しんでも、同じ思いを二人で抱えながら寄り添って歩んでいきたい──
「礼隆……? どうかしたのか?」
箸が止まったまま苦しげに歪む表情に気づいた祖父が、心配そうに礼隆の横顔を覗き込んだ。
その声が激流を押しとどめ、暴れる感情を再び押さえ込む。
「いや…………なんでもないよ。色んなことをちょっと思い出しただけ」
彼女の幸せを願って一方的に別れを告げたのは自分ではないか。
今さらこんな本音をぶつけたら、彼女が手に入れた幸せを壊すことになってしまう。
再び築かれた堤防の内側で、流れ出る先を見失った激情がますます暴れて
自分が本当に望むことは──
彼女に本当に望むことは──
「……ごちそうさま。ちょっと出かけてくる」
礼隆は箸を置くと、心配かけまいと母と祖父母に精一杯の笑みを向けつつ席を立った。
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