第29話 決意

「これを、リサに?」


 月曜日の夜、部屋に入るなりハンドバッグから小さなチャック付き袋を取り出した瞳子に、礼隆は訝しげな視線を向けた。


「うん。こないだコーヒー代を預かったんだけど、お釣りがあったから。そのままにするのも気分が悪いし、礼隆君から渡してほしいの」


 常ならぬ瞳子の雰囲気を察し、礼隆は苦笑を浮かべつつその小袋を受け取った。


「あいつ、瞳子さんに接触したのかよ……。何かきついこと言われたんじゃない? 瞳子さんは気にしなくていいからね」

「確かにきついことも言われたけど、もっと気になることを言われたわ。……彼女と礼隆君が “同じ傷” を持ってるって」

「……同じ傷?」

「そう。それで私、その言葉がどうしても気になって──」


 打ち明けることを躊躇し、一度言葉を詰まらせた瞳子は礼隆の反応を確かめた。

 彼は僅かに瞳を揺らしつつ、瞳子をじっと見つめて次の言葉を待っている。


 どんな反応が返ってきても、自分の気持ちは変わらない。


 息を軽く吸い込むと、瞳子は彼を真っ直ぐに見つめて告げる言葉に覚悟を込めた。


「おでん屋さんに行って、女将さんに色々聞いてきたの。礼隆君の過去のこと……」

「…………そう」


 礼隆にとっては踏み込まれたくない過去だろう。

 だから、彼がその事実を聞いた時に見せた隙のない笑顔は瞳子にも予測できていた。

 怯んだりなんかしない、と目を逸らすことなく彼を眼差す。


「……で、瞳子さんは俺を可哀想な奴だって思ったの? それで今日は慰めに来てくれたわけ?」

「ううん」


 瞳子は首を横に振ると、スプリングコートを脱ぐこともしないまま礼隆に抱きついた。


「慰めるために来たんじゃない。礼隆君に寄り添いたくて来たのよ……」


 自身の過去を知られたことで、礼隆の心が強ばることはわかっていた。

 それをほぐすために、まずは肌を重ね合わせよう。

 そう考えていた瞳子は、彼の背中に回した手をセーターの中に潜り込ませ、引き結ばれた彼の唇を自分の唇で包み込もうと伸び上がった。


 そして、礼隆に突き放された。


「礼隆君……」

「そういうのやめてよ。お情けでセックスしてもらうほど俺は惨めじゃない」

「お情けなんてつもりはないわ。私は本当に寄り添っていたいだけ。誰よりも礼隆君の傍にいたいだけなの」

「瞳子さんは今までだって俺に寄り添ってくれてたじゃん。過去なんて今さら知る必要あった?」

「でも、あのは礼隆君の過去を知っているんでしょう? 私は何も知らないくせに思い上がっているだけなんじゃないかってすごく不安になって──」

「それって、瞳子さんがリサに嫉妬したってこと?」


 婉曲を挟まない礼隆の指摘に瞳子ははっとした。

 年上の自分が幼稚な対抗心を晒け出したことで、彼の心が冷めて離れていくのではないかと途端に怖くなる。


「礼隆く……」

「とりあえずコート脱ぎなよ。今日はだいぶ春らしい陽気で暖かかったよね。鍋を用意したけど、季節外れだったかな」


 ハンガーを差し出した礼隆は、瞳子が部屋に入ってきた時点まで巻き戻したように微笑むと、夕食の仕上げに取り掛かるために部屋の外へと出ていった。

 脱いだコートをハンガーに掛けつつ、瞳子の心は大きく揺らぐ。


 つい先ほどまでのやり取りがまるでなかったかのような彼の振る舞いは、過去の話についてこれ以上踏み込んでくるなという警告なのだろうか。

 これまでも寄り添えていたと彼が言うのなら、何も触れないままただ傍にいるのが最善なのだろうか。


 むしろ再び踏み込もうとしたら、今度こそ拒まれ切られてしまうのか──


 けれども、瞳子の心に刻まれた決意が、礼隆の引いた予防線の手前で躊躇する彼女の背中を押してくる。


“彼を幸せにしたい”


