第33話 別離

 瞳子がアパートに着く時間は見当がついていたのだろう。

 電話をかけると、無機的なコールはすぐに応答へと切り替わった。


「……はい」

「礼隆君! 本当にもう沖縄にいるの!? どうしてそんな急に──」


 混乱するまま言葉を詰まらせた瞳子とは対照的に、蜜のようなあの夜と同じ甘やかな声色で礼隆が答える。


「うん……。ほんとに急でごめん。出発前にもう一度だけでも会いたかったけど、瞳子さんを見たら決意が鈍りそうだったから」

「決意?」

「そう、決意。……瞳子さん、やっぱり俺はこの先もひとりで生きていく。俺達はここで終わりにしよう」


 穏やかに別れを告げる声。

 瞳子の混乱はますます加速する。


「なんで──? どうしてっ!?」

「……瞳子さんが大好きだから。愛してるから。だから、壊したくないんだ」


 その言葉で瞳子が思い出したのは、愛情の色や形が変わっていくことを極度に恐れる礼隆の心の傷だった。

 再び開いたその傷口を塞ごうと瞳子は必死に言葉を探す。


「大丈夫! 何も壊れたりなんかしないよ。たとえ何があっても、私が礼隆君を好きな気持ちは変わらない。ずっとずっとあなたに寄り添っているから、だから怖がらないで」


「そう言ってくれて嬉しかった。瞳子さんなら、きっとずっと俺の傍にいてくれるって信じられた。……だからこそ怖くなったんだ。瞳子さんを壊してしまうことが」


「私を壊す? それって、どういう──」


「瞳子さんは幸せに向かうレールにすでにのっている。そこから外れて俺と新しいレールを作ったとしても、俺には瞳子さんを彼氏以上に幸せにできる自信がないんだ」


「そんなの、どんなレールにのったって先のことはわからないわ。少なくとも今の私の幸せは、礼隆君と共に歩む未来を選ぶことよ」


「俺も、瞳子さんとずっと歩んでいけたら幸せだと思う。けど、瞳子さんを信じることはできても、俺は自分自身を信じることができない。この先、俺が瞳子さんを傷つけて、あなたをこの手で壊してしまうかもしれないって思うと怖いんだ……」


 落ち着いていた礼隆の声が言葉を重ねるにつれ震え出す。

 深く大きな傷の痛みを必死で堪えているかのように。


「礼隆君が不安になるのは仕方のないことだと思う。でもね、私は壊れたりなんかしない。この先どんなことがあっても絶対に後悔なんかしない。あなたに寄り添うって決めたときから、もうその覚悟はできているわ」


「たとえ瞳子さんに覚悟があったとしても、壊れるときってほんとにあっけないんだよ。俺は母さんを見ていたからそれを知ってる。……そして、瞳子さんは俺の母さんによく似てるんだ」


「私が、お母さんに……?」


「器用にこなせるタイプじゃないくせに、真面目で色々なことを抱え込んじゃってさ。純粋で愛情豊かで、相手のことばかり考えて……。だからこそ、つまずいたときには大きく崩れてしまう怖さがある。母さんが壊れていくのを見ていた俺には、それがたまらなく不安なんだ。もし瞳子さんがそんな風に壊れてしまったら……そして、瞳子さんを壊してしまうのが自分だったらって考えると……」


「そんな──」


 礼隆の傷の深さを思えば、薄っぺらい絆創膏のような言葉をいくら貼り付けても何の手当にもなりはしない。

 それがわかっていても、機械を通して言葉を伝えることしかできない状況がたまらなくもどかしい。


「礼隆君……やっぱり電話越しなんかじゃ、お互いの気持ちがちゃんと伝わらないよ。明日は仕事休みだし、日帰りでも私がそっちに──」

「駄目だ! 来るなっ!」


 宥める言葉を遮っての強い拒絶に、瞳子は心臓を殴られたような衝撃を受けた。

 呼吸が一瞬止まった後に、真っ黒な絶望がじわじわと広がっていく。


「どう……して……」

「本当に大切なひとだから。瞳子さんには絶対に幸せになってほしいんだ。俺がそれを約束できたらどんなにいいか……。でも、俺じゃない。俺じゃないんだ」


 己に言い聞かせるように繰り返した言葉は涙に濡れていた。

 のたうつ感情を押しとどめていた堰が決壊し、人通りのある場所であることを忘れて瞳子も泣き叫ぶ。


「どうして!? こんなに好きなのに……っ!! 礼隆君じゃなきゃ駄目なのに!! 他の誰かと幸せになれるわけないじゃない!!」


「大丈夫。瞳子さんはきっと幸せになれる。ほんの一瞬の交わりでも、俺達はかけがえのないものを与え合えた。この一瞬の光が、この先の未来もずっとずっと照らし続けて支えてくれる。こんな風に思えるようになったのも、瞳子さんのおかげだよ。本当にありがとう」


「そんなこと言わないで……。こないだみたいに約束して……。ずっと一緒にいるって約束して……」


「夕日、見せてあげられなくてごめん。俺が幸せにしてあげられなくてごめん──」

「嫌……! 謝らないで! 嫌ぁ……!」

「ありがとう。大好きだよ。愛してる──」


 涙混じりの愛おしい声が通話終了の機械音に変わった瞬間、瞳子は泣き崩れた。

 突き上げてくる慟哭を抑えることもできず、立ち上がることさえできず、ひたすらに涙を流した。


 駅からの帰り道を急ぐ人達はそんな瞳子の横を無関心に通り過ぎていく。

 時折「どうしました?」と声をかけてくれる人もいたが、答えぬまま泣き続ける様子に皆が諦め立ち去っていく。


 やがて礼隆の部屋から出てきた浩一がへたり込んで泣きじゃくる瞳子に驚いて抱き起こし、車に乗せてマンションへと送った。


 そんな記憶も曖昧になるほど瞳子は泣き乱れ、果てしなく暗く深い絶望の淵へと落ちていったのだった。


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