第32話 出立

 俯いて嗚咽を漏らす礼隆。そのアッシュグレージュの柔らかな髪に指を埋め、瞳子は彼を抱きしめた。


 礼隆はしがみつくように瞳子の背中に腕を回し、幼な子のように泣きじゃくった。


 ガラス越しに暮れなずんでいた風景もいつしか藍に染まりきり、無数のビルから放たれる光は星よりもまばゆく、街と夜空との境界を曖昧にしている。


 震える礼隆の指先から力が抜けてきた頃に、瞳子は彼を抱きしめたまま囁いた。


「礼隆君の乾いた心の奥底には、こんなにいっぱいの涙が溜まっていたんだね……。ずっと重たくて苦しかったよね」


「自分ではそんなに溜め込んでたつもりはなかったんだけど……。でも、瞳子さんの前で色々吐き出したおかげで随分すっきりした。傍にいてくれて本当にありがとう」


 そっと体を離すと、瞳子は礼隆の隣に座りガラス越しの風景に目をやった。

 瞳子の視線の先を泣き腫らした赤い目で追った礼隆が呟く。


「いつの間にかすっかり暗くなってたんだね。結局夕暮れの景色を楽しむ余裕なんてなかったな」

「ふふっ。そうね。でも、ここからの眺めじゃなくていいから、礼隆君と二人で夕暮れをゆっくり眺めたいな」

「沖縄の海に沈む夕日も綺麗だよ」

「きっとすごく素敵だろうね。今度連れて行ってね」

「うん」


 どちらからともなく指と指を絡め、体を寄せ合い夜景を見つめる。


「……瞳子さんは、仕事や彼氏のこと、この先どうするつもりなの?」


 沈黙の後、僅かに強ばらせた声音でそう尋ねてきた礼隆に、瞳子はできる限り穏やかに受け答えた。


「仕事はすぐには辞められないかもしれないけれど、週明けには職場で相談してみるつもり。……それに、彼のことは心配しなくても大丈夫」


「大丈夫って……?」


「実はね、彼には全てを話してあるの。礼隆君とのこれまでの関係も、礼隆君への私の思いも……。私の決意も理解してくれたし、礼隆君の元へ行くことを彼が引き止めたりはしないわ」


「…………そう」


 再び沈黙が流れる。


 礼隆は自分との未来をまだ不安に思っているのだろうか。

 そう考えた瞳子が彼の肩に頭を預けると、言葉を紡ぐ前に礼隆の腕に抱き寄せられた。


「抱きしめていてもまだ瞳子さんが遠いよ……。もっと近くに感じたい」

「礼隆君……」

「瞳子さんが欲しい。重なり合って、全部溶け合ってしまいたい」


 その言葉に、眼差しに煽られて、瞳子の胸のおきが小さな炎の花を咲かせた。


「私も……。礼隆君と溶け合ってひとつになりたい。ずっとずっと──」


 言い終えぬままに唇を塞がれる。

 熱を帯びた舌を絡め合うと、胸の奥で燃え上がる紅蓮の炎が体じゅうに広がっていく。

 柔らかな髪に再び埋めた瞳子の指先にまでその熱情はほとばしり、愛しき者の輪郭を狂おしげになぞっていく。


 瞳子の火照る耳や首筋に唇を押し当てながら、礼隆が彼女の背中をソファの座面にゆっくりと沈めた。


 優しいキスを繰り返しながら互いの服も理性も剥ぎ取っていく。

 二人共に一糸纏わぬ姿で情欲をあらわにすると、両の腕に瞳子を閉じ込めた礼隆の口から彼の思いが湧き上がるままに溢れ出た。


「瞳子さん。愛してる。瞳子さんに会えて本当によかった。こんな俺に寄り添ってくれてありがとう」


「私も礼隆君を愛してる。あなたと心で繋がれて本当に嬉しい。ずっと欲しかったものをくれてありがとう」


 彼の思いを受け止めて、同じ思いをまっすぐに返す。

 潤んだ礼隆の瞳が細められ、長いまつ毛が伏せられて、再びキスの雨が降り注ぐ。


 情欲を抑えてゆっくりと弄ぶ彼の指に瞳子の情欲は逆に掻き立てられ、もどかしさに思わず腰がうねる。


 ねだるような瞳子の反応に刺激された礼隆の指先が淫らに動き始めると、瞳子の中の悦楽の花がいよいよ開ききった。


 激しく。

 ゆっくりと。

 深く、深く。

 煽り立てながら。

 慈しみ合いながら。


 二人は溶け合い、ひとつになった。


 一生に一度あるかないかの夜。

 艶やかに甘く蕩ける極上の蜜のごときひとときを、二人は心ゆくままに味わい尽くしたのだった。


 ***


「お先に失礼します」


 月曜日の終業時間がくると、瞳子はデスクの上を手早く片付けてそそくさと席を立った。


 今日は礼隆が沖縄に発つ前に会える最後の夜となる。

 持っていく荷物はそれほど多くないと言っていたが、荷造りは進んでいるのだろうか。

 今晩はそれを手伝いながら、今後の話を詰めることになるかもしれない。


 夕食はどうしよう?