 与えられるべき愛情を大人の都合で取り上げられてきた彼に、誰にも奪われることのない愛を与えたい。


 敷かれたはずのレールから脱線したままうずくまる彼と、幸福に向かって伸びる新しい線路を築いていきたい。


「お待たせ。食べよっか」

 ドアを開けて土鍋を運んできた礼隆がいつもの笑顔を瞳子に向ける。


「うん」

 瞳子も微笑みをつくって頷き、テーブルの前に跪いてカセットガスの火を点けた。


 ***


「あのね、礼隆君にお願いがあるんだけど」


 瞳子は締めの雑炊を器によそいながら、できるだけ重くならないよう声音に気を遣いつつそう切り出した。


 差し出された器を受け取った礼隆の瞳に僅かな警戒が表れる。


「改まってなに?」

「今度の土曜日、私に時間をくれないかな。礼隆君との思い出に、一度でいいから外でデートしたいの」

「瞳子さん仕事休みなの? 彼氏と会う約束は?」

「会社の同僚に調整を頼まれて、今日急に決まったことなの。……彼のことなら心配しなくても大丈夫。それとも礼隆君の方に予定があった?」

「いや。週末は引越しの準備を始めようと思ってたくらいだけど……。わかった。土曜日は空けておくよ」

「ありがとう」


 断られなかったことに安堵しつつも、薄氷のごとき緊張を心に張ったまま瞳子は確認する。


「そう言えば、引越しの日ってもう決まったの?」

「うん。来週の水曜日の予定。だから、瞳子さんに会えるのは今度の土曜日と来週の月曜日のあと二回だね」

「あと二回……」


 残された機会が余りにも少ない絶望に打ちひしがれそうな心を奮い起こす。


 回数が問題ではない。どれだけ深く踏み込めるかだ。


 先週まではこの部屋を訪れるたびに別れの寂しさに支配されていたが、今の自分には足元を照らす礼隆への思いと背中を押す強い決意がある。


 その晩、礼隆に向かって伸ばした瞳子の腕は、満ち足りぬ切なさで彼に縋りつくのではなく愛おしむ優しさで彼の背中を包んだのだった。


 ***


 翌朝、帰宅した瞳子は同僚の美月に連絡をし、美月が取得する予定だった今週土曜日の休暇を譲ってもらえるように頼み込んだ。

 夫の博之と出かける予定だったという美月だが、どうしても代わってほしいと懇願する瞳子の様子に、“瞳子ちゃんがそんな風に言うのも珍しいわね” と了承してくれた。


 そしてその日の夜。

 越川との穏やかな会食に臨んだ瞳子は、食前酒がテーブルに置かれるなりこう切り出した。


「圭介さん……。実は今日は大事なお話があるんです」

「改まってどうしたんですか?」

「私、決めたんです。この一週間に、自分の人生を賭けてみようと」

「……それは……どういうことですか?」


 グラスを傾けようとした越川が目を見開いて瞳子を見つめる。

 決意を宿した瞳子の眼差しは、揺らぐことなく真っ直ぐ彼に向けられた。


「今まで知らなかった礼隆君の過去を聞いて、彼が心の繋がりや愛情を信じ続けることができない理由を知りました。でも、どんな人間だって誰かを愛することをやめられるわけがない。彼はずっとその狭間で苦しんできたんです。信じるに足る愛情を彼が心の底で求めているのなら、私は人生を賭ける覚悟でそれに応えたいと思うんです」


 瞳子が淀みなく告げた言葉に、越川は息を詰まらせた。

 食前酒を一気に煽ってグラスを置くと、その足元に視線を留めたまま、僅かに震える声を絞り出した。


「……それで、一週間という期限付きなのはどうしてなんですか?」

「彼は来週沖縄に発つんです。二度と戻ってくるつもりはないそうなので、彼がこちらにいる間に私の思いが伝わるように頑張るつもりです。そして彼が求めてくれるのならば、沖縄に彼を追いかけていこうと思っています」

「そう……ですか……」


 斜め下に視線を落としたまま沈思する越川の横で、瞳子は黙して反応を待つ。

 やがて、長く細い嘆息を出しきった越川がようやく視線を瞳子に移した。


「瞳子さんが彼のために本気で自分の人生を賭けようとしていることはわかりました。そこまでの決意をしたあなたに、僕が今さらどうこう言えるわけがありません」

「本当にごめんなさ──」

「ちょっと待って。まだ謝らないでください。だからと言って僕の中で決着がついたわけじゃありませんから」


 越川の意外な言葉に、瞳子は驚いて彼を見返した。


「瞳子さんが人生の賭けに出ることを止めるつもりはありません。ここで悔いのないように行動しなければ、あなたはきっと後悔を抱え続けて生きることになってしまう。ただ、それは僕にも同じことが言えるんです。だから、僕にも最後の賭けをさせてください」

「最後の賭け……?」


 越川の思考を図りかねた瞳子が彼の表情を読み取ろうとするも、悪あがきの必死さも縋りつく未練がましさも映し出されてはいない。


「瞳子さんが人生を賭けてぶつかっていって、その結果彼があなたを受け入れるのであれば、僕はきっぱり諦めます。けれども、もしも彼が瞳子さんの思いを受け入れなかったら、その時は──」




 そこにあるのは、瞳子が胸に秘めたものと同様の、悔いなき選択へと向かう決意。




「僕はあなたを奪いに行きます。たとえあなたの心に、彼の存在が残っていたとしても──」






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