第30話 動揺
“あなたを奪いに行きます”
越川がこれまで見せたことのない激情の片鱗が、瞳子の心に鋭く刺さる。
呼吸すらままならなくなるほどの胸の圧迫に体を硬直させていると、穏やかさを失わない声音のまま越川が言葉をつなげた。
「瞳子さんを失いたくない気持ちと、瞳子さんが後悔を残さないよう応援したい気持ち、どちらも僕の本心なんです。どちらかに割り切ることができない僕は、ライバルであるはずの彼の選択に賭けることしかできない。そんな自分の弱さが嫌になります」
そう越川は自嘲したが、瞳子には心に刺さる彼の思いを引き抜くことができなかった。
つい先日までの自分もまた、弱さゆえに闇の森を彷徨い続けていたのだから。
互いの決意にはその後触れることもなく、越川が一週間後の会食の約束を切り出してくることもなかった。
当たり障りのない会話をしながら食事を喉に押し込み、ターミナル駅で別れて電車に乗り込んだのだった。
***
そして土曜日。
朝の空気を春めいた陽射しが暖め始めた頃、瞳子は礼隆と初めての待ち合わせをするために彼のアパートの最寄り駅に降り立った。
待ち合わせ時刻に充分間に合う快速電車よりもさらに一本早い列車に乗り、駅前通りを見渡せるロータリーで礼隆を待つ。
やがて通りの向こうから、アッシュグレージュの髪を柔らかく弾ませた彼が近づいてきた。
「おはよう。結構早く着いたんだね。ホームのベンチに座ってればよかったのに」
「おはよう。待ちきれなくて外へ出てきちゃった。少しでも早く礼隆君に会いたかったから」
心に湧き上がる思いを今日は思いきって口に出してみる。
恋人の前で甘い感情を吐露したことなどこれまでなかったが、礼隆に対する思いだけはひとしずくも零すことなく彼に伝えたいと思った。
礼隆は無言のまま穏やかに微笑むと、瞳子の指の間に自分の指を滑り込ませ、「行こうか」と改札へ向かう階段を上り始めた。
「で、瞳子さんは今日どこか行きたいとこある?」
「遊園地に行きたいな」
「遊園地?」
「うん。久しぶりだし、楽しいかなって。礼隆君は最近遊園地に行ったりした?」
「……いや。最後に行ったのは確か小学生の時だよ」
礼隆の笑顔が僅かに強ばる変化を瞳子は見て取った。
やはり遊園地は両親と共に出かけたのが最後なのだろう。
止まったままの彼の心の時計を進めるためにも、まずは楽しい時間をなぞることで彼の心を
「大人になってからでもきっと楽しめるよ。今日は礼隆君といっぱい笑いたいから、明るくて賑やかな場所がいいの」
「……わかった。瞳子さんが行きたいならそこでいいよ」
「ありがとう」
地下鉄を乗り継いで、都心にある遊園地へと向かう。
麗らかな春の週末とあって、家族連れや若者で園内はかなりの混雑だった。
何をするにも行列に並ぶ必要があったが、瞳子にとっては礼隆と共に過ごす時間の全てが尊くて、どんな些細な出来事や会話でも全てを慈しみ楽しんだ。
「瞳子さんて、案外子どもっぽいところがあるんだね」
昼過ぎにようやく座席を確保できたフードコートの椅子に二人で座ると、喧騒を背にした礼隆がフライドポテトをつまみながら思い出したように笑みを零した。
「え、そ、そう? いい歳してはしゃぎすぎかな……」
「いや。年上っぽくなくて可愛いよ」
瞳子が心から楽しんでいるのが伝わるのか、人混みは好きでないと最初は顔を顰めていた礼隆も素直な感情を滲ませるようになっていた。
無邪気で無防備な微笑みを向けられ、瞳子の心に甘酸っぱい喜びが広がっていく。
「普段は控えめだし、物分りのいい大人の女って雰囲気だからさ。こういう一面はなんか新鮮だよね」
「今日は何をしてもすごく楽しくて、待ち時間もあっという間に過ぎちゃうの」