 調理器具なども片付けるのだから、今晩は外食か惣菜を買って部屋で食べるかのどちらかがいいはず。

 どのように予定しているのか彼に聞いてみよう。


 会社のエレベーターを降りながら、瞳子は礼隆にあててメッセージを送信した。

 送信完了を確認し、携帯をバッグにしまうと地下鉄の駅へと急ぐ。


 沖縄へ移り住むために仕事を辞めたいという話を、瞳子はまず同僚の美月に切り出そうと考えていた。

 しかし、美月は昨日外勤だったし、土曜日の休日を瞳子に譲ったがために今日は休みとなっている。

 彼女に話すタイミングは水曜日のランチになりそうだ。


 地下鉄はターミナル駅を過ぎて地上へと上がった。

 座席に座り、混雑する車内のどこに焦点を合わすともなく、瞳子はぼんやりと考える。


 水曜日は礼隆がいよいよ沖縄に出発する日だ。

 出来ることなら空港まで一緒に行きたかったが、仕事的に休むのは厳しいし、礼隆の方も見送りを遠慮していた。

 次に二人で会えるのはゴールデンウィーク辺りだろうか。

 彼の就職先のホテルが忙しいだろうから、連休を外して会いに行こう。


 車内アナウンスが流れる。

 間もなく礼隆の自宅の最寄り駅へと着く。

 立ち上がり、ドアの脇で降りる準備をしつつバッグから携帯を取り出した。

 先ほど送ったメッセージは未読のままだ。

 片付け作業に追われて着信に気づいていないのかもしれない。


 駅を出て、コンビニでおにぎりやサンドイッチを買い込むと、瞳子は彼のアパートへ向かう通りを歩き出した。


 角を曲がり、アパートの入口に到着する。

 外階段を二階へと上がると、彼の部屋の小窓から明かりが漏れているのが見えた。


 玄関脇のチャイムを押すと、程なくしてガサガサと音がし、続いてガチャリとドアが開いた。


「あ……っ」


 現れた人物に、瞳子は息をのんだ。


 背が高く、柔らかなくせのついた髪、端正な顔立ち。

 彼によく似ているが、白髪混じりの黒髪に彼よりも骨ばった輪郭。目尻に刻まれた皺。

 礼隆の父である松本浩一であった。


「こ、こんばんは! 先日は大変お世話になりました」


 戸惑いつつも慌てて頭を下げる瞳子に、浩一は穏やかに微笑みかける。


「こんばんは。すっかりお元気になられたようで何よりです」


 浩一が礼隆の部屋に来ていたのは意外だった。

 実家で引き取る荷物を取りに来たのだろうか。


「あの……。私、今日は礼隆君の引越しのお手伝いに来たんですけど、彼は……?」


 自分の声が聞こえているのなら居室から出てきそうなのに、礼隆がいる気配はない。


 廊下の奥へと視線を泳がせながら瞳子が問うと、浩一が躊躇いがちに受け答えた。


「礼隆なんだけどね……。実は出発の予定を早めて、今日沖縄に行ったんだ」


「え…………っ?」


「僕の方にも昨日突然連絡が来てね。あちらで使うものは送ったから、後の処理はよろしく頼むと言われて今日は片付けに来たんだよ」


 浩一の言葉が唐突すぎて、状況がまったく飲み込めない。

 呆然として言葉を失う瞳子を気の毒そうに窺いながら、浩一が話を続けた。


「彼から、今晩あなたがアパートに来るだろうからと言伝ことづてを頼まれたんだ。“あなたがここに着く頃には沖縄に着いているはずだから、電話してほしい” って」


「電話、ですか──」


 出発を早めざるをえない事情ができたのだろうか。

 それにしても、なぜ彼から直接連絡が来なかったのだろう。


「ありがとうございます……。彼に電話してみます」

「うん。そうしてあげて下さい」

「それじゃ、すみませんが私はこれで──」

「あ、梓川さん」


 一礼して去ろうとした瞳子に浩一が呼びかけた。


「一言だけお礼を言わせてください。変な言い方になってしまうが、先日あなたがインフルエンザになったおかげで久しぶりに息子の顔を見ることができました。昨日も突然連絡が来てこの部屋で話をしたんだが、彼の顔つきが随分柔らかくなったように感じた。礼隆が変わりつつあるのは、あなたのおかげじゃないかと──」


「いえ、私は何も……。とにかく彼に電話してみます……」


 感謝の言葉を向けられても、どう返すべきか考えることができない。

 さざ波と呼ぶにはあまりに不穏なざわつきが瞳子の心を覆っていく。


 もう一度浩一に頭を下げると瞳子は早足で階段を降り、歩道の脇ですぐさま携帯を取り出した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る