「だね。こういう所久しぶりだったけど、俺も案外楽しんでる」
“あなたが好き──”
礼隆への思いを、ありったけの表情で、言葉で、ぶつけていきたい。
この思いが揺らぐことのない確かなものであると、信じて安心してほしい。
視線を交わして微笑み合うと、瞳子は気恥しさを胸の奥に仕舞い込み、めいっぱい大きな口を開けてハンバーガーを頬張った。
***
穏やかな春の陽射しはまだ儚くて、午後も三時を過ぎると淡いオレンジ色の陽光が遊具をノスタルジックに照らし出す。
家族連れの姿が少なくなってきた頃、「そろそろここを出ようか」と礼隆が瞳子を促した。
「乗りたかったアトラクション、まだ一つ残ってたんだけどなあ」
「そうは言いつつ、瞳子さんも結構疲れてるんじゃない? たっぷり遊んだし、後はゆっくり過ごそうよ」
電車で移動し、礼隆に
「マグノリア・トーキョー……」
礼隆の研修兼アルバイト先であり、彼と初めて出会った場所。
「今日は瞳子さんに楽しませてもらったし、俺からのプレゼントだよ」
彼に案内されたのは、客室最上階、大きなガラス越しに大都会の街並みが広がる部屋だった。
「すごい景色……! こんなに広くて豪華なお部屋、取ってもらってよかったのかな……」
「ほんとはさ、俺が指定したのはこの部屋の隣のスーペリアルームだったんだ。けど、沖縄の系列ホテルに就職するお祝いと餞別を兼ねて、ジュニアスイートに格上げしてくれたみたい」
「そうなんだ。すごいね」
「部屋での夜景は後のお楽しみにして、今からスカイラウンジに飲みに行かない?」
「それも素敵だけれど、私は少しずつ暮れゆく景色を礼隆君とこの部屋でゆっくり眺めて過ごしたい──」
隣を見上げると、礼隆が柔らかな微笑みをのせて瞳子を見つめている。
この眼差しを、彼の心を、手離したくないと強く思う。
彼が前へと進むための線路を共に築きたいと強く願う。
「今日は私の行きたい場所に付き合ってくれて、最高の一日を演出してくれて、礼隆君は最後の思い出づくりのつもりなんでしょう? ……でも私、やっぱり礼隆君を思い出になんかしたくない」
「瞳子さん……」
「今日はお酒の力を借りずにちゃんと話がしたいの。私の思ってることを全部伝えたいし、礼隆君の思ってることも全部教えてほしい」
「…………」
目を逸らした礼隆を逃がすまいと、瞳子が咄嗟に彼の腕を掴む。
戸惑いに揺らぐ眼差しを再び瞳子に戻した礼隆が、沈黙の後にふっと笑みを零した。
「瞳子さんには敵わないな……。瞳子さんといると、いろんな感情が勝手に湧いてきちゃってさ。その度に自分自身のコントロールがきかなくて、どうしていいかわからなくなる」
「それは私も同じよ。礼隆君に出会って、今までの自分では想像できないくらい押し寄せる感情の波に翻弄されてる。それが辛いこともあるけれど……それでも私は礼隆君の傍にいたい。この先にどんなに苦しいことが待っていても、ずっとずっと礼隆君を愛し続けたい」
全身全霊をかけて注がれる瞳子の思いを前に、礼隆の瞳がさらに大きく揺れた。
その動揺を宥めるようにそっと瞼を下ろして息を吐くと、礼隆は瞳子に背を向け部屋の奥へと向かった。
「……とりあえずコーヒーを淹れるよ。座ってゆっくり話そう」
礼隆がコーヒーを用意する間、二人の間に沈黙が流れた。
テーブルにカップを置く音でそれを遮ると、礼隆がソファに体を沈ませながら口を開いた。
「……何から話せばいい?」
「まずは教えてほしいの。私と出会ったことで礼隆君の心に湧き出た感情がどういうものだったのかを」
